暗い海の日

@beliharu

第1話

三月のある日の夕方頃だった。僕は唯一の友人である先輩に呼び出され、喫茶店で一人カップの淵をスプーンで撫でていた。

待ち合わせ時間から十分ほど遅れて先輩は喫茶店に到着した。

席に着いてすぐにホットコーヒーを注文し、ポケットから取り出した煙草を咥えた。火を貰うよ、とだけ呟いて、僕の吸っていた煙草から火を借りていった。

ホットコーヒーが届いてから、先輩は続けて何本かの煙草を吸っていた。僕らは一言も話さず、先輩は煙草を吸い続け、僕は時々コーヒーを口にした。

すっかり温くなったコーヒーを一口で飲み干し、先輩は僕の目を見て言った。

「海に行こう」


僕らは喫茶店を出て、先輩の乗ってきた車に乗り込んだ。

僕は何も聞かず、言わず、ただ先輩の運転に身を任せ、海へ向かう車に揺られていた。

車の窓から見える景色は次第に変わっていった。所狭しと立ち並んでいた民家は消え始め、人のまばらな駅を過ぎ、工場地帯の明かりを背後に車は走り続けていた。

灰色がかった夕焼け空はもうすっかり暗くなっていた。心なしか気温も少し下がってきたようだ。


数時間走り続けた車はようやく停まり、月と星に照らされた防波堤に僕らは降り立った。

「下へ降りよう」

先輩はそう言って、砂浜へ続く階段を降りていく。階段の先は暗くて、深くて、僕はどこか恐怖感を覚えて、階段の上に立ち、砂浜を歩く先輩を煙草を吸いながら眺めていた。

しばらくすると、ただ歩くことに飽きたのか、先輩が僕の方へ戻ってきた。僕の前の段に座り、煙草を咥え、「火」とだけ一言呟いて、また僕の火を借りていった。

「突然海に行こうだなんて、一体どういうつもりなんですか」

僕を連れて海へ遊びに行こうだなんて、そんなつまらないことを先輩が考えるはずはない。恐らく何か話したいことでもあるのだろうと、僕は確信していた。

「どういうつもり、か。君と海が見たかったから、と言うと怒るかい?」

「別に怒りはしないですよ。よっぽど暇だったんだろうな、と思うだけで。何か相談事や愚痴でもあるんでしょう?」

「はは、君は察しが良い」

「で、話したいことっていうのは」

僕がそう言うと、先輩は少し顔をしかめて僕の方を振り返った。

「君は察しが良いが、せっかちすぎるな。せっかく女性と海に来たんだ。君にだって人並みの恋愛欲、それとも青春欲と名付けようか、そういったものはあるだろう。二人で並んで星を眺めたり、貝殻を探したり、なんて考えないものか」

「僕は先輩以外に友人がいないもので。海での遊び方なんて知りませんよ。それを僕に求めるのは間違いです」

「私も友人は君だけだよ」

「知っています」

先輩はくく、と喉を鳴らすように笑った後、静かな口調で再び話し始めた。

その瞬間、何となく僕と先輩の間にあった何かが途切れたような気がして、僕は先輩の背中から目を逸らした。

「結婚しないか、と言われたんだ」

沈黙が流れた。先輩に何か言葉を返そう、頭では思っているのに、上手く口が開かなかった。

「……彼氏さんに、ですか」

「ああ、そうだよ」

「唐突ですね」

「唐突だね」

「結婚、するんですか」

「……しようと思う」

「……そうですか」

暗い夜の空に、先輩の吐いた煙が混じり合う。空に混じった煙は、もう手で掬うことは出来ない。いつまでも煙を肺にためておけないことなんて分かってはいた。僕は多分自分勝手なんだと思う。

「……君とこうやって遊ぶ機会も減るだろうな」

「別に……休みが無くなる訳じゃないでしょう」

「そうだな。だけど、家族が出来るというのはそういうことだ。彼の面倒も、子供の面倒も見なければならない」

「子供……」

「まあ、子供が出来れば、だがな」

僕の体の中にたまっていた汚れた何かが、一斉に外へと飛び出そうとしていた。気持ちが悪い。心臓の辺りが痛み始める。

「ずるいですよ」

「そうか」

「結婚は嫌いだって、言っていたじゃないですか。結婚する奴は馬鹿だって」

僕の言葉に対して、先輩は片手で頭を抱えながら答えた。

「……私だって、あの頃の自分が羨ましいさ。ずっと子供でいられたら、世界中の人たちが、私に子供でいることを望んでくれていたら、それは何て幸せなことだろう。だけど、そうはならなかった。どうやら私も一人の人間で、社会というものからは逃れられないらしい」

多分この言葉は先輩の本心だ。けれど、僕はどうしても納得が出来なかった。僕の心の内を全てさらけ出して、先輩と彼氏をぶん殴って、どこかへ消えたかった。僕はこの時、とても怒っていたのだと思う。

「僕は……僕は先輩といつまでもこうして話していたかった。本当は結婚や社会のことなんてどうでもよかった。先輩が嫌いだと言うから、僕も嫌いになった。先輩に結婚願望があったのなら、僕は先輩と結婚するために努力をした。先輩が社会の一員になりたいと言ったなら、僕も社会に溶け込む努力をした。先輩が望むなら、僕はそのために何だってした。いつまでも先輩の隣に立っていたかったから」

僕の思っていたことを全て話した。初めて感情に身を任せて言葉を伝えた。先輩は僕の方を向き、ただじっと僕の言葉を聞いていた。驚きも失望もなく、ただ聞いてくれていた。僕が話し終わると、先輩は笑みを浮かべて口を開いた。

「……君にも人並みに恋愛欲はあったのだな」

「これは恋愛なんかじゃないです」

「いいや、それは恋愛だよ」

「……ずるいですよ、先輩は」

「ああ……そうだな。私はずるいな。世界一の卑怯者だ」

先輩はまた海の方へ向き直り、言葉を続ける。

「私は君の気持ちに応えることは出来ない。そんな自分が本当に嫌になる。昔の私なら、なんて卑怯な言葉を使うつもりはないよ。君が傷付くだけだ。だから、今夜だけは、私は君に肩を貸してやる。せめてこの夜が終わるまでは、こうして星を眺めていよう、下らない話を続けよう。君が望むなら、今夜の私は何だってしよう」

「……じゃあ、肩を借ります」

「ああ、どんとこい」

僕が座るために空けてくれていたんだろう、先輩の横の隙間に収まり、肩に体重を預けた。先輩の体温が頬に伝わり、少し気恥ずかしい気持ちになった。

「人肌というのは、暖かいものですね」

「それが人間の繋がりというやつだ」

「僕は近い内に消えて無くなってしまうかもしれない」

「それは困る。君にとっての私がそうであるように、私にとって君は唯一の友人だ」

「……ずるいですよ」

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