第19話

 一羽の烏が灰色の空から優雅に狸の頭に降り立ったのと、吹き荒ぶ嵐のような天狗風が大気を揺らしたのは同時だった。次の迷子を探しに行くために、産寧坂をのったりと登っている途中のことだ。もうじきに清水寺の仁王門が見えるというところで、タケキリと三足烏は歩みを止めた。

 見慣れた赤い着物の袖がゆらゆらと揺れ、狸の目の前にやってくる。不遜な顔つきは、この街では見慣れた天狗の表情だ。タケキリの、ぼんやりとしたつぶらな瞳が、不機嫌そうな天狗の顔を捉えると、より不快そうに眉を寄せる。

「おい、狸。お前は表に帰れ」と、天狗は唐突な言葉を吐き出した。

「へ? いきなり何を言いはるんです?」

 有無を許されないようなピシャリとした口調に、タケキリは小首を傾げる。神無月が終わるまで、もう数時間しかない。きっと次に出会う死者を虚に案内するのが、タケキリにとっての最後の仕事になるだろう。それは人間の歩んだ生死の道筋に耳を傾けられるのも、あと一度きりということだ。それなのに、狸の願望を気づかせた張本人である天狗は、まるでもう情などは持ち合わせていないような態度だった。

 きちんと仕事は全うしている。言いつけられた道案内も、人間に化けられなくともこなしてきた。文句を言われる謂れはないはずだ、とタケキリはつぶらな瞳で訴える。

 しかし、天狗は不機嫌な唇をきゅっと結び、更に眉を寄せた。

「あの娘が危篤だ」

 絞り出すような、何かを堪えるような低い声だった。

「お前にとって、恩のある人間なんだろう?」

「え、あ、それは……」

「神無月はもう終わる。そろそろ狸の手に負える範囲を超えてくる。さっさと行け」

 ぐん、と天狗の手がタケキリの毛だらけの首根っこを掴み、灰色の空へと放り投げた。耳を横切っていく空気が唸り、静寂ばかりの京都の街が遠くなる。タケキリは事態を飲み込む前に短い悲鳴を上げた。

 投げられて到達する高度の最高地点に辿り付いたが、タケキリは天狗や烏のように翼を持っているわけではない。風に乗る双翼を持たないかわりに、毛で覆われた狸の身体でも、京都の街を一望出来るほどの高さから落ちれば、きっと砕けてしまうだろう。

 何を考えてはるんや! タケキリは自身を放り投げた天狗の思惑が理解出来ずに困惑し、胸中だけで文句を言った。その間にも、身体はぐるんと回転し、遠い地面が真っ直ぐに見える。息を呑むほどの高さに、毛深い尻尾が縮こまった。

「ひっ――」

「あーもう、お師匠も無茶なことをするんですからぁ」

 沸き起こる恐怖心と唐突な死の予感に身体を震わせたタケキリの頭上から、随分と間延びした声が聞こえた。そうして、落下していくはずだったタケキリの毛深い身体は、ぶらん、と宙に静止して、背中に妙な痛みが走る。

 首を捻って見上げると、三本足の烏が濡れ羽色の双翼を広げている。どうやら人型から烏の姿へと戻った三足烏が、タケキリを掴んでくれているらしかった。隠すことのない烏の爪が僅かに背中に突き刺さっている。

「三足烏はん、助かりました」

 足が地面についていない心許なさを感じながらも、タケキリは安堵する。縮こまっていた狸の皮膚が伸びたのを感じたのか、三足烏はケラケラと笑っていた。

「お師匠が生死の理を犯すはずがないじゃないですかぁ」

「いや、今度こそ死んだかと思いましたよ」

「狸は不便ですからねえ。急ぐなら、僕らの方が早いのですよぅ」

 黒い双翼が羽ばたくと高度が上がり、空気を裂くように広がると速度が増す。三足烏の呑気な口調とは裏腹に、狸が走るよりもずっと速く、京都の街が後ろへと流れていった。どうやら三足烏も、それなりに急いでくれているらしい。

 これが静寂だけの世界でなければ、きっとより美しかったのだろう。人間が闊歩し、活気のある町並みを見下ろすというのは、想像するだけで天狗のような気分になる。鞍馬山の烏達が不遜であることも、なんとなく納得出来てしまう。それほどに街を見下ろすのは面白い。まるで何処にも外敵がいないような錯覚を起こしてしまいそうで、街の向こうに続く空は、伸びていく地面よりも果てがない。それが恐ろしくも感じて、しかし高揚もした。

 足元に流れていく京都の街を見下ろしながら、タケキリは表側の京都の街を闊歩する人間達を想像する。いつかは、この灰色の裏側へと踏み出すだろう生きる者は、今頃懸命に生から死への道を、何かを残しながら歩んでいる。

 そうして、不意に百合子のことが頭を過ぎった。長くないとは思っていた。悲しさは感じていない。それでも、百合子の歩みが止まってしまうことだけは、なんだか酷く惜しい気がした。

 彼女は、空の広大さを知っているだろうか。この街の面白さを十分に感じていただろうか。何かを成し遂げずとも、不可思議にさえ出会ってしまえば、案外楽しさというものは傍にあることに気づいていただろうか。

 何かを諦めながらも前だけを見ていた百合子の眼差しを思い出せば、知っているような気もしたし、気づいていないようにも思えた。結局、タケキリは百合子が何を想って生きていたのかを知らないのだ。

「でも、なんで天狗様が百合子さんのことを、知ってはるんですか?」

 確かにタケキリは、何度も百合子のことを三足烏や天狗に話したことがある。神無月の仕事を昼前に終えて、百合子の邸宅へと行くためだ。それに懸命に生きる百合子のことを、誰かに伝えたかったのかもしれない。百合子に、天狗や三足烏のことを御伽噺のように伝えたように。面白可笑しなことを、タケキリは誰かに聞いて欲しかったのかもしれない。

 まるで、今まで「へえへえ」と耳を傾けた人間達の真似事のように。

「タケキリさんが、あの娘さんに拒絶されてから、僕らはずっとお師匠の指示で、彼女を見ていたのですよぅ。人間は脆いですから、死に目に会えないことが多いのを、お師匠は知っているのですよぅ」

 虚の向こうへいってしまったら、僕らは手出し出来ませんから。間延びした口調のまま三足烏は言った。

「でも、私は生きてる百合子はんには……」

 会いに来るな、と言われている。百合子に狸の恩返しは、もう必要がなく、病で弱った身体で一人で歩んでいくのだ、と断言した。まるで自身に言い聞かせるように、ただ百合子は背筋だけは伸ばしていようとしていたのだ。

「危篤、というのは死んだわけではないのですよぅ。表では、もう月が昇っていますよぅ。神無月が終わります。下を見てくださいよぅ」

 高く高く濃厚な雲に届きそうな高度で羽ばたく三足烏の言葉に従って、タケキリは宙ぶらりんになっている毛玉の足の先へと視線を向ける。眼下に広がる京都の街は、夜の表側と同じく静寂に包まれているはずだった。しかし、タケキリはつぶらな瞳をこれでもかと見開いて、身体を震わせて驚いた。

 死の匂いばかりが漂って、決して晴れることはなく、生きる者達と領分を違えた街の裏側から、怒号のような大きな音が届いていた。見れば、家を潰してしまいそうな化猫の率いる野良猫達や、風に渦巻く烏の集団が雄叫びのように声を上げていた。小路の間を縫っていくように、もぞもぞと影が動いている。高瀬川を任せられている蛇や、一条戻り橋の下でじっとしている蝙蝠までもが、珍しくも姿を現していた。タケキリは、その全てが既に領分の異なる者達であることを知っている。彼らは天狗や三足烏のように、神無月の間だけこの街を警邏している者達だ。

 迷子の道案内をしていると、時々出会すことがあったが、こんな数は見たことがない。

「な、なんですか。アレは……」

 タケキリはぶるり、と身体を震わせた。天狗に放り投げられて、三足烏と共に上空にいなければ、きっと今頃はぺしゃんこに踏み潰されていただろう。それほどの咆哮が、狸の耳に届いている。

「神無月が終わりますから。最後の追い出しなのですよぅ。僕らは、ひと時この街を預かっているに過ぎませんから、主様方にお返しするために、余所者を外に出すんですよぅ」

「じゃあ、あの影が……」

「鬼だったり、異国の者だったりでしょうねぇ。最後の隙を伺っていたのでしょうけれど、僕らがこの街で、そんなヘマをするはずもないのですよぅ」

 相変わらず呑気な三足烏の声が頭上から降り注ぐが、タケキリはそれどころではなかった。

 化猫の甲高い咆哮が轟くと、大きな二本の分かれた尾が小路に振り下ろされる。まるで追い立てるような酷く強い風が吹き抜けていき、空気が舞い上がって狸の髭を揺らした。留守神とは、よく言ったものだ。主の留守を預かるということが、どういうことであるのか、タケキリはようやく理解した。

 吹き荒ぶ風は天狗風であるのだろう。何もかもを吹き飛ばす風が、京都の街に伸びる小路の中を駆けていき、家屋にぶつかって、それなりの高度にいるはずの三足烏とタケキリを揺らす。

 呆けるように足元で起こっている奇妙な光景に目を奪われていると、唐突に背中を掴んでいた三足烏の爪がぐっと食い込んできた。

「いだっ!」

 短い悲鳴を上げたタケキリを無視して、三足烏は急降下をするために濡れ羽色の双翼を広げた。

「さて、急ぎますよぅ。とりあえず表の街にお送りします。もし狸が臆病なら、覗き見れば良いのですよぅ」

「え、いや、ちょっと待ってくださ――」

 タケキリが言い終わる前に、ぐるんと身体が振り子のように揺れた。三足烏が大きく身体を傾けたからだ。そうして三足烏はタケキリを掴んだまま、空気を裂いて滑空する。落ちる速度よりもずっと早い飛行に、タケキリは悲鳴すらも上げることが出来ないでいた。

 ただ、ぶらぶらと揺れる身体の頼り無さと、耳の横を駆けていく空気の音だけが、タケキリが生きていること実感させていた。

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