HONEY PIE

 ティシュリ港から東に延びる国道沿いにあるマリアンヌ・シャルマーニュの自宅から、ロレンス川沿いに北に少し歩くと、カーネル=アベニューという通りにぶつかる。マリアンヌたちの住む下町の商店街だ。地面をたたいて均した未舗装の道路沿いに、古された木造の建物が並ぶ。ほとんどが間口の狭い小規模な店だ。

 このカーネル=アベニューで店を切り盛りしているのが、下町の小さな店のおじさんおばさんとはいえ、彼らとて商都ティシュリの商魂たくましいあきんどたちである。日がな一日、とりわけ朝と夕方には威勢のいい呼び込みの声が響く。この通りは市民の行き交う、活気にあふれる場所になっていた。ちなみに、マリアンヌのおばマーサ・バーレイの雑貨屋もこの商店街にある。

 その商店街の本通りから、馬車一台やっと通れる程度の路地に入った、奥まった場所に、「アップルガーデン」という小さな店がある。女主人とその娘の二人で経営している、お茶とパイの店だ。築30年以上はたつ木造平屋の店舗で、緑色の板葺き屋根も、白く塗られた建物の壁も、うっすら色が落ち、ところどころペンキが剥げかかっている。出入り口のAPPLE GARDENという看板だけが新しい。建物は古びているが、店内は小花を散らした壁紙に、大窓に空色のレースカーテンと、さわやかな内装になっている。

 そんな場末とも言える場所にある店だが、下町界隈では、ここのパイは味がいいと言うことで人気があった。加えて、近頃この店のアップルパイがおいしいという評判がティシュリ市内で広まりつつあり、さらに客足がのびてきているところだった。

 航海を終えてつかの間の休暇を過ごしていたマリアンヌは、ふと思い立ってアップルガーデンに行った。

「いらっしゃいませ。あら、マリーじゃない」

 店のドアを開けて中に入ると、ウェイトレスの少女が出迎えた。と思いきや、少女はマリアンヌを店の外に押しだそうとした。

「ちょっとごめんね、マリー。今ちょっとお客を入れられないの」

「どうして、ケート。せっかくおばさんのアップルパイが食べたくて来たのに。お客に向かってそんな態度はないんじゃない」

 マリアンヌも負けじと、ケートと呼んだ少女を押し返して、店内に入ろうとした。

 ウェイトレス姿の少女の名前はケート・ナグルスキー。マリアンヌのプライマリースクール時代のクラスメートで、よく一緒に遊んだ友達だ。ちょっとたれ気味の、潤みがちの瞳が特徴で、小犬のような愛らしい容姿をしている。お下げ髪とエプロンドレスがよく似合う。ハイスクールやジュニアスクールの男子生徒のアイドルで、彼女目当てにパイを食べに来て、太っていく男子学生は数多い。

 マリアンヌとケートの力比べは、マリアンヌのほうに少し分があったようで、彼女は店内に入ることに成功した。

「ふう、食べる前の腹ごしらえね。おばさん……」

 アップルパイとホットミルクをちょうだい、と言おうとして、彼女は店内の雰囲気がなにかおかしいことに気がついた。

 アップルガーデン店内はせいぜい20席くらいの広さだ。四人掛けの丸テーブル三つと二人掛けのテーブルが四つ。彼女が訪れた午後三時の頃なら、たいてい何人かの客がいるのだが、今、店内で食事をしている客が一人もいない。外来者で店にいるのは、明らかに食べに来た客とは思えない、人品風格いかにもいやらしそうな人相の男が一人だけだ。

 男はカウンター越しに女主人となにやら談判していた。

「おかみさん、悪い話じゃないんだよ。このあたりで都市開発計画が実行されるとなれば、この地所は召し上げで立ち退きだ。そうなる前に、この土地をうちが買ってあげると言っているんだよ。わかる?」

「何度も何度も同じことをぺちゃくちゃと。あんたも飽きないね。こっちはこの店を売る気はないと言ってるじゃないか。何度も言わせるんじゃないよ」

 女主人-ケートの母親ブリジット-は男の言葉を断ち切るように拒否した。

「おかみ。あんまり頑固になってても仕方ないよ。今度の議会で都市開発計画が議決されるのはほぼ間違いないんだ。そのときに立ち退きになって、泣きを見るようになるのはそっちだよ。おとなしく売っておいたほうが身のためだよ」

「こっちはね、何年もここで商売して、やっとの事でお客もつくようになったんだよ。そこにきて、ここを売って別のところで商売しろと言われても困るんだよ。だいたい、あんたの言う額だって、雀の涙にもなりゃしない。そんなで叩き出されてはたまらないね。あんたの言うとおりになんか誰がするもんかい」

 すごい剣幕でまくし立てるブリジットの言葉に、男は肩をすくめた。

「それは言われてもしょうがない。相場ってものがあるからね。足りないって言うなら、金は出せないが、仕事だったらいくらでも紹介するよ。あのお嬢ちゃんだったら、高く雇ってくれる店がいくらでもあるからね」

「そう言ってうちの娘を風俗かなんかにたたき込むつもりなんだね。人を馬鹿にするんじゃないよ」

 カウンターを挟んで男とブリジットが言い合いをする姿を見ながら、マリアンヌはケートの耳元でささやいた。

「ねえ、あの人何者? なーんかやな感じ」

「チョースケン商会って言う不動産屋の人。いわゆる地上げ屋って言うのかしら。この店の土地を売れって言って、毎日のように来るのよ」

 ケートが困惑した顔で答えた。

「今日もああやってママに話しかけて、仕事をさせないの。朝から何回も。かまどに火も入れられないのよ。だから、きてもらっても出せるパイがないのよ」

 彼女の話を聞いたマリアンヌは怒って目をつり上げた。

「そうやってブリジットおばさんの仕事を邪魔して、ここを出て行かせようとするのね。ひどいじゃない」

 ケートは顔を覆った。

「もし本当にここから立ち退かされたらどうなっちゃうんだろう……。お店ができなくなったら、暮らしのために道行く男たちに街角で花を売って、春も売るようになるんだわ……」

「ケート、妄想飛びすぎ」

 心配性のケートはとかくネガティブな思考になる。ただ、想像、と言うより妄想する不幸な状況を、目をきらきらさせてちょっとうれしそうに語る癖があり、端から見るとそう言う願望があるのか、と勘ぐってしまう。

「とにかく、あの人に仕事の邪魔されちゃおばさんも困るわよね」

 マリアンヌはテーブルにおいてあったペッパーソースの小瓶を手にとって、カウンターのほうに近づき、男の肩をたたいた。

「ちょっと、おじさん」

「ん、わたしかな?」

 不意に呼びかけられて振り向いた男の右の鼻の穴に、マリアンヌはペッパーソースの瓶先を突っ込んだ。

「ふのぅんごぉ~っ!!!」

 鼻の中のような粘膜質の場所に強烈な刺激物を入れられてはたまったものではない。男は悲鳴を上げながら、床の上を転げ回った。

「なにをするんだこのガキ! バラして沈めるぞコラァ!」

 男は脅し文句をまくし立てたが、床をのたうち回りながらなのでたいして恐くはない。

「おばさんの仕事の邪魔してないで帰ってよ。それに、どういう都合か知らないけど、おばさんにその気がないのにここの店を売って出て行けなんてしつこく言わないでよね。おばさんのおいしいパイが食べられなくなると困る人もいっぱいいるのよ」

「事情もわからんくせにナマ言うんじゃねえよガキが! 殺すぞ!」

 立ち上がって、マリアンヌの襟首をつかもうとした男の左の鼻の穴に、彼女はペッパーソースの瓶先を突っ込んだ。

「ふのぅんごぉ~っ!!!」

 鼻の中のような粘膜質の場所に強烈な刺激物を入れられてはたまったものではない。男は悲鳴を上げながら、床の上を転げ回った。

「病院に行ったほうが身のためよ」

 のたうち回る男に彼女は一言言った。顔中汗びっしょりになって転げ回った男は、やっとの事で起きあがった。

「くそっ、今日はここまでにしといてやる。おかみ、また来ますぜ」

「都合を聞いてからおとといおいで」

 両鼻を押さえながら退散しようとする男の背中に向かってブリジットが言った。

 男はいったんドアを開けようとしてから、また引き返してきた。

「帰らないと、今度は目に入れるわよ」

 マリアンヌがペッパーソースの瓶を突きつけて男を脅した。男は両目を手でカバーした。

「おかみ。あなた、料理の腕には自信があるんだね?」

 両目を押さえた格好で、男はブリジットに訊いた。

「料理に自信がなきゃ、店をやっていけないわね」

「ふーん。なら、ひとついいことを教えてあげましょうか」

 男はもったいを付けて切り出したが、両目を押さえたままの格好ではなんだか様にならない。

「ティシュリ共和国政府の総裁閣下は大変なグルメでしてな、常に美食を探しておられるのです。最近、ティータイムに合うハニーパイはないかとおっしゃっていたので、わたしが閣下をここに紹介しようかと思います。そのとき閣下がここを気に入られれば、今度の都市開発計画の時に特別に配慮してくださるかもしれませんな。おかみ、どうします? 受けられますかな?」

「店を賭けて料理で勝負というわけだね。……いいわ」

 ブリジットはうなずいたが、男は目をふさいでいたので見ていない。

「期日はそちらに合わせますよ。まあ、それまでせいぜいがんばってください」

 男は口元に皮肉な笑いを浮かべると、やっと店から出ていった。

「おばさん、がんばってね。でも、おばさんのパイはティシュリ一だから、きっと総裁も気に入るよ」

 マリアンヌはブリジットを振り返り、笑顔で激励した。

「でも、総裁様が気に入らなかったら……そのときはもう終わりだわ」

 ケートがまた悲観的なことを考えだした。

「総裁様に嫌われたら、この店の人気はがた落ちになって、すぐにここから追い出されてしまうわ。路頭に迷って、それでもどこかのお屋敷に拾われて、奥様の意地悪と旦那様の折檻にじっと耐える虐待メイドになるのよ……」

「妄想がぶっ飛んでるよ。なに? メイド願望?」

 祈るような仕草に両手を組んで、なんだか目をきらきらさせながら妄想を語るケートにマリアンヌはつっこみを入れた。

「パイ作りには自信あるけど、ハニーパイとなるとちょっと問題があるわね……」

 ケートと対照的に楽天的で、時に剛胆とも言える性格のブリジットが、頬に手を当ててため息をついた。

「どうしたのおばさん。ハニーパイって、そんなに作るのが難しいの?」

「難しいわけじゃないよ。パイの中に蜂蜜とレモンクリームを織り込んで焼くわけだから、どちらかというとシンプルで作りやすいわね」

「じゃあ大丈夫じゃない」

「けどね、シンプルな料理なだけに、素材の良さがものを言うのよ。そこが問題なのよね」

 ブリジットは大きなため息をついた。

「政府総裁が美食家だって話はわたしも知っていたのよ。その方に出すものだから、半端な材料じゃ喜ばれないし、わたしもそんなものでお茶を濁すようなことはしたくないわ。亭主に先立たれてから、料理の腕一本で母娘二人生きてきたっていう、料理人の意地があるからね。とはいえ、高級品のコロン産蜂蜜はほとんどこの街じゃ手に入らなくなってしまったし、仮にティシュリのどこかにあったとしてもべらぼうに高くて買えないのよね。簡単に手に入る蜂蜜は糖蜜と混ぜた粗悪品で、逆に味が落ちてしまうわ」

「材料が手に入らないならもうおしまいだわ。問答無用でお店から追い払われて、生活のために悪い金貸しに手を出してしまうんだわ。で、借金の形に花街に売られて、豚の大腸のようなにおいのする薄暗い部屋に閉じこめられて、身体に蜜を塗りたくったおじさまにあんなことやこんなことされるんだ……」

「あんたの妄想、もうわけわかんない」

 悲劇のヒロインになって自分の妄想世界にのめり込んだケートにつっこみ入れるのに、マリアンヌはそろそろ飽きてきた。

「おばさん、じゃあ、あたしがその高級蜂蜜を手に入れてきてあげるよ」

「マリーちゃんがかい? あ、マリーちゃんは船乗りだったものね」

 ブリジットは光明が見えて少し明るい表情になったが、すぐに申し訳なさそうな表情に変わった。

「でも、蜂蜜を買ってもらうのに、今払えるお金がないのよ。地上げ屋が来るようになってから売り上げが落ち込んじゃってね」

「お金のことは心配しないで。おばさんの店をなくさないために、あたしにできることがしたいだけだから。あとで払えるようになったら、そのときにもらうわ」

 マリアンヌはそう言って、ブリジットにウインクした。

「ほんとに悪いわね。じゃあ、マリーちゃんのご厚意に甘えさせてもらうわ」

「うん、任せて」

 彼女はぽんと胸をたたいた。

「あ、そうだ。パイを食べに来たんだった。おばさん、アップルパイとホットミルクちょうだい」

「はい、まいど。ちょっと時間がかかるかもしれないけど待っておくれ」

 ブリジットはかまどに火を入れ、アップルパイを焼く準備を始めた。


 その晩に星の水鳥亭で、マリアンヌは三人の航海仲間に顛末を話した。

「……ってわけで、コロンに蜂蜜を買いに行くのが今度の目的よ。みんな、いいかな」

「お嬢ちゃんの行くところに自分はついて行くまでです」

「俺様はうまい酒が飲めりゃ、どこだってついていくぜえ」

 マリアンヌの船インフィニティ号船長の黒人航海士セレウコス・ニカトールと、用心棒の重機動力士プトレマイオス・ラゴスは受諾したが、船医兼測量士の老人カッサンドロス・リベールはワインでくちびるを濡らしながら黙ったままだった。

「どうしたのじいさん。この航海はいや? まあ、お金にはならないけど……」

「嬢ちゃんや」

 カッサンドロスは彼女に小声で尋ねた。

「その店のおかみ、美人かの? 年の頃は?」

「ブリジットおばさんは35歳くらいかな。たくましい人だから美人って印象はないけど、気だてはいい人だよ。あたしと同い年の娘がいて、その子はかわいいよ……って、じいさん、なんでそんなこと訊くのよ」

「年増の後家とその娘か、悪くないのう。わしは下は11から上は49までストライクゾーンじゃからのう……。天下の後家殺しで世界の処女殺しであるわしにかかれば ……」

 鼻の下を伸ばしながら言う彼の鼻の穴に、マリアンヌは指を突っ込んで突き上げた。

「なに考えてんのよ。いやらしい。もしブリジットおばさんやケートに手を出したら、このまま鼻をちぎっちゃうからね」

「いだだだ、鼻がもげる。冗談じゃ冗談。わしも賛成じゃよ。困っている婦女子を助ける仕事をするのが男の道ってものじゃ」

 彼女はカッサンドロスの鼻の穴から指を抜き、おしぼりで手を拭いた。

「よかった。じゃあ、明日には準備して、準備でき次第出発ね。ところでさ、コロンってどこにあるの?」

 セレウコスとカッサンドロスがあきれたような表情で彼女を見た。

「目的地の場所もわからずに仕事をかって出たんですか」

 セレウコスの言葉に、彼女は平然として「うん」とうなずいた。

「ディカルト諸島のどこかだって言うことは知ってたんだけど、寄港した覚えがないから、行ったことない場所なのね。セルやじいさんなら知っているはずだし、あたしが知らなくても問題ないじゃない」

「嬢ちゃんはほんとに脳天気じゃのう。もしだれもわからんような場所が目的地だったらどうするつもりだったのかのう」

 カッサンドロスはそう言って苦笑いした。

「コロンはイーストヤード島のカリン共和国にあります。五日ないし六日の航海で到着できますよ」

「コロンにゃ、うまいジンを飲ませる店があったはずだぜぇ。確か蓮華の花冠亭とかいう酒場だ。着いたらそこで一杯やろうぜぇ」

 プトレマイオスはうまい酒の情報を出したが、当面その情報に関心があるのはプトレマイオス本人だけだ。

「そう言えば、コロン産の蜂蜜と言ったら昔はティシュリ商人がよく取り扱った交易品じゃったが、最近は話を聞かなくなったのう」

 カッサンドロスが首をひねった。

「おばさんも最近手に入らなくなったって言ってたわ。おまけに、値段がべらぼうに高くなったって」

「ティシュリ共和国とカリン共和国との間に政治紛争の話はない。じゃから、ティシュリ船の封鎖令が出たわけではないだろうに」

 「お待たせ」と声がして、星の水鳥亭の看板娘であるリディアが丸鶏の窯焼きを持ってきた。ほかほかと湯気を立て、香ばしい香りがあたりを包んだ。

「おっ、待ってたぜぇ。さっそくいただき」

 プトレマイオスが丸鶏の脚を引きちぎって、むしゃむしゃむさぼるように食べた。

「リディア、酌をしてくれんかの」

「いいわよ。今はお店もそれほど忙しくないし」

 リディアはカッサンドロスの傍らに座って、彼のグラスにワインをついだ。美人の酒場女を侍らせて、彼はだらしなく鼻の下を伸ばしている。天下の後家殺しを自認する自称色男だが、傍目にはただのスケベじじいの顔だ。

「マリアンヌも一杯いかが?」

「うん、ちょうだい」

 リディアについでもらったワインを一口飲んでから、マリアンヌはふと思いついて、リディアに訊ねた。

「あたしたち今度コロン産の蜂蜜を買いに行くんだけど、最近コロン産の蜂蜜をティシュリの船長さんたちが扱ったって言う話を聞かないの。蜂蜜関連のうわさをなにか聞いてない?」

 酒場は世界各地を巡る船乗りたちが集まるところなので、酒場のマスターや酒場女はかなりの情報通だ。リディアはあごの下に指を当てて少し考えた。

「そうねえ……一月くらい前にうちに来た商船の船長さんがコロンに行って来たって言ってたわ。だけど、そこではなんの取引もできなかったって。ひどく怒ってたわ」

「取引ができなかったって……どういうことかしら」

「すぐに酔っぱらっちゃったから話はよくわからなかったんだけど、ずっと『サッシュフィールドのクソ野郎』とかぶつぶつつぶやいていたわ」

「ふーん」

 コロンでの取引はどうやら一筋縄ではいきそうにないらしい。サッシュフィールドとか言う人物がどこかでかかわるようだが。マリアンヌはそのことを心の中にしまい、グラスを傾けた。


 ティシュリ島の東1000マイルにイーストヤード島という島がある。ディカルト諸島の中で二番目に大きい島であり、なだらかな丘陵と森林、そしていくつもの湖があるのが地理的特徴で、ディカルト連邦有数の農産地帯として知られる。反面、鉱産資源には乏しく、工業力は高くない。

 そのイーストヤード島の南東部に、カリン共和国という小さな国がある。温暖な気候を利用して花卉や果樹の栽培が盛んであり、またディカルトを越えて世界的にも知られる養蜂地帯でもある。晴れの国、あるいは花の国とも呼ばれるこの国の首都がコロンという港町だ。

 マリアンヌたちは五日の航海を終えてコロンに到着した。人口2千人程度のこじんまりとした都市だが、街全体が庭園といわれる美しい街である。波止場にはニセアカシアが植樹され、つぼみを付けている。港から延びる、街の中央通りの両脇には街路樹のハナミズキが、赤い花を咲かせていた。海岸沿いの通りには、道沿いに花壇があり、デイジーやベゴニアが花をつけていた。花の国の首都にふさわしい景観だった。

 背の高い建物は見あたらない。白い壁に洋風瓦を葺いた建物が、街路沿いに整然と建ち並んでいる。春めく陽光に街全体がふわりと華やいでいた。

「お花が出迎えてくれるなんてなんかうきうきするね。いい街だわ」

 上陸して、街に向かう道すがら、マリアンヌは鼻歌混じりで上機嫌だった。

「おお、気分が良くなるぜぇ。気分がいいから、酒場に行ってくらあ」

 そう言って、プトレマイオスはさっさと酒場に向かっていった。これは彼の行動パターンなので、気分がいいからと言うのはほとんど関係ない。

「わしはわしで花を探してくるわい。取引は嬢ちゃんに任せたぞい」

 そう言って、カッサンドロスも街に向かっていった。彼の場合、花を探すより夜の蝶に逢いに行ったと言うところだろう。

「我々は交易所に行きましょう」

 自由行動をとらずに一人だけ残ったセレウコスに促されてマリアンヌは交易所に向けて歩き出した。

 交易所は海岸通りを、街に向かって左側に歩くと着く。白い板石で舗装されたこの通りには、海に面した側にはニセアカシアの木が並び、街の側にはアザレアの垣があった。垣根はきれいに剪定されている。街路樹も花壇も垣根も、よく手入れがなされていて美しいので、マリアンヌは気分が良かった。街を歩きながら、ついつい鼻歌を歌ってしまう。

「あれ? あの人、なにをしているのかしら」

 マリアンヌは足を止めた。

 緋色のトーガを着た、一見して金持ちとわかる中年男が、用心棒ふうの男二人を従えて歩いている。その後ろを、猫車を押した若者が歩いている。その猫車に積まれているのは、馬糞の山だ。

 街道にところどころ馬糞が落ちている。車を牽く馬やロバが時々落としていくもののようだ。それを拾って、追い肥にしようと街路樹の下に置こうとした子供がいた。

「これこれ、いかんじゃないか」

 金持ちふうの男が杖を振って子供を止めた。

「馬糞を街路樹にやるなどけしからん。もったいないじゃないか。おい」

 金持ち男に呼ばれて、猫車を押した若者が子供の拾った馬糞を猫車の中に入れた。金持ち男は若者に、街道に落ちている馬糞を全部拾い集めさせた。

「あんなもの集めてどうするのかしら」

 その様子を見ながら彼女は首を傾げた。

「おそらく、自分の菜園の肥料にするのでしょう」

「なるほど。でも、少しぐらい花壇や街路樹にあげてもいいんじゃないのかな。けちん坊なのね」

 街路樹に肥料をあげようとして、しかられてしまった子供は、かわいそうにべそかき顔でしょんぼりしてしまった。その様子を見て、彼女は鼻で強く息をつくと、金持ち男に近づいていった。

「ちょっとおじさん」

「なんじゃ小娘。いきなりおじさんとは失敬だぞ。わしはまだ若い」

 見知らぬ少女におじさんと呼ばれて、男は不満な顔をした。とはいえ、おじさんと呼ばれるにふさわしい中年だ。

「そんなに馬糞集めてどこに使うの? 少しそこの街路樹に置くぐらいいいじゃない。いいことしようとしてしかられたものだから、あの子泣いちゃったじゃない」

 母親らしい女性のもとに駆け寄って、母親のスカートに顔をうずめて泣いている子供を指さして、彼女は抗議した。

「ふん、小娘が生意気なことを言うな。おまえたちよそ者だな。わしはこの街を仕切るサッシュフィールド商会の会長、トム・サッシュフィールドだ。この街にあるものはすべてわしのものなのだ。落ちている馬糞のひとつまでな。それらをどう使おうが、おまえごときに指図される筋合いはないわ」

 金持ち男は高飛車に言い、突き出た腹をそらした。

「街を仕切っている人だからと言って、すべてがあんたのものなんて誰が決めたのよ。落ちている馬糞のひとつまで子供から取り上げるなんて、ただのどけちじゃない」

 ふんぞり返るサッシュフィールドの居丈高な態度にいらついて、マリアンヌは口をとがらせた。

「どけちとは失敬だぞ、小娘」

「そっちこそレディに向かって小娘なんて失礼よ、ジャガイモおじさん」

 あばた面のサッシュフィールドに向かって彼女は言い、べえと舌を出した。

「お嬢ちゃん、やめておきましょう」

 セレウコスが彼女を止めたが、マリアンヌは調子づいてしまってすぐに止まらなかった。

「高そうな服着て金持ち面したってね、全然似合ってないのよ。この街を仕切るくらいの金持ちだったら、エステにでも通ってすっきりしたらどう、ぼこぼこ頭」

「うぬう、言わせておけば。この貧乳娘」

「なにおっ。まだこれから大きくなるんだもん! でぶでジャガイモ頭のおっさんに言われる筋合いはないわ!」

「おっさんとはなんだ、おっさんとは! 失敬だぞ」

 売り言葉に買い言葉。これでは子供のけんかに変わりない。

「まあよいわ。このわしを怒らせたらどうなるか、目にもの見せてくれるわ」

 顔を真っ赤にして怒っていたサッシュフィールドは、捨てぜりふを残して、手下を引き連れて街に引き返していった。

「あの男、この街の有力者のようですが。まずいことにならなければよいですな」

「いいのよ。あんな失礼でぶさいくでどけちなおっさんなんか怒らせておけば。それより、早く蜂蜜を買いに行こうよ」

 マリアンヌは気を取り直して、セレウコスを伴って交易所へと歩き出した。


 その日の夕方近く、街の市場を巡りにめぐって、マリアンヌとセレウコスは港に帰ってきた。彼女はすっかりしょげ込んでいる。

「くっそぉ。あのおっさん、ここまでするなんて」

「だからやめておけばよかったんですよ」

「うう。だって、あのおっさんむかつくじゃない。あー、ほんとに腹立つ。自分だって言いたい放題言ってたじゃないの」

 マリアンヌたちは交易所に行って蜂蜜を買おうとした。すると、交易所の店主は取引を拒否したのだ。「サッシュフィールドの旦那の言いつけで、あなたとの取引が禁じられた」というのが断り文句だった。

 交易所で大量に購入することはできなくても、市場で小売りの蜂蜜を買えるかもしれない。そう思って市場に行き、蜂蜜を買おうとした。すると、どこの店の店主も取引を拒否したのだった。「サッシュフィールドの旦那の言いつけで、あなたとの取引が禁じられた」というのが断り文句だった。

「でも、どうしよう。蜂蜜を手に入れないと、ブリジットおばさんとケートの店がほんとになくなってしまうわ」

 身から出た錆に違いないが、マリアンヌは本気で悩んだ。

「おうい、お二人さん。蜂蜜は手に入ったかの?」

 街のほうからカッサンドロスが帰ってきた。

「じいさん、いいところに来た。実は……」

 セレウコスが顛末を説明すると、カッサンドロスはからからと大笑いした。

「かかか。嬢ちゃんらしいわい」

「笑い事じゃないよ。あのおっさんのせいで蜂蜜を買うことができなくなっちゃったんだもの。ねえ、じいさん、なにかいい知恵ない?」

 カッサンドロスはあごひげを一ひねりした。

「相手が悪かったのう。サッシュフィールド商会はコロンの蜂蜜取引を一手に握る有力商人じゃ。これに対抗するには……デイビー軍の総帥に助けを求めたらどうかの」

「デイビー軍?」

「コロン周辺の海域を縄張りにしている私設軍閥じゃ。まだ、この近辺には連邦海軍の力が及んでおらんようじゃな。この街でトム・サッシュフィールドと対等に渡り合えるのは、デイビー軍の総帥ジョン・デイビーくらいだろうのう」

「その人に会えばいいのね。わかったわ。どこにいるのかしら」

「蓮華の花冠亭という酒場にいるといううわさを聞いたわい。先にプットが潜り込んでおるはずじゃ」

 街の中に花を探しに行ったカッサンドロスは、それと同時にしっかりと街の情報を手に入れてきてくれていたようだ。

「うん。じゃあ、その店に行くわ」

 マリアンヌは二人の仲間を引き連れて、酒場へと向かった。


 船乗り相手の大衆酒場、蓮華の花冠亭は、中央通り沿いにある。ティシュリの街にある星の水鳥亭と同じくらいの規模だから、かなりの客を収容できる。外観はコロンのほかの建物と同じように、ペンキできれいに塗られた木造建築だが、店内は獣油のランプがほのかに照らすだけの明るさで、アルコールの香りと喧噪にあふれている。この手の酒場というのはたいていどこも中身は同じだ。

 カッサンドロスは場所だけ教えて、別のところにさっさと行ってしまった。「この店は女っ気がない」というのが理由だった。なので、マリアンヌはセレウコスと二人で酒場を訪れた。

「おうい、お嬢。ここだあ。一杯やろうぜぇ」

 マリアンヌが蓮華の花冠亭に足を踏み入れるやいなや、プトレマイオスのわれ鐘声が響いた。彼の周りにはジンの空き瓶が転がり、そして、海賊のような風体の男たちが数人転がっていた。

「ねえ、プット。なにかあったの」

「ん。俺様がここに来たら、こいつらが勝負を挑んできやがってよ。こっちも受けてやったら全員ぶっ倒れちまったぜぇ」

「ぶっ倒れちまったって……まさか」

 腕力でのしちゃったんじゃないかと彼女は心配した。プトレマイオスは新しいジンの瓶を開けると、ぐびぐび飲んだ。

「俺様に飲み比べで勝負を挑んできやがってな。そうしたら、こいつらたかだか4本か5本程度でつぶれてやがる。弱ええ奴らだぜぇ」

 プトレマイオスはそう言ってガハガハ高笑いした。彼は77.5度のラム酒・ネルソンズブラッドを樽で飲む男である。40度ないし45度のジンなど、水みたいなものだろう。勝負を挑んだ男たちは、相手が悪かったとしか言いようがない。

「お嬢ちゃん、まずはジョン・デイビーを探さなくてはなりません」

 彼女の後ろからセレウコスが言うと、彼女はうなずいた。

「話し合いはあたしが一対一でするわ。セルも飲んでていいよ」

 そう言って、彼女はカウンターまで歩き、マスターに近づいた。

「いらっしゃい。初めてのお客だね」

「うん。おすすめのものをもらえる?」

 マスターはグラスに上等のジンを注いで、彼女に差し出した。彼女はそれを一口飲んでみた。

「おいしいね。ねえ、マスター。ジョン・デイビーって人を捜しているんだけど」

「大佐に用があるのかい。大佐はあそこで食事中だよ」

 デイビー軍の総帥は「大佐」と呼ばれているらしい。マスターが指さした方向に彼女が目を向けると、赤紫色のジュストコールを羽織った男が、襟元からナプキンを垂らして、キングサイズのサーロインステーキを食べていた。

「一番上等なジンのボトルをちょうだい」

 マリアンヌは瓶を受け取ると、それを抱えて、デイビーに近づいた。

「こんばんは。あなたがジョン・デイビーさんね」

「何者だ」

 デイビーは鋭い一瞥を彼女に向け、前掛けにしていたナプキンをはずした。ざんばら髪にあごひげを蓄え、鋭い目をしている。首には金のネックレスを三本ばかりかけている。軍人と言うより、海賊船の船長のような雰囲気だ。もっとも、ディカルトの各地方に割拠している私設軍閥は、雰囲気だけでなく中身も海賊と変わりないところが多い。

「あたしはマリアンヌ・シャルマーニュ。ティシュリを拠点に交易をしてる艦隊提督よ」

 彼女が自己紹介すると、デイビーは鋭い一瞥を引っ込めた。そして、一度立ち上がると、彼女に右手を差し出した。

「女に先に名乗らせちまったな。失敬した。おれがデイビー軍を率いるジョン・デイビーだ」

 言葉遣いは粗野で、凶暴そうな印象だが、ある程度礼儀をわきまえた人物のようだ。デイビーの手を握り返して、彼女は、この人なら話を聞いてくれそうだと感じた。

 彼はあいさつを済ますと、またいすに座り、食事の続きを始めた。

「お近づきのしるしに、一杯どうぞ」

「そうかい。ありがとうよ」

 デイビーのグラスのマリアンヌはジンを注いだ。そして彼が飲み終わると、追加して注いだ。そして、少し時を待った。ある程度彼の気分が大きくなるのを見計らって話し合おうと考えたのだ。

 三杯目のジンを飲み干したぐらいに、彼女は切り出した。

「デイビーさん、お願いしたいことがあるの。あたしたち、ちょっと困ってるのよ」

 彼女はサッシュフィールドとのやりとりを彼に話した。ただし、全面的にサッシュフィールドが悪いという話の内容になっていたが。

「……で、あたしたちはどうしても蜂蜜を手に入れなきゃならないのよ。だから、デイビーさんの力を貸してほしいの。あのサッシュフィールドって男に、蜂蜜を買えるように取りなしてもらえないかしら」

 デイビーは黙って聞きながら四杯目のジンを飲んでいたが、

「そいつは聞けねえな」

 と、すげない返事をした。

「どうして?」

「おれたちデイビー軍とサッシュフィールド商会は協定を結んでいる。サッシュフィールド商会はおれたちに金銭援助をし、おれたちは奴らの商売を守る。そして、おれたちは奴らの商売に干渉しねえ。そう決めていてな。それに」

 彼はグラスに入ったジンを飲み干した。

「おれはティシュリ人が嫌えだ。いけすかねえ」

 店の奥の方から歩いてきたデイビーの手下らしい男が、彼を呼びに来た。

「大佐、奥でファイブダイスをやるようですぜ」

「おう、そうか。今行く」

 デイビーは席を立つと、そそくさと奥に引っ込んだ。

「あ、待ってよう」

 彼女は彼を追いかけて店の奥に向かった。

 デイビーを含めた四人の男が、ひとつのテーブルを囲んでいた。男たちの前にはダイスが五つずつ置いてある。

「あんたがデイビー大佐かい。博打好きと聞いていたから、ひとつ胸を貸してもらいたいと思っていたのさ」

 デイビーの右側に座った旅人ふうの男が彼に言った。流れ者の博徒のようだ。

「おれに勝負を挑むとはいい度胸だ。いいだろう。勝負だ」

 四人はさっそくファイブダイス賭博を始めた。

 ファイブダイスは、それぞれが振った五つのダイスの目を、ポーカーの役に見立て、その役の大きさで勝敗を決めるゲームだ。目がそろったらそのダイスは動かさず、ほかのダイスを振る。三回まで振ることができる。ワンペアがもっとも低い役で、ファイブダイスがもっとも大きな役だ。ちなみに、ストレートはブタ扱いだ。

 一番最初の勝負こそ、デイビーが4のスリーダイスで勝利したが、そのあと、何度勝負しても勝てなくなった。だんだんと彼の表情が険しくなっていき、こめかみに青筋が立って、ぴくぴく脈動していた。逆に、はじめに大した役のできなかった流れ者の博打打ちが勝ち続けるようになった。

「2のフォーダイス。おれの勝ちだな」

 博打打ちが四連勝したとき、傍観していたマリアンヌはおかしいと思った。

『なんか、2で成立している役が多いわ。勝ちすぎてるし、いかさましてるのかな』

 次の勝負の時、彼女は博打打ちの手元をじっと見つめた。

 二回振り終わった時点で、デイビーは6のスリーダイスが成立し、博打打ちは2と3のツーペアが成立していた。あとの二人はワンペア止まりだった。三回目をデイビーが振ると1と2が出て、結局スリーダイス止まりだった。

 一番最後に博打打ちが振ると、2の目が出た。

「フルハウス成立。また勝っちまったぜ」

「ちょっと待って!」

 マリアンヌは賭博会場に割り込むと、博打打ちが最後に振ったダイスを取り上げた。そして、その上に持っていたナイフを突き立てた。それから、割れたダイスを調べた。

「やっぱり。鉛が仕込んであるじゃない。いかさましてたのね」

 ダイスの5の目の裏あたりに、小さな鉛玉が仕込んであった。振ったら、必ず2が出るような仕掛けにしてあったのだ。

「これを隠して、最後にすり替えて使ってたのね」

「くそっ、このガキ。よくもばらしやがったな!」

 博打打ちは怒って彼女につかみかかり、彼女の喉元を締め付けた。

「きゃあ! やめてよ! か弱い女の子に手を出すなんて最低よ! スケベ! 変態! 母ちゃん超ブス!」

「うるせえ! おれの邪魔をしやがって、ただじゃすまさねえぞ!」

 その男の手をデイビーがつかんで強く握った。その握力に負けて、博打打ちはマリアンヌから手を離した。

 デイビーは博打打ちの襟首を右手でつかんだ。

「貴様、よくもおれの前でくだらん真似をしてくれたな」

「うっ。待ってくれ、これには深いわけが……」

「しゃらくせえ!」

 デイビーの左拳が博打打ちのあごを下からかち上げた。博打打ちの身体は放物線を描き、酒場の床の上に転がった。倒れた男に追い打ちをかけて、海賊ふうの男たちが集団でタコ殴りにした。

「おめえら。そいつを簀巻きにして海に放り込んでおけ」

 手下たちに命じてから、デイビーはマリアンヌのほうを向いた。

「あんた、よく見破ったな」

「あそこまで勝ち続けるのってちょっとおかしいなって思ったの。で、じっと見てたら、袖口にダイスを隠して、素早くすり替えてたのを見つけたのよ」

「なるほどな。あんたのおかげであの野郎にだまされねえですんだ。感謝する」

「感謝するならさ、さっきの話、聞いてくれない?」

 彼女は再度持ちかけたが、彼は首を振った。

「それはできねえ。さっきも言ったとおり、協定がある」

「なあんだ。やっぱりだめか。あーあ、あのサッシュフィールドって人と同じで、デイビーさんもけちん坊なんだ。感謝しても、形にして返さないんだもん」

 彼女はすねて見せた。

「しかたねえな。じゃあひとついい話を教えてやる」

 彼がそう言うと、彼女は表情を一変させ、にこやかな顔で彼の顔を見つめた。

「この街からずっと北、クルネアとの国境にある小さな村にタウロスと言う名前の老人がいる。腕のいい養蜂家だ。その男はサッシュフィールド商会と取り引きしていないから、あんたも自由に買い付けられるはずだ」

「ありがとう。明日にでも行ってみるわ」

 彼女はにっこり笑うと、そばにあった瓶からおいしそうにジンを飲んだ。


 養蜂家のタウロス老人から特選素材の蜂蜜を譲り受け、マリアンヌたちはすぐさまティシュリに引き返した。

 ティシュリに到着すると、彼女はすぐにアップルガーデンに向かった。

「ただいま。おばさん、ケート、コロン産の蜂蜜を持ってきたよ」

 アップルガーデン店内に入るなり、彼女は大声で言った。彼女に続いて、若い船員が蜂蜜の入った壺を持って入った。

「マリー、お帰り。よかった。無事に帰ってきてくれて」

 ケートがマリアンヌの手を握って言った。

「そんなに危険な航海じゃないもの。心配しなくたっていいじゃない」

「だってわたし、マリーが海賊に捕まって、ゲレイ大陸に売り飛ばされて、ランプの魔人のような男の人たちに囲まれながらハーレムで踊り狂ってるんじゃないかって思うと、心配で心配でしょうがなかったんだもん」

「……あんたの妄想にあたしを巻き込まないで」

 マリアンヌはケートのおでこをぺしと軽くたたいた。

「提督、これはどこに置いたらいいですか」

「そうね。キッチンまで運んどいて」

 船員は蜂蜜の壺をカウンターの後ろ側に運び入れた。

「本当にありがとうね、マリーちゃん。どれどれ」

 ブリジットは小さじを取ると、蜂蜜をすくって一口食べてみた。

「うん、こくといいしつこくない甘さといい、これなら誰に出す料理に使ってもまったく問題ないわね。さすがコロン産の蜂蜜だわ」

「よかった。ちょっと苦労したかいがあったわ」

 マリアンヌはにっこりほほえんだ。

「おばさん、さっそくで悪いけど、ミート&ポテトパイひとつ焼いてくれる?」

「悪いことなんてないよ。ちょっと待っておくれ」

 ブリジットは調理にかかった。ここはアップルパイやカスタードパイのようなお菓子のパイだけではなく、ミートパイやキッシュなどの軽食系のパイも出す店なのだ。

 蜂蜜を運んだ船員の肩をマリアンヌはぽんとたたいた。

「ご苦労さま。ありがとうね、手伝ってくれて。お礼にパイをおごってあげるね」

「ありがとうございます。俺もここのパイ好きなんすよ」

 若い船員はそう言って、歯をむき出して笑った。街の人間だけでなく、船乗りにも人気があるわけだから、下町の場末の店とはいえその客層の広さは侮れない。

 船員がミート&ポテトパイを食べ終わって出ていってからしばらくすると、不動産屋の男がずかずかと店の中に入ってきた。

「おかみ、特上の蜂蜜を手に入れられたそうですな」

「耳が早いね。どこから聞いたんだい」

 男は一度ぎょろりとマリアンヌをにらんでから、またいやらしい笑い顔になり、

「そこの船乗りの娘さんが帰ってきたと聞いて、蜂蜜を持って帰ってきたのだと判断しただけですよ。材料を手に入れたのなら話は早く済ませましょう。こちらに総裁閣下を招待しております。もうじき到着なさるはずですので、さっそくハニーパイを用意していただけますかな」

「いいわよ。さあ、ケート、準備して」

「はい」

 ケートはテーブルのひとつにおろし立てのテーブルクロスをしき、いすも上等のいすに取り替え、ナプキンを折って皿の上に飾った。

 男は壁際に立って様子を見ているマリアンヌの横に近寄ると、低い声でささやいた。

「小娘、覚えておけよ。閣下がハニーパイを気に入らなかったら、そのときはおまえにもたっぷりとこの前の礼をしてやる。服ひっぱがして、身体中にハバネロを塗りたくってやるからな」

「下品な男。ふん、いいわよ。おばさんのパイが総裁の気に入らないわけないもん」

 マリアンヌは男の目をにらみつけた。

 店の前に馬車が止まった。男は急いで店のドアを開け、出迎えに出た。

 店内に、三つ揃いのスーツをびしっと着込んだ、上品そうな初老の男性が入ってきた。ティシュリ共和国政府の総裁である。

「シムラー君、ここが極上のハニーパイを食べさせてくれる店なのかね」

「ええ、そうでございます。閣下」

 男は愛想笑いに揉み手で、さっきとはうって変わった卑屈な態度で答えた。

「いらっしゃいませ。こちらへどうぞ」

 ケートがとびきりの笑顔で、用意した席に総裁を案内した。

「ふむ。一見場末の小汚い店だが、本当なのかね」

 総裁は遠慮もなしに店を評価した。もっとも、アップルガーデンは総裁の評価通りの店には違いない。

「もちろんでございます。ここのパイは世界一の味との評判でして……」

「なにを言うか」

 総裁は男に厳しい視線を向けた。

「世界一の味とは聞き捨てならん。世界一の味はママの味に決まっておるのだ」

「は、ごもっともでございます。しかし、地域ではそのような評判がたっておりまして、ここのおかみもそれを自負しているようでございまして」

 男はへこへこ頭を下げながら答え、ちらとブリジットの方を見てにやりと笑った。どうやら先に褒めちぎっておくことで、食後の総裁の評価を落とさせる狙いがあるようだ。

 ケートが焼きたてのハニーパイとペパーミントティーをトレイに乗せて持ってきた。

「ハニーパイ、お持ちしました。総裁様は日頃の政務でお忙しいと思いまして、リラックスしていただこうとペパーミントティーを用意いたしました」

「うむ。吾輩もハーブティを好んでおる。いただこう」

 総裁はまず茶に口を付けた。それから、ナイフでパイを切り、一口食べた。

 それから、総裁が食事を終えるまで、男は総裁の傍らで、ブリジットはカウンター奥のキッチンから、マリアンヌとケートは壁際に立って、総裁の様子を固唾を飲んで見守っていた。

 パイを完食し、総裁はじっと目を閉じ、瞑想するようにしばらく黙り込んだ。

 マリアンヌはどきどきしながら、総裁の顔をじっと見つめていた。その横では、心配性のケートが小さな声で「どうしよう、どうしよう」とつぶやいていた。彼女の頭の中に、どんな不幸な妄想が浮かんでいたかはわからない。

 不意に総裁はかっと目を見開いた。それから、ケートのほうを向いて言った。

「君、ここの主人を呼んできたまえ」

「はっ、はいっ」

 小さな店だからケートが呼び出す間もないのだが、ケートに連れられてブリジットがキッチンから出て総裁の前に立った。

「当店の女主人、ブリジット・ナグルスキーでございます。本日は総裁閣下に来店いただき、大変光栄でございます」

 ブリジットの声は落ち着いていた。腕によりをかけて、自分の出しうる最高のハニーパイを作ったのだ。できることはすべてやった、その充足感があった。

「このパイを世界一の味と呼べるかどうか、吾輩にはわからん。だが、うまかった」

 総裁の言葉に、マリアンヌは心の底からほっとした。ふと顔を上げて不動産屋の男の顔を見ると、男は愕然とした表情で口をあんぐりと上げていた。

 総裁は席から立ち上がった。

「あなたのパイは大変素朴な味だ。だが、それがいい。吾輩のママの味を思い出す。いやされる思いの食事というのは初めてだ」

「お褒めにあずかり光栄です」

 ブリジットとケートは深々と頭を下げた。

「機会があればまた来させてもらおう。では、失礼する」

 総裁は退席し、玄関のほうに足を向けた。その途中で、男の肩に手を置いた。

「シムラー君、今日はよい店を紹介してくれた。感謝する」

「は、は、はい。総裁のお気に召しましたようで、うれしゅうございます」

 男はぎこちない愛想笑いを浮かべて返事をした。

「ところで、言い忘れていたが、都市開発計画は委員会のほうで見直しが決定してな、しばらく凍結ということになった。事実上の中止だろう。予算の割り振りの面で不都合が生じたものでな」

「それはけっこうなことで……え?」

「君は用地確保のために土地買収にいそしんでいたようだが、その必要はなくなったようだ。ご苦労だったな。では」

「お、お待ちください、総裁。考え直してくださいよ」

「ダメ」

 総裁は男を残して、表に止めてあった馬車に乗り込むと、官邸に帰っていった。

 取り残された男は、あまりのことにしばしぼう然としていたが、ブリジットのほうを向くと「今日のところは勘弁してやろう。覚えていやがれ」と捨てぜりふを残して、そそくさと帰っていった。

「よかったぁ!」

 マリアンヌとケートは抱き合って喜んだ。ほっとして緊張の糸が切れたのか、ケートの目からは涙が流れている。ブリジットも加わって、三人で抱き合って喜んだ。

「マリー、ほんとにありがとう。マリーが蜂蜜を買ってこなかったらどうなっていたか」

「そうよ。マリーちゃんには感謝してもしきれないわ」

「おばさん、やっぱりすごいわ。おばさんのパイはやっぱり世界一よ」

 マリアンヌのおなかがぐぅぅぅと鳴った。

「あ……。なんか安心したらおなかがすいちゃった。おばさん、あたしにもハニーパイちょうだい」


 マリアンヌの活躍によ……るのか今ひとつわからないが、アップルガーデンはカーネル=アベニューの一角で営業を続けることができた。それからもう一つ、マリアンヌが購入してきたコロン産の特選蜂蜜を素材にしたハニーパイがアップルガーデンのメニューに加わり、アップルパイと並ぶ看板メニューになった。

 あのあと近場の航海に出て戻ってきたマリアンヌはアップルガーデンに立ち寄った。

「いらっしゃいませ。マリー、来てくれたのね」

「わあ、にぎわってるじゃない」

 アップルガーデンの狭い店内は客でほぼ満席だった。昼食の時間帯とジュニアスクールの放課後の間は、たいてい客がいたとしてもまばらなのに、その時間帯も人で一杯というのは、マリアンヌの記憶にない。

「ハニーパイの評判が広がって、お客がたくさん来るようになったの。ママもわたしも目が回るくらい忙しいわ。それに、よくハニーパイが売れるから、マリーが買ってきてくれた蜂蜜がそろそろ底をつきそうよ」

「まあ。うれしい悲鳴じゃない。じゃあ、また蜂蜜を買って来なきゃね」

 マリアンヌは店内を見渡して、前と変わったところをもう一つ見つけた。これまでは同じ下町の住人か、ケート目当ての男子学生が主な客だったが、今来ている客の中には上等の衣服を身につけた人物もいる。山の手に住む上流階級のほうにも客層が広がったようだ。

「客層も幅広くなったわね。ティシュリ中からお客が来るようになるよ」

「そうね。だけど……」

 ケートはそう言って、頬に顔を当ててうつむいた。

「客層が広がったのはいいけど、お客様の中に困る人がいたらどうすればいいのかしら。お客様が増えればそんな人がいないなんて言い切れないわ。もし、パイじゃなくてわたしがほしいなんて言い出す人がやってきたらどうしよう。その人が、ウスターソースのように日焼けした肌に、びっしりキュウリを張り付けた、鈴虫のような声のおじさまだったらもっとどうしよう……」

「あんたの頭がどうしようよ。その妄想どこからわいてくるの」

「そんな人が来たら、マリーが何とかしてくれる?もしもの時は身代わりになってくれる?」

「いーかげんにしなさいっ」


                            (おしまい)

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