異世界転移しましたが、妹しか救いません

神辺 茉莉花

第1話異世界転移しましたが、妹しか救いません

 湿っぽく、生ぬるい風が吹いた。


 異世界であるエトラント共和国に転移して一年。俺は温室でこの国特産の観葉植物の剪定作業を行っていた。転移する前の農業高校で学んだ知識を生かしてのことだった。どこへ行っても『働かざる者、食うべからず』ということか。

「ふう……」

 思わずため息をついたとき、不意に温室の扉が開いた。バタン、と大きな音。荒い足音。ずいぶんと慌てているようだ。

「シュート、どこだ!」

 かかりつけ医の、怒鳴るかのような声に思わず振り返る。目と目が合った。

「アイリーンが……ちび姫が……!」

 田所愛理。通称「アイリーン」「ちび姫」。今年で十四になる……俺の大事な妹だ。

「街で買い物をしているときに倒れたらしい。おそらくテン病だ。今は国立の大病院で寝かせている」

 テン病……発症率は低いものの、転移した者がかかる病の一つだ。全身の倦怠感と発熱が続き、免疫力が低下し、最悪の場合は死に至る恐ろしい病気。ただ、無農薬、無肥料で栽培したニチニチソウを原料とした治療薬があれば高確率で助かるはずだ。

 そのことを言うと、かかりつけ医は首を横に振った。

「さすがに王立と言っても転移者用の治療薬はすぐにそろえられないらしい。今、大病院の方で船便で取り寄せていて、それが届くのが三日ということだ」

 荒い息。

 三日……。三日もかかるのか。その間愛理はずっと苦しまなければならないのか。

 剪定ばさみがポトリと落ちた。

 ――どうにかして早く妹を救いたい。

 その日から俺は、空いた時間に妹の無事を祈るようになった。



 それから三日が経った。


 そろそろ吉報が届いてもいいはずだ。

 降りしきる雨の中、部屋でぼうっと味気ないパンをかじりながら俺はそう思った。

 ひとりきりで食べる食事はむなしい。

 ひとりきりで聞く雨の音はさびしい。

 ひとりきりで時間を潰す夜はこわい。

 ひとりきりで……。


 どんどん、だんだん、と乱暴に玄関の扉が叩かれた。外からは俺の名前を呼ぶ、かかりつけ医の声。

 バン! と扉が開いた。強風と豪雨が家のなかを侵略しようと入ってくる。

「シュート……!」

 一言だけ言って乱雑にフードを取った。肩が激しく上下している。ずいぶん長い距離を走ってきたようだ。

「悪い知らせだ。気を確かにもって聞いてくれ」

「何があった」

 言いよどむ。その沈黙が怖い。

 もう一度促すと、ようやくかかりつけ医は重い口を開いた。声に、抑えきれない憤りがにじんでいる。

「輸送中にシー・サーペントが襲ってきて……船が、治療薬もろとも沈められた」

「な……に?」

 助かるはずではなかったのか。だって、治療薬を乗せて……それがあれば妹は助かるはずなのに。それが……では治療薬は、もうないのか? 妹は助からないのか?

「じゃあ……じゃあ妹はどうなるんだ! このまま死ねっていうのか! なんにも治療をしないまま見殺しにするのか。おい!」

 かかりつけ医の濡れた襟元を掴んで揺さぶる。

 分かっている。シー・サーペントは強い。強くて好奇心旺盛で凶暴だ。海上を行く小舟なんて、奴にとっては波に漂うゴミみたいなものなんだろう。もしかしたら気が立っているわけではなく、ちょっとじゃれてみただけなのかもしれない。でも、そういうちっぽけなものに大事な命がかかっているんだ。だから……。

「見殺しにはしない」

 興奮して荒い息をつく俺の肩に、かかりつけ医が手を乗せた。そのままポンポンと軽く叩いて言葉を続ける。

「今、代用薬で何とかしのいでいる。もちろんニチニチソウから作った例の治療薬よりは効果は落ちるが、二週間くらいは何とか……」

 へたりと力が抜けた。二週間あれば俺でもニチニチソウを育てることができる。五十株くらいは温室にもあったはずだ。この量だと一回分の治療薬しか作れないだろうが、それを使えば自分の手で愛理を救うことができる。新しい治療薬を届けてやることができる。

 ――今度こそ確実に妹を助ける!

 ぎり、と下唇を噛んで、俺は事情を知らせてくれた礼もそこそこに温室に駆け込んだ。

 強い雨が、全身を濡らしていた。



「あった」

 温室のなかはひどく暑く、蒸れている。その中でニチニチソウの苗が静かに育っていた。

「良かった。あと二週間くらいで充分使える状態になる」

 開花した花でないと有効な成分はとれないが、この分ならば咲きそうだ。これをあと二週間大切に育てれば必ず愛理は助かる。大丈夫、まだもう一回チャンスはある。

「生きてくれ、愛理」

 俺はぎゅっとその場で両手を組んで、見えない何かに、妹が死なないようにと祈った。


 一週間。俺は剪定の作業も行いながら慎重にニチニチソウの苗を育てていった。生育はおおむね順調だ。これならばあと一週間もすれば、予定通り花のエキスを採取できるに違いない。そうしたらそれをもとに治療薬を作ってもらおう。

 愛理がいないさびしさと妹が死んでしまうのではないかという不安は、こうして少しずつでも大きくなるニチニチソウを見ていると溶けていった。



 温室から家に戻るルートを変更し、俺は久しぶりに街に買い物に出かけた。数日食べる分の食料を買い込み、なじみのパン屋でホールのアップルパイの予約をする。愛理が『エトラント共和国で一番おいしい食べ物』と絶賛していた品だ。帰ってきたらきっと喜んでくれるに違いない。

 きっと、何もかもがうまくいく。

 そう思って、俺は意気揚々と家に帰りついた。



 ――ん?

 異変に気が付いたのは、家に着く数歩前だった。ドアの下に破られたメモ用紙が二、三枚差し込まれている。癖のある筆致はかかりつけ医のものだ。よほど焦って書いたものらしい。

 ――何かあった?

 慌てて拾い上げる。かさかさの紙がどうにも不吉だった。


  プリンセス・アイリーン、病状急変

  治療薬は三日以内に精製が必要


 『病状急変』『三日以内』

 物騒な字がおどっていた。脳裏に愛理の姿が浮かぶ。

 いつも「おにぃ、おにぃ」と慕ってくれた愛理の姿が。

 ヒマワリの花のように屈託なく笑う愛理の姿が。

 この異世界で心細くなった時、力強く励ましてくれた愛理の姿が。

 どうする?

 どうすればいい?

 順調に育って一週間かかるものを、どうやって三日に縮めればいい?

 答えは出なかった。ただ、絶望に涙が流れた。



 人はあまりにも気落ちすると、突拍子もないことをすることがある。

 そのときの俺がまさにそうだった。

 家の中に入り込んでひとしきり泣き、押し入れにしまった『宝物入れ』の中から一冊のハンディサイズのノートを取り出した。元いた世界から唯一持ち出せたものだ。中身の前半は高校で受けた植物育種学の授業の内容。後半は異世界……エトラント共和国での暮らしのあれこれだ。

 一ページめくるたびに元の世界での楽しかったことや、愛理の笑顔が浮かんでくる。

 見終わって、もう一度最初のページへ。

 ――懐かしいな。

 植物が受けるストレスと、ストレスを受けるとどうなるか、を下手なりに図解している。泣きながら俺は笑んだ。そうして、あのころはよかった、と反復する。反復して……数秒考えて、ふとある可能性にいきついた。

 ノートを片手に温室へと走る。

 ――もしかしてこのやり方なら一週間を三日に短くすることができるかもしれない……!

 温室の鍵を開ける数秒すらもどかしかった。




 温室の、ニチニチソウの苗に目をやる。


 植物は接触や振動など、外界の刺激を受けるとエチレンガスを出し、成長を抑制させてしまう。


 さきほど目についたのはこの一文だ。イラストは何かの葉を針人間が触り、葉が枯れるというもの。

 もしこれが本当なら、葉を触ればその成長が抑制され、危機感を覚えたニチニチソウは子孫を残すために開花を促進させるのではないか。

 治療薬のためには農薬や肥料は使うことができない。一週間は待てない。

 愛理を死なせるわけにはいかない!

 ――やるしかない。

 心臓が痛いくらいばくばくと動いていた。



 それから三日間。俺はかかりつけ医にも事情を話し、ほぼ不眠不休で葉に刺激を与え続けた。葉をちぎるのも、乱暴に扱うのも刺激が強すぎて苗自体を枯らしてしまいかねない。せいぜい軽く葉を撫でたり、指でつついたりするくらいだ。

 あくまでも優しく、残酷な刺激が続いた。

 そして……。

「あ!」

 三日目の朝、奇跡が起きた。ピンクに色付いた五弁の花が朝の陽光を一身に受けている。見ればその隣の花も、他の苗の花もほころび始めていた。控えめながらも華やかな花の香りが温室を満たす。

「シュート、咲いた花から摘むんだ。急げ。アイリーンを助けるんだろ」

「ああ。ああ、妹を助けるんだ……!」

 一つ深呼吸をして、俺はまだみずみずしさの残る花に手を伸ばした。



 快晴の日はシー・サーペントは姿を見せない。


 その言い伝えの通り、最速で運ばれた治療薬は今度は無事に王立の病院まで届いたという。あとは愛理の体力次第だ。

 ――死なないでくれ。

 ただひたすらにそればかりを願い続けて、それでも体力が続かなくなって居間のソファでまどろみかけたころ、玄関の扉が叩かれた。

 叩いた本人……かかりつけ医が姿を見せる。

「プリンセス・アイリーンだが……」

 パッと目が覚めた。

 もったいぶるかのように大きな深呼吸を一度行う。口角が上がった。

「おめでとう。もう大丈夫だ」


 爽やかな風が吹く。

 最高の目覚めに、俺は感情を爆発させた。


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