第18話

 金切り声を上げる婦人を宥めるのに、随分と時間がかかった。

 空気の停滞した二条城の前に座り込んでいた婦人は、絶望したようにぼんやりとして、それでも現状を認識してはいないようだった。よくよく耳を傾けてみると、婦人は転んで石に頭をぶつけたらしい。そうして、気づけば二条城の前にいて、状況の一つも飲み込めずに呆然としていると、小ぶりな狸に話しかけられ、酷く取り乱したらしかった。

 どうして転んだのか分からない、と弱々しい声で語った婦人に、タケキリと三足烏は顔を見合わせ「鬼の仕業に違いない」と確信したが、声には出さなかった。どうせ死んでいるのだから、原因が解明されたとしても、無意味なことであったからだ。それが例え理不尽であったとしても、もう戻ることは出来ず、取り返しはつかない。不運だったと嘆いても、その愚鈍な想いを抱えたまま、進むべき道を歩むしかないのである。神無月を経たタケキリは、そんな理不尽な死にも、なんとなく慣れてしまったような気さえした。生きることの意義に注意しながら、どうしようもない事象を目の前にして、無力であることが身に染みてしまっている。どうしようもない。土に溢れた水が流れて乾くのを待つしかないように、生死の道は一本しかない。戻ることが出来るのは、まだ世の中が色鮮やかであるうちでしかないのである。この灰色ばかりの空模様の下では、後戻りもやり直しも出来ない。

 だから、婦人がいくら取り乱そうとも、自身の死に様を受け入れられなくとも、タケキリは小さな耳をピン、と立てて、愚痴にも似た嘆きに耳を傾けるしかなかった。

 婦人は、喋る狸に驚きながらも、その毛玉が膝の上に乗っかると、犬を撫でるような手つきで毛の間に指を埋めた。三足烏は、嘆くばかりの婦人には面倒で近寄りたくないのか、少し離れた壁に背を預けたまま欠伸をしている。

 タケキリが首を持ち上げて、そのつぶらな瞳がようやく少し凹んだ泣き腫らした目とかち合うと、婦人はようやく重い腰をのろのろと上げるのだった。

「タケキリさん、少し変わりましたかぁ?」と、虚の中へと進む女の背中が、暗がりの中へと消えたことを確認して、三足烏が言った。

「そうでしょうか? まだ全然、化けることはかなわへんのですけど」

 ぽてぽて、と歩く一匹の狸の隣を、少年の姿をした三足烏が並走する。相変わらず人間に化けることの出来ないタケキリの代わりに、三足烏がとりあえず人間を模していた。それでも三足烏は、結局のところ人間に興味を持たないので、迷子を驚かせながらも、死者に耳を傾けるのはタケキリの役目のままだった。

 隣を歩く毛玉を見下ろしてから、三足烏は小首を傾げる。疑問を持っているというよりは、まるで何かを覗き見ているような仕草だった。

「前よりは無気力な感じがしませんよぅ。でも、あんまり生きてる感じもしないですねぇ」

「また難しいことを言いはりますねえ」

「んー……タケキリさん、何気にちょっと楽しんでませんかぁ?」

 三足烏の少年の瞳が、タケキリを射抜いた。それは咎めたり、諭したりというよりは、確認をするような口調だった。

 頭上から降り注ぐ言葉を受け取って「まあ、ちょっと思うところがありまして」と、タケキリは苦笑する。

「今なら外に出れるかもしれませんねぇ」

「そうですねえ。まあ、出てもやることは分からんのですけど」

「今日が終わる前に、戻れた方が良いと思いますけどねぇ」

 鞍馬山の大天狗に叱責されてからというもの、タケキリは京都の街の裏側に入り浸っている。天狗や三足烏が宣言したように、タケキリの身体は生きながらに、この街の裏側から出ることが出来なくなっていた。元はオサキの領分であるはずの静寂の世界から、どの道を通っても抜け出せずにいる。表側とそっくりそのまま伏見の山で寝起きをしているが、生きている者とは顔を合わせていなかった。冬が目の前に来ているというのに、タケキリの身体は痩せたままだ。静寂と死の匂いが漂う裏側は、元より領分の異なる者達の世であるからか、枯れた草や落ちた葉が地面を覆っていても花は咲かず、太い木々が伸びていても枝に実をつけることはない。冬支度を始めなければならない狸にとって、実りのない世界は致命的だった。

 それでも、タケキリの心は戻らない。明日になれば神無月が終わり、オサキが出雲から帰還するはずなのだが、タケキリが元の生活に戻れる保障はなかった。役目を失くした狸が裏側に留まるということは、近いうちに死の淵へと歩むということだ。心が死ねば、肉体もゆっくりと死んでいく。食べることを忘れた狸の末路が、目の前にじわじわと近づいてきていた。

 しかし、タケキリは、自身の心が死んでいるような感覚を持ち合わせてはいない。

 食の興味を失って、鴨川の水を啜り、木々の皮を齧っていても、迷子と出会う度に、ほう、と溜息を吐き出したくなるような充足感がある。金切り声を上げながら、喋る狸に困惑する婦人も、タケキリにとっては申し分のない不可思議を持ち合わせていた。

 自身が死んだことを自覚して、悲しみの最中にありながら、足を止めることが出来ない婦人の横顔は、なんとも言い難く表す言葉が思いつかない。不思議なことに、蘇ることが叶わないことを自覚した人間は、どんなに絶望を抱えていても、行き先だけは見失わないのだ。表の世界には、血を流して冷たくなった婦人の肉体だけが転がって、騒ぎになっているかもしれないが、それも死者には関係のないものだった。

 もう生きることの出来ない見ず知らずの人間の、走馬灯のような言葉を耳にして、タケキリはほう、と気づかれないように息吹いた。婦人の生き様も、誰と同じということはない。愛する夫を見つけるまでの少し貧乏な幼少期も、夫と出会ってからの苦労も、それでも不幸を嘆かずに同じ床で眠る幸福を、ぽつりぽつりと語る婦人の言葉は、ありきたりなようでどれも新鮮だった。終わりを迎えた華奢な背中の後ろに伸びた道のりは、ただただ無力な狸の目に眩しさを与えるばかりだった。そうして、誰もが吐き出す言葉の中に何かを残していく。

 それは子供であったり、連れ合いであったり、友人であったりして、後悔であったり、嘆きであったりもした。表の世界に残してきた何かを、心配だ、とずっと呟いている人間もいた。

 狸は何も残さない。死を迎えることに怯えてはいるが、自身がいなくとも家族は立派にやっていくだろうし、季節はまた巡ることを知っているからだ。一匹の狸が息絶えたところで、世界の何も変わらないことを、毛玉は知っているのである。毛玉より賢いはずの人間が、そのことを知らないとは思えない。知恵を回し、文化を作り、複雑怪奇な集団という社会を形成するに至る人間は、狸よりもずっと頭が良いはずだ。

 それでも人間は、知っていながらに何かを残そうとする。懺悔も、歓喜も、何かを誰かに託そうとして、渡すことが出来なくとも生き様だけを残して死んでいく。

 出会うどの人間の死に様も美しい。尽きたばかりの生きた証というものは、なんとも尊くあるのに、儚さが隣接している。虚へと消えていく背中を見送るたびに、タケキリはなんとも言い難い充足感に目を回してしまいそうだった。そうして、もしもこの世から消えることで何かを残すというのなら、人間にとって、生きるというものはなんて残酷なのだろう、とも思った。意義がなくてはならず、意味がなくてはならない。食べるだけではならず、眠るだけでは足りないのは、酷く苦しくて、息の仕方でさえ忘れてしまうかもしれない。

 人間とは、なんて複雑で不可思議であるのだろう。

「今日は、今日が終わるまでお仕事をさせて頂いてもええですか?」

 神無月は、もう数時間しか残されていない。そうなれば伏見の主が出雲から帰還する。タケキリはこの裏側の京都の街からお役御免となるはずだ。全てが元通りとなって、美しい死に様を眺めることはなくなるのだろう。そうして、厳しい冬がやってくる。もしかしたら本当に、もう帰れないのかもしれない。そうなれば待っているのは、何も残せない狸の寂しい背中が、虚の中へと消えていく景色となるだろう。

 胸中で、だから、と付け加えて、タケキリは灰色の世界がよく似合う三足烏に申し出た。

「狸は勤勉ですねえ。僕は助かるのでかまいませんけど」

「ありがとうございます」

「まあ、僕らがこうして歩くのも最後でしょうしねぇ」

 言葉とは裏腹に、三足烏の口調からは特に惜しむ様子はない。領分の違う三足烏らしい、とタケキリは苦笑した。

「表では顔を合わせてくれはれへんのですか?」

「おや、タケキリさんは寂しんぼですねぇ」

 タケキリの軽口を三足烏が軽快に笑い飛ばす。領分が違うのだから、と断られることはないようで、それだけでも与えられた不可思議な一ヶ月が、面白可笑しいのだ、と実感する。何も残らない薄ら寒い静寂の空の下で、一匹と一羽の獣の笑い声が響いていく。

 残された時間は、随分と少ない。

 不可思議さで胸の中を満たすために、タケキリは化けることの出来ない足を動かしていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る