夢幻心中

大宮コウ

夢幻心中

「おはようございます、先輩。

 寝ぼけていますか? 私ですよ、私。先輩のかわいい後輩です。

 朝から先輩を慕っている女の子からのモーニングコールです。

 ……もしもーし、ちゃんと起きてますかー? 二度寝はだめですよー?

 どうしても二度寝したいのなら、私の膝の上で、です。

 ……なーんて、冗談です。もしかして、本気にしちゃいました?

 ほら、早く起きてください。時間は有限なんですから」





 できるのであれば、ずっと眠りについていたかった。

 あたたかな陽だまりなんて贅沢は言わない。冷たい部屋の片隅でいい。まるで死んでいるかのように。誰にも邪魔されず。静謐の中で。夢を見ることもなく。カーテンを閉め切った部屋で他の何者からも邪魔されることなく。

 しかし現代社会に生きる以上はそうもいかない。他の国はどうか知らないけど、少なくとも日本で真っ当な人生を送るには、何よりも起きなければならない。速やかに、遅れなく。遅刻なんてもってのほかだ。

 まだ社会人にもならない、大学二年生の俺にもそれは適用される。ICカードである学生証で出席状況が記録されている。四回遅刻のペナルティで、その講義の単位はとれなくなってしまうのだ。まさしく就活予備校の面目躍如というわけである。

 とはいえ、出席の必要性の緩い時代に生まれていたら、それこそ年配の教授の腹のようにたるみきっていた自信がある。俺は駄目人間である以上に、朝にそれはもう弱い人間だった。親子三代続いての低血圧は筋金入りで、寝起きの悪さは人一倍。大学進学と共に一人暮らしを決意した際には、母親から「今からでもやめた方がいいのではないか」とも進言された。その心配は、一年時の必修科目を落としたことにより無事的中してしまった。

 もっとも、単位を落とすことがなければ、彼女とは会うことはなかっただろう。

 再履修の英語科目。同じ教材。見覚えのある内容。聞き覚えのある講師の雑談。

 一学年下の彼らに混ざりながら聞く講義は、単位を落としてしまうほど難しいわけではない。俺のように寝坊や欠席を繰り返しでもしない限りは。

 もちろん、英語が苦手という人はいる。発音記号の読み方なんて正直いまだに分からない。単語だけ見てもアクセントがどこだか知るわけもない。そも単語の意味がわからない。日本人は無駄に凝り性だから、できもしないのに理想を追い求めてしまう。あるいは、しなければならないと思いこむ。仮に予習をしてこなくても。そして土壇場で憂鬱になる。

 彼女との交流のきっかけは、講師に問題を答えるよう当てられた際、助け舟を出したことだった。

 それから。

 彼女との関わりは、感謝されて、だなんて殊勝な理由からではない。

 別の講義で「いる講義といない講義がありますけど、別の学科の方ですか?」正直に返答すれば「えっ、先輩でしたか。それはそれは」翌日、大学の食堂で「奇遇ですね。先輩のおすすめはありますか?」

 彼女のペースに飲まれてしまい、(他の再履修していた)講義は隣の席で、昼食も共にするような状態になってしまった。

 俺が睡魔やその他諸々に流されやすい若者であることは疑いようがないが、こうもグイグイ来られてしまうといささか抵抗が出てしまう。嫌とか嫌ではないとかではなく、何故、が先立つ。


「和泉、お前一緒に飯食うやついないのか?」


 和泉、それが彼女の苗字だった。それだけは把握していた。講義中に当てられた際に呼ばれるためである。

 俺は別に、再履修の講義であるから話し相手や、つるむ相手がいなかろうが問題ない。だが彼女は別だ。それにしたって彼女が他の学友と話している姿を見たことがない。何度目の昼食のとき、世間話のように聞いてしまう。


「先輩だって、こうして私と一緒にご飯食べているじゃないですか」

「そりゃまあ、あいつらはお前が近づいてくるから気使ってくれてんだよ」


 ぐるりと食堂に目を向ける。いた。窓際のテーブル席の三人組。視線に気づいた一人に、にたりと笑みを返される。気のいいやつだ。後輩を優先してやれと言い出したのもあいつだ。そしてあいつが一番茶化してくる。後で脇腹に肘を入れようと決意する。

 彼女も、俺の知り合いがいることに気づいたのだろう。和泉は照れたように視線を手元の鯖定食(320円)に落として、それから、上目がちにこちらを覗いてくる。


「……迷惑でした?」

「別に飯なんて誰と一緒に喰っても同じだろ」

「先輩って、デリカシーとか皆無ですよね」

「……そうか?」

「そうです」

「そうか……」


 和泉は不服そうに言う。少しへこんでいる俺を他所に、彼女はぽつりと言葉を漏らす。


「わたし、人と話すの、苦手なんですよね」

「……別に、俺は話していて普通だと思うけど」

「先輩が気を使ってくれてるから、取り繕えているだけですよ」


 彼女は俯きがちに語る。

 気を遣っているかといえば、しているのかもしれない。年上相手が話しやすいことは、俺にも覚えがあった。こちらが何を言っても適当に聞き流してくれる。それを分かっているから、いくらでも話せる。


「別に意気込んで話しかける必要もないだろ。高校生でもあるまいし。そりゃ、何人かいれば楽しい……かはともかく、便利ではあるけど」

「いやほら、講義中に一人で黙っていると、いつも独りぼっちなさみしい奴だと周りに思われそうで」

「わかる。確かに思うよなー」

「ぐええ」


 呻く和泉。彼女の気持ちはわからないでもなかった。俺も去年は似たようなものだ。一人で受ける講義。話そうとも顔と名前が中々一致しない。流れで交換した連絡先は使うことはない。たった一年前のことであるのに、焦燥していた春に懐かしさを感じる。


「まあ、気にしなくても大丈夫だろ。後ろだろうが前だろうが、決まって近くの席で受けてる同類。ノートの板書できなかった部分の質問。実験の共同者。今はできなかろうが、焦らなくてもそのうちできるだろうし」


 理由の半分以上は、寝坊からの必要に駆られてであったのだけれども。


「無理です無理無理。私には、絶対、無理です。対話強者の先輩と一緒にしないでください」

「別に俺は強者でもないけど……」

「無理なものは無理なんです、現実をちゃんと見てください」


 向きあわなければいけないのはお前ではないのだろうか、などと思い浮かぶが口には出さない。俺の基準では、目の前の和泉とはそんなに切り込んだ会話をする仲というわけでもない。まだ知り合って一週間というわけでもない。そういう意味では、彼女はなるほど確かに距離感のおかしいコミュニケーション弱者であるのかもしれない。

 彼女とのこの不思議な距離感に、心地よさを感じている自分はさておいて。


「というか和泉は、その仏頂面をどうにかした方がいいんじゃないのか」

「生まれつきの特徴をあげつらうのはよくないですよ」

「いやそれはおかしい」


 俺とならこうも話せるというのに、何をビビっているのか。一度、何か話す機会があればすぐに打ち解けられるだろうに。


「つーか、そもそも俺との付き合いだって、お前からだろ」

「先輩は別です。先輩からは、その、同類の匂いがしたので」

「同類、ねぇ」


 本当に同類であるのなら、問題あるまい。


「まあ、どうとでもなるだろ。もしならなかったら……」

「ならなかったら?」

「こうして一緒に飯を食っていてやる」





 結局のところ、彼女は俺と同じように、あるべきところに落ち着いた。

 彼女は同学年に共に講義を受ける仲間を作り、昼食を食べる友人ができて、年度末には平穏無事な当たり障りのない生活を送り始めた。お役御免だった。再履修の単位習得も固い。彼女との縁はそこでゆるやかに消滅するはずだった。


「先輩、なんでいるんですか?」

「単位を落としたから、かな……」


 俺が大学三年、和泉が大学二年の春、特に驚きもなく再会した。

 必修ではなく、自由選択の科目。レポートを出すだけで楽に単位を貰える噂に釣られて、無事落とした一限目の科目。

 成績は就活だけではない、研究室の選択にも響く。D判定のまま放置するのはいささかよろしくない。そういった理由あっての再履修だった。

 そうですか、と彼女は言うとその場を離れる。懐かしの一人講義である――と思ったのも束の間、隣の空席に彼女が座ってきた。


「……なんですか。何か言うことでもあるんですか」


 まじまじと見ていれば、突っ込まれてしまう。


「いや、あっち行かなくていいのか」

「ええ、大丈夫です。ちゃんと説明してきたので」

「単位落として一人で講義受けているかわいそうな先輩だって?」

「いえ、異性として好意を抱いている方だと」


 ふざけて聞いてみれば、彼女は驚くほど真剣な表情で言う。


「……冗談?」

「ええ、当然です。流石に寝ぼけてはいないみたいですね」


 してやったりと言ってのける和泉。してやられた俺。そういう嘘は良くないと思う。本当に。


「どうして先輩はどうしようもない落単魔なんですか?」

「……朝に弱いんだ」

「……それだけ?」

「ああ、シンプルでいいだろう?」

「シンプルに全然よくないと思います」

「俺もその通りだと思う」


 ぐうの音も出ない。


「仕方のない先輩ですね」

「はい……」

「そんな先輩に、ご提案があります」

「提案?」

「先輩想いの後輩として、先輩が何もできずに単位を落とすのは非常に哀れ……ではなく、忍びないので」

「……聞かせてもらうけど、何?」

「モーニングコール、してあげましょうか」


 モーニングコール。日常生活を送る上で、聞き慣れない言葉だった。彼女の話した意味を掴めず、顔を伺う。何故か目を逸らされてしまう。


「だめだめな先輩のために、私が人肌脱いであげようというんです。先輩には一年生の頃に良くしてもらった借りがありますから。恩返しだと思って遠慮しないでください」

「俺の寝起きの悪さは筋金入りだぞ」

「はあ、ちゃんと起きるまで付き合ってあげますよ。で、どうします?」


 今度は冗談というわけでもなさそうだった。断る理由は、思いつかなかった。


「えっと、じゃあ、よろしくお願いします」

「ええ、任せてください。先輩にこれから一年間、素敵な目覚めをプレゼントしてあげます」


 初めて見る彼女の笑顔は、咲く花のように綺麗だった。





 できるのであれば、ずっと夢を見ていたかった。

 俺は彼女と会ってから、夢を見続けている。





 和泉のモーニングコールで目を覚ます。

 彼女の言葉で起きると、魔法のように目が冴える。大学生の頃から、一番の目覚ましなのは確かだった。どうしようもない朝も、彼女の声さえあれば生きていられると思えてしまう。

 自分がこんなに弱い人間だとは思わなかった。いや、和泉がいたから弱くなってしまったのか。どちらにせよ、彼女に依存しているのは確かだった。

 二年が経った。大学を卒業して、就職してからも彼女の世話になっていた。


「せんぱーい」


 休憩時間、社内でスマートフォンを弄っていると呼びかけられる。

 声に振り向く。聞き慣れた呼び名。同じ女性の声だが、未だ聞き慣れていないその声。俺の席までやって来たのは、今年入社した新人だった。同じ部署で年が近いのが俺だけだからか、妙に懐いてくるのだ。

 彼女がスマホを覗きこんでくる。別に見られて困るものは閲覧してないが、なんとなく隠す。


「先輩のスマホ、結構年代物ですよねえ」

「年代物ってほどじゃないだろ。使い始めてまだ……六年程度だ」

「十分骨董品っすよぉ」

「そうかそうか。で、何か用事でもあるのか。仕事についてなら後にしてくれ」

「あ、はい。でですね、今日はご飯、ご一緒していいっすか」

「悪いな、もう食っちまった」

「早っ! えっ早すぎないすか! まだ昼休み入ったばかりっすよ!」


 彼女は俺の机の上のゼリー飲料に気づき、眉を顰める。


「いくら小食でも、ちゃんと食べないとだめっすよ」

「わかったわかった。じゃあな」

「じゃあじゃあ、先輩、夜は予定あります? 一緒に夜ご飯食べに行きましょうよー。勿論、先輩の奢りで!」


 食い下がってくる彼女だったが、その提案についての返答は既に決まっていた。


「却下だ」

「先輩のけちー」


 ケチと言われても、無い袖は振れないのだ。一年早く入っただけで、給料はさほど変わらない。何より、今日に限っては理由がある。


「そもそも、今日は仕事が終わったあとは予定があるんだ」

「えっ、まじすか。もしかして女ですか! なーんて」

「そうだ」

「ですよねー! ……って、えっ、嘘ですよね?」

「さあな。あとお前、そろそろ行かないと昼休み終わっちまうぞ」

「む……今度詳しく聞かせてもらいますからね!」

「断る」

「先輩のドけち!」





 夢は覚める。微睡みは失われ、現実はやってくる。





 夕暮れ時。俺だけがいる霊園には、虫の音が響いている。

 墓前には、既に誰かの花が置かれていた。

 今日は和泉の命日だった。

 肌寒い、秋の日だった。

 病死だった。

 俺は、何も知らされていなかった。

 俺が大学四年の頃だ。就活は夏に入ってようやく終えた。気を遣って黙っていたのかもしれない。

 葬式で彼女の友人に会ったが、彼らは知らされていた。知らなかったのは俺だけだった。

 和泉には、与えられたぶんを返せたとは思えない。俺はいつも与えられてばかりだった。

 その一つが、こっそりと仕込まれていた和泉の自作アプリだった。散らかった中に、巧妙に隠されていて、気付いたのは葬式から三か月後、俺宛の遺書を読んでからだった。

 この世に二つとないアプリケーション。無機質な音声の代わりに、録音された彼女の声が流れる目覚まし。

 今も、俺は彼女に助けられている。助けられて、生きながらえている。

 時折、何もかもを投げ出してしまいたくなる。彼女の声を聞くために、辛うじて生き延び続けている。

 これが和泉の呪いだというのなら、してやったりという顔をしたはずだ。墓には遺骨しかないはずなのに、ここに来ると、彼女のことを思い出してしまう。





 墓参りの翌日のモーニングコール、彼女の言葉には聞き覚えがあった。

 その翌日も、そのまた翌日も。

 聞いたことのある内容だった。

 もしかしたら、と期待していたのだ。彼女の残した目覚ましに、モーニングコールだけではない、俺に向けての何か特別な言葉が入っていると疑っていた。そんな完走特典はなく、何度アラームを鳴らしても、再生音に変わりはない。

 ストックは切れて、モーニングコールは単なる録音を再生するだけになった。

 色褪せていく。

 彼女の魔法が解けていく。





「先輩、遅刻とからしくないっすよ。どうしたんすか、いつもは社会人の自覚がー学生気分がーって言ってきてるじゃないっすか。彼女さんと別れ話でもしました?」


 会社に入って、初めての遅刻だった。後輩はここぞとばかりに詰ってくる。普段通りに軽口を交わしてみせようとしたが、うまい返事が見つからない。いままでこいつとどうやって話していただろうか。何か言わなければと口を開閉するも、なにも言葉が出てこない。

 こういうとき、こいつは察しがいい。普段みたいなおちゃらけた雰囲気をすぐにひっこめて、心配そうに顔を覗き込んでくる。


「あの、先輩。もし何か悩みでもあるのなら、なんでもお聞きしますよ。力になれるかは分かりませんけど、話すことで落ち着くこととか、ほら、あるじゃないっすか」


 彼女は打算ではなく、善意で言ってくれている。短い付き合いだが、それはわかっていた。

 しかし彼女に打ち明けて、何になるというのだろう。

 死んだ後輩の声に救われて、死んだ後輩の声に苛まれている。客観的に見れば、悲劇ぶっている女々しい男というだけだ。

 もし、和泉が俺の立場であったら。彼女はあのときのように、恥ずかしがることなく打ち明けるのだろうか。ありもしない夢想に意識が映ってしまう。


「……すまん。今日は早退する。だからあとは、任せた」


 仕事をできる状態ではない。そう判断できる能力が残っているうちに決めた。


「いつでも呼んでくれていいっすからね!」


 彼女の言葉に、俺は返事が出来なかった。





 今まで無遅刻無欠勤でいたためか、すんなりと帰してもらえた。

 早引きして家に帰っても、できることはない。布団をかぶって、イヤホンをつけて、アラームを弄り彼女の声を何度も聞く。もう新規の音声はないのだ。それなら、こうして聞いていても問題ないはずだと自分に言い聞かせる。たとえ一度聞いたものでも、いまは彼女の声を聞きたかった。

 だが、いくら彼女の声に浸ろうとしても、現実に引き戻されてしまう。既視感が、彼女が死んでいる事実を想起させてくる。

 一番の焦燥は、彼女を失ったことの苦しみを忘れてしまうことだ。

 和泉との、最後の繋がりは途切れた。やがて、彼女のことを忘れてしまうのだろう。彼女が死んでからもう二年だ、彼女がどんなふうに笑っていたかも、はっきりと思い出せないのだから。

 彼女のことを忘れたとき、俺はいまよりも幸せになっているのだろう。苦しみなんてなかった風に生きているのだろう。

 こんなどうしようもない時は、彼女と会う前にもあった。その時、俺はどうしていたか。

 わからない。わからないまま、俺は知らずのうちに同じことをする。

 微睡みに落ちる。





 俺が四年生の夏の日、初めて和泉が俺の家に泊まりに来た。彼女が死ぬ一か月ほど前のことだ。付き合い始めたのは三年の夏。家に来ることは多々あったし鍵も渡していたが、泊まりは初めてだった。

 恋人同士でやることを粗方やったあと、彼女はぽつりと言った。


「先輩、私が死んだら、後を追ってくださいよ」


 後から思えば、既にこの時、死期を悟っていたのだろう。そうとも知らなかった俺は、和泉を恐る恐る抱きしめた。狭いベッドの上は、抱きしめるには丁度いい大きさだった。


「俺は薄情だから、和泉が死んじまったらお前のことなんかすぐに忘れて、新しい彼女でも作るとするよ」

「……先輩は薄情なんかじゃないですよ。友達が少ないだけです。あと先輩みたいな人を好きになるような子は、きっと私くらいです。彼女は絶対にできません」

「……おい」

「じょーだん、です」


 にへらと彼女は笑う。


「でも、そうだったらいいのになって思っているのは本当ですよ」


 浅ましい俺は、その言葉で気をよくして満足してしまう。知る機会を着々と逃していく。

 いつだったか、聞いたことがある。彼女がなぜ、俺を好きだと言ってくれるのか。


「人を好きになるのに、理由なんていりますか?」


 彼女は疑いも抱かず言った。言い切られてしまえば、俺はそれ以上何も聞く必要はないと思えた。俺だって、彼女がどうして好きなのかわからなかったから。

 だが今は思うのだ。理由は必要に決まってる。相手が生きている間はいいかもしれない。死んだ後に、必要なのだ。何故好きであるのか分からなければ、死んだ彼女のことは好きであり続けられない。

 自身から湧いていたはずの好意が信用できないものへと変わっていく。

 他の誰が問題なくとも、他ならぬ俺はそうだった。

 かつて俺は夢を見ていた。夢を見続けていたかった。ずっと夢の中にいたかった。

 夢の中の記憶は、失われていく。





 懐かしい夢を見た。

 彼女は何を思って俺に目覚ましなんて残したのだろう。

 彼女が後を追って死んでほしいのか、生き続けて欲しいのか。そんなことは分からなかった。遺書に書いてあったのは『スマートフォンの中にこっそりアプリを入れたこと』『必要がある日の朝に、一日一回だけ使うこと』。本当にそれだけで、ろくに言葉を残してくれなかった。

 俺は彼女の言いつけを律儀に守って聞いていた。仕事のある日、欠かせない用事のある日にだけ。

 ふと、去年と一昨年のスケジュール表を掘り返す。投げ出していた鞄から、今年のものも取り出す。午前中に予定がある日が、目覚ましを使った日だ。一枚一枚捲って、数えてみる。

 365回。彼女の知らない言葉を聞けた回数だった。

 彼女はきっかり一年間分の愛をくれていた。

 私の後を追ってくださいよと彼女は言った。なのに彼女は心残りを用意して、俺は彼女の軌跡を追い続けた。それは途絶えてしまった。

 どうして俺のことを好きだと言ってくれたのか、分からない。けれども彼女は確かに、俺のことを好きでいてくれたのだ。そうであれと、願わずにはいられなかった。






「先輩、まだ顔色悪いですよ。大丈夫っすか?」


 早退したぶん、次の日は会社に早めに来たのだが、既に先客がいた。短く結んだポニーテールをぴょこぴょこと揺らして近くに来る。


「いままでが良かっただけだよ。問題ない。別に気にするほどじゃないだろ」

「いや気にしますって。先輩だって私が顔面蒼白になってたら気になりますよね?」

「きっと気付かない」

「あはは、いつもの先輩だ。調子だけは戻ったみたいで何よりっす」


 彼女は愉快そうに笑う。


「昨日、何かあればお話し聞くって言ったの、別に気を遣ったわけじゃないですからね。私だって、先輩に愚痴聞いてもらう気満々ですから」

「……俺は別に、聞いてもらわなくても大丈夫だ。でも……まあ、今度奢るくらいはしてやるよ」

「えっほんとですか! 先輩の太っ腹―!」


 現金な後輩だった。あえてそんな風に振る舞っていてくれる、その優しさが胸に沁みる。

 いつかは彼女に和泉のことを話す日が来るのかもしれない。でも、今ではない。

 和泉のいない世界で生きるのは苦しい。しかしこの苦しみがある限り、彼女がいたことを思い続けていられる。俺の心は、彼女と心中していられる。

 目覚める時間は自分では選べない。それこそ目覚ましがなければ。

 彼女のいる世界から覚めるには、まだ早い。

 あと少し、できるだけ、この痛みを抱えていたかった。

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