第30話 あの、小さく光る青い星

 彼女の流れる髪のように、しっとりとした雨が世界を覆っていた。僕らは逃げ込んだ狭い部屋の中で隠れるように、もがくようにして、僕の勘違いでなければお互いにお互いを求め合った。

 白い肌をした魚のように彼女の細い体は、僕の手が触れる度によじって逃れようとした。その手をしっかり掴んで二度と離さないつもりで、彼女の端々に触れた。

「抱いてほしい」と彼女が言ったあの日から、ずいぶん遠回りした。物事は上手くいくものだと楽天的に日頃から捉えていた僕は、すぐにではなくても待っていれば近い将来、自然に彼女が手に入るものだと思っていた。気持ちさえ寄り添っていれば、そうなるはずだと思っていた。

 でも現実はまったく異なり、手を伸ばしても触れられない、目にも止まらないところに彼女は行ってしまった。

 その時になって初めて、何があっても彼女を手に入れようと思ったなんて……。


「逃げないから、手、放して……」

 浅い呼吸とともに彼女の呟きが聞こえる。僕は意地悪をして握った手にいっそう力を込める。

「やだ、お願い。丞を抱きしめたいの……」

「本当に逃げない?」

「どこにも逃げられないから」

 彼女の手を解き放つと、その長い腕は自然に僕の首の後ろに回されて、きつく抱きしめられる。

「澪、動けないよ」

「だって離れたくない……」

 大きなため息とともに、彼女の体も大きく波打った。






 まだ冷たい雨は降り止まなくて、その音が逆に室内の静けさを増していた。僕たちは何も言わず、ベッドに転がっていた。彼女の頭を腕の中に捕まえて、それで満足していた。彼女がどう思っているのかはわからなかった。

「寒くない?」

「うん、暑いくらい……」

 視線を向けると、彼女の頬は確かに火照っていた。僕はその頬を撫でた。

「熱いね、風邪ひくよ」

「……誰のせい?」

「先に『抱いてほしい』って言ったのは澪だよ」

「あの時は、どうかしてて」

「じゃあ僕は今、どうかしてる。こんなに澪を愛してる。抱きたいとまだ思ってる。おかしいだろ?」

 真顔で彼女は僕の顔をじっと見た。何もやましいことはなかったけれど、その視線の強さに一瞬たじろいだ。


「丞は本当にわたしのことを知ってるの? 知らないからそう思うのかもしれないでしょう?」

「僕にとって必要なことなら知ってる。澪にある、僕が澪を好きになる要素。僕はそれをよく知ってる。だから離れようと思っても離れられない。田代がいてもいなくても、僕には澪が必要なんだ」

「――さっき、話そうと思ってたんだけど。遼くんとは昨日、さよなら、ちゃんとしました。別れたの、今度は本当に。『別れたくない』ってまだ言われたけど、向こうの人とは別れるって言われたけど、最後まであの人を信じられなかった。本当の意味で好きになれなかった……あの人、一花さんの相談に乗って、それを聞かせることでわたしを悩ませて、丞を苦しめた。相談って秘密ごとでしょう? 秘密で人を苦しめるそういう人だったの。それを楽しんでたんだと、今になっては思うの」

「本当に別れたの?」

「丞が一花さんと別れた話をしてくれたの。丞が何て言って、一花さんがどんな風に泣いたのか……。すごく饒舌に。そんな人を少しでも好きだと思った自分をバカだと思った。それから、遼くんの話通りなら一花さんと丞をこんなに苦しめちゃって、丞を突き放しちゃって、もうあなたの前には立てないなぁって思ったんだけど。毎日、図書館前で待ってくれてるあなたを見たら、まだ少しは好きでいてくれてるって思ってもいいかもしれないって……遼くんとはっきり別れて、今日こそ丞に声をかけようって思ったの。……こんな雨の日に待っててくれてありがとう。いてくれて、本当に良かった」


 思いっきり力を込めて彼女を抱きしめた。「バカだな」と小さく呟いた。澪が今日、話しかけてくれたから今の僕たちがいる。それは昨日までの僕にとっては大変な奇跡だ。求めて止まないものが手の中にあること、それ以上のしあわせがあるんだろうか?




 ペットボトルのコーヒーは飲み切ってしまい、澪が僕の電子ケトルでお湯を沸かし始める。コトン、コトンと音がしてキッチンに二つのマグカップが並ぶ。それはつい最近まで、僕と一花のものだった。

「紅茶、あるかな?」

「あると思うよ。紅茶の方がひょっとして好きなの?」

「好きっていうか……ちょっと恥ずかしいんだけど、カフェインが苦手なの。あんまり摂りすぎると気分が悪くなったり……」

「そういう大事なことは先に言いなよ。何で今まで言わなかったの? 何度も一緒にカフェに行ったのに」

「コーヒー一杯くらいなら大丈夫だと思って」

 どこからか紅茶を見つけてきて、ティーバッグをカップに用意する。カチリと音が鳴って湧いたお湯を彼女は注意深くカップに注いだ。

「……一花さんが丁寧にここで暮らしてたのがわかる」

「え?」

「どこもかしこもきちんと整頓されてて、一花さんの好きなものが並べられてて。わたしがそれを穢しちゃった。ごめんなさい」

 再び沈黙が訪れる。

 一花は確かに自分の持ち物を持って帰ったけれど、彼女の作った暮らしはそのまま置いて行った。さながらここは一花のもぬけの殻だった。澪が言う通り、あちこちに一花がいた痕跡がまだ残っている。一花がここを出たのはつい最近のことで、それは当たり前のことだった。

「澪、こっちに来て」

 彼女は訝しげな顔をして、紅茶のカップもキッチンに置いたまま、僕のところにやって来た。彼女をそっと抱き寄せ、髪の匂いを嗅ぎ、額に口づける。そのどの一つも、彼女を大切に思っている証だった。彼女は僕の気持ちの証をひとつひとつ大人しく受け取った。二人の間に、ため息がこぼれる。


「確かに一花がここにいたけど、本当ならもっと早く、澪がここに来るべきだったんだよ。僕が一花に対する態度を早く決めればよかったんだ。今まで不甲斐なくてごめん」

「……丞。わたしの方こそ責められるべきなのに。いつまでも遼くんと別れなかったのはわたしの方なのに。なんでそれを責めないの?」

「なんでかな……。過ぎたことはもういいんだよ。嫉妬は相当したけどね」

 今、ここにいてくれるから。その言葉がするりと喉元を過ぎる前に、僕の唇はふさがれてしまった。

 唇が離れると、彼女は恥ずかしそうに瞳を逸らせ、あわてた様子でマグカップを取りに行った。そんな彼女を見ていると、本当に今ここに彼女がいるという実感が重さを伴ってやってきて、こっちまで何故か照れくさくなる。二人きりで狭い空間にいることにはまだ慣れていなかった。


 一花が田代に僕との仲を相談していたという話は聞いていた。けれど、別れ話の小さなやり取りやなんかまですべて田代に筒抜けだったのかと思うと、話すしかなかった一花の気持ちがやりきれなかった。

 僕にはもう澪がいて一花を手放したけれど、それでも相談するなら小野寺や笹塚でも十分だったんじゃないんだろうか? よく知りもしない男に自分の恋の相談をするなんて、そこまで追い込んでしまったのか……。

 そんな、どうかしてるような行動をとる程、一花はまいっていたということだろうか?

 どちらにしても、今の僕には一花に問い質すことも、反対に慰めることもできやしなかった。


 澪は電車の時間を確かめると帰って行った。初めて来たところなので駅まで送るよ、と言うと、道はわかりますから、といつもの調子で耳に髪を一筋かけながら言った。その頬ははにかんで見えた。

 だからと言って部屋のドアを閉めてしまうのも無責任だから、通りまで二人で歩いて、駅までの一本道まで送って行った。澪は不自然なくらい恐縮していて、僕を笑わせた。

「緊張するから仕方ないんです」

とあわてた様子で僕を睨んで、彼女は帰って行った。

 本当なら、こんな夜は泊まっていってと彼女を腕の中に閉じ込めておきたいところだけど、澪には澪の事情もあるだろうし――彼女もまた実家からの通学だった。始めから無理をするのはあまりよくないことのように思えた。

 やっと手に入ったものをすぐにがんじがらめにするのではなく、澪の言ったようにゆっくりお互いの気持ちを募らせて、育てていけばいいように思えた。これまで待った。澪のことなら、これからもきっと待つだろう。

 もちろん、待たないで済むならそれが一番だけれど。


 人の気持ちは難しい。

けれど「好き」だという気持ちは、ある一定の期間は少なくとも不変だ。

 僕と澪の中も、いつしかまた困難な状況に陥るかもしれない。

 そんなときには思い出そう。気持ちは少しずつ募らせていくものだという、僕の彼女の賢明な言葉を。


 まだ冷たい雨がパラパラと降っていた。彼女が心配になる。駅が見える頃、澪はいつもの通り告げていった。

「連絡しますね」

と。

 もう、スマホの着信設定をサイレントにする必要はなくなった。けど、あの小さく光る青い星も嫌いではなかった。全部、君からの言葉だったから。



(了)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

日陰のふたり 月波結 @musubi-me

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ