第16話「秘められた約束」
「まさか本当に君がこうしてあの時の約束を果たしてくれるとは思わなかったよ」
午後の暖かな日差しを受け、緑の木々が複雑な影となって机の上に広がる。
それを穏やかな目で見つめながら、そっと掛けていた眼鏡を机の上に置いた。
「そんな、僕はずっと先生の言った事を忘れる事なんてありません」
柳匱は今までになく真摯な顔つきで訴えた。
目の前で穏やかな微笑みを浮かべる老人、沖総一郎は柳匱にとって恩人であり、何よりも大切な存在だ。
昔、二十歳そこそこの頃、柳匱は自身の甘さが引き金で半身のような存在を失った。
その喪失感は大きく、柳匱は生きる事を放棄したように無気力になり、自責の念に苦しめられた。
そんな辛くて辛くてどうしようもない思いを抱え、今にも壊れそうだった柳匱を救ってくれたのが総一郎だった。
彼は何かを柳匱に求めたり、押し付ける事なく、ゆっくりと時間をかけて傷を癒してくれた。
その時受けた恩によって今の柳匱はここにいる。
そしてその過去を乗り越え、一族に課せられた任を何とか果たそうとしている。
「でも最初は信じてなかったでしょ?」
総一郎は目尻に皺を寄せ、茶目っ気を出してウィンクを1つ送る。
「そんなっ、僕にとって先生の言葉を疑うような事は絶対ありえません。ずっと先生に頼まれた時から、気にかけてました。名前と記憶を失った高校生くらいの男の子が現れるのを…」
柳匱は懐かしむように視線を逸らした。
柳匱が社会生活を送れるようになって、数ヶ月程経った頃、柳匱は総一郎に今までのお礼がしたいと申し出た事があった。
その時、総一郎は何も要らないと言って一度は断った。
だけどそれでは気の済まない柳匱は更に食いついた。
すると総一郎は少し困ったように微笑み、次のような「お願い」をした。
…もしも名前を扱う君の前に、いつか名前と記憶を失った高校生くらいの男の子が現れたら連れてきてくれないか。
当時、最初に聞いた時は疑問しか湧かなかった。
確かに名前を失い、自分の元を頼る者は少なくない。
しかしその症状に加え記憶を失った状態というのは一体どういう事なのだろう。
そんな困惑が表情にも出ていたのか、総一郎は楽しそうに笑った。
「ははは。いいんだよ。ただの年寄りの戯言だとでも思ってくれて」
そう言って総一郎はもうそれ以上この話題を口にする事はなかった。
しかし柳匱はそれをずっと片時も忘れる事はなかった。
それからずっと彼の言った「名前と記憶を失った少年」の事を気にかけてきた。
それが今来たのだ。
当時を思い出し、やや興奮した柳匱に総一郎は静かに頷く。
「彼……は先生のお探ししている「名前と記憶を失った少年」でしたか?」
恐る恐る探るように柳匱は総一郎の穏やかな顔を窺う。
「………そうだね。うん。あの子だよ。ありがとう。柳匱くん。本当に…またあの子に会えるなんて……」
「先生……」
総一郎は何かを堪えるように声を詰まらせた。
彼が総一郎にとってどんな間柄の人間なのかはわからないが、きっととても大切な人間なのは間違いないだろう。
その表情だけでそれがわかる。
「きっと君はあの子と私の関係について尋ねたくてたまらないだろうね」
「いえっ、そんな。確かに気にならないわけはありませんが、すぐにお話なさらないという事はそれなりの深い事情があるんですよね。大丈夫です。先生がお話出来る時だと判断した時で構いません。ですが、一つだけ。あの子はこれからどうしたらいいんですか?」
やはり次郎には何か秘密があるのだろう。
名前と記憶を失った状態で発見されたという辺りから普通ではないのは明確だ。
総一郎はその答えを知っているのかもしれない。
総一郎は窓辺へ移動し、そっと窓に手を添える。
手のひらを透かして何かその向こうを見ようとするかのように。
「うん。それなんだけどね。しばらくの間、君に身元を預けさせてくれないかな。僕の手元に置いておくわけにはいかない事情があってね。なぁに、当座のあの子にかかる費用はもちろん用意するから。色々すまないね」
「いえ。そんな結構ですよ。彼にはウチの仕事を手伝ってもらう事にしているので、こちらで賄えます」
すると総一郎は少し驚いたように目を見張った。
「へぇ、そこまで話していたのかい。それはすまないね。でもいいのかい?負担にならないかね」
柳匱ははっきりと首を振る。
「負担だなんて。僕はもうあの時の僕ではありませんよ。ちゃんと自分の足で立つ事が出来ます」
「ほぅ。それは逞しい。うん。じゃあお言葉に甘えようかな。あの子の事は現時点ではまだ僕の憶測を出ていない為、はっきりとどういう存在かは話せないんだ。だけどもう少しあの子の身に起こった事やそれに関与するファクターが明らかになったら見えてくるものがあるだろう。その時に全て話すよ。だからそれまであの子を君に託したい」
総一郎はいつになく真面目な顔つきで柳匱に歩み寄り、その肩に手を置いた。
その重みに彼からの信頼の高さを感じ、柳匱の感情は昂った。
ずっと彼に何か恩返しがしたかった。
辛い時に前を向く力をくれたこの人の力に。
その恩に報いるのは今だと思った。
「はい。任されました」
どこか誇らしげに柳匱は微笑む。
しかし次郎にどんな秘密があるのだろう。
それが心に引っかかった。
「ロスト ネーム」 涼月一那 @ryozukiichina
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。「ロスト ネーム」の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます