三つ首のアジ・ダハーカ
山田恭
三位一体
「失礼します」
と言いながら、二階の事務所に入る——事務所といっても、ロッカーと更衣室、それに金庫があるだけの部屋だ。しかも喫茶店、本屋、レンタルビデオ屋と、入っている主要なテナントが共同で使っているため、時間によってはひどく混む。今は誰もいないが、更衣室は二つしかないため、手早く着替えなければならない。
急ぎすぎて、
「うわぁあいや大丈夫、いま扉閉めました。外お客さんいなかったから」
音が響くほど勢い良く事務所の引き戸を閉めた
時計を見る。十五時、二十分前。祝はこれからバイトのシフトだ。が、この時間ということは、十五時からだ。着替えの時間を考慮しても、まだ余裕がある。会話をする余裕が。チャンスが。ほとんど交流のない祝と会話をする、誰にも邪魔されないチャンスは、ほかにない。タイミングは最悪だが。
「あー、あの、三ツ矢さん」我ながら上擦った声だな、と思いながら声をかける。「おれは、書店で働いている奈垣と言うもんなんですが……映画とか、好きですかね?」
「好きだよ?」と祝は小首を傾げた。きゃわゆい。「よく借りてく。社割がありがたくて……」
「明日、一緒に映画に行きませんか?」
「へ?」
祝は大きな瞳を丸くした。きゃわゆすぎる。もう最高。破裂しちゃう。
「えっと、それは……」戸惑いながら、祝は己の胸と奈垣はとの間で指を往復させた。「それは、えっと、変なこと聞いたらごめんね、それは、えー、デートしようってこと?」
深呼吸してから、奈垣は頷いた。
「そうです」
「それは……ごめんね」
祝は左手を持ち上げてみせた。薬指の銀色の指輪を。
「え」
「いちおう、飲食なので働いているときは外しているんだけど……結婚しているんだ。だから——」
「や、すいません」奈垣は祝の言葉を遮って謝った。「てっきり、独身だと………」
やばい、ここから、なんと言えば。混乱で続く言葉が見当たらない。祝もどう対応すれば良いのかわからないのか、もじもじしてしまっている。
「えっと、あ、そうだ、これ、旦那さん、です」
と沈黙を破るためか、祝は鞄から携帯電話を取り出して見せてくれたのは、四月の花見の頃だろうか、祝がスーツ姿の男の腕に抱きついている写真だった。自撮りではなく、誰かに撮ってもらった写真のようだ。
「あぁ、えっと、旦那さん、かっこいいですね」
「そうでしょ」
にっこりと祝は笑った。夫が褒められたのが、よほど嬉しいのだろう。
唯一彼の容姿を損なっていそうなのは、左の瞼の上か唇にかけて走る傷痕だった。が、同性の奈垣としては、それも含めて彼の印象を深いものにしているようにも思えた。
「あ、傷はね、えっと、子どものとき、ぼくのことを守ってくれたときの傷で——」
(いま、ぼくって言ったな)
そうか、ぼくっ娘だったのか。日頃はそれを隠して「わたし」と言っているのか。かわいい。ちくしょう、いますぐ壁を殴りたくなった。
帰ってからは自分を殴りたくなった。なんだ、あの対応は。くそ、我ながら気持ち悪すぎるぞ。
翌日の日曜の午後、ひとりで映画を見に行くために駅前まで行った奈垣は、しかし祝の夫をぶん殴りたくなった。
駅前のアーケードを歩いている男性の顔の傷は目立っていて、だから祝の夫だとすぐにわかった。彼は女性を連れていた。
髪が長い女性だ。祝ではない。祝より小柄で、祝より胸が大きく、祝よりお腹が大きい、女性。
妊娠している。独身の奈垣でもそれはわかる。そんな女性と、手を繋いでいて、祝と同じ指輪を嵌めた指を絡ませていて。
映画館へは向かわずに、引き返してしまっていた。気付けば、己のアルバイト先である複合施設の前にいた。一階の本屋をうろうろしながら、隅にある喫茶店の中を伺う。店内に祝の姿は見えなかった。
「奈垣くん?」
背後から声をかけられて、奈垣は思わず声をあげそうになった。
振り返ると、祝が立っていた。
「ごめん、急に声かけて……誰か探してるのかな、と思って」
「ああ、いや………」
祝は肩元がふわりとしたパーティードレス姿だった。首元には小さな銀色のネックレス。髪もアレンジしてあって、明らかに何かイベントごとがあるという格好だ。なんと言えば良いのか。
「ええと、もうバイト、今日は終わりですか?」
「ああ、うん、今日はちょっと早く上がらせてもらって……」えへへ、と祝は笑った。「結婚記念日で……三周年。良いとこにご飯食べに行くの」
結婚記念日。
それなのに。
奈垣を突き動かしたのは、怒りだった。祝の夫だという人物への、怒り。
「これ、三ツ矢さんの旦那さんですよね?」携帯で撮影した写真をずいと突き出す。「浮気してますよ」
丸い目を瞬いて、祝は写真を眺めた。そして呟いた。
「
*
「そのあと、どうなったの?」
と待ち合わせたレストランのテーブルで、妻の咲耶が言った。
「え、なに、その子、イケメン? どういう対応したの?」
「あ、いや、ちゃんと否定しておいたよ?」慌てて祝は首を振る。
「否定?」とワイングラスを置いて、夫の
「うん、ちょっと、それとなく……」
「大丈夫なのか?」
「ごめん」
「ごめんじゃなくて——」
「松」と咲耶が夫を叱責する。「こういう日に、そういう言い方はないでしょ。わたしの言い方もアレだったけど……松が心配しているのは、祝のことでしょ?」
松也は口を開いて言葉を発しかけ、己の額に手をやった。
「まぁ、そうだよ。だって、祝、自分のことを他人に言うの、嫌いだっただろ」
「うん、まぁ、それは………そうだけど」
祝はワイングラスに口をつけた。妊娠中の咲耶は酒が飲めないということで、羨ましそうにそれを見ている。
松也は祝にとっての夫で、咲耶は祝にとっての妻だ。ではふたりにとって、祝はなんと呼ぶべき存在なのだろう。
三性による結婚が法的に認められたにもかかわらず、祝のような立場の人間の呼称はまだ設定されていない。性別そのものにすら「中間性」などというなんの面白みのない名前がついているくらいなのだ。
人類は、たぶん絶滅しつつあるのだと思う。
誰もが知る〈大災害〉で、生物の絶対数が激減した。人工知能や自動機械のおかげで、数を減らしても人類はこれまでの生活形式を変えることなく生き延びることができた。だが技術は生殖まではサポートしてくれなかった。数が減ったことで近親交配が進み、遺伝子障害を持って生まれる子どもが増えた。
が、地球はそれに対抗する手段を作り出し始めていた。遺伝情報を混合するために、男と女の間の性を持つものが生まれるようになった。人間だけではない。哺乳類や鳥類、虫や魚、その他さまざまな生物種にも。
祝も、そのうちのひとりだ。
21世紀のいわゆる
中間性を介した性交は、指での外性器愛撫ののちに中間性の膣内に男性器が挿入されることから始まる。挿入に伴って膣刺激を受けると外性器が膨らみ、勃起した陰茎のように硬直する。これを男女の性交のように女性器に挿入し、三性の結合となる。つまり、男女の間に中間性が入る形となる。
男性の射精によって中間性の膣内に精液が入ると、体内で自身の遺伝要素と合成、その合成した遺伝要素を精液として陰茎から射出する。その精液で受精した女性の出産までのプロセスは、これまでの人類と同じだ。女性による出産後、中間性も授乳できるようになる。
いま、咲耶が妊娠している子は、咲耶と松也と……祝の子だ。
中間性を通して出産された子どもは遺伝子交配のよる影響のみならず、危険な劣性遺伝子のみを受け継いでもそこから発露するはずの障害や病気が発生しないという話がある。まだ人類の中間性を通した出産の数そのものが少ないため研究は進んでいないが、単にDNAを混合しているのではなく、なんらかの加工をしているのではないか、といわれている。三性による交配は、交配相手が見つかりにくくなったり、性交にかかる時間が増えるというリスクがあるにも関わらず、野生の本能で生きている動物は既に中間性を介した出産プロセスにほぼ移行していて、それまでの雌雄のみのつがいは見られなくなったという。人間もそのようになれば、生き残れるだろう。
だからいま、人類は絶滅しつつあって、生き残れるかどうかの瀬戸際にあるのだ。
「ずっと怖かったんだ」
と祝は吐露した。
「松ちゃんと、咲耶ちゃんの、ふたりだけの夫婦のほうが良いんじゃないかって。ぼくは、なんか、違うんじゃないかって。結婚しても、ずっと、不安で。でも、三年間一緒にいて……いることができて、幸せだな、って思った。きっと大丈夫、って思った。だから………」
「祝、泣かないでよ。ほら、せっかくの綺麗にしているのに、台無しだよ? ええい、くそ、松、どうにかしろ。撫で撫でしてやって。いや待て、わたしがする。触るな。祝は可愛いなぁ、もう」
「大丈夫だ、祝」
咲耶が顔を拭いてくれた。松也が静かな声で言ってくれた。
ずっと不安だった三年間。それが終わった。たぶん、これからも不安なこと、悲しいことはあって、でもこれまでも大丈夫だったから、幸せだったから、ずっと一緒にいたいと思ったから。だから、たぶん、歩いていける。
三つ首のアジ・ダハーカ 山田恭 @burikino
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