第15話「空白の十年間」
病院の検査は半日かかった。
心電図やМRI、血液検査等、多岐に渡った。
記憶喪失だという事は医師に話したが、名前を失っていた事は柳匱に止められたので話さななった。
次郎自身もそれは同意見だった。
そんな空想めいた現象で余計ややこしくなるのは御免だと思ったからだ。
検査の結果は特に異常なかった。
何か他に気になる事があった時に精密検査をするとは言われたが、今のところ差し迫った怪我や病気はないと言われただけでも安心した。
記憶喪失に関しては健忘症の一種で、何か心や身体にと負荷がかかる事柄が引き金となり、その周辺の記憶が飛ぶ事があると言われた。
回復に関しては、いつとか薬を飲んで思い出すという便利な事は残念ながらなくて、とにかく色々な経験をして記憶を刺激していくのがいいと言われた。
例えば映画や本を見たり、音楽を聴く。
様々な場所へ行ったり、色々なものを味わう。
とにかく五感を刺激する事が大切で、そのどれかが強い記憶を呼び起こし、回復へと繋がる場合があるらしい。
そして最も驚いたのが、次郎の記憶は約十年の開きがあるという事だ。
その異変に最初に気付いたのが柳匱で、彼はスマートフォンを初めて見るような次郎の様子に違和感を持ったと言っていた。
医師から詳しく問診されると、確かに彼の記憶は十年前の事を克明に記憶していた。
当時流行っていたテレビやゲーム、映画等も知っていた。
しかし自身に関わる事は綺麗に抜けた状態だった。
そのゲームをやった事があるのかも、映画を見たのかも分からなかった。
そんなやり取りをしていると、もうすっかり夕方になっていた。
一日ずっと突き合わせてしまった柳匱に悪い事をしたと言ったら、彼は笑って気にしなくていいと言ってくれた。
「何か一日使ってしまって、色々済みませんでした」
帰りの車中、流石に申し訳なさを感じて柳匱にそう詫びると、柳匱は大丈夫だと言って頷いた。
「昨日の初対面の時は大丈夫かなこの子はと思ったけど、礼儀も成っているし見直したよ、君、記憶を失う前はいい家のコだったのかもしれないねぇ」
「……別に。初対面のガキにこんな金使ってくれて悪いなって思ったから言っただけだ」
「はいはい。君はそういうコなんだよね」
「いちいちガキ扱いすんなって」
次郎はむっと剥れると、車窓に視線をやった。
病院へ行きさえすれば記憶が戻るとは思ってなかったが、やっぱりそう上手い具合にはいかない事がわかり、内心落胆も大きかった。
何も思い出せない自分がもどかしい。
このまま何も思い出せないまま年を重ねていくのだろうか。
もしそうなった場合、どんな将来が待っているのだろう。
そんな事を移り行く街並みを眺めながらぼんやり考えていた。
「何、思案モード入っちゃってる?」
「………別に。そういうのじゃなくて……」
柳匱は前を向いて運転しながら軽く笑った。
彼は何かを察したように視線を一瞬逸らした。
「明日から僕のところで仕事するかい?」
それは唐突な提案だった。
何となく心の中で期待もあったが、実際そうなると戸惑いもあった。
「いいんですか?オレとしては行くところも無いし、生活していく術もないから助かりますけど、特に仕事の手は足りてるって昨日言ってましたよね?」
「まぁ、そうだねぇ。別にこの仕事は極端な話、僕一人でも立ち行くからね。こちらの収支が不足しても他で補える飯のタネがあるからさ」
彼は多くの不動産を持っていて、その上株でも相当な収入を得ている。
懐古録の管理はいわば副業というようなものなのだろう。
しかし柳匱は小さく咳払いをした。
「でもね、やっぱり君のような未成年の子供がこうして頼るところもなく、明日をも知れない状態でいるのを放っておく事も出来ないよ。それにちょっと興味もあるんだ」
「興味?」
「うん。君っていう存在にね。君は記憶と名前を失っている。それは極めて珍しい状態だ。何故そうなったのか。僕はそれに興味を持ったんだ」
「それはオレも知りたいです」
本心からの言葉だった。
すると柳匱は満足そうにうなずいた。
「わかった。じゃあ明日から適当な時間にあの事務所の入っているビルに来てもらるかな。皐月は土日だけ来ているし、太郎君は主に出張が必要な時に動いてもらっているから実質事務所に詰めているのは僕と君だけになるかな」
「え、そうなんですか?」
正直、この人と常に一緒にいるのは気が重い。
こうして色々と面倒を見てもらっていながら言う事ではないが、やはり苦手は苦手なものだ。
「あぁ、安心して。僕は普段は中にいてほとんど顔を出さないから、君には表の方、客の応対や資料の整理とかをメインでやってもらうからさ」
「そ…そうでか」
明らかにホッとした顔をしたのか、柳匱はニヤニヤと厭な笑みを浮かべた。
「君、顔に出やすいね。気を付けた方がいいよ」
「…………」
気付くと車は皐月の家の付近まで来ていた。
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