森居た男

化野生姜

森居た男

剛三は森を歩いていた。

鬱蒼とした村はずれの森。


道という道もなく、

獣の通ったわずかな通りがかろうじて道と呼べるほど。


履いていたわらじは草や落ちていた枝によって擦り切れ、

足は汚らしい泥でどこまでも汚れていく。


剛三は森の奥へと歩いていく。


誰も森を通るものはいない。

森に近づくものすらない。


人はここを禁忌の森と呼んでいた。


…あの森は、決して人を好まないのです。


それは、亡くなった妻の言葉。

彼女は美しく聡明な女だった。


あの森に居れば、

その身に災いがふりかかると言われております。


破れ戸の家、隙間風の入り込む寂びしい長屋で、

布団の中、幾たびか咳をした妻は剛三を見る。


ですから、決して森には近づかないでください。

どのようなことがあったとしても。決して…


それは、剛三の行く末を知っての言葉だったか…


妻が亡くなり間も無くして、

剛三は村八分にされた。


元より、行商から村に居ついた人間。


剛三は村に入ったその日から、

半ばよそ者として扱われることとなった。


その繋ぎ役となっていたのが妻。


庄屋の次女であった妻は本家から仕事をもらい、

それを剛三に回し日々の糧を得ていた。


村はずれの長屋で送る、

質素で寂びしい生活。


それでも剛三は妻と居られるだけで幸せだった。

己の生活に何の不満も感じなかった。


しかし、彼女の病が重くなると、

その雲行きは怪しくなった。


もとよりつながりの強い村の中、

妻の仲介なしに仕事は見つからず、

剛三の仕事は次第しだいに減っていく。


妻の病気はますます重くなり、

薬代に困った剛三は本家の戸を叩いた。


しかし、親であるはずの庄屋は、

もとより娘は医者に見放された身だったと

剛三を突き放した。


…妻が亡くなり葬儀が済むと、

綻びのあった糸がプツンと切れるように、

誰もが剛三に仕事を回さなくなった。


話しかける者もいない。

気にかける者もいない。


何一つ手に入らない。


それが、村八分だと知った時、

剛三は誰に言うでもなく森へと歩み出した。


…ムッとするような草の匂い。

倒れた倒木には苔が生し、下を清い水が流れる。


水で口を潤した後、

剛三は顔を上げ、森全体を見渡した。


もとより、不幸なこの身。

死んでしまうのも悪くない。


ここに来るまでに剛三は疲れ切っていた。

何もかもが嫌になっていた。


村のことも、妻のことも、自分のことも、

そしてこの世の全てに剛三は絶望していた。


倒木に座り込み、剛三は近くの石を拾う。

手のひらほどの小石。


それを剛三は転がした後、

倒木の上に無造作に置いた。


そして、剛三は森に居つくようになった。


湧き水を飲み、草を食み、日を凌ぐ。

剛三は思っていた。


禁忌の森に入ったのだ。

災いが降りかかるのならば、いずれ俺は死ぬのだろう。

いつでもいい、とにかく死ぬことさえできればいい。


日が落ちると倒木の上に石を積み、

置いた石の数で日を数える。


最初、数日も保たないだろうと考えていた。


秋が過ぎ、冬のこごる寒さに震え、

木のうろで目覚めるたびに、

今度こそ自分は死ぬのだと考えた。


だが、剛三は死ななかった。


雪は溶け春になり、日に積まれた石は、

石塔のように倒木に並ぶほどとなった。


そして、一年が経った。

倒木の上には一年ぶんの石が積まれ、

壮観な光景になっていた。


髭も髪も剃らない剛三はその光景をじっと見つめ、

…一気に、全ての石を崩した。


何故自分は死なないのか。

何故森の一部と成り果てないのか。


剛三は泣いた。

森に響くほどに大声で泣いた。


そして、蔓草を手に取ると、

手近な木に巻き付けた。


これで、一年。


剛三は日が落ちる頃に、

また一つ倒木に石を置いた。


…それから年月が経ち、

剛三は溜まった石を倒木から落とした。


一年ぶん溜まった石は容易く地面に落ちていき、

地面へと散らばっていく。


そして、手近な蔓草を巻きつけ…気づく。


すでに巻いた蔓草は三本にもなっていた。


三周…三年にも渡る年月のあいだ、

剛三はしぶとく生き続けていた。


その事実に剛三はしばらく呆然とし…

小さく笑った。


なんだ、何事もないではないか。

災いなど何一つ降りかかってはこないではないか。


剛三はひとしきり笑い…そして思った。


戻ろう、村に戻ろう。


俺は死ぬことすらできなかった。

森の災いなどなかった。

手近な村の人間にこの事実を伝えてやろう。


剛三は、三年ぶりに森を出た。


川の水を浴びたとはいえ、

破れた着物に蓬髪を振り乱し、

はだしの剛三を人は奇異の目で見るだろう。


だが、それでも構わない。

結局自分は生きてしまったのだ。


死に損ないの人間が、

どれほどの目で見られようとも構わない。


そうして、はだしで砂利道を歩いていると、

不意に黒いものが空から落ちてきた。


…それは、一羽のカラス。


嘴を開き、目は白く濁っている。


はて、なんでこんなところに。

カラスをまたぎ剛三はさらに進んで行く。


そして村の入り口で歩みを止めると

剛三は村の門前にいた男に気がついた。


男は棒を持って門の端に座り込み、

うたた寝をしているようだ。


しかし、近づいて気付く。


男は、死んでいた。


口から涎を垂らし、

白濁した目で死んでいる。


「森だ、森の災いが来たぞ!」


村から、別の男の叫び声がした。


みれば長屋や家から

人が次々と湧き出し逃げていく。


剛三は訳がわからなかった。

わからないがとにかく歩みを進める。


「おい…」


そして、村の境界線を超えた時に、

それは起こった。


逃げる村人が次々に倒れた。


皆、喉元を抑え、呻き、苦しみ、

のたうちまわる。


皆、飛び出さんばかりに目を見開き、

その目が白濁すると、次々に動かなくなる。


剛三はその瞳を見て気づいた。


そこに見えるのは剛三の姿ではない。

森、木々に囲まれた森。


それは、剛三の過ごした森の姿。


剛三は知った。


己が森の災いとして生かされ続けていたこと。

森が己の一部となってしまっていることを。


剛三は顔を上げた。

そこには、無数の屍があった。


死者の道。

鳥も人も家畜でさえも皆息絶え、死んでいる。


剛三は呆然とした。


死んでしまった人々に。

災いに触れてしまった人々に。

…そして、それでも死なない自分に。


剛三は歩き出す。

村を離れるために歩き出す。


もう村にはいられない。

いや、どこにも居ることはできないのかもしれない。


何しろ自分は森に魅入られている。

森の災いと化してしまっている。


その時、剛三の目に、

自分から距離を置く子供の姿に気がついた。


子供は逃げる様子はなく、

ただじっと剛三を見つめている。


「なぜ、離れない。俺は森だぞ。」


遠くへと響く言葉。


剛三は自分のことを森と称した。

なぜか、その言葉が自分の中でしっくりくる。


子供は、ボロボロのつぎはぎだらけの着物で、

それでもまっすぐな瞳で剛三を見る。


「森でもええ。おらは仲間はずれだった。

 一人もんで、ずっといじめられてた。でも、皆死んだ。

 だから…おらはあんたについていくことにした。」


剛三はそれを聞いて黙った。


ともにいじめられ、のけ者にされた人間。

目の前の子供と自分が重なる。


「好きにしろ、」


剛三は短くそう言うと村から出ようと歩き出す。

子供も距離を置きながら同じようについてくる。


日暮れの道を大人と子供、

距離を伸ばし、影が伸ばしながら歩いていく。


あてもない道。

どこへ行くともない歩み。


そして、二人の姿が完全に見えなくなる頃、

二羽のカラスが村はずれの門から、飛び立った…

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森居た男 化野生姜 @kano-syouga

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