グッドモーニング・フォックス
石井(5)
グッドモーニング・フォックス
UH-1Bヘリコプターから降りると、どっと汗が噴き出した。
地獄のような強い陽射しに、足元から立ち昇るむわっとした土と草の匂い。
ベトナムだ。
目の前の密生林は標高が高く、両端を断崖によって斬り落とされている。上空から見ると女のくびれのようなので、アメリカの監視センターは“フォックス”と渾名をつけた。ホーチミン・ルートを叩くには避けて通れぬ、唯一の行軍路である。
だが“フォックス”は魔窟だった。足を踏み入れた部隊は謎の強襲を受け、壊滅に陥った。
ベトコンの潜伏と最初は思われていた。だが、周辺の村人からの聞き取りによってわかったその正体に軍司令部は震撼した。
あのジャングルにはたった一人しかいない。
森の番人気取りの狂人が侵入者を見境なく狙撃し、ただ一人でアメリカの進軍さえ阻んでいる。
謎の狙撃手は現地民からガドゥンガンと呼ばれ、恐れられていた。
インドネシアに伝わる、伝説の人虎。
四つの部隊を壊滅させた、“フォックス”に潜む人食い虎。
凡夫を殺すよりはやりがいがありそうだ。
コープスは持参してきた狙撃銃……フランス製のMAS-36を担ぎ直した。
コープスは殺し屋であった。
出身地も年齢も本当の名前すらも知られず生きてきた。
金で動く殺し屋が裏社会で生き延びるには当然の処世術だった。
そう、彼女はプロだった。
上品なローマの街並みだろうが、南米の小汚い村だろうが彼女は目標を暗殺することができた。潜伏と活動のプロフェッショナル。彼女は生まれながらに殺し屋、あるいは諜報員としての才覚に恵まれていた。
今回の依頼に名声はない。
彼女の報酬はドルと、困難な依頼に立ち向かう自己満足だけ。
コープスはジャングルに踏み込んだ。
敵の居場所がわからない以上、とにかく索敵するしかない。
彼女は一週間前から煙草と肉を断っている。体臭を消すためである。
覆いかぶさる樹木は陽射しを遮るが、同時に熱を閉じ込め、釜風呂のような蒸し暑さを熟成する。
獣道は無視し、密生する樹々を分け入った。
こんなわかりやすい道はガドゥンガンも真っ先に警戒しているに違いない。
姿勢を低く保ちながら、コープスは道なき道を進む。進んだ端から、念入りに自分の痕跡を消していく。音を立てる枯れ枝は避ける。木や草を無用意に鳴らさないよう注意を払う。
数時間歩いただろうか。彼女は一つの痕跡を見つけた。
動物のものではない、人間だ。
消しそこねた痕跡……いくつも続いている。
油断ではない。ガドゥンガンの癖なのだろう。
ぽつり、ぽつり、と殺人者の残す血滴のようにガドゥンガンの辿ったルートを記している。
初めはヘリでやってきたコープスを目視するため
痕跡はまだ若かった。
コープスは山を昇るガドゥンガンを追わず、∨字に分かれた反対側の斜面に向かった。
そこから無防備なガドゥンガンを狙撃する。
少し進むと、樹々の天蓋がやや薄まる空間に出た。
己の身も曝け出すことになるが、狙撃のための視界を確保できる。
コープスはMASを降ろし、音を立てぬようボルトハンドルをゆっくりとスライドさせて初弾を送り込んだ。
身を伏せて、スコープを覗き込む。
二十倍に拡大された密林がうっそりとレンズ内に茂っている。
揺らめく葉はきらきらと白光を照り返し、ダイヤモンドの実をつけているようだ。
スコープを走らせ、人影を探す。
あのあたりにいるはずだが……
――そのとき、コープスの首筋を嫌なものが走った。
それは今まで幾度となく彼女の命を救ってきた、理外の直感。
身体を飛び起こす。
直前に殺意の放たれた方角にMASを持ち上げ、銃口を向ける。
スコープを覗く暇もなく、引き金を引いた。
銃声。ほぼ同時に、銃弾がコープスのそばの土を抉る。
残響するコープスの銃声の木霊に、遅れて届いたガドゥンガンの銃声が混ざりあった。
罠だった。
偽装した痕跡を張り、待ち伏せを仕掛けていた。
やってくれる。
コープスは
潜行を最小限に抑え、コープスはガドゥンガンの狙撃地点に急いだ。
第一に罠を警戒すべき目的地だが、今回に限って安全だと彼女は判断した。
今頃ガドゥンガンは反撃など考えず、必死に逃げている最中だろう。
狙撃の瞬間、コープスは相手の怯えを感じた。
あんな絶対的有利な状況で弾丸を外したのが証拠だった。罠に嵌めたはずのコープスが自分の居場所を察知し反撃してきたことに、ガドゥンガンは恐怖したのだ。
相手は若い。
狙撃地点に着くと案の定、痕跡がたっぷり残されていた。慌てて後にした様子が見えるようだった。
薬莢まで落ちている。
拾い上げた。日本製六・五ミリ弾。
得物は旧日本軍の三八式歩兵銃。第一次インドシナ戦争の置き土産。
薬莢の撃針痕によればだいぶ使い込まれ、またよく整備されている。
だが、残った足跡を見ると、相手の体格はおよそ身長百五十センチ、体重四十キロ。
十代後半の少女だ。
おそらく彼女の以前に優秀な所有者がいた。
そして、そいつが狙撃を教えた。
インドネシアの伝承では、ガドゥンガンは夜のうちに人を襲う。
それによってガドゥンガンは人間に戻り、今度は襲われた者がガドゥンガンへと呪われるのだ。
コープスは含み笑いを抑えることができなかった。
己の力を呪いだと思っているか。
ならば間違っている。
ガドゥンガンは気づいたようだった。
今回の相手は本物だと。
故に、罠を張り巡らすような技巧の戦法ではなく、確実に圧殺する手段を選んだ。
つまり完全な潜行である。
痕跡は消え失せた。
風と動物の鳴き声が響くジャングルは、しかし異様な静謐に満ちていた。
地の利はガドゥンガンにある。この極限状態にコープスが音を上げるのを待っている。
そうはいかない。
こっちは初めて人を殺した日から、ずっと世界に潜行している。
やがて食料も水も尽きた。
コープスは蛇や生魚を喰い、血を
火は使えない。居場所を喧伝するようなものだ。
己に施すカモフラージュも強化した。泥を顔に塗り、草枝を全身に巻きつけた。だが泥は乾き、枝は折ったときから枯れ始める。コープスは這いずりながらカモフラージュを常に更新し、また痕跡を消す。
ジャングルで眠り、ジャングルを喰らい、ジャングルそのものとなる。
追い詰められた感覚は、異常な鋭敏さを獲得していた。
百メートル先の木立の音から到来する風を察知する。
わずかな土の匂いで数時間後の天気を見通す。
動物の足跡は実像を呼び起こし、その思考すら読み取る。
コープスはこれが妄想ではないと悟っていた。
これこそ、ガドゥンガンの感じている世界なのだ。
呪いを明け渡すまで終わらない夜。人虎の見る世界。
その世界にガドゥンガン自身も感じた。
もはやその痕跡は点と線ではない。“フォックス”の熱気そのもののように、ガドゥンガンの息吹は濃淡描く相として存在する。
ただのルートではなく、ガドゥンガンがこの世に息づく証。
彼女の孤独を感じた。
強大な力と、それを持て余す若さ。
庇護する者も、導く者ももういない。
彼女は怒っていた。
だが、なぜ。なぜこの森を守ろうとする?
……ああ、そうか。
虎よ、お前にはアメリカもベトナムも関係ないのか。
お前は世界に誰も存在してほしくない。
きっと核爆弾のスイッチを渡されたら躊躇いなく押すのだろう。
お前にとって世界とはこの森以外にありえない。
熱気と湿気にまみれた密林が、お前の知る世界のすべて。
なんと無知で、純粋で、幼いのか。
哀れな娘だ。
コープスは涙を流していた。
己の境遇と重ね合わせたわけではない。ガドゥンガンも同じようにコープスを感じているはずだった。
今や、二人は混ざり合い、同一の存在だった。
――そして二十日が経った。
コープスは決断した。
完璧な潜行を続ける中で、慎重に痕跡という名の餌を撒いていく。
ガドゥンガンの目には、コープスの集中が切れたように映るはずだった。
罠であることも疑うだろう。だが、傍目に区別はつかない。
重要なのは痕跡そのものではない。
相手の裏を読むことだ。
痕跡を罠と踏んで、待ち伏せしているであろうコープスを先回りするか、あるいはそう思わせる二重の罠と判断して愚直に痕跡を追うか。
コープスは、ガドゥンガンが痕跡を罠と捉えるだろうと感じた。
この二十日で知った彼女ならば、そうする。
人虎よ、そろそろお前の呪いを明け渡す頃だ。
夜が明ける。
コープスは草叢に潜り、MASを伏射姿勢で構えた。
スコープを覗く。だが人影を探すためではない。
ジャングルと一体化したコープスに望遠レンズなど必要はない。
一瞬の遅れを取らないために、そうしているだけだった。
ガドゥンガンが近づいてくる。
やがて、銃口を向けた反対側の斜面にガドゥンガンが踏み込むのを感じた。
コープスの見立通り、ガドゥンガンは痕跡を愚直に追ってきた。
……虎よ、ようやく知ることができたんだな。
ここが世界のすべてではないのだと。
この世界は自分が思うよりずっと広いのだと。
そうだ。
コープスは慈愛の笑みを浮かべた。
私がここに来たことに、お前は意味を与えてくれた。
森林を索敵するスコープの中に、コープスは鉄の光を見た。
三八式歩兵銃を構えた少女がそこにいた。
ガドゥンガンも、コープスに気づいた。
互いの瞳が交錯する。
引き金に指をかける。
夜が明ける。
新しい世界の朝日を見ることが叶うのは、どちらなのかはわからない。
だが、いずれにせよ最高の目覚めになるだろう。
コープスは思った。
ジャングルに銃声が響いた。
グッドモーニング・フォックス 石井(5) @isiigosai
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