逆行逃避行

千羽稲穂

逆行逃避行

 檸檬が鼻につく。すっぱさに鼻をつまみ、瞼を押し上げた。掌に何か乗っている。僕はその違和感を楽しみつつ、掌の肉で檸檬をもむ。固い表皮から酢をまぶしたような香りが漂う。それが腕を伝い、胸に乗りだし、顔に近づく。誰かが息を吹きかける。そんな幻影が過る。強気に向き合い、光る瞳を携えた幻影に抵抗する。

 ここがどこだか分からない。白い天井が見える。薄いカーテンが揺れている。窓が小さく開いているらしい。そちらに顔を向けると、夜の街が見えた。ぽつぽつと星が輝いているように、電気が明滅している。橙の明かりは温もりがあり、白い光は冷たい。床に寝ている僕はそれを見つめ、自身の中のアイデンティティーを探る。何もない。闇を探っているようだが、それはふわふわとしていて心地よい。ここにいることも不思議と疑問にも感じない。ここにいることに落ち着きを感じている。

 新たな目覚めを、体全体が祝福している。湧き上がる高揚感と安心感を抑えられない。僕は大きく呼吸して、存在を固定する。僕はここにいて、生きていて、それだけで確かな意味があるのだ。僕が生まれたことに、目覚めに、世界全てと僕の間で乾杯する。生きていて良かった。

 だが、この檸檬を持っていることにとっかかりを持っている。檸檬の匂いに吐き気を感じ、喉の奥底から地獄のような熱さが沸き立つ。檸檬は僕の存在や目覚めを妨げている。

 黄色の表皮を握りしめる。鋭く爪を立て、ぎゅっと。すると汁が滴ってくる。一層強まる香りに胸のわだかまりを鷲掴みされる。息が上がっていた。

 この先へ行きたい。

 体を起こし、檸檬を見つめる。檸檬はどんどん圧縮されていく。極限まで水で薄められた黄色の液体が掌を浸す。飛び散る檸檬の欠片。それを拾うこともせず、小さくなった檸檬をより握る。その後、檸檬を部屋に放り投げて大声で笑った。放物線を描き、檸檬は部屋の隅に落ちる。

 夜のうっすらとした光が手を差す。そこには血まみれの掌。光を受け、檸檬の汁がてらてらとほのかに輝いていた。静けさを打ち破るように僕は笑い続けた。

 スカートはゆらりと揺れて、長い髪は汗臭く、ぼさぼさに跳ねている。声が澄み切っている。

 最高の目覚めだった。




 心臓が早鐘をうつ。何度もそこにいる人を確認する。

 私は結局変われず逃げていた。それが彼に伝わってしまったのかもしれない。それならいいかもしれない。逃げてもいいと彼が言っているのなら、私は彼に代わりたい。

 私の中で生まれた泡沫が息を吐き、優しげに微笑んでいる。

「忘れるけどいい?」

 夢の中で契約を交わそう。私とあなたで変わらないものを交わそう。

「私は、これが夢だと知ってるよ?」

「うん。分かってる。夢だからこそ僕がこうしているんだ。もう辛いんなら代わろうよ。僕は構わないよ。忘れてしまってもいい」

「夢でもいいの?」

「うん。夢だからこそいいんだ。夢だからこそ僕は出てきた」

 その提案に私は乗ってしまった。あんまりにも優しいので、夢なのに? と何回も疑ってしまう。

 夢ではいつも赤にまみれたリアルな情景しかみなかった。でも今はそんな雰囲気はどこにもない。

 現実世界の私は眠っているはずだ。床の上でぐっすりと。夜風に吹かれながら、目覚めを待っている。急かされているわけでもない。しかし早くあそこからは離れたかった。

 すると、返事をしていた。

「分かった。早く私を殺して」

 彼は頷き、私の首に手を掛けた。大きく深呼吸して、強く強く、檸檬を握りしめるぐらい。破裂して、もみくちゃになって全部どうでもよくなった。次第に絞めている首から鮮血が溢れだす。赤い花が首から咲きだして、私と彼を覆いつくす。辺り一面に赤い花が咲きほこる頃には、私は息をしていなかった。視点を彼に移す。

 夢の中は何でもありだ。そしてこれは私の夢だから、私の深層心理みたいなものが働く。私が現実で絶望し、持っていたとされる檸檬。その黄色い物体が、血まみれの彼の手に握られていた。咲きほこる赤い花でもなく、檸檬。ただの皮肉だ。これから現実で生きるであろう、彼に手向けた、夢の中で唯一現実感を帯びた物体。

 檸檬の匂いが鼻につき、私と彼は同時に顔をしかめた。

「あとは任せてよ」

 と彼が自信ありげに言った。

 現実世界での目覚めを彼は恐れていない。ここは夢で現実に戻ったらすぐに記憶の中から抹消されてしまうというのに。

 私は安心して現実の体とのリンクを断ち切る。

 彼に最高の目覚めをプレゼントする。




 大きな幻影が目の前に見るようになったのはしばらくしてからだった。圧し掛かられた体の重みや、痛みを、そして辱めを私は忘れることができなかった。夢ですら、現れる。目の前に鋭い眼光。ぎらぎらと光る獣が私の体をまさぐる。すっぱい匂いが立ち込める。その香り、触感、心の揺らぎ、どれをとっても私にとっては苦痛なのに、夢の中でそのままの形で再現される。くるったビデオテープみたいにリピート、リピート。

 夢の居心地が悪い。これもお金のためだ。別に罪悪感はない。それなのに深層で恥ずかしさがぬぐえない。安心感がない。いつも宙に浮いた感覚が付きまとっている。差し迫る快楽に身を任せていたのに、それではいけないと身の内から責め立てられる。

 体を売ったのはもう何年も前なのに。一回しただけなのに。お金がどうしても欲しかった、それだけでしたのに。後悔がないものだったのになぜか今になって責め立てる。自分の体が汚れているとは思ってはいない。あの時のお金が私を作ってくれているのだから、あれをしたことも後悔はしていない。それなのに、何度もあの夢を見る。トラウマだとも思っていなかったことが今になって溢れ出す。悪夢となって。

 夢の中で必ずと言っていいほど檸檬が出てきた。男が圧し掛かってくるさ中、檸檬がぽつんと傍らにあるのだ。檸檬は一人でに次第につぶれていく。ぐじゅぐじゅにつぶれた檸檬の汁から香る匂いがすっぱすぎて、嫌になって、早くそのすっぱさを取り除こうと舌を噛みそうになる。早く抜け出したい。現実世界に戻ると再び疲労感が襲う。あまり夢に没頭できずにいたから、寝不足だった。だから夢だと分かっていても見続けるしかなかった。

 夢の中でいつも同じ手順を踏む。見飽きている。檸檬はもういい。鬱陶しい。夢はいつだってすっぱかったし、それをどうすることもできない。

 傍らにある檸檬に手を伸ばしても、届かない。これは自分の夢だと言うのに、私はそれを手に出来ない。理不尽な夢の中の私はいつだって泣きそうだ。心地いいことじゃないことをしているのにもかかわらずリピートする。鼻につく檸檬は取り除けない。夢なのに、とどうしようもできないことを嘆く。

「変わりたい」

 と夢の中で吐き出した。そしてこみ上げてきた。自身に封をした気持ちを解き放たれた。

 私はお金がない自分を変えたかった。こういうことをしてでしかお金を作れなかった自分が嫌いだった。悔やんですらいた。それがきっと後悔で、こうして夢の中でリピートする原因だった。

 夢で何度も見るのはきっと自分が弱かったからだ。そんな自分が逃げていることを知っていたからだ。現実で生きていくのは、それでは弱過ぎて適応できない。

 なら自分は変わる必要がある。ただ私は変われなかった。夢で見続けるぐらい変われなかった。逃げ続けていた。そこにある檸檬はその真実を突き付けていた。すっぱさは甘さだ。どこかに甘えがあったのだ。だからこそ檸檬を手に出来ない。甘えなんて現実にはない。現実は厳しい。その事実に耐えきれない私に絶望していた。

「僕が代わってあげようか」

 すると、届かない檸檬をひょいっと誰かが持ち上げた。青年の手だ。

 圧し掛かっている幻影が消え去る。

 息を絶え絶えに、彼に向き直る。私の方を見つめる、私と同年代くらいの青年。よく見ると、いろんな顔が想起される面をしている。テレビで憧れたアイドル、はたまた昔付き合っていた彼氏、そして体を売った相手。様々な顔が合成された顔は印象には残らなかった。夢だから、そうなのかもしれない。

「僕はずっと君の奥底で見ていた」

 檸檬をどこかへ放り投げる。匂いも薄らいだ。

「だから、いいよ」

 代わるよ、と。そんな彼の甘えが温かかった。これも立派な逃げだ。私は自分の体を彼に操縦させようとしているのだから。でももうこれしかなかった。いつも心に針を刺すように現実が痛かったから。

「でも、今変わったら、私の記憶を引き継がないから、自分が誰だか分からないまま目覚めることになるよ。それでもいいの」

 彼はそれに対して、柔らかく微笑んだ。

「忘れたっていい」

「本当に?」

 彼は決心しているようだった。

「うん」

 ただそれだけで頬が熱くなる。彼の瞳に宿る光。それは獣でも何でもない、生ぬるい光だった。その光に触れて、私は何度も確認する。

 逃げていいのか。これは本当にいつも苦痛に満ちていた夢なのか。確かに夢なのだと、何度だって確認する。これは夢だ。夢なのに、いや夢だからこそ彼は手を差し伸べてくれた。その手を掴むのが怖かった。これまでと変わらない逃げの選択を提示してくるから。

 今は夢だから、と自分を砂糖菓子まみれにしてもいい気がした。

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