Picture of Lily

「じーさーん」

 マリアンヌ・シャルマーニュはインフィニティ号の医務室の扉を開けて呼びかけた。が、どうやら無人のようで、声はむなしく部屋に消えた。

「あれぇ。どこに行っちゃったのかなぁ。本を貸してもらいたかったのに」

 彼女はつぶやきながら医務室に入り、しばらくたたずんでいたが、医務室の主はいっこうに姿を見せない。

 仕方がないので、彼女は黙って本を借りることにして、書棚に向かった。書棚は船の振動で中身が飛び出ていかないように、引き戸の収納になっている。

「あ、待てよ……」

 医務室のいくつもある書棚のうちのひとつに手を伸ばしたところで、彼女はふと手を止めた。

「……じいさんスケベだから、きっと本棚にもたくさんエッチな本があるに違いないわ。それを引っぱり出しちゃったりしないようにしなきゃ」

 ババ引きでジョーカーを引かないよう慎重にカードを選ぶように、彼女は開けてみる書棚を慎重に選び、書棚の引き戸を開けて本を取りだした。

 取り出したのはエロ本だった。それもハードコア。

「きゃっ! もうっ、じいさんはこんな本ばっかり集めて」

 顔を赤くして、彼女は本を床にたたきつけた。

 それと同じタイミングで、船の横揺れの弾みで、開けた書棚の中身がばさばさと、全部床に落ちてきた。全部エロ本だった。

「もぉ~~っ! どうすんのよこれぇ」

 彼女は腹立ち紛れに言ったが、身をかがめて、一冊手に取ってみた。

 男女のことにうぶな乙女とはいえ、思春期の少女である。こういうことに全く興味がわかないと言ったら、うそになる。そっと本の中を覗いてみることにした。

 覗いたページはちょうど、屈強な男と細腰の美女の激しいセックスシーンのカラー画だった。彼女は見なかった振りをしてそっとページを閉じた。

「うー。ヴァージンのあたしには刺激が強いわ……」

 湯気が立ちそうなほど顔を真っ赤にしてつぶやいていたときに、船医のカッサンドロス・リベールと、船員のひとりが医務室に入ってきた。

「おや嬢ちゃん。ほぉほぉ、わしの居ぬ間に“コレクション”を物色しておったかの?」

 カッサンドロスはにやにやした表情でいたずらっぽくマリアンヌに訊ねた。

「違うって! 違うってこれは」

 彼女は両手を振って否定したが、カッサンドロスはにやにや顔を崩さない。

「まあそう隠すでない。嬢ちゃんの年頃でエッチなことに興味を持つとしても何らおかしくはないからの」

「ちょっとぉ。決めつけないでよ」

「そう言って、全く興味がないわけでもあるまい。全く興味なしなら、わしとしてはそっちのほうがちと心配になるがの」

「……そ、そりゃちょっとだけね……」

「それならいいんじゃ。なんなら、年頃を迎える嬢ちゃんに医師であるわしが性教育を施してもいいわい。わしなら懇切丁寧に、手取り腰取り教えてあげられるからの」

 そう言いながら、指をわきわき動かしてマリアンヌに近づいてくるカッサンドロスの股間に、マリアンヌのキックが入った。

「ここが男の人の大事なところだって事は知ってるよ」

「そう。だから金的は禁じ手なんじゃ」

 そう言って、カッサンドロスは前のめりに床にくずおれた。彼の腰あたりを、船員がとんとん叩いているが、マリアンヌにはその行動の意味は分からなかった。

「本を借りに来たのよ。じいさん、博物図鑑持ってたでしょ? 暇があれば勉強しておけってセルが言うし、ディカルト諸島の交易品をいろいろ知っときたいから貸してほしいのよ」

「嬢ちゃんも最近は勉強熱心になったのう。感心なことじゃ。ちょっと待っとくれ。落ちきったらわしが出すからの」

 急所に受けたダメージがある程度収まるまで、船員に腰あたりを叩いてもらいながらうずくまっていたカッサンドロスは、よっこらと立ち上がると、右端にある書棚を開いて、一冊の大判の書籍を取り出した。

「ありがとう。南洋で売れてる『グアノ』って言うのがなんなのか知りたかったのよ」

 マリアンヌは図鑑を受け取ると、ぱらぱらとページをめくった。すると、ページの間から、四つ切りの大きさの絵画が一葉、はらりと床に落ちた。

「何かしらこれ……あっ! またエッチな絵!」

 彼女が拾い上げて見たのは、ヌードモデルのカラーリトグラフだった。

「おお、これは……リリーじゃないか。懐かしいのう。最近見ないようになったと思ったら、こんなところに挟んでおったか」

 そのリトグラフを見てカッサンドロスは驚きの声をあげた。

「リリーってのは、このモデルの女の人の名前?」

「そうじゃよ。ランシェルで一番人気だったストリップティーザーでのう、彼女が出演するステージには男たちがわんさか押し寄せたものじゃった。ポールダンスも絶品だったし、演技の魅せ方がうまかったのう」

 遠い目をして語る彼の話を聞きながら、彼女はしげしげとリトグラフを見た。

 ニグリート系の血が混ざっているのだろう、黒褐色の肌が艶めかしい。四肢がすらっと長く、細身の身体に大きく張りのある胸、丸みのある形の良い腰回り、長いまつげに力強いまなざしの瞳、妖艶さを増す唇。女のマリアンヌが見ても、女性のセクシーさがびんびん伝わる容姿だった。

「ほんときれいだねぇ。なんか憧れちゃうなぁ」

「リリーはモデルじゃなくてステージに立つティーザーじゃから、興行に影響があるといけないと言って、あまりヌードグラフを描かせなかったんじゃ。じゃからこの絵は貴重品、まさにお宝なんじゃよ」

 カッサンドロスはリトグラフをマリアンヌから返してもらった。

「これは額にでも納めておかんとのう」

 小型の額縁をカッサンドロスが探そうとしたとき、甲板から大きな声が聞こえた。

「お嬢ちゃん、じいさん、すぐに甲板へ」

 船長のセレウコス・ニカトールの呼ぶ声が船室に響いてきた。

「何かあったのかな」

「よくわからんが、セルがあんなふうに呼びつけるのも珍しい。とりあえず、急いで甲板に上がったほうがよさそうじゃのう」

 呼びつけられた二人は互いに顔を見合わせて話し合い、医務室を出ていったが、退出する際にカッサンドロスが船員のほうに振り向いた

「すまんが、そこに散らばっておるのを片づけといてくれんかの」

「えー、オレがっすか」

 船員は不満顔だったが、平船員が航海士に逆らうことはできない。不承不承、船員は床に散らばっていたエロ本を拾い集めた。

「あ、こいつは……」

 船員はテーブルの上に、リリーのリトグラフが無造作に落ちているのを目にした。額縁に入れると言ったものの、カッサンドロスがそのいとまもなく甲板に出ていってしまったので放置されているのだ。

「この絵は、値打ちがあるかもな。きれいだし」

 船員は絵を拾い上げた。

「オレはこの航海が終わったら船を降りる予定だし……駄賃がわりにしていいよな。古美術屋にでも売って金にできるかもしれねぇ」

 そうつぶやくと、彼は自分のシャツの懐にリトグラフを収めた。そして、何食わぬ顔で片付けをして、医務室を出ていった。


 それから一ヶ月ほど後、商品輸送の航海を終えて本拠地であるティシュリの街に戻ったマリアンヌは、ティシュリ航海者ギルドにやってきた。

「親方さん、ただいま。ライザスへ鉄鉱石を運ぶ仕事、ちゃんとやってきたよ」

「おう、ご苦労だったな。報酬は今用意するぜ」

 報告を受けたギルドの親方は彼女に答え、思い出したように付け加えた。

「そういや、ローキッド商会の会長があんたに用事があるようだぜ。昨日の組合員会合の時に、あんたの行方を尋ねてきたからな。会いに行ってみたらどうだい」

「ほんと? うん、じゃあ行ってみるわ」

 仕事の成功報酬を受け取って、それを銀行に預けたあと、彼女はポートタウン北通りの商館街に向かった。商業都市ティシュリの経済活動の核となるこの街には、手広い貿易を行う商社、商会が軒を連ねている。ローキッド商会はその中でも高い経営実績を持つ繊維・織物の卸売商である。そして、ティシュリ航海者ギルドの出資者のひとつともなっている。

 ローキッド商会の看板が掛かる、赤煉瓦造り三階建ての建物に彼女は入っていき、店員に案内されて会長室に通された。

「おお、マリーちゃん。よく来てくれた」

 執務机に座っていた、中背で恰幅のいい紳士が、立ち上がってマリアンヌを出迎えた。ローキッド商会の会長トマス・ローキッドだ。

「こんにちは、トマスおじさん」

 マリアンヌは親しみを込めてあいさつした。

 トマスは現在商会の会長をしているが、若い頃はマリアンヌの父ジョゼフとともに航海をしていたという経歴がある。代々の商売を後継するために船を降りることにはなったが、ジョゼフが消息を絶つまで親しく交流していた。それゆえ、マリアンヌとトマスは旧知の間柄だった。

 トマスに促されて彼女は応接ソファに腰掛けた。トマスの秘書がトマスの前にはミントティーを、マリアンヌの前にはレモネードを差し出した。

「ここのところわたしも経営が忙しくて、ギルドハウスにも顔を出せないでいたから、なかなかマリーちゃんに会うことができなくてね。今日は来てくれてうれしいよ」

 トマスは柔和な微笑を浮かべて言った。

「ギルドで親方さんに、おじさんがあたしを捜しているって聞いたから来たんだけど。もしかして、仕事の話かしら?」

「仕事というわけではないんだ。仕事を依頼するならギルドを通すことがギルド加盟者のルールだからね。ただ、マリーちゃんにちょっとした頼み事があってね」

「頼み事? まあ、おじさんの頼みだったら引き受けるけど、どんなこと?」

「この街で綿織物商をしているラプティス商会を知っているかな。中堅どころの老舗で、うちとも長らく取引のある顧客なんだ」

 トマスはミントティーでのどを湿らせ、続けた。

「ラプティス商会の店主はミノスと言って、そろそろ40になろうかという歳なんだが、未だ独身でね。仕事に熱心で誠実な性格なんだが、きまじめなところがあって、仕事一筋で適度に遊んだこともない。一商会の主がいい年で独り身ではよくなかろうと、周りがいくつか縁談を持ってきたんだが、それも全部断ってしまっているんだ」

「ふーん、ずいぶん堅い人ね」

 マリアンヌは相づちを打って、レモネードを口にした。

「それが、最近様子が変わってしまってね。あれほど仕事熱心だった男なのに、ここ最近は仕事に身が入らない様子なんだ。商談や打ち合わせの時も上の空だし、執務中にぼーっとしているとか、何もないのにため息をついたり、時たま、胸を押さえてたたずんでいたりするらしい。これまでそんな素振りを見せたこともない人間だから、あちらの店員も困っているようでな。見かねてわたしが会いに行ってみたんだ」

「なんかあったのかなぁ。聞いた様子だと、初恋をしてる男の子みたいにも見えるけど、まさかね。40前のおじさんなのに」

 そうつぶやいたマリアンヌを、トマスは目を丸くして見た。

「マリーちゃん、鋭いね。実はその通りだったんだよ」

「えー!」

 自ら否定した当てずっぽうが当たったことに、彼女のほうが驚いた。

「会いに行ったときに、相談があると言われてね。何事かと思ったら『実は、ある女性のことが頭から離れなくなってしまってどうしようもなくなった』と言うんだ。意表をつかれたんで思わず笑いそうになったが、ミノスもやっといい人を見つけたのかとちょっと安心してもいたんだ。そうしたらね」

 トマスは戸棚の引き出しのひとつから、一枚の四つ切り紙を取り出した。

「マリーちゃんに見せる物ではないかもしれんが……、ミノスはこの絵を見せて『蚤の市で売られていたこの絵を見て、この絵に描かれている女性が頭から離れなくなった』と言うんだ。いい年の男が言うせりふかと半ばあきれたけど、彼は本気も本気のようでね」

 マリアンヌはトマスの持ってきた絵を見た。妖艶なニグリート系美女のヌードリトグラフだった。その絵に彼女は見覚えがあった。

「あれ、これって、じいさんの部屋から出てきた絵と同じだわ。確かこのモデルさん、リリーという名前じゃなかったっけ」

「知っているとは意外だったね。もっとも、カッサンドロスならこの手の絵を持っていても、何も不思議ではないか」

 トマスはミントティーを飲み干して、口をハンカチでぬぐった。

「ミノスは『是非ともこの女性に逢いたいのです、まさに自分の理想なのです』と言って、この絵をわたしに渡してきたよ。渡されてもわたしにはどうにもできない。それでね、航海者であるマリーちゃんにひとつ頼みたいわけだよ。中年者の恋ではいささか気乗りがしないだろうけど、恋のキューピッドになってみないかね」

「恋のキューピッドか……」

 マリアンヌはつぶやいて、悪くはないなと思った。

「トマスおじさんの頼みなら断れないよ。それに、おじさんの恋もかわいい感じがするよ。ヘルプしてあげてもいいな。それで、この絵に描かれている女性がそのおじさんのタイプばっちりってことでしょ? このモデルさんにそっくりな人を捜してくればいいのね?」

「いや、どうもそうじゃない」

 トマスは首を振った。

「確認を取ったら、ミノスはそのモデル自身に惹かれていて、モデル本人に逢いたいと言っているんだよ」

「だったら簡単だよ。じいさんがたしか、このリリーって人はランシェルで有名なストリッパーだったって言ってたから。次の航海でランシェルに行って、その時に捜せばいいじゃない」

「言うほど簡単かねぇ。それに……」

 トマスが首を傾げたが、すでに依頼に乗り気のマリアンヌは気にすることもなく、トマスが借り受けていたリリーのリトグラフを手にすると、ソファーから立ち上がった。

「トマスおじさん、ごちそうさま。さっ、善は急げよ。頼まれたこと、すぐに果たしてあげるから、そのおじさんによろしく伝えてね」

「うん……気を付けて行っておいで。頼んだよ」

 トマスは何かいいたそうな顔をしながら見送ったが、マリアンヌは何も気にすることもなく、颯爽とローキッド商会の商館を飛び出した。


 マリアンヌはティシュリから木材を積んでイーストヤード島のライザス港に行き、ライザスで羊毛を積んでランシェルに到着した。ランシェルからは毛織物を積載して母港のティシュリに戻る予定だ。

 交易所で毛織物の買い付けを行ったが、それからインフィニティ号に積み込まれるまでには4時間必要になる。

 その時間を利用して、マリアンヌはカッサンドロスを連れてランシェル港近くの歓楽街に向かった。といっても、酒場に入って一杯飲むわけではない。酒場の入り口も、カッサンドロスが潜り込みそうな、いかがわしい商売の店の前も通り過ぎていく。

「時間があるなら、おねーちゃんがおる店に行きたいんじゃが……嬢ちゃんや、わしをどこに連れていくつもりかね?」

 カッサンドロスは少々不満げに彼女に訊ねた。

「うん、あのね、トマスおじさんに人捜しを頼まれたのよ」

 そう答えながら、彼女はカッサンドロスに、トマスから受け取っていたリリーのリトグラフを見せた。

「ん? それはリリーじゃないかね。トマスはセル並みの堅物じゃが、あいつもリリーのヌードグラフを持っておったとはのう」

 かつてのクルー仲間の顔を思い浮かべながらカッサンドロスは言い、リトグラフを手に持ってしげしげと眺めた。

『そういえば、わしの船室にあったリリーの絵がまた見えなくなってしまっておったのう……。どこにやってしまったんかのう』

 小首を傾げるカッサンドロスにマリアンヌは続けて言った。

「トマスおじさんが持ってたんじゃなくて、おじさんの知り合いの人から借りたものなのよ。なんでも、その人が、絵のモデルさんに一目惚れしちゃったんだって」

「なんと」

「それで、そのモデルのリリーさんに逢いたいって話をトマスおじさんにしたのよ。で、トマスおじさんに、リリーさんをそのおじさんと引き合わせてくれないかって頼まれたわけ」

 マリアンヌはふふっとほほえんだ。

「そのおじさんもちょっとかわいらしいと思わない? だから、キューピッド役を引き受けてみたのよ。リリーさんを捜し出して話を持ちかけて、オーケーしてくれたらティシュリに連れていっておじさんと引き合わせるの」

 彼女の話を聞いて、カッサンドロスは大きなため息をついた。

「なによ、その大きなため息」

「嬢ちゃんや、なにも考えずにその話を引き受けたじゃろ? あるいは、恋のキューピッドなんて持ち上げられて浮かれたか」

 指摘が図星だった彼女はぎくっとした。

「そ、そうだけど……だからなに? なんか都合悪いことがあるの?」

 カッサンドロスはもう一度大きなため息をついて、彼女に言った。

「嬢ちゃん、そのヌードグラフは今から25年前のものじゃよ」

「ええっ! そうなの!」

 思わぬ見落としに気がついて、マリアンヌは大声を上げた。

「このヌードグラフが発売された時点で、リリーは24か25だったはずじゃ。今は50近くになっておるわい。まず独り身とも思えんし、たとえ独身だったとしても、容姿も年齢相応に衰えておるじゃろう」

「そ、そっかぁ……」

 ショックにうつむいた彼女だったが、すぐに顔を上げた。

「でも、でもでもでも、会ってみなきゃわからないし。ひとりでいるかもしれないし、それに、年を取ってもきれいな人だっているじゃない」

 彼女はカッサンドロスの袖を引っ張った。

「とりあえず、引き受けたからには探し出さないといけないわよ。で、じいさんはこのあたりに顔が利くでしょ。リリーさんがどこにいるか情報を手に入れてよ。正直、じいさんがいないとこの頼まれ事できないんだもん」

「強引じゃのう。まあ、嬢ちゃんの引き受けてしまったことなら仕方あるまい。とりあえず、この界隈の情報を知っている奴のところに行こうかの」

 しょうがないと言いたげな表情で肩をすくめたカッサンドロスは、辻の角にある一軒の小屋に入った。そこは歓楽街界隈の案内所で、酒場や娼館の情報が集まるところだ。案内所にいる情報屋と顔なじみになれば、耳より情報を教えてもらえるだけでなく、金次第で優待権を手に入れることもできる。

「おう、世界を股にかけるエロジジイじゃないか。何の用だ」

 小屋の隅で腰掛けに座っていた貧相な男がカッサンドロスに声をかけた。人相身なりからして堅気の人間ではなさそうで、やくざ世界に入ったものの下っ端のまま年を取ったと言う感じの初老の男だ。

「下衆じみたあだ名を勝手に付けるでない。世界を股にかける好色一代男と正しく呼べい」

「どっちも大して変わんないよ」

 カッサンドロスの後ろでマリアンヌが冷ややかに言った。

「今なら耳よりの情報があるぜ。アルブス・フェルム3番館におまえさん好みの新しい女が入ったばっかりだ。5ターバルで先行予約を取り付けてやってもいいぜ」

「ほほう、そりゃあええのう」

「ちょっとじいさん。そんな場合じゃないわよっ」

 財布を取り出そうとしたカッサンドロスの尻をマリアンヌはつねりあげた。

「あいたたたた。わかっておるわい」

 つねられた尻をさすりながら、彼は案内所の男と話を交わし始めた。そして、有力な情報を得たようで、金貨を一枚男に手渡し、マリアンヌのところに戻ってきた。

「何かわかった?」

「うむ。リリーの居場所が分かったわい。この界隈におるそうじゃ」

「やったね。じゃあ、そこに連れてってよ」

 カッサンドロスの案内で、マリアンヌは歓楽街の裏辻に連れていかれた。狭く曲がりくねった路地には、粗末な建物が軒を連ね、飲み屋などの看板が掛かっているところもある。看板の掛かっていない建物も、実は小さな売春宿であったりする。どんな住人が住んでいるのかわからない民家も混ざっている。

 日中であるのに日差しが遮られて薄暗く、時間的に人通りが少ないのが余計に気味悪さを増加させる。下町育ちのマリアンヌでも、ひとりでは絶対に歩かないような怪しげな街だ。

 案内しているカッサンドロスはこういう歓楽街の裏街道を歩くのに慣れきっているので、平然とした顔ですたすた歩き、路地奥にある一軒の小さな酒場の前で立ち止まった。

「ここなの?」

「さっきの奴がくれた情報だとここだということじゃ。どれ、入ってみるかの」

 カッサンドロスはそう言うと、店の引き戸を開け、中に入った。

「おじゃまするぞい」

「まだお店を開いてないんだけどね」

 店の中から女性の声がした。かすれたような低い声だ。ハスキーボイスというよりも、酒焼け声というほうがしっくりくる。

 カッサンドロスに続いて店内に入ったマリアンヌは店内の様子をうかがった。

 小さなカウンターバーで、カウンターに5脚ほどスツールがおいてある。店の中は薄暗く調度品も粗末だが、きれいに掃除されている。そして、カウンターの向こう側に、50前後のニグリート系女性が椅子に腰掛けていた。

「久しく逢っておらんかったが、間違いない。リリーじゃな」

 カッサンドロスはそう言いながら、カウンターに近寄った。女性は上目づたいに彼を見やり、

「どこかであったかしらね?」

「おまえさんが現役のティーザーだったときに、ステージに足繁く通った客のひとりじゃよ。人気者のおまえさんだから、客の顔なんて覚えてはおらんじゃろうが」

 リリーはしげしげとカッサンドロスの顔を見た。

「そう言えば、必ず最前列を陣取っていた客が、あんたによく似た顔をしていた気もするわ。ステージ真っ正面に割り込んで来る迷惑な客だったかね」

「はあ? そんなことは滅多にしておらんわい」

「否定になってないよ、じいさん」

 マリアンヌは話に割り込みながら、リリーの姿をまじまじと見た。

 リトグラフに描かれる若い頃の面影が失われたわけではない。輪郭やすっと通った鼻立ちは残っている。だが、薄暗い照明の中に浮かぶ青紫のロングドレスに包まれたスタイルは、腰回りに肉が付き、張りのあった胸は少々重力に負けている。顔も、化粧で隠しているものの肌の衰えは目に見える。目尻のしわも目立っている。

 彼女は手に持ったリトグラフと見比べて、軽く首を振った。

「なに、そこのあんた。あたしの顔を見て首を振るなんて失礼じゃないかい?」

 リリーが機嫌を損ねた声でマリアンヌに言った。

「あ、ごめんなさい。あの、あたしはマリアンヌ・シャルマーニュ、ティシュリから来たんだけど。あたしたち、この絵のモデルさんを捜していて、それで、じいさんにここに連れてきてもらったんだけど……このモデルさんって、あなた?」

 マリアンヌはリリーに持っていたリトグラフを見せた。彼女はそれを見て、ああ、ああとつぶやきながらうなずいた。

「たしかにあたしだね。25年も昔の絵だけど」

「ちょうど、おまえさんのティーザーとしての全盛期のころじゃったかのう」

 カッサンドロスが相づちを入れた。リリーは一瞬、昔を懐かしむ目になった。

「あんたら、せっかくあたしを訪ねてくれたんだ。立ち話もなんだから座んな。飲み物を出してあげるよ。そこのお嬢ちゃんは酒じゃないほうがいいのかね」

「お酒でいいよ。あたし船乗りだもん、お酒飲めるよ」

 子供扱いされたと思ったのか、マリアンヌは少しむきになって答えた。けど、彼女のせりふにはいささか論理がない。

 リリーは二人の前にワインクーラーを出した。そして、自分のグラスにはワインを注いで、口を付けた。

「これから船に乗るんじゃ。軽いものでよかろうの」

 出されたカクテルに口を付けてカッサンドロスが言い、リリーのほうを向いた。

「全盛期を過ぎたと思ったら、おまえさんの姿はぱたっとステージから見なくなってしまった。その後、どうしていたのかね?」

 訊ねられて、リリーは沈んだ色の目でぼんやりと宙を見た。

「ショービジネスの世界は、ひとたび人気がかげると、潮が引くように仕事も減っていくものよ。あたしも、ストリップショーの世界で人気があったって自負してるけど、そのあたしでもそうだった」

 彼女は物憂げな口調で言い、たばこ入れから細い紙巻きたばこを取った。カッサンドロスがそばの燭台を取って、灯の火を向けると、彼女はそこからたばこに火をつけた。

「あたしもはじめは、好きこのんでお客の前に裸をさらしたくなかったよ。ただ、ダンサーとして芽が出なくて、おまけに当時付き合っていた男が借金を作っちまって金が必要になった。それで、ダンスステージより金になる仕事だからティーザーの道に入ったの。けど、ショービジネスの世界であることに変わりない、ならこの世界でトップを目指そうとして努力してきたさ。観客が何を喜ぶか考えて、身体を磨き、色気を磨き……」

 彼女はたばこの煙を吐き出した。

「努力して得た人気さ。けど、人気ってのはいつまでも続くわけじゃない。あたしより若くてぴちぴちした後輩のティーザーに圧されて、あたしの出番は減っていった。あたしもプライドがあったからね、あとから来た娘たちに押し出されるのは許せなかった。だから、人気があったうちにストリップ界から降りたんだよ」

「ほう、そうじゃったか。道理でぱたっと見なくなってしまったんじゃのう」

「でも、そう言うやめ方もなんかかっこいい」

 マリアンヌが言うと、リリーは彼女を見て、軽く首を振った。

「プライドを守るために辞めたはいいけど、その後の人生は落ちぶれたものだったよ。あたしがティーザーを辞めたと知ったとたん、男はとんずらしちまった。今思えば最低なヒモ男だったから、これっぽっちも未練はないけど、そん時は気落ちして、酒に溺れてしまったものよ」

 たばこの煙と一緒に吐き出した彼女の言葉は、カウンターバーの薄暗い照明の中に消えた。

「若いときにダンスとストリップの世界に生きてきたから、あたしにはそれ以外できることがなかった。ひとりで生きていく術をほかに知らなかったのね、男の元に転がりこんでは別れ、そのうちこの街の大店の主人の愛人になったわ。その時に子供ができたけど流れてしまった。そのうち旦那が病気で死んでしまって。ただ、その人があたしが生活していけるように、この小さな店を用意してくれたから、それがあたしの中では運が向いたことだったかしらね」

「そうじゃったか。あのリリーがそんな運命をたどっておったとはのう……」

 カッサンドロスが感に堪えないという面もちでうなった。

「しかし、リリーの店ということで売れば、この店も繁盛していくじゃろう」

「あのころのあたしの名前を使いたくないわよ。売れていた昔の自分と今の自分を比較されたらみじめじゃないか。だからあたしは昔のことはもう何年も話してないわよ。あたしの昔を知る人が訪ねてきたのも、ここに店を構えて以来初めてよ」

 彼女は憂いの色を浮かべた顔に、自嘲するような微笑を浮かべた。

「あのね、リリーさん」

 不意に、マリアンヌが強い口調で呼びかけた。

「あたしたち、あなたに逢いたいと言っている人の依頼を受けてあなたを捜しに来たの」

 マリアンヌの口調には熱がこもっていた。かつての人気ストリップティーザーの波乱の身の上話を聞いて、彼女は身につまされていた。この人に、幸せになってほしいという思いが彼女の中にあった。

「あたしに逢いたいって?」

 怪訝な顔をするリリーに、マリアンヌはトマスから受けた依頼の顛末を話した。リトグラフのモデルに恋するミノスの話は、ミノス本人に会ったことがないにも関わらず、その熱烈な入れ込み具合をまことしやかに話した。

「……と言うわけなの。リリーさん、一緒にティシュリに来てくれない?」

「お断りするよ」

 リリーは苦笑混じりに断った。

「昔の自分を見て恋をした男の人が、この中婆さんになったあたしに見向きをするはずがないじゃないかね。わざわざ振られに船旅をするほど、あたしもバカじゃあないよ」

「そう決まったわけじゃないのに、はじめからあきらめないでよ」

 マリアンヌは語気強く彼女に言い放った。

「リトグラフのモデル本人に逢いたいって言っている人だもん。思いは本気なのよ。その本人なんだから堂々と会えばいいのよ。だからお願い、あたしたちと一緒にティシュリに来てほしいの。旅費はいらないわ。ただ、あたしの船は貨物船だから乗り心地は悪いんだけど」

 彼女の熱心な勧めに、とうとうリリーも折れた。

「あまり気乗りはしないけどね……、その物好きな男に会うだけ会ってみてもいいわ。ちょっと待っておくれ、支度をしてくるから」

 リリーは奥に引っ込んだ。

「やったね。これでトマスおじさんの依頼を果たせるわ」

「しかしのう、嬢ちゃん」

 カッサンドロスが首を傾げながら、低い小声でぼそりと言った。

「いくらなんでも、今のリリーは若い頃のリリーとは違う。五十路の大年増じゃ。彼女を捜しておるという問屋の旦那が、本当に彼女を気に入るかのう? 正直、どう考えてもがっかりするんじゃないかのう」

「……」

 マリアンヌは口をつぐんだ。熱心に勧めたものの、カッサンドロスの見立てのほうが現実的だというのは、彼女にもわかった。

「そうなったときに、嬢ちゃんはどうフォローするつもりなんじゃ?」

「……」

 彼女は口をへの字に曲げたまま、黙りこくった。そんなときのどうフォローするか、考えたけどわからなかった。フォローのしようがないと思えた。

「だっ、大丈夫よ。あたしがリリーさんに勧めたんだもん。あたしが責任もってなんとかするから。なんとか……できればいいな……」

 彼女は空元気を出してみたが、一抹の不安は心にからみついていた。


 リリーを乗客に迎えたインフィニティ号は、穏やかな天候の元、無事にティシュリまでの航海を終えた。

「ついたわ、リリーさん。今から上陸するから、ちょっと待ってて」

 桟橋への接舷のさなか、マリアンヌはリリーに呼びかけた。リリーは血の気の薄い顔をしてうずくまっている。人生初の船旅で船酔いをしてしまったようだ。

「トマスおじさんと、ミノスさん、港に来ているはずだと思うんだけどなぁ……」

 ランシェルを出発する前、マリアンヌはトマス宛てに手紙を書いて、それをティシュリまでの快速郵便船に託していた。それが届いていれば、トマスたちはマリアンヌたちの寄港を出迎えに来るはずだが、桟橋近くにその姿はなかった。

「まあ嬢ちゃん、船酔いしておるリリーにすぐに会わせることもあるまい。陸に降りれば気分も良くなるじゃろうから、その時に問屋の旦那を引き合わせればよかろう」

 船医兼水先人のカッサンドロスはリリーの様子をちゃんと観察していて、気のはやるマリアンヌにアドバイスした。

 やがてインフィニティ号は桟橋に接舷し、錨を降ろした。桟橋にタラップが降ろされた。マリアンヌは足元のふらつくリリーを支えながら、ティシュリ港に上陸した。

「……ふう、船旅ってのはなかなかしんどいもんだね」

 リリーは蒼白い顔で言った。

「あたしは平気だけど、なれない人にはきついかも。ちょっと歩いたらシチズン広場で、公園のベンチがあるから、そこで少し休んだらいいわ」

 港に隣接する広場で、リリーをベンチに腰掛けさせると、マリアンヌは街道の方向をきょろきょろ見渡した。寄港する船を出迎える人がやってくるのは、港か、さもなくば港に隣接するシチズン広場だ。

「まだ来てないんだ。手紙が届いていないのかな……?」

 そう思って、乗組員のひとりに使いに行ってもらおうと考えたとき、街道をわたって二人の男がシチズン広場にやってきた。二人とも商人体だ。前を行くひとりはトマスだった。

「やあ、お帰りマリーちゃん。手紙を受け取っていたんだが、ミノスを連れ出すのに少し手間取ってね」

 トマスがマリアンヌに呼びかけた。マリアンヌはトマスの後ろについて来る人物に目を向けた。背丈はそれほど高くなく、体格は若干太め。丸顔で髪型は七三分け、これと言った特徴のないのっぺりした顔立ちで、平たく言って風采の上がらない中年男。だが、灰茶色の目は実直そうなまなざしだ。織物商の店主にふさわしく、着ている服は立派なものだった。

「あの人がミノスさんね、トマスおじさん」

「そうだよ。まあ、見ての通り見栄えはしないが、まじめなのが取り柄な人間だ」

 マリアンヌはミノスにあいさつし、自己紹介した。

「シャルマーニュ提督、このたびは自分のために大変お手間をおかけしました」

 ミノスはそう言って、彼女に深々と礼をした。態度も受け答えも、極めてまじめな雰囲気が見て取れた。

「で、マリーちゃん。ミノスのお目当ての女性はどちらかな?」

「こちらの方よ」

 そう言って、マリアンヌはミノスとトマスの前にリリーを連れてきた。少し休んで気分が良くなったのか、リリーの顔色は平常に戻っている。ダンス仕込みの優雅な足取りと、ぴんと背筋を伸ばした姿勢で、彼女は二人の前に立った。

 ミノスはじっとリリーの顔を見たまま、その場に突っ立っていた。ぼう然とたたずんでいるという様子だった。

 トマスがマリアンヌの袖を引き、少し離れたところで耳打ちした。

「あのおばさんが、例のリトグラフのモデルなのかい?」

「うん、そう。あのリトグラフ、25年前のものだったのよ」

「……やっぱりな。薄々そんな気がしていたんだが」

 トマスは、うーむと長いうなり声をあげた。

「依頼しておいてなんだが、マリーちゃん、面影もないような大年増を連れてくるのは、ちとないんじゃないか? ミノスの表情はどうだい。あ然としている様子じゃないか」

「……やっぱりだめだった?」

 マリアンヌは困惑顔になった。空元気で吹き飛ばそうとしたが、やはり無理のある仕事だったのだろうかという不安が渦巻いている。ここからどうフォローしようか、と考えても思いつかなかった。

 リリーを前に一言も口をきかないミノスの元に、マリアンヌとトマスは戻ってきた。そして、あえて明るい口調でマリアンヌはミノスに話しかけた。

「あ、あのねミノスさん。ミノスさんのお目当ての人に間違いないのよ。ただ、25年前の絵だったのよ。ほら、面影は残っているでしょ……よく注意して見れば」

「マリーちゃん、最後のは余計だよ」

 トマスが後ろから指摘した。

 そんな二人のほうをミノスは向いて、頭を下げた。

「ローキッド会長、シャルマーニュ提督、自分のことのために骨折ってくださって感謝いたします。例のリトグラフが昔のものだったことは、自分もわかっていました。そして、あの絵のモデル本人を捜して、ここまで連れてきてもらって、本当に、感謝と申し訳なさでいっぱいです」

 ミノスはリリーのほうに目を向けた。そして、その目をじっと見つめた。

「自分が逢いたいと望んで連れてきてくださったこの女性ですが、この……この女性は……」

 彼はそこで言葉を詰まらせた。そして、一度息を飲むと、大きな声で続けた。

「自分の、まさしく理想のタイプです」

「ええっ!!」

 予想外の反応に、マリアンヌとミノスはひっくり返りそうになった。リリーもびっくりした表情になっている。

 ミノスはただひとりだけ、それまで乏しかった表情が生き生きと輝きだしている。

「……あ、あのね、ミノスさん。あたしが連れてきといてなんだけど、リリーさん、あなたよりも年上のおばさんよ?」

「自分は熟女が好きなのです」

 ミノスは堂々と言い切った。

「じゃあ、これまで同業者仲間が持ち込んだ縁談を断り続けていたのは……」

「はい、ローキッド会長。それは、みなさんが若い娘を紹介されるからです」

 ミノスの答えに、トマスは呆気にとられた表情をして突っ立った。

「自分は蚤の市でリトグラフを見つけてからというもの、モデルの女性に夢中になり、この女性が年齢を重ねた姿を毎日のように脳裏に描いていました。そして、実際にお逢いしたら、自分の想像を上回っていました。喜びのみならず人生の辛酸を経験し、それによって人間の厚みを増した理想の女性……リリーさん、あなたの顔を見ればそれがわかります」

 彼はリリーを真っ正面にみて、熱っぽく語った。

「人生の山も谷も経験したあなたには、自分の求める美しさが宿っています。お願いです。あなたのこれからの人生、自分が宿り場になります。どうか、自分と一緒になってください」

「……ずいぶん急ぎ過ぎじゃあないかい? あんた」

 ミノスの熱心なアプローチをたしなめながら、リリーはまんざらでもない表情をした。

「あんたとあたしはさっき初めて会ったばかり。あんたの熱心さは認めるけど、あたしもそれなりの人生経験があるんだ。答えを急ぐことはできないよ」

 彼女は彼の目をのぞき込んだ。

「けど、あんたはいい目をしている。あたしがこれまで付き合ってきた男は、あたしの身体か金が目当てで、あんたみたいな実直な目をした人間はいなかったよ。少なくとも、信用できる男だってことは認めてあげるわ」

「それは、うれしいです」

 ミノスは、はたから見ても震えが認められる仕草で、リリーに腕を差し伸べた。

「自分も急ぎすぎました。ならば、まずは一緒に食事をしながらお話ししましょう」

「それはいいわね」

 リリーは微笑を浮かべると、ミノスの伸ばした腕を取り、自分の腕を絡めた。二人は腕組みをしながら、街道をわたって街へを歩いていった。

「……トマスおじさん。これって、依頼がうまくいったってことかな?」

「……そのようだね。想定外の展開だったが」

 後に残された二人は、きょとんとした表情のまま、幸せの空気を醸す中年カップルを見送っていた。


 リリーをティシュリに連れてきてから一週間後の、ティシュリ市の大衆酒場・星の水鳥亭。カウンター席に、マリアンヌとカッサンドロスが隣り合わせて座っていた。セレウコスは所用があって酒場に来ておらず、プトレマイオス・ラゴスはすでに酒場の奥でラム酒の樽一気飲みをはじめている。

「で、問屋の旦那とリリーの仲はどうなっておるかのう」

「順調みたいよ。ねえ、おやじさん」

 マリアンヌは星の水鳥亭のおやじに話を振った。

「ああ。ミノスの旦那とあの女性の熱愛ぶりは街のうわさになっているよ。二人とも年齢が年齢ということもあるのか、長年連れ添った夫婦のような雰囲気だって言われているね。さっきも、お使いに行っていたリディアが市場で二人を見かけたと言っていたよ」

「じゃあ、このまま順調にいけば、二人は結婚するかな?」

「様子からすると、時間の問題だろうねぇ」

 情報通で、この種のうわさについても見聞の深いおやじの話なので、マリアンヌは納得してうなずいた。

「それにしても、全く、縁というものは奇なものじゃ。お嬢ちゃんがこの話を引き受けたと聞いたときは、無茶以外の何者でもないと思ったがのう。まさかまさか、うまくいくとは……」

「へっへーん。あたしがキューピッドになったからよ。あたしの運の良さが二人を結び付けたのね」

 彼女は得意そうにあごをしゃくった。

「まったく、その根拠のない自信はどこから来るんじゃろうか」

「なによぉ」

 カッサンドロスの返答に彼女は目をむいたが、彼は澄まし顔でワインをすすった。

「よしんば嬢ちゃんの運が本物じゃったら、そのうちきっと理想のいい男を作ることじゃろうのう」

「え? 考えたことなかったけど……きっとそうよね!」

「よし、その時に備えて、わしがきっちりと嬢ちゃんに性教育を施しておかねばのう」

「どうしてそう言う話の展開にするのっ!」

 スツールの回転を利用してマリアンヌはカッサンドロスに回し蹴りを見舞ったが、間一髪かわされた。

「ふぉっふぉっふぉ、そう毎回毎回蹴りは食らわんぞい……おっ、ステージが始まったかい」

 酒場のステージでは、露出度の高いコスチュームに身を包んだ踊り子のダンスショータイムになっていた。カッサンドロスはひょひょいとそちらに向かっていくと、客をかき分けて最前列に割り込んだ。

「……じいさんってば、年を取っても素行が全く変わらないのね」

 あきれた目で彼を見送ったマリアンヌはひとり、ビールのジョッキを手にした。

「ここは、リリーさんとミノスさんの未来を祝して、乾杯ね」

 そう言って、彼女はごくごくとビールをのどに流し込んだ。

「あたしもいつか、最高にすてきな王子様と一緒になるのよ。あたしは運がいいから、きっといい人に巡り会えるに違いないわ。けど、それは、あたしが世界一の航海者になってからだけどね」

 そんな独り言を言いながら、彼女は祝杯を傾けていた。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

航海少女マリアンヌSHORT LOGBOOKS 宮嶋いつく @miyazima_izq

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ