第14話「魔法の飴玉」
病院内は微かな消毒液の匂い漂っていた。
柳匱は手続きしてくると言って受付の方へ行ってしまった。
次郎は適当な空いてる椅子を探す。
待合室ロビーには十数名くらいの患者と付き添い人たちで埋まっていた。
何となく落ち着かない様子で次郎は端の方の席に遠慮がちに座った。
すると奥の小児内科の処置室とプレートの掛けられた通路から子供の泣き声が聞こえてきた。
泣き声はどんどん近くなり、やがて三歳くらいの空色のシャツに白いハーフパンツを履いた男の子が現れた。
大きな目からは玉のような涙がいくつも零れている。
男の子は後からやって来た母親や看護師に宥められ、処置室へどうにか促そうとしているのだが、男の子はいやいやをするように中々その場から動かない。
すっかり困り果てている様子の大人たちを見て、何故か次郎の腰が浮いたのだが、その前に男の子の前に立った人物がいた。
「ほら。坊ちゃん。これは強くなれる魔法の飴玉だよ」
「魔法の飴玉?」
男の子に声をかけたのは、白衣を着た七十代後半から八十代前半くらいの老齢の男性だった。
総白髪だが腰も曲がっておらず、その容姿は甘く整っており、年齢を感じさせない生気に満ちていた。
白衣を着ている事からこの病院の医師なのだろう。
何となくその年齢と風格から医院長なのかもなと次郎は内心そう思って再び浮いた腰を落ち着けた。
その老医師は手のひらに大粒の飴玉を男の子の前に差し出して柔らかく笑んだ。
「そう。これを舐めるととても強くなれるんだ。お注射も怖くなくなる魔法の飴さ」
「うそだぁ」
「本当だよ。ねぇ。そこの大きな坊主」
「?」
急に老医師の視線がこちらに飛んできた。
思わず次郎はぎょっとしてキョロキョロと周囲を確認する。
だが老医師は視線を外す事なく、次郎を見つめていた。
「お……俺っすか?」
「そう。お前さんだ。ちょっとこっちにおいで」
「うえぇぇ」
はっきり言って行きたくなかった。
だが男の子はまだ涙に濡れた瞳でこちらを真剣な顔で見つめている。
何があるか分からないが、これは行くしかないらしい。
ノロノロと次郎は彼らの傍に寄った。
「ほれ。お前さんがこの小さな坊主に手本を見せてやるといい」
「て……手本だって?」
一体この老医師は次郎に何をさせようといているのだろう。
不安一杯の顔で次郎は老医師を睨む。
「一体俺に何させようってんだよ。無関係なんだよ。俺はっ」
「なぁに。そんなに無理難題を押し付けようってんじゃない。ただこの子の手本となるようにこの飴を舐めてチクっと注射を受けてみてくれって事さ」
老医師はチクっと注射を差すジェスチャーをしてニヤリと笑う。
それを聞いた次郎の顔色が変わる。
「げっ、冗談じゃねーよ。何で俺がんな事しなくちゃなんねーんだよ」
「おやおや。お前さん、その年で注射が怖いのか。そりゃだらしない。そうだ、坊ちゃん。この意気地なしの兄ちゃんに「手本」見せてみないかい?」
「ぼくが?」
男の子がチラリと次郎の方を見る。
するとその意図に気付いたのか、彼の母親と看護師が嬉しそうに目を合わせるのが見えた。
「そうだ。ほれ。この兄ちゃんに教えてやんな。本当の強い男ってやつを」
「うん。わかった。ぼく、お注射するっ」
そう言うと男の子は老医師の手から飴玉を受け取ると包みを剥がし、一気に頬張った。
そして次郎の方を振り返る。
「お兄ちゃん、ぼくがお手本見せてあげる。行こう。せんせい。ママ」
「あら…翔ちゃん」
母親は心底感謝するように次郎に礼をして、処置室へ力強く歩き出した男の子の後を追いかけた。
それに看護師も続く。
残された次郎と老医師はそれを黙って見送る。
「……アンタ、俺をダシに使ったな」
忌々しそうに呟くと、すぐに右耳に激痛が走った。
「あだだだだだ~っ!み……耳を掴むな」
「全く口の悪い坊主だ。どこでそんな口覚えた」
「知らねーよ。記憶ないんだから」
苦し紛れにそう絞り出すと、老医師は興味深そうに眉をやや持ち上げた。
「ほぅ。お前さん、記憶喪失かい」
「……悪いかよ」
すると再び耳を引っ張られた。
「あだだだだっ!すぐ力に訴えんなよ。この暴力ジジイ」
「おやおや。本当に口が悪い。一度徹底的にその性根を入れ替えないとなんないねぇ」
「いたたたたた~っ、分かったよ。悪かった。もう言いません」
「うむ。分かればよろしい」
耳から老医師の手が離れた。
次郎はすぐに彼から距離を取る。
まだ耳はジンジンと熱を持ったように痛む。
「あんた…いや、あの……あなたは何者ですか?」
赤くなった耳を摩りながら何とか敬語を引っ張り出す。
「僕かい?この医院の医院長先生だよ」
「やっぱりな……全くこんなトコ来なきゃ良かった」」
次郎はムッとしながら吐き捨てた。
老医師はにっこりと笑った。
「うむ。そうかい。でも僕は今日ここで君と会えて良かったと心底思っているよ」
「は?どういう事だよ」
気持ち悪いとばかりに次郎は両腕を摩った。
だが老医師はそれに答えない。
そして気付いた時には彼の姿はなかった。
「何なんだよ。全く……ってあれこれは…」
いつの間にか手の中にはあの「魔法の飴玉」が握らされていた。
一体いつこんな事をしたのやら。
わけの分からない医院長先生との出会いに次郎はどっと疲れて、椅子に座り込んだ。
その時、受付を終えた柳匱が戻ってきた。
「お待たせ。次郎くん。ちょっと混んでいてね。まずは簡単な健康診断から行こうか」
「はい。わかりました」
柳匱に連れられて内科へ向かう次郎。
先ほどの老医師がその頼りなげな背をずっと見つめていた。
「ふむ。まさか本当にあの時のお前が現れるとはね。全く信じていなかったわけではなかったけど、実際そうなってみると………ふぅ」
その瞳には憐憫と哀切が混じったような複雑な色が滲んでいた。
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