後宮の掟
青切
後宮の掟
スーマ家の正統なる国家は、広大な自領に加え、十の属国を有し、百国が朝貢に訪れる強国であった。
帝国の権力は皇帝に集中しており、その地位は世襲によって引き継がれている。
十代目の皇帝は、名をカヌイといった。
彼の統治下において、国外に目立った脅威はなく、整備された官僚組織により国内も安定していた。
そのため、現在の繁栄の維持こそが、上下を問わず、臣民の願いであった。
結果、現在の安定を揺るがす可能性が一番高い問題、皇帝の血統断絶を防ぐため、帝の後宮には、帝国内外から、身分や髪肌の色を問わず、さまざまな女性が集められていた。
三十代を迎えたばかりの皇帝は、すでに三名の男子を得ていたが、帝国の宰相たちからすれば、まだまだ数が足りなかった。
後宮には、皇帝の寵を競う千人もの美しい女たちと、彼女たちの世話をする宦官が暮らしており、彼らにかかる経費は、小国の税収以上と目されていた。
しかし、帝国の高官たちからすれば、書斎にひとり籠って夜を明かすことも多い皇帝に、一夜でも多く、女と寝所を共にしてもらうため、それは必要な費用であった。
宰相の一人であるムスタなどは、禁欲的な生活で周りの尊崇を集めている老人であったが、私費で美女を買い求めては、主の後宮へ納めている。
彼らの努力により、体形、髪肌、年齢、性格、出身地を異にする、様々な女性が、皇帝の呼び出しを待っていた。
各地から次々と帝都に送られて来る女たちの中から、厳しい品定めに合格した者だけが、後宮に入ることを許されていた。
求められたのは美しさと聡明さであり、生まれや肌の色、話す言葉、信じる神などは問われなかった。
ただ、外戚が力を持つことを避けるため、名家や有力者の子女は避けられた。
帝国が買い取った奴隷。
戦争の戦利品として手に入った女。
国内外の有力者から財貨や馬と同じ扱いで皇帝に献上された者。
後宮に入る女たちの多くは、自らの意志とは関係なく、その門をくぐった。
ただ、皇帝の寵愛さえ得られれば、豊かな生活が保障されたので、自ら後宮を目指す女も少なくなかった。
そんな中、北方遊牧民の王族の出であったイスイは、変わり種といえた。
人質として帝都で暮らしていたところ、母国が他の遊牧民に滅ぼされてしまい、行き場所を失った結果、後宮へ入ることになった。
なぜ、後宮という選択がなされたのか、イスイは知らなかった。
理由を聞く前に、段取りをした高官は政争に敗れ、自殺していた。
春某日の朝。
巡察の始まりを伝えるため、後宮中央にある鐘が撞かれると、後宮の隅にあるイスイの部屋にも、微かな音色が届いた。
彼女を含めた四人の美姫は、身だしなみを整え、絨毯の上に正座をし、巡礼使を待った。
巡礼使である宦官が部屋の前で止まるか否かで、彼女たちの人生は大きく変わった。
宦官が中に入り、なまえを呼ばれた者は、一日をかけて身支度を行い、その夜、皇帝の寝所に向かうことになる。
そこで、皇帝の手がつき、彼の許可が下りれば、愛姫と呼ばれるようになり、より豊かな生活が送れた。
たとえば、イスイたちのような四人部屋から抜け出し、個室が与えられた。
後宮内の雑務を押し付けられることも減る。
さらに、子を宿して側室になれれば、その待遇は帝国の高官並みとなった。
「そう言えば昨日、新しく愛姫に選ばれたワウと、浴場でとなりになったわ。人間って、あれだけ変われるものなのね。でも、ちょっと身の程知らずが過ぎるわ」
他人の悪口で盛り上がっている三人の話を、イスイが苦笑を浮かべながら聞いていると、巡察使の靴音が聞こえて来た。
三人は構わず、声を小さくするだけで話を続けた。その話の区切りがつく前に、巡察使は部屋の前を通り過ぎて行った。
「今日は、ちゃんと、部屋の前まで来たわね」
「今日の当番はだれなの」
「ゼンじゃないかしら。宦官のくせに、あの子は真面目だから」
「出世しないわね」と言いながら、イスイが立ち上がると、三人もそれに倣う。
四人仲良く、食堂へ向かった。
夏某日の昼。
イスイたちは、部屋の近くにある龍泉池で暑さを紛らわせていた。
この池には、その名の通り、青銅製の龍が池の真ん中から姿を現しており、口から水を吐き出していた。
龍は、年月を経てずいぶんと不気味な代物に変じてしまっており、夜はだれも近づかなかった。
昼間でも、たいてい、イスイたちしか寄らない。
先代の皇帝が造らせたものなので、龍を宦官たちが勝手に処分するわけにはいかなかった。
だが、皇帝に今後の指示を仰ぐような話でもなかったし、なにより宦官たちは、お気に入りの美姫を、皇帝に近づけるのに忙しかった。
いつものように、さいきん聞いたうわさ話を語り終えると、四人は、これまた、いつもと同じ話をはじめた。
「イスイは今年の冬の終わりまで。私は夏の終わりまで。あんたたちは秋までよね。こうやって、楽しくおしゃべりができるのも、あと少しよ」
後宮には、次から次へと、新しい女が入ってくる。
広いとはいえ、後宮の部屋の数は無限ではない。
潤沢とはいえ、大宰相が認めた予算にも限りがある。
そのため、皇帝に丸三年呼ばれていない美姫は、後宮から出なければならない決まりがあった。
美姫の中で、帰る家がある者など稀であったから、皆、その日が近づくと、身の振り方を心配した。
「いい嫁ぎ先が見つかると良いのだけれど。一時金だけ渡されて、外に出されてもね。こんなのんびりした日々を過ごしてきて、いまさら、街や村で生きて行けと言われても」
「それでも、辺境に嫁がされるよりはマシよね。異国なんて悲惨だわ。……イスイ、ごめんなさい。悪気はないのよ」
イスイは、浅黒い首を左右に振った。
「私だって、一年中、今日みたいに暑い南国に行けと言われたら、困るわ。でも、行くしかないのよね、私たちは。言われたところへ」
「男はいいわよね。こんな、馬や牛みたいな扱いをされなくていいもの」
「戦場に出れば、同じようなものじゃないかしら。陛下に認められて高官に取り立てられても、ヘマをひとつすれば、一族みなごろしよ」
「いやな、世の中ね。うらやましいのは陛下だけ」
ため息をつく友人を見ながら、イスイのとなりに坐っていた美姫がささやいた。
「そういう陛下だって、内心、どうなのかしらね」
話が途切れたので、四人は、老宦官からもらった蒸しパンを紅茶に浸して、口に入れた。
秋某日の夕方。
依然として皇帝から声のかからないイスイは、このままいけば、半年後には後宮を去らねばならなかった。
夏の終わりに、同室の美姫のひとりが、商人へ嫁いでいった。
長年、帝国に尽くした褒美として、妻を亡くしていた五十男に下賜されたのだ。
検閲済みの手紙によると、夫からとても大切に扱われているため、日々、楽しく暮らしているとのことであった。
イスイは手紙を読みながら、広場へ向かっていた。その先にある浴場が目的であった。
今日が入浴を許可された日だったのだが、彼女はあまり湯あみが好きではなく、ぐずぐずしていたところ、夕方になってしまった。
イスイが広場に差しかかると、女たちの叫び声がした。
速足で広場に入ると、人だかりができていた。
近づいてみると、二人の女の生首が、台の上にさらされているところであった。
ほとんどの女は、一瞥して、場を去っていたが、幼い時から家畜の解体を見慣れていたイスイは、まじまじと首をながめた。
耳と鼻だけでなく、唇まで削がれている。
また、二つの首の脇には、無造作に、人の指が小山をつくっていた。
彼女たちのものであろう。
立札によると、この二人は、物置の中で、女同士で愛し合っているところを見つかり、即座に刑に処され、いま、イスイの前で無残な姿をさらしていた。
女のひとりはよく知らなかったが、もうひとりはイスイの知り合いであった。
愛姫のワウだった。
本当に、ワウに女を愛する趣味があったのかは疑問に思われた。
皇帝に何度も呼ばれ、調子に乗り過ぎてしまい、側室のだれかの妬みでも買ったのだろう。
湯から上がると、イスイは浴場の長椅子に坐り、レモン水を口にした。
となりでは、紙で作った男根を手に、黒人の宦官が、色の白い美少女へ熱心に説明をしていた。
少女も真剣に聞き入っている。
彼女の未発達な乳房を、イスイは横目で見つめた。
私にもあのような時があった。
宦官の指導を嫌がらずにいたら、もしかしたら、今頃、愛姫くらいには。
冬某日。深夜。
さいきん、よく眠れない。仲のいい人は皆、ここを去ってしまった。生まれ故郷。あの草原でもう一度、馬を走らせてみたい。いや、むりだわ。もうずいぶんと乗っていないもの。冬が終われば、スーマの皇帝の顔を三年見ていないことになる。そうなったら、ここを出て行かなければいけない。どうなるのだろう。国はもうない。身よりはいない。お金もあまりない。宦官が私のことを良く言って、悪くない嫁ぎ先を用意してくれているといいのだけれど。それはむりね。希望を持ち過ぎてはいけない。考えても仕方がないのならば、眠って待ちたい。けれど、毎日、全然眠れない。昼寝をしても誰も咎めないのに、なぜ、それすらできないの。スーマの皇帝。あと一月の間に、私に声をかけるかしら。宦官のゼンの話だと、満三年を迎える美姫の一覧は、定期的に皇帝の手に渡っている。私の名前も載っている。目隠しをされて、あの男の部屋に入った。黄色い顔をした美男子。私の顔を見て、ずいぶん赤いなと笑った。私に遊牧民の暮らしについて、朝まで話をさせた。知っていることをすべて話さずに、小出しにするべきだったかしら。でも、少なくとも今、生きてはいる。むずかしいところね。この牢獄から出た私はどうなるのかしら。おそらく別の牢獄に行くのでしょね。
後宮の掟 青切 @aogiri
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