ある夜の悪夢
凪野海里
ある夜の悪夢
「じゃあ行ってくるね」
助手席に座っているお母さんが手を振ってきたので、私も「バイバイ」と言って手を振り返した。
運転席にいるお父さんが車のエンジンをかけ、そして車は2人を乗せて出発した。
今日は部活もなく、私にとっては久しぶりの休みだった。お父さんとお母さんも仕事がない日だけど、お父さんたちは2人だけで県外までショッピングにでかけるのだ。
私は留守番。
さて、2人もでかけたことだし、私もどこかに行こうかなぁ。そう思いながら、空に向かって伸びをしてみる。うーん、心地よい。風もないし、太陽は温かいし。
私はちょっと家の敷地からでた。私の家の周りは、車の通りも少ないからとても静かだ。休日のせいもあるからそれは余計だった。
少し遠くの位置から家を眺めてみる。意味なんてない。そうしたいな、と思ったから、そうしただけだった。
しばらくぼうっと、家を外から眺めて過ごしていると、道の角から外国人女性が姿を現した。
珍しいなと思いながら、私は思わず彼女を目で追ってしまう。相手のほうも、私のことをちらっと見てから、何事もないように視線をそらした。
そのまま何もないと思っていたら、その外国人女性は、なんと私の家の前で立ち止まったのだ。
私の家族に外国の知り合いはいない。
何かの宗教勧誘かな? あるいは近くこのあたりに引っ越してくるとか?
私はなるべく他人のふりを装いながら、その外国人女性を離れた位置で観察してみることにした。
女性は私の家の敷地に足を踏み入れる。
まさか泥棒?
私は思わずスマホの入っているポケットに手を伸ばした。
けれどその心配は杞憂だったみたいだ。
外国人女性は玄関のあたりまでやってくると、ドアの脇にあるドアフォンを押したのだ。
ピンポーン。軽快な音が静かな近所に響き渡る。
あの人は、いったい何ものなんだろう。
ドアフォンをいくら鳴らしても反応がないとみた外国人女性は、去ることなくその場に立ち続けた。
声をかけるべきだろうか? でももし、怪しい人だったらどうしようという気持ちが消えない。
よし。
住宅街を1周してここに戻ってきたとき、この人がまだ玄関にいたら声をかけてみよう! どうせどこかに行こうとは思ってたし、これも運動だ。
私は回れ右をして、住宅街の周りを歩き始めた。
***
住宅街は、上空から見ると、長方形のようなかたちをしている。前にグーグルアースで検索して、見たことがあった。
1つ目の角を曲がり、私はあの女性は何者なんだろうと考えてみる。むやみに人を疑うのはよくないけど、外国人の知り合いがいないから妙に勘ぐってしまう。
2つ目の角を曲がったところで、私はおかしなものを見た。
――空が、町が、霧に包まれているのだ。
どうして。さっきまであんなに晴れてたのに。
まるで私に、この先へ行かせないようにしているみたいな……。
私は反対方向に走り出した。その先には駅がある。そこには交番がある。駆け込んで、警察に家の近くに変な人がいるって言えばいい。もしもいなかったら、「嘘でした」って言えばいい話だもの。
あれ、おかしい。
私はまたも立ち止まってしまう。
いつもだったら――たとえ休日だろうと――駅前だから車の行き来はあるはずだ。それなのに、さっきから車の1台さえ通らない。
何、どうなってるの?
私は思わずスマホを取り出して110番をかけてみた。
「おかけになった電話は現在つながりません」
どうして。
私はスマホを取り落としそうになる。
だって警察だったら、110番だったら、どんなときでもつながるはずだ。それなのに。
いや、パニックになるな。それに警察にかけたのは今回が初めてだ。きっとそういうことになるときもあるのかもしれない。
次はお母さん。お母さんに電話してみよう。
「あ、あれ。電話番号なんだったっけ」
いつもかけている電話番号のはずなのに、どうしてか頭からすっぽ抜けていた。
やだな。ほんとにパニックになってる。
落ち着け、落ち着け。
私はスーハーと深呼吸する。
空はいつの間にか暗くなっている。まだ2時だというのに。
ようやく私は電話番号を思い出して、お母さんに電話をかけた。
数回の呼び出し音が永遠にも感じられた。
『もしもし』
「……お母さんっ!」
聞きなれたお母さんの声に、私は涙が流れてくる。
『あんた、こんな時間まで何やってんの!』
こんな時間?
お母さんだって車でお父さんと出掛けているのに。
「お母さん、家の前に変な外国人いたんだけど、誰あれ」
『外国人?』
お母さんがあきれたように問い返してきた。
私はうなりながら、その外国人女性の特徴を具体的に言ってみる。
「えーっと。金髪で、私よりも背が高くて、てっきりお父さんか、お母さんの知り合いかと思って……お母さん?」
お母さんの反応がない。
「お母さん?」
もう一度呼び掛けてみても、やはり反応はなかった。
この電話越しの人は、本当に私のお母さんなのだろうか。
「……お母さん、誕生日いつだっけ?」
本物だったら、こんな初歩的な質問。答えられるはずだ。
ようやく電話の向こうのお母さんが反応する。
『何? 今そんな話してる場合? 早く家に帰ってきなさい』
「帰る。帰るから。それより早く誕生日教えて? 答えてくれるだけでいいからさ」
『いいから帰ってきなさい!』
問答無用で、耳元で怒鳴り返される。
この人は本当に私のお母さんなのだろうか。
ただ誕生日を聞いているだけなのに、どうして怒鳴り返してくるの?
実はこの人、声が似ているだけの別人なのでは。
『早く帰ってきなさい! くだらない質問してないで!』
私は怖くなって思わず怒鳴り返してしまう。
「答えてくれるだけでいいの! 誕生日はいつ!?」
お母さんはまたも黙った。
その瞬間、私のなかにうずまいていた不安は、確証に変わった。
この人はお母さんじゃない。
「あんたは私のお母さんじゃないっ!」
『そうだよ』
電話の向こうで、全く別人の低い声が聞こえた。
「うわっ!」
私は叫び声をあげて起き上がった。まもなく飛び込んだ視界の景色に一瞬、自分の居場所に戸惑う。
……ここは、どこ? って、私の部屋じゃん。さっきのは夢?
壁にある時計を見ると、夜の2時だった。
「なんだ、夢か」
何だったんだ、まったくもう。
着ているパジャマはすっかり汗びっしょりだし、正直気持ち悪い。着替えよう。
ベッドから降りてタンスに向かおうとしたところで、突然ベッドの上にあるスマホからコール音がした。思わずびくっとなってしまう。
何、こんな時間に。
私は恐る恐るスマホに手を伸ばした。相手は「お母さん」
お母さん? なんで。
だって今は隣の部屋で寝てるはず。
私は恐る恐る電話にでる。
「もしも、し」
『ああごめん、寝ぼけてた』
は?
『かけ間違え。ごめんごめん。もしかして起こしちゃった?』
「な、なんだ……」
なんだよもう~。
私は思わずその場にへたり、と座り込んだ。あー、びっくりした。
「もうやめてよね。ただでさえ怖い夢見たばっかりなんだからさぁ」
私は笑いながら、努めて明るく返す。声は少し震えていたかもしれない。
思えば最近、勉強に部活にいそがしかったし、疲れがたまってたからあんな夢を見たんだ。過ぎ去ってしまえば逆に、ちょっと心がスッキリした気分だった。
電話越しのお母さんも笑いだす。
『ほんとにごめんね。ところでさ、』
「うん」
『よく偽物だってわかったね』
夢で聞いた低い声が電話の向こうで聞こえた。
ある夜の悪夢 凪野海里 @nagiumi
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