最終話 神魔滅殺の霊剣

プロローグ



1.

文明六年。天皇の勅命によって大徳寺再建が始まった。

京の都では戦火で多くの家屋や大小さまざまの寺院が焼け落ち、五山十刹ござんじっさつに数えられる大徳寺も焼失を避けられなかったのである。

大徳寺の住持に選ばれ、その再建を任されたのはあの一休宗純いっきゅう そうじゅんであった。

小坊主の時代からとんちで和尚や周囲のおとなたちをやりこめた逸話が有名であるが、風狂ぶりはむしろ大人になってからの方が際立っていた。二十七歳で悟りを得ておきながら師である大徳寺の高僧・華叟宗曇かそう そうどんが与えようとした印加状を辞退し、詩、狂歌、書画と風狂の生活を送るようになった。当時の僧侶にしては自由奔放な男であり、本来ならば戒律で禁じられている酒や女遊びも平気でやった。

ただ、破戒僧でありながらも彼の気は爽やかなほどに清浄であり、邪悪なものを祓う力があった。壮年期には旅すがらに多くの怪異に苦しむ人々を救っている。花の女怪に惑わされた若い青年を正気に戻したり、守護大名に憑りついた妖魔の正体を暴いては退散させるなどの活躍ぶりを見せた。

この男の魅力は一日では語りつくせぬ逸話だけではなく、あるがままに生きようとする人間臭さにあった。交友関係も幅広く、その魅力に多くの人が惹かれていた。

京の都の誰からも愛されていた一休が大徳寺の再建に奔走していた時期、すでに彼は八十歳を過ぎていた。未だに正月に髑髏をつけた杖を持って「ご用心。ご用心」と言いながら路上を歩くなどの奇行をみせてはいたが、若い頃に比べれば遠くへ長旅に出ることはなくなっていた。そんな老境に入った一休宗純は不思議な人物と邂逅することとなった。


2.

応仁の乱が始まって七年ほど経った頃の話である。

ある秋の日のこと。昼頃、一休は大徳寺の建て直しに従事している町衆の男たちと今後の方針について話し合っていた。その際に町衆との会話の中で妙なうわさを耳にした。

「和尚はあの話を知っとるか」

噂好きで有名な若年寄の又蔵が童子のように瞳を輝かせながら訊いてきた。

一休が白髪の散切り頭を掻きながら「何の話をいうておるんじゃ?」と尋ねたところ、又蔵は得意げな顔をした。

「和尚さんでも知らんことはあるんやな。これはうちが聞いた話なんやけど。最近、愛宕山にどんな病もたちどころに治してしまう陰陽師様が住み着いとるんやて。おまけに貧しい者からは銭もとらんそうや」

「ほう。この乱世に奇特な陰陽師もおるんじゃな」一休は頷きながら感心した素振りをみせた。

愛宕山とは京都盆地の西北にそびえ、盆地東北の比叡山と並び古くから信仰の対象とされている霊山である。そこに最近、草庵を建てて住んでいる陰陽師がいるらしく、気まぐれに都に降りてきては病人を治してすぐに消えてしまうというのだ。治してもらったほうはお礼がしたいと思うのだがすぐに帰ってしまうために途方に暮れているのだという話であった。

「ほう。面白い奴じゃな。会ってみたくなったわ」

一休は少し笑みを浮かべた。

「和尚さんならそう言うと思っとたわ。ほな、うちもついて行ってやろうか?」

「馬鹿め。わし一人で行って来られるわい」

「無理はいかんと思うで。年寄りの冷や水や」

「又蔵。おぬし、わしを年寄りと思ってからかっておるな。なあに明日にでも会ってどんな奴だったか、すぐに教えてやるわ」

一休は子供のように下まぶたを指で押し下げて赤目を見せ、舌まで出してあっかんべえをしてその場から立ち去った。和尚の茶目っ気に町衆の男たちは親しみを込めながらも愉快とばかりに大笑いした。



3.

翌朝。空は雲一つない晴天。

一休はすげ傘を頭にかぶり、使い古したぼろぼろの小袖に袈裟を羽織った姿で愛宕山へ向かった。杖をつきながらゆっくりとした足取りで山道を進んでいく。晩秋を迎えた山の澄み切った空気は冷たかったが、峰々に至るまで木々の枝が紅葉によって綺麗に彩られていた。もみじの赤い葉と銀杏の黄色い葉が数枚ずつゆらゆらと空中を舞っていた。

しばらく歩いていると遠くから川のせせらぎが聞こえてきた。さらに先へ進むと谷に突き当った。谷底には川が流れていた。なかなかに流れが激しそうな川である。上流からきた流れが白い泡となり、水飛沫を飛び散らしながら下流へと下っていた。水面は川底の石と砂利、魚影まで見えるほどに澄んでいた。

ちょうど一休が立っている崖から対岸にかけて吊り橋が架けられていた。一休は年甲斐もなくわらべ歌を口ずさみながら橋を渡り、さらに道を突き進んだ。

中腹まで来るとさすがに斜面が急勾配になってきた。歳でだんだん腰が曲がってきた一休にとってはひと苦労だ。

半里ほど登り続けていると前方から炊事の煙が立ち昇った。そこは周囲を楓の木々に囲まれた場所だった。目と鼻の先の距離である。

「もしや、あれが陰陽師の草庵かのう」

と一休は独り言ち、楓が密集した地帯へと続く小径を見つけてそのまま足を踏み入れることにした。周りに立ち並んでいる楓の木々から赤色に染まった葉がひらひらと舞い落ち、小径は水気がわずかに残った落ち葉によって埋め尽くされていた。

やがて、小径の突き当りに一軒の草庵が見えてきた。屋根には藁葺、壁には荒い砂が混じった土という簡素な材料で造られており、大人数人がどうにか入れそうなこじんまりした小屋だ。

一休は簾が垂れ下がった入り口に立った。

彼が声をかけようと思った瞬間、ほぼ同じ時期に入り口の奥から人影がふらっと出てきた。

一休の前に現れたのはあどけない少女だった。歳のころは十一。腰まで伸びている髪の色は銀。端正な顔だちで目はくりっとしており、琥珀色に輝く瞳が印象的だった。水色の狩衣に袴という貴族の男装だったが袖は解れ、裾には破れている部分もある。服装や口調だけを見ると少女というよりは少年という印象が強かった。

少女は一休に気づくと声をかけてきた。

「どなた?」

少女は訝しがるというよりは珍しい来客に驚いた様子だった。

「わしは一休という者じゃ。ここに陰陽師はおるか?」

「ああ。それは僕のことだよ。名前は朽木白蓮くちき びゃくれん」と少女は楽し気に微笑んだ。

「なんと」

一休はあまりの驚きに言葉を詰まらせた。中年ぐらいの男を想像していたし、こんな幼女とは思わなかったのだ。

「何でこんなところに来たのかは知らないけど、ひとまずは中に入ってよ。狭いから気を付けてね」

「それではお邪魔するとしよう」

一休は草庵の中に入ることにした。

室内は薄暗い。幅二畳ほどの板の間の上には質素な筵が敷かれていた。部屋の中央には囲炉裏があり、薪がパチパチと爆ぜる音を立てながら赤々と燃えていた。天井の柱から吊り下げられた自在鉤には鉄鍋がかかっており、鍋の中で稗がゆがぐつぐつと煮立っていた。

朽木白蓮と一休は囲炉裏を挟んで向き合う形で座った。

白蓮は汁杓子を使って鍋から粥をすくい、茶碗によそって一休に差し出した。

「こんなものしかないけど、ゆっくりしていってよ」

「これはかたじけない」

一休は合掌して粥に箸をつけるとよほどに腹が減っていたのか、あっという間に平らげてしまった。

その後、白蓮は薬草を煎じて作った茶を湯呑みに注いで一休に手渡した後、少し間をおいてから訊いてきた。

「坊さんはどうして僕を訪ねて来たんだい?」

「実は町衆の者からどんな病でも治してしまう陰陽師がおるという話を耳にしたのじゃ。おまけに貧しい者からは銭を取らないと聞いたので感心し、どんな人間なのか会ってみたくなったんじゃよ」

「それで感想は?」

「あまりにも驚いて腰を抜かしてしまうかと思ったわい。まさかお前さんのような小娘とは思わなんだ」

「だろうね。ちなみに僕も坊さんの噂は耳にしているよ。なんでも仏法の戒律で禁じられている酒や女遊びをするかと思えば、詩歌や書画に非凡な才をもった坊さんがいるってね」

「ほう。子供にしてはよく知っておるの。じゃが、今は見ての通りただの老いぼれじゃ。ところでお前さんには親はおらんのか?」

「実はよく覚えていないんだ。昔に父と母が死んだのは確かなんだけど、そこから先の記憶がおぼろげではっきりしない。気づいたらここで暮らしていて、本当に陰陽師といえるのかは知らないけど不思議な力を使えるようになっていたんだよ」

「そうか……覚えていないということはよほど辛い想いをしたんじゃろうな」

「坊さん、気にしなくて良いよ。覚えていないんだから良いも悪いもない。ところで坊さんには家族はいるのかい」

「おるぞ。妻と息子がな」

「坊さんのくせに? いけないんだぞ」

「お前さんに言われると恥ずかしいのう。じゃが、わしからすれば坊主とてただの人じゃ。乞食、小作人、侍、公家とまあ世の中は難しい身分などいうものがあるが、結局はただの人に過ぎん。人の生きる世は起きて糞して寝て食って後は死ぬるを待つばかりじゃ」

「坊さん。それじゃあ獣と一緒じゃないか」

「そうかもしれんな。じゃが見ようによっては人間は獣よりも厄介かもしれん。獣は本能のまま生きるために他の命を奪って生きておるから善悪はない。それに比べて多くの人間は必要最低限の衣食住では満足できぬものじゃ。権力を持った者は与えられた豊かさだけでは満足せずにさらに利益を得ようとあらゆる手段を用いて他者から搾取するゆえに業が深く、貧しいものは豊かな者を妬み、奪い取ろうと罪を重ねてゆくために限りがない。どちらも面倒くさいのう。人の道から外れた大人は赤子以上に手がかかるわい」

と一休は湯呑みに注がれた薬草茶を飲み干し、頭を掻きながらニヤリと笑った。

一休が語っていた間、白蓮は彼の顔をじっと見つめたまま無言で興味深そうに聞きいっていた。

話がひと段落する白蓮は一休に尋ねた。

「ところで和尚はどうして人間を助けるんだい? さっき人間は手がかかるって言ったじゃない」

「ほう。確かに矛盾しておるかもしれん。自分でも分からん。じゃが、手がかかって面倒だから我が子のように可愛げを感じるからかもしれんなあ。それに‥‥‥」と遠い目で天井を眺めた後、さらに話を続ける。

「わしは若いころ好き勝手に生きておった。修行中も他の者より少しばかり知恵があるからと調子に乗って無茶をして、師匠に迷惑をかけてしまったからのう。恩を返したい師匠は生きておらんから罪滅ぼしに人助けをしておるのかもしれんなあ」

「なるほど。つまり和尚は罪悪感と慈愛のために他人を助けているんだね。うーん。言葉の意味と理屈は理解できるんだけど感情がわからない」と白蓮は頭を抱えながら苦虫を噛み潰したような顔をしてみせた。

すると一休は意外そうな顔で「おや。では、お前さんはどうして病人を助けておる?」と訊き返した。

「それは……言葉で説明するのは難しいんだけど、こう頭の中にもう一人自分が居て、そいつが道で出遭った病人を助けろと僕に訴えかけてくるんだ。どういうわけか僕はその言葉に従ってしまう」

「それは心の良心という奴だな。善意に理屈はないのかもしれんのう」

「そういうものなのかな。よくわからないけど、和尚がそう言うならそういうことにしておこう。ところでそろそろ一杯やらないか?」と、酌をする格好をしてみせた。

「おや。この悪童めが。ガキのくせにもう酒の味を知っとるのか?」と一休は白蓮の柔らかい頬をつまんでにっこり笑った。

「まあ固いことを言わずに一杯やろうよ」

「そうじゃな。わしも坊主のくせにやりたい放題じゃ。お前さんに付き合うのも一興じゃろう」

その晩、二人は意気投合して朝まで酒を酌み交わした。この日を境に一休は白蓮と定期的に会うようになった。


4.

「白蓮さま。ありがとうございます。おかげで楽になりました」

今にも崩れ落ちそうなあばら屋の中、老婆は寝床から起き上がって恩人の手を握った。皺だらけの顔を笑顔でさらに崩し、目に涙をいっぱい貯めながら頭を下げた。

老婆の手を優しく握り返したその指は細く陶磁器のように滑らかで白かった。白い手は少女────朽木白蓮のものだ。数え年で十八。美しい娘に成長していた。腰まで伸びた銀髪は艶がある。相変わらずくりっとした大きな目にあどけなさは残っていたが、琥珀色の瞳には妖艶さが漂っていた。その身には黒い生地に色とりどりの花の文様をあしらった狩衣を纏っていた。

 一休には七年間をかけて読み書きを教えてもらったり、陰陽寮に入るための推薦までしてもっらたりと色々世話になったので白蓮は恩返しをしたいと思っていた。ところがその一休宗純はもうこの世にいない。数か月前に流行り病で死んでしまった。

白蓮は一休の恩に報いるために陰陽道の勉学に励みつつも自分の力で病人を救うという善行はやめていない。

「白蓮さまのお陰でもう少しこの世におれそうです。ところでお礼はどうしましょう?」

「おばあさん。もう頭を上げてよ。お礼なんていらないから」

白蓮は戸惑いながら戸口へ向かった。

家を出ると老婆の孫とおぼしき少年が立っていた。

「婆ちゃんを助けてくれてありがとう。お礼にこれを」と少年はもぎたての枇杷の実を差し出した。

「いや、礼なんていらないよ」

白蓮は断ろうとしたが、少年は彼女と視線が合わさった瞬間に赤面して立ち去ってしまった。

「まいったな」と困り顔をしながらも微笑んだ。

一休の臨終に立ち会って以来、以前にもまして精力的に貧しい病人を助けるようになった。今でも人間の感情を完全に理解したとは言えないが人から感謝されるのは嫌ではない。むしろ心のうちが温まるようなそんな心地よさがあった。

────そろそろ庁舎に戻るとするかな。帰らないと先生方から貧民に肩入れしすぎだと怒られてしまうから。

苦笑いしながら白蓮は歩き出した。貧しい庶民が密集して生活している通りから離れ、陰陽寮が属する平安宮に向かった。


鎌倉の武家政権が成立して以降、朝廷は実質的な力を失った。すでに天皇の権威は名ばかりとなり、公家たちは保身をかけて有力な守護大名に媚びへつらうことに必死だった。豪華絢爛だった貴族の贅沢な暮らしは財政難や戦火によって失われ、天皇といえども貧しくも質素な暮らしを送ることを余儀なくされた。

それを象徴するように過去には栄華を誇った壮大にして壮麗なる平安宮も補修がままならないほどに損傷が激しかった。行政施設・国家儀式や年中行事を行う殿舎、天皇の居住する内裏が設置されている区域を守るかのように張り巡らされた築地塀も今ではいたるところに亀裂や穴が目立っている。

律令時代には国政を司っていた各省庁も今では名ばかりの存在になり、庁舎だった建物も廃屋としか思えないほどにひどく荒れ果てていた。

しかし、充分に整備された庁舎があった。それは天皇の補佐、詔勅の宣下、叙位など朝廷に関する職務の全般を担っている中務省である。この省の中でとくに活発に機能しているのが陰陽寮だった。暦や天文、占いなどを司る部署であり、裏の役目は妖異退治や悪霊祓い、あるいは呪術に関わる問題を解決することだった。いわゆる陰陽師と呼ばれる者達が配属されている場所でもある。

乱世ともなれば武家同士の争いも頻繁に起こり、殺傷に発展すればそこには必ず怨念という負の感情が生まれるものだ。勝者は滅ぼした相手の怨霊に恐れおののき、敗北者の遺族は身内を亡き者にした仇敵の死を望む。そうした時に手を差し伸べてくれる存在が陰陽師だった。悪霊に祟られた者を救い、あるいは依頼人の仇敵を呪術によって呪い殺すという闇の面を持っていた。特殊な技能を持っている陰陽師は守護大名からも重宝されており、遠方から仕事の依頼が多く舞い込んできた。とくに経済力を持った有力大名は金に糸目を付けないので公式な仕事よりも儲かった。そうして得た資金によって多くの陰陽師は自分たちの庁舎を修繕しており、いずれは平安宮全体の補修を目指しているようだ。

現在、この陰陽寮において実権を握っているのが土御門家である。陰陽寮におけるすべての要職を一族で独占し、金と権力をほしいままにしているのだ。土御門家の先祖にあたる安倍晴明は人を助けることに重きをおいていたが遠い子孫にその気風は受け継がれなかったようだ。

白蓮はここが好きになれない。一休和尚のおかげとはいえ、陰陽師の見習いである“陰陽生”に登用してくれたことに対しては朝廷に感謝している。

だが、土御門一族だらけの陰陽寮でよそ者は歓迎されない。確かに他の貴族の子弟らもいたが少数であり、土御門家に属する者が間違った行いをしたとしてもそれに異議を訴える者などいない。そんなことをすれば集団から苛めを受けることになり、陰陽寮から除籍されても文句は言えないだろう。実際に土御門家に睨まれて没落していった貴族も多くいる。

何しろ、陰陽寮を司っている陰陽頭の土御門晴影は足利将軍家からの信頼も厚い。朝廷内では裏稼業による実績によって強大な影響力を持っており、常に大勢の貴族たちを従えて不遜な態度をとっていた。

晴影の息子たちも父親の権力を笠に着て傍若無人に振る舞い、気に入らない他の陰陽生をいびり倒したあげくに小遣いを巻き上げては手下どもと豪遊にふけるという有様であった。とくに新入りでおまけに貴族ではない白蓮を目の敵にしており、何かと因縁をつけてきたりバカにしたりするのであった。

街から帰ってきた白蓮は陰陽寮を目指して平安宮の回廊を歩いていた。庭先から差し込んだ西日が回廊を照らしていた。陰陽寮まであと二、三間というところで他の陰陽生らが大勢で反対方向から歩いてくるのが見えた。その先頭を歩いているのが土御門晴影の嫡男・土御門戌亥つちみかど いぬいであった。傍若無人な土御門家の中でもとくに自分の血筋に対して強い誇りを持っている人間であり、常日頃から「土御門家にあらずんば人にあらず」と言うほどであった。貴族でもなく、身分も定かではない白蓮を誰よりも忌々しく思っている。

────厄介な奴に居合わせてしまった。気づかないふりをしてやり過ごすしかないな。

白蓮はため息をつきそうになったがぐっとこらえて視線を自分の足元に向け、俯いたまま前方から接近しつつある戌亥の真横を通り過ぎようと考えていた。

ところが残念なことに相手は白蓮に気づいていたようだ。戌亥はふいに立ち止まり、歩いてきた白蓮の足元に自分の足を突き出した。

白蓮はその足につまづいて、前のめりに倒れ込んだ。

起き上がろうとしていると頭上から嘲笑が降ってきた。

「おや。お前は朽木白蓮ではなかいか? ただ前を見て歩くこともできぬのとはよほどに愚か者よのお。目が見えぬものでももう少し上手に歩けると思うがな」

「これは戌亥様。まったく面目ありません。まさか木偶人形が廊下に突っ立ているとはおもわなかったもので」と白蓮は立ち上がりざまに満面の笑みで皮肉を言ってやった。

「ほう。言うではないか」

白蓮の態度に戌亥は怒るどころかむしろ、絡む口実ができたと言わんばかりに意地悪そうにほくそ笑んだ。

「礼儀を知らん奴だな。だいたいどこの馬の骨ともわからんような者を宮中に召し抱えようというのが間違っておるのだ」

「まったくですな。いったいどんな姑息な手を使ったのやら」と同調したのは戌亥を取り巻いている手下の一人。

「なに大したことではない。帝と懇意だった一休宗純による推薦があって陰陽生になることを受理された聞いている。おおかた和尚に体で奉仕したのだろうよ。この汚らわしい女め」と戌亥は白蓮の髪を掴んで引っ張った。

「少しばかり陰陽博士に評価されているからとあまりいい気になるな」

「……いっ、痛い」と白蓮の美しい顔が苦痛にゆがんだ。

「お前のような者は奴婢と同等の身分におればよいのだ。このあばずれが!」と戌亥はまるで畜生でも見るような侮蔑に満ちた目つきで掴んでいた髪から手を離した後、今度は勢いよく突き飛ばした。白蓮はその衝撃で後方に倒れ込んで尻餅をついてしまった。

戌亥はそんな白蓮を見下ろしながら罵倒を続けた。だが、白蓮は自分のことを言われようが悔しくもないので床に座り込んだまま笑顔で相手を見上げ「そうですか」といい加減な相槌を打っていたのだが、相手から発せられた次の言葉を耳にした瞬間、一転して怒りの形相に変わっていた。

「こんな女を推薦した和尚もよほど頭がおかしいに違いない。欲情に駆られて小娘を手籠めするとは呆れて何も言えぬわ」

「今、言ったことを訂正しろ」と彼女は自力で再び立ち上がり、怒気に満ちた鋭い目つきで戌亥を睨んだ。

「その目は何だ。異論があるなら言ってみろ」

予想もしていなかった白蓮の態度に戌亥はもちろんのこと、取り巻いている連中も唖然としたが一番驚いているのは彼女自身であった。今まで自分のことを何か言われても怒りが芽生えたことなど一度もなかった。それなのに自分と親しかった和尚が侮辱されたことだけは許せなかった。それほどに白蓮は一休和尚を敬愛していたということなのだろう。

「僕のことを誰が何と言おうがかまわない。だが、一休和尚のことを侮辱されるのは我慢がならない。和尚はあんた達みたいに出自や身分だけで人をバカにしたりはしなかった」

「何だその口のききかたは!」

戌亥は反抗的な態度に怒って白蓮の襟首を片手で掴み、もう片方の拳を振り上げる。頭に血が上って顔は真っ赤だ。彼女を睨んでいる目も血走っており、物凄い形相をしていた。

今にも殴ろうかという瞬間、ちょうどその場を通りかかった男が対峙する二人の間に割って入ってきた。

男は見たところ歳のころは四十過ぎ。体型は痩せ細っていて小柄。顔は面長。右目が斜視。そのせいで右だけが視線を正面に向けることができず、自分の意思に反して眼球が外側へ寄ってしまうようだった。顔の肉が少ないせいか髑髏のようにも見えてしまい、落ちくぼんだ眼窩の奥で瞳が異様に底光りするものだから相手にひどく不気味な印象を与えていた。

「これは天文博士てんもんはかせ。私に何用か?今は忙しい。あとにしてくれ!」と戌亥は忌々しげに男を睨んだ。

天文博士とは陰陽寮におけるこの男の役職である。陰陽生を教授する役目の“陰陽博士”に対して、“天文博士”は星々の動きを観測することで吉凶を占う天文師の見習いである“天文生”の教授を担当している。星占いの指針となる天文書は天文博士にしか閲覧を許されていない。また天変地異の予兆を天皇に直接、奏聞する権限を持っている。

「おや、女子と揉めている場合ではありませんぞ。陰陽博士であられるあなたの叔父上さまが“戌亥は放蕩が過ぎる”と、たいそうな剣幕で怒っておられました」

天文博士は戌亥に皮肉を込めた笑みを浮かべながら低い声で忠告した。

「なんと!それはまずい……すぐにうちへ帰るといたそう」と戌亥はそれを聞いて一気に蒼白な顔になり、そのまま逃げるように立ち去ってしまった。彼の手下どもは自分が災禍に巻き込まれるのを恐れて蜘蛛の子を散らしたようにどこかへ走り去っていた。

「ふふっ。何とも情けない奴らだな」

白蓮は自分に絡んできた連中の醜態があまりに滑稽で呆れ果て、思わず吹き出してしまった。

「朽木白蓮殿。大事はないですかな? 彼奴らの言葉を真に受けてはなりません。所詮は大海を知らぬ井の中の蛙ですから」と天文博士は優しく声をかけてきた。

「助けていただいてありがとうございます。ところであなたは?」

「これは失礼。お目にかかるのは初めてでしたな。小生は天文博士の蘆屋黎明と申す」

「僕は朽木白蓮です。偉い人なのに知らなくてごめんなさい」

「気にすることはありませぬ。それに偉くもない。ひたすらに夜は星見櫓にて星の動きを眺めては記録し、昼は書庫に篭って先人たちの記録を読みふけるただの男……しかし、白蓮殿のお噂は耳にしておりますぞ。何でも安倍晴明様以来の天才だとか」

「いや、そんなことはないです」

「謙遜など不要。そんなあなたにご相談したいことがあるのです。まあ、それについては後日」

「えっ、そんないきなりですか?それはどんな……」

「いまここで詳細を語るのは控えますが、一言で言うなれば“魔について”と申しておきましょう」

蘆屋は黄昏時の薄闇の中で怪しく眼光を輝かせながら微笑んだ。

「魔?」と聞き返そうとした時、すでに蘆屋の姿はどこにもなかった。

白蓮はこの男に不吉さと不気味さを感じたのは言うまでもない。闇夜に彷徨う幽鬼のような神出鬼没さに背筋がぞくりともしたし、あまり関わりたくないと思った。だが同時に蘆屋のいう「魔」がどんな意味を持つのかという好奇心が胸中にはあった。

白蓮は相手の不思議さに何度も首を傾げながらその場をあとにした。



5.

ある日の夜。空に月は出ていない。

村は深くて暗い闇の中に没していた。夜もだいぶ更けており、どの民家も死んだように寝静まっていた。

ただ一軒だけ灯りが点いている家があった。元は小作人の家だったが今では朽木白蓮の邸宅となっている。家主とその家族がどこかへ移り住んだために空き家となっていたものだ。

本来ならば白蓮は朝廷から与えられた立派な屋敷に住むはずであった。が、その住まいが都の中心街にあるせいで落ち着かないために数日で手放してしまったのである。幼少期を郊外の山で過ごしていた白蓮にとって都会の暮らしというのは肌に合わないらしい。かといって陰陽寮に通う身としては郊外の山里に住むのは遠すぎた。そこで知り合いの町衆から右京と呼ばれる耕地に点在している農村の一つを教えてもらい、村長と交渉して病に苦しむ村人たちを助ける代わりにこの空き家をもらったわけである。調理場となる土間と寝起きする部屋があるだけのこんじんまりとした一軒家だが、山の草庵に比べれば住みやすく、平安宮にもそれほど遠くはない。それに隣近所に住んでいる者を炊事係の使用人として雇っているのでこの村でも充分に快適だった。

この夜。白蓮はいつものように燭台の灯りを頼りに書物を読んでいた。陰陽道に関するものや平家物語などの伝記も読み漁っており、気が付けば今宵も夜更かしをしている。

眠気を催してうつらうつらと転寝しているところに突然、土間の方から戸を叩く音がした。

────うーん。こんな夜遅くに誰だろう?

白蓮は一瞬、使用人が戻ってきたのだろうかと思ったがすぐにそれはないと気づく。この村で夜更けに起きているのは自分だけだからだ。

寝ぼけまなこで土間に降りて戸口に立つと外から声がした。

「もし。こちらは朽木白蓮様のお宅でございましょうか?」

子供の声だった。話し方からしてこの村の子供ではない。

「ちょっと待って。いま開けるから」と白蓮は戸口をゆっくりと開けた。

目の前に立っていたのは提灯を片手にした童子だった。

歳のころは五つぐらいだろう。

おかっぱ頭。

肌は蝋のように白く、女のような顔つきをしていた。

その唇の両端が吊り上がって笑みを作っている。

その身には赤い着物を着ていた。

足は裸足。

「あなたは誰?」

「夜分遅くにすみません。私は蘆屋黎明の使いとして参りました」

子供にしては大人びた顔つきであり、言葉遣いも丁寧でしっかりと躾けられているようだ。

「蘆屋殿?」

「今宵は白蓮様を蘆屋邸までご案内するようにと仰せつかっております」

「こんな夜更けに?」

「はい」

「何のために?」

「それは主人にお聞きください。私は使いに過ぎませんので」

「まあ、そうだろうね。よくわからないけど博士の招きじゃ断れないな。それじゃあ、案内を頼むよ」

「私が先導させていただきます。暗いので足元にご注意ください」

童子はそう言ってくるりと向き直り、ゆっくりとした足取りで歩き出す。

白蓮はあくびしながら家の戸を閉め、童子のあとについていった。


春とはいっても夜は肌寒かった。

白蓮は冷たい外気に触れてすっかり目が覚めていた。

先頭にいる童子は手に灯りで夜道を照らしながら歩いていく。足取りは機敏であり、その動きに無駄はない。

童子による案内でまずは右京から左京にむけて東に進んだ。すでに農耕地と化していた右京に比べ、左京は周囲を堀や石垣で守られた囲郭都市として発展していた。

二人は左京の町灯りが遠くに見えるほどの距離まで来たがそこには立ち寄らず、今度は南へ向かって直進し続けた。

こにはかつて北に位置する平安宮の朱雀門から南の羅城門まで一直線に敷設された道幅の広い大通りが続いていた。中国大陸からの使節を迎えるために造られたものであり、朱雀大路と呼ばれていた。平安宮と共に壮麗さを誇っていたが律令制の崩壊によって不要のものとなり、整備されなくなったことで自然と荒廃していった。この時代ではすでに右京と同様に耕地と化していた。

童子の案内でしばらく南下し続けていると荒野が見えてきた。ここにはかつて俗に羅生門と呼ばれていた南の城門があった。正式には羅城門という。一度は風雨によって倒壊した際に再建されたが二度目の崩壊以降は修復されず、そのまま管理を放棄されて朽ち果てていった。平安中期にはすでに廃墟と化しており、屍が投げ捨てられる場所になっていたことで庶民から「あそこは鬼が出る」という噂が広まっていた。まともな人間が近づかないために羅城門周辺は盗賊の住処になっていて非常に物騒な場所だった。この戦乱の時代においてはさらに剣呑さが増しており、盗賊すら好んで寄り付かないほどである。

ところが童子に導かれるままこの危険な荒地を歩いていると突然、目の前に古めかしい館が現れた。この時代にしては珍しい作りの建物だった。母屋と呼ばれる複数の建物(屋根と柱だけが組まれ、壁がない代わりに空いた枠部分的に格子や遣り戸で覆うことで寒さと風雨を遮った)を廊下で繋げた様式で平安時代の貴族が住んでいた住居。後に寝殿造りと呼ばれるものだ。

童子は立ち止まると白蓮の方に振り返り「ここが蘆屋様のお屋敷でございます」と言った。

周囲は堀と築地塀で囲まれている。白蓮は童子に誘われて門をくぐり、敷地内へ足を踏み入れた。

屋敷の玄関先まで来たところで童子は忽然と姿を消してしまった。白蓮が呆気にとられていると今度は玄関の両開きの板戸が勝手に開いた。中から姿を現したのは老人だった。服装は白い水干に烏帽子。

老人の顔は微笑んでいるがどこか不自然だった。笑顔のまま凍り付いたように表情に変化がない。

「わたくしめがご案内いたしましょう。さあ、こちらへ」と老人は微笑んでいる顔を崩さぬまま手招きした。


ひんやりとした床だった。黒光りする木の床だ。その表面に木目が、廊下の天井に等間隔で吊るされた灯篭の灯りによって照らされて、闇に浮き上がって見えた。

老人はしっかりとした足取りで先頭を歩いていく。

白蓮は世間話でもしようかとも思ったが老人から頑なに無言を通そうとしている雰囲気が漂っていたので黙ることにした。

それにしても長い廊下だった。左と右に何回ぐらい曲がり角を進んだかわからないほどだ。通り過ぎて行った壁の途中では襖の連なるヶ所が幾つもあり、それだけで部屋の数が恐ろしく多いことは理解できた。

永遠とも思える廊下を歩き続けた後、ようやく老人は立ち止まって右手の壁を向いた。

ちょうどそこに一際大きい襖があり、蘆屋はこの先で待っているらしい。

「主人が奥の方で待っておられます」

老人は床にかがんで膝をついて襖を引き開け、中に入るようにと促した。

案内された部屋は大広間。広間は畳表替えをしたばかりなのか青々とした井草の匂いが漂っていた。

この館の主である蘆屋黎明は酒宴の用意をして待っていた。畳の上に置かれた敷物にどっかりと座り込んで杯に注がれた酒を飲んでいた。相当に酒が強いのか顔は赤くなっていない。

「白蓮殿。こんな夜更けに呼び出して申し訳ない。なにぶん他の者には知られたくない話でしてな」

「それは構いません。それで知れたくない話とはどんな話なのです?」

「まあ、今宵は酒でも飲みながらゆるりと語ろうではありませぬか。それに小生の話は長いですからな。さあ、酒宴の席を用意しておりますのでお座りくだされ」

「確かに蘆屋様のお話は長そうですね……」

白蓮は苦笑いしながら蘆屋の真向かいに用意された席に座った。

「うわああ!」

気づかないうちに白蓮の隣には女官の装束をした若い女が立っており、空の杯に酒を注ぐとすぐに消えてしまった。さすがに白蓮も驚いた。

蘆屋は驚いた白蓮の様子を見て、子供のようにケタケタと笑って喜んだ。これには白蓮もムッとしたのかすぐに問い詰めた。

「蘆屋様。お戯れはやめて下さい!童子といい、翁といい、今の女といい、これらは何なのですか?」

「ハハハ。驚かれましたな。これは失礼。あれらは私の式神でござるよ」

「複数の式を自在に操れるのですか?」

「まさか。私はそれほど多才ではござらん。便利な道具を使っただけのこと」

「道具?」

「それこそが先日、白蓮殿にお伝えした魔による力でございます」

「ああ。魔についてでしたっけ?」

「左様。さて、それでは小生の話に付き合っていただきましょうか」

蘆屋はそう言うと景気づけに酒を一口だけ飲み込んだ後、ゆっくりとした口調で語り始めた。


 

かれこれ二十年近くも前のこと。

あの頃、小生は天文師になったばかりの若者だった。他の同期の連中よりも好奇心が強く、天体観測に意欲を燃やしていたものだ。

ある夜のこと。その夜も陰陽寮の敷地内にある天文櫓で天体を観測していた。吉凶に影響を与えるような星々の動きは見られず、これ以上の観測は無用と判断した。ところが突如として異変は起こった。

小生が引き上げる準備に取りかかろうと思った瞬間、丑寅の空に赤い星が現れた。あんな星などあっただろうかと考えあぐねているうちに妖星の光はますます大きくなっていった為、小生はそれが天空から地上へ落ちようとしている流星であることに気づく。予想通りに星は尾を引きながら落下し始めた。最終的に天文櫓から見て南の方角にあたる地に落ちた。

小生はその流れ星がいかなるものか気になり、櫓を駆け下りて無我夢中で星が落ちた場所に走った。

ちょうどそこは森の中だった。

遠めから見ても煙が立ち昇っているのは確認できた。

森の一部だけが円状に焼け野原と化しており、粉々に砕け散った隕石の破片が地面に落ちていた。破片と言っても拳ほどの大きさはあった。砕ける前は巨大なものだったのだろう。

 小生は好奇心から欠片の一つを拾い上げて手にとってみた。

 不思議なことに隕石には見たこともない怪しい光源を宿していた。紫色の光が鼓動のように妙滅を繰り返していたのだ。隕石に魅入られていると頭の中で囁く声が響いてきた。

「ナンジノ────ノゾミハ────ナンゾ」

 男の声と女の声が入り混じった不気味な声だった。

 ふと、昼間に無くした銭袋のことを思い出した。

 すると、目の前の何もない空中に黒い穴が開かれ、そこから白い手が伸びてきた。手には探していた銭袋が握られていた。

 銭袋を受け取ると白い手は引っ込んで穴も消滅した。最初はどういう仕組みなのか分からなかったが研究しているうちに隕石が空気中に漂っている霊子という力を取り込むことで奇跡を起こしていることが判明した。

 小生は人の望みを叶えるこの魔石を「魔界石」と命名した。

これまでの研究によって使い手が望むものを確実に具現化させることがわかった。

小生はこの隕石を扱いやすいように自分が使っている杖の柄に取り付けている。便利なものだぞ。



  「これが自慢の魔界石だ」

 蘆屋は勝ち誇ったように隕鉄が付いた杖を取り出して白蓮に見せびらかした。

「ほう。なかなか面白そうですね」

「白蓮殿。小生は貴殿と友になりたいと考えている。だから今宵から敬語は不要だ。それに頼みたいことがある」と蘆屋は白蓮の顔を覗き込むように凝視した。その瞳には熱意がこもっている。

「頼みたいこと?」

「貴殿にもこの魔界石の研究を手伝ってもらいたい」 

「どうして僕なんだい?」

「それは君が陰陽師として優れているからだ。この魔界石と君の能力を合わせれば新しい呪術を生み出せるかもしれない。新しい呪術を確立できれば怪異に抵抗できる術師を数多く育成できる」

「なるほど。あなたは変わっているけど考えは間違っていない」

 陰陽寮において現状では陰陽師の弟子は少数の貴族の子弟から募るのが決まりになっている。教える教官の人材も限られているために育成には時間がかかる上、一度に輩出できる陰陽師の人数も少ない。それに比べて蘆屋が提唱している魔界石は人間に異能の力を発現させることが可能であり、個人の学習能力も底上げできる。修練の期間が短縮できれば短い期間でより大勢の陰陽師をいち早く現場に派遣できるのだ。戦乱に向かっているこの世では怪異の発生が続発しており、大規模な陰陽師の組織化が必要とされていた。今後は少数精鋭だけでは対抗できない。

実は白蓮も以前から怪異に苦しむ弱者を救う方法はないものかと考えていたところだった。

「僕の力が役立てるなら喜んで力になろう」

「それは有り難い。よろしく頼む」

 二人は互いに手を取り合い、協力して魔界石の研究に力を尽くそうと固く誓った。

 だが、彼らはまだ理解できていなかった。この魔界石という存在が人知を超えた凄まじい力を秘めているだけではなく、後に自分たちの運命すら狂わせてしまうものだというのに……。



 6.

半年後。白蓮と蘆屋は魔界石を使って空間に風穴を開いたり、複数の式神の同時召喚や攻撃術の行使を実現させた。二人はこの魔界石を用いて呪力を増幅させる技術を「魔界曼荼羅」と名付け、陰陽寮で正式に採用してもらうために陰陽頭・土御門晴影の屋敷を訪れた。

 茵の上に座している晴影の姿は噂通りに巨漢であった。肩幅があって胸板も分厚い。瞳に宿った鋭い眼光には獰猛さと狡猾さが窺われる。その表情も態度も不遜であり、鬼のような険しい顔を見れば赤子も黙ってしまうことだろう。

「蘆屋殿。卿の研究を否定するつもりはない。だが、わしとしてはこの小娘が関わっているものにそれほど価値があるとは思えんのだよ」

「まあ、そう仰らずに。ここは小生の顔に免じて進言の一つとして帝にご奏上ください」

「学生の育成が短縮できるのは興味深いが……」

 晴影は新参者でありながら生意気な女の白蓮が関与していることが気に入らない。すぐに却下してやろうかとも思ったが逆に白蓮に恥をかかせてやろうという考えが沸き起こった。

「条件付きならば上奏してやっても良いぞ」と険しい顔から一転して表情を緩め、下卑た笑みを浮かべながら白蓮の顔に視線を落とした。その眼にあるものは侮蔑であった。

「条件とはどのような? 是非とも機会をお与え下さい」

 蘆屋は必死に追いすがって懇願する。

「条件は帝の御前にて白蓮がわしの嫡男である戌亥と試合を行い、見事に勝利すれば卿の進言を通してやろう」

「それは願ってもない機会ですな」と蘆屋は目を輝かせて提案に同意した。

「ならば試合の期日はおって知らせてやろう。楽しみじゃな」

 晴影は先ほどと違って上機嫌になっているがその顔は────小娘ごときになにができようか────と言わんばかりである。

 白蓮は終始ひれ伏していたが内心はうんざりしていた。蘆屋のように相手の機嫌を取るつもりはなかった。だが、絶好の機会なので「若輩者ではありますがその試合、謹んでお受けいたします」と上辺だけは身の程をわきまえた姿勢で応じ、蘆屋と共に土御門屋敷を後にした。

 二人が去った後、晴影は部下を呼び出し「この試合で白蓮に負けることは許されん。戌亥をここに呼ぶのだ。せがれにわしの秘術を伝授せねばならん」と命令を下した。

 数日後。御前試合は清涼殿の庭先において行われることが決定された。清涼殿の庭は広いながらも地面に白砂を敷き詰めただけの簡素なものであった。岩や池などの鑑賞物は一つも置かれてはおらず、障害物がないので身動きがしやすく試合会場としては最適であった。試合の判定と監視役は陰陽頭の土御門晴影が自ら請け負うことになった。

 試合当日。初夏の昼下がり。空は晴天で日差しが強くて蒸し暑い。清涼殿の縁側に面した白砂の庭には試合場となる大きな円陣が組まれており、この円陣を挟む形で左側と右側に貴族たちの席が配置されている見物場が設けられた。

 見物場に集まった彼らは暑さに喘ぎながらしきりに扇を仰いでいた。誰もが額や首筋から汗が零れ落ちている。

 清涼殿の奥では帝も御簾越しに試合会場を眺めていた。帝にとって亡き一休宗純は身分を超えた盟友であった。身の回りには自分を利用している貴族や武家の人間しかいない中、一休だけが本音で語り合える唯一の相手であった。彼からも朽木白蓮という少女のことは聞いており、彼女を陰陽寮に入れるように便宜を図っていた。そのために白蓮という少女が陰陽師としてどれほど成長したのかを見るのが楽しみだった。もちろん土御門家一門の卑劣な企みなど知らない。

 試合の刻限に達した瞬間、土御門晴影が清涼殿に向き合うかたちで円陣内の中心に立った。左の見物場に戌亥、右の見物場に白蓮が待機している。

「これより帝の御前にて朽木白蓮、土御門戌亥の二名による呪術戦をとりおこなう。両名、円陣内に入よ!」

 晴影は野太くて大きい声を会場に轟かせると円陣の外縁まで後退し、そこに用意された床几に腰を下ろした。

 朽木白蓮と土御門戌亥は円陣内に入って対峙した。白蓮は緊張した様子もなく、手にした杖をいじりながら飄々としていた。対する戌亥はよほど自信があるのか不敵な笑みを浮かべていた。

 「おい、白蓮。降伏するのなら今のうちだぞ?どのみち恥は避けられんがな」と嘲笑するほどに余裕を見せていた。なぜなら試合後半になると円陣内に晴影が設置した野良の妖怪を呼び寄せる術が発動し、白蓮だけを襲撃させるように細工が施されていることを知っているからだ。いくら天才と言われている白蓮とて後半ともなれば体力は限界を迎えるであろうし、それにどんな新しい技術か知らないが、多勢に無勢ではどうすることもできないと戌亥は断定していた。

 「開始!」

 晴影の一声によって試合が始まった。

 開始の合図が下された瞬間、戌亥が先に行動を開始した。式神を呼び出すための呪を唱える。たちまち彼の周囲に犬の首が八つ出現した。首は黒い炎に包まれた状態で空中を漂っていた。犬は血肉に飢えたその鋭い瞳は爛々と輝いていた。

 これは犬神の類だ。作り方はまず生きた犬を土に埋める。首だけを外に出した状態にして空腹にまるまで放置。飢餓に苦しんでいる時に餌を目の前に見せながら与えず、最終的に首を斬り落として 、さらにそれを辻道に埋め、人々が頭上を往来することで怨念の増した霊を使役する蠱毒。あまりの残酷さと恐ろしさに平安時代から禁止されたはずなのだが土御門家だけは特例で許されている。戌亥は幼少から犬を苛め殺しては喜ぶという加虐嗜好の持ち主であった。そんな彼にはもっとも適した呪術といえた。

「我は命ずる。あの女を八つ裂きにせよ!」

 戌亥の声に応じた八つの犬神が牙を剥き、白蓮に疾風の如き速さで襲いかかっていった。

 だが、白蓮は楽しそうにゆらゆらと体を動かしながら攻撃を避け、手にした杖で犬の頭を叩き落していく。まるで踊りを楽しむ童子のようであった。

「戌亥殿。どうされました? 僕はあなたと遊びに来たのではありませんよ」

「おのれ!なぜ、当たらんのだ?」

 悔しさに怒り狂う戌亥をよそに全ての犬神が消滅した。

「なあんだ。もう終わりですか。じゃあ、今度は僕の番だよ」

 白蓮は笑顔で話しかけた後、呪を唱えて杖の先端を戌亥に突き付ける────とその直後。凄まじい衝撃波が発生して戌亥の体を吹き飛ばした。本人が気づいた時には円陣の外に倒れていた。

「前半戦終了。勝者、朽木白蓮!」

 晴影は息子の無様な様子に憤りながらも白蓮の勝利を認めざるを得ず、苦々しい表情を隠しきれずにいた。休憩に入った直後、彼は愚かな息子を清涼殿の裏手に呼び出した。

「お前は何をしておる!あの娘を疲弊させるどころか、自分が吹き飛ばされてどうするのだ。せっかく後半戦に備えた秘策が無駄になるではないか」

「も、申し訳ございません父上。ですがあの女に犬神が効かないとは思いませんでして……」

「言い訳など見苦しいぞ。いつも鍛錬が足らんと言っておるだろうが」

「……」

 戌亥は弁明も許されず、俯いたまま説教を聞き入るしかなかった。緊張のせいなのか日陰にいるというのに額には玉の汗が滲んでいる。

 「うぬぬ……ならばこの笛であの術を作動させろ。この笛ならより強い妖異を呼び出せる。それならお前にも勝機はあろう」

晴影は戌亥に黒い横笛を差し出した。

「これを使えば術が強化された状態で発動するのですね」

 戌亥は押し抱くように横笛を受け取り、しげしげとそれを眺めた。

「そうだが、くれぐれもしくじるでないぞ。我らが家名に泥を塗ることは許されん」

「分かりました。かならずや名誉挽回してみせます」

「期待しておるぞ」

 二人は何事もなかったように試合会場へと舞い戻った。だが、晴影はこの時に気づくべきであった。戌亥の踵にできた擦り傷から血が滲んでいたことを……。

 西日が照り返す頃、後半戦が始まった。

 戌亥にはあとがなかった。晴影から授けられた異形のものを呼び寄せる

 ────魔招円陣にすべてを託すしかない。晴影によればすでに円陣内の地面には密かに盗み取った白蓮の髪が埋めてあり、黒い横笛を吹けば野良の妖怪どもが白蓮だけを殺しに現れるということだった。

 戌亥はおもむろに横笛を取り出して口にあてるとそのまま息を吹き込んだ。正直なところ演奏にすらなっておらず、空気の漏れた音がするばかりであった。だが、この笛は妖怪や妖魔などといった人外の異形どもには認識できる音を出せる道具であり、一度吹けば目的を果たしたことになる。そのため吹くと同時に笛は砕け散った。上空では漆黒の暗雲がたちこめ、どこからともなく生温い風が会場に流れてきた。試合を観戦していた貴族の中には腐ったような霊臭を感じる者がいたほどに奇怪な現象であった。これこそ妖異が出現する兆しである。黒い雲が都の上空を完全に覆い隠してしまい、辺りは闇夜と変わらないほどに真っ暗になった。雷鳴が轟きはじめた。

 落雷と共に黒い塊が清涼殿の庭に設営された試合場に降ってきた。あまりの衝撃に白蓮と戌亥は円陣の外へと弾き出されてしまった。

 ちょうど円陣に落下したその物体────いや、それは生きものだった。しかも自然界に生息している生物ではない異形の獣。猿の頭部、狸の胴体、虎の四脚、蛇の尾が生えたそれは「鵺」と呼ばれる妖怪であった。見物に来ていたほとんどの貴族たちは悲鳴を上げ、その場から逃げ出した。もはや試合どころではない。場は完全に恐怖と混乱に陥っていた。

 戌亥は起き上がると周囲の人間たちの様子など気にも留めず、得意げな顔で鵺に声をかけた。

「やったぞ!我が土御門家の秘術が成功だ。さあ、あの女を嬲り殺した上で喰ってしまえ」

 鵺はその声に反応して巨体を動かして戌亥に近づいた。獣の両目は怪しく光っていた。瞳には青白く発光する燐光が宿っていた。鵺は真横に首を傾げた後、先端に鋭い鉤爪がある前足の片方を戌亥のいる方へ延ばした────その直後、獣の爪が戌亥を直撃した。

「ぐ、ぐはっ!」

 戌亥の口から血が吐き出された。鵺の鋭利な爪が腹部から突き刺さり、背中を貫いていた。

 ────な、なぜ?何故、こうなったのだ?

 戌亥の表情には恐怖と驚愕が浮かんでいた。確かに魔招円陣は成功したように見えた。彼自身もうまくやったと確信していた。だからこそどうして自分が襲われたのか分からない。

「ど、どうして……」

 それが戌亥の最期の言葉となった。

 ごりっ、

 ばりっ、

 鵺は大きな口を開いて彼の頭にかぶりついた。

 ぶつりっ、

 血に飢えた獣が頭を噛んだまま力まかせに喰い千切り、首を胴体から乱暴に切り離した。生温くて赤黒い血が凄まじい勢いで飛び散った。頭部を失った体は人形のように崩れ落ち、さっきまで首が生えていたところの切断面からはなおも血潮がどくどくと溢れ出して土の上に広がり、その場はたちまち血の海と化した。鵺は頭をむしゃむしゃと咀嚼したが胴体に関しては興味は示さない。どうやら人間の脳髄が好物らしい。

 その悲惨な息子の最期を見ていた晴影の心は悲しみよりも悔しいさでいっぱいだった。

 晴影の息子────戌亥は術式に失敗したのだ。その原因は自分の体液を円陣内にこぼしたためである。魔招円陣は標的の毛髪か血だけを用いることで成立するものであり、そこに他の人間のものが混じると失敗となる。その場合、術者だけは襲われないという作用は消失してしまい、呼び出された異形のものは無差別に人間を喰い殺してしまうのだ。

 実は戌亥は白蓮によって吹き飛ばされた際に下肢をうちつけていた。踵のあたりに擦り傷ができており、その傷口から滲んできた血の雫の一滴が円陣内の地面に落としていた。

 晴影は自分の計算の甘さに苛立ちを隠せなかった。まさか自分の息子がここまで注意力の欠落した人間とは思わなかったのである。苛立ちは感じたが同時に次の行動をどうするべきかと思考を巡らせていた。このことが露見しないように手をまわす必要があった。企みが公に露見すれば自分の進退問題に発展するのは間違いない。だが、自分が提案した呪術試合である以上は責任はあり、まずは帝と他の貴族たちを避難させるべきだ。

「戌亥が死したため試合は取りやめと致す。帝は我ら陰陽寮がお守り致すゆえ、他の者は逃げることに専念されよ!」

 晴影は大声でそう叫んだ後、帝の傍らに立って防御結界を展開させながら逃げ惑う貴族たちが清涼殿の敷地内から退避するまで見守ることにした。そこをさらに土御門家の陰陽師たちが晴影と帝の二人を取り囲んで盾となった。他の陰陽師たちは鵺に戦いを挑んだが歯が立たず、抵抗も許されずに捕食された。鵺の周りには首なしの骸が積み重っていく。

 そんな中で唯一、鵺に第一撃を与えたのは朽木白蓮であった。おぞましい獣の片目から血が流れている。白蓮は魔界石が付けられた杖を変化させ、紫色の光でできた刃をもつ薙刀として鵺の片目を斬りつけてやったところだった。

「これなら思う存分暴れられそうだね」

 白蓮は帝と陰陽師以外の人間がこの場から逃げ去ったのを確認しながら呟いた。

 白蓮と鵺は三間ほど距離を置いた状態で対峙していた。彼女の後方は清涼殿の縁側に面しており、奥の方で逃げ遅れた帝を土御門家の人間たちが黄金色に光る防御結界を展開して守っていた。

「それに魔界石の力を試す機会にもなるであろうよ」と子供のように瞳を輝かせながら言ったのは白蓮の隣に立っている蘆屋黎明であった。異変が起こる前は見物者の一人であった。だが、突如として起こった思わぬ危機的状況を前にして、魔界石の力を証明できる機会だと喜んでこうして駆け寄ってきたわけである。

「黎明は相変わらずだね。僕はこいつを倒せるなら何でもするさ!」

 白蓮は武器を手にして勇猛にも敵に再び肉迫していく。鵺は自分の顔に傷を受けたことで相当に苛立ち、妖術によって天からいくつもの雷を落とした。轟音が響き渡り、地面から火柱が立ち昇って白砂と土を吹き上げる。白蓮は雷撃を身軽に躱しつつ鵺の背後に回り、蛇の首になっている尾を斬り落とした。

 「シャアアアアアアアアアアアアアアア!」

 鵺は背後に向き直って威嚇音をはっした。白蓮は敵に生じた隙を逃してなるものかと手にした薙刀を頭上に掲げて跳躍した。鵺にむかって縦一直線に斬り下げ、体を真っ二つに裂いた。

 ところが鵺の体は一滴の血も出さぬまま瞬く間に元の状態に復元された。しっかりと失われたはずの尾も生えている。

「恐るべき自己治癒力だな」

 白蓮は苦笑いしつつ後退して間合いをあけた。

 「やっぱりぼくの力だけでは難しいか……」

 白蓮はそういうと杖をもとの状態に戻した後、今度は杖の先端を地面に突き刺して叫ぶ。

「八将神の一つ。魔王天王“大将軍”我が招きに応じよ!」

 そう叫んだ瞬間、彼女と鵺の間に赤く光る円陣が出現した。続けて円陣の中に唐風の甲冑を着込んだ大男が降臨した。この大男こそ陰陽道において方位の吉凶を司る八将神の一つであり、上級者でなければ召喚できない軍神の大将軍である。白蓮は大した修行もせず、魔界石によって大物を呼び出してしまった。

 その様子を目撃した晴影が度肝を抜かれたのは言うまでもない。これは土御門家の朽木白蓮に対する評価が「侮蔑」から「脅威」に変わる瞬間だった。まさか後の自分の運命に影響するなどとはこの時の彼女には想像もできなかっただろう。

 召喚された大将軍の体は屈強な筋肉に覆われていた。肩や腕の筋肉は隆起し、胸板も広くて分厚い。その見事に鍛え抜かれた肉体を鋼の鎧が包んでいるせいでさらに強大さが誇示されていた。

 大将軍は白蓮に一瞬だけ一瞥するとすぐに鵺の方を向いた。鬼のように凄まじい怒りの形相で獣に襲いかかる。大将軍は抵抗する隙も与えずに鵺の背中にのしかかり、獅子のように鬣を生やした頭を掴んで執拗に地面に叩きつけた。

「ビョービョー」

鵺は悶え苦しみながら悲鳴を上げた。

 次に鵺の四つの足を順番に引き抜いていった。足が生えていた付け根からは黒い血しぶきが噴出していた。芋虫のような状態になった獣は苦しそうになりながらも逃げだそうと足搔いたが大将軍は許さず、最後のとどめとばかりに腰に帯刀していた鞘から刀身を引き抜き、鵺の首を斬り落とした。絶命した怪物の残骸が首も含めて黒い煙となって消えるさまを眺め、大将軍は満足げに微笑んで天界へと帰っていった。

 晴影は鵺の消滅を確認した後、配下の陰陽師に帝を任せると警戒するように恐る恐る白蓮に近づいた。

「朽木白蓮。見事であったな。悔しいが貴様の力を認めてやろう」

「いや、まだ終わっていませんよ」

白蓮は晴影に背を向けたままで天を仰いでいた。

「何を言っておる。鵺は貴様が呼び出した大将軍によって滅されたではないか?」

「そうじゃなくて……あれを見てください」

 白蓮はいつにもなく真剣な顔つきで空を指さした。

「あっ、あれはまさか……!」

 晴影は蒼ざめた顔になって絶句した。

 それは巨大な黒い竜のように見えた。だが、よく見ると一つの生物ではない。おびただしい数の亡者と妖異どもが折り重なるように密集することで構成された群体・百鬼夜行であった。古来より疫病や飢饉、旱魃などと並んで人には抗えない厄災として恐れられてきた現象である。数百年に一度出現するかどうかのものであるはずであった。それが今、未だに暗雲晴れぬ空を竜のようにうねりながら飛び続け、清涼殿の上空をぐるぐると周回していたのである。

────少し術に力を入れ過ぎてしまったようだ……

 晴影は自らが作り上げ、息子に与えた結界術が強力過ぎたことが百鬼夜行を呼び寄せた原因につながったことを自覚した。呪術というものは強力なほど失敗した際に暴走しやすいといわれているからだ。

 しばらく白蓮は上空を旋回している災厄を凝視していた。

 「あの大技を試してみるべきではないか?」と地の底から魔が囁くような低い声で白蓮に話しかけたのは黎明だった。

 「……ぼくはここであれを使っていいのだろうか?」

確かにと同意しつつも白蓮はその大技を使うことに躊躇いがあった。黎明とともに魔界石の未知なる力を利用して生み出した術であり、一日に一回しか使えない事と体力を大幅に消費してしまうという代償はあるものの狂った荒神すら消し去ることができる代物であった

「しかし、白蓮殿。あんな厄介な相手に時間をかければこちらが不利になるぞ」

「そうかもしれないな……」

 黎明が言っていることも間違ってはいなかった。百鬼夜行の群れは妖力だけではなく知恵も共有しているためにずる賢い。群れが危機に追い込まれれば他の人間たちを襲うことで生気を吸い取り、妖力を高めて新たに魔物の群れを呼び出して合流してしまうという。つまり蜥蜴の尻尾切りのようなもので永遠に終わりが来ない。イタチごっこのようにきりがない状況から脱却するには百鬼夜行の群れを一撃で消滅させねばならなかった。だが、陰陽師たちといえども人間である以上は不可能であった。記録によれば百鬼夜行が最後に現れたのは平城京の終わりごろとされている。百鬼夜行と遷都が同じ時期なのは偶然ではない。実のところ陰陽寮の観測によって近いうちに百鬼夜行が平城京を襲うことが判明したので被害を回避させるために平安京への遷都が決定されたのだ。つまり百鬼夜行に好きなようにさせて満足するまで放置し、嵐が過ぎ去るのを待つという選択肢しかできなかった。国を滅ぼされないために都一つを生贄として差し出したわけである。

白蓮は色々と考えを巡らせた後に意を決したように口火を切った。

 「どうやらぼくは覚悟を決めなければいけないようだね。その代わりに黎明、清涼殿付近にいる人全員を避難させるように手配してもらえるかい?」

「もちろんだとも。小生に任せてくれ。それにしてもあの大技を見れるとはなあ」

 黎明は天文博士としての地位を利用して土御門晴影を説得し、手際よく避難準備を済ませてから数刻の後に白蓮のもとに戻ってきた。

 黎明が清涼殿に戻ると白蓮は庭先の中心で座禅を組みながら瞑想しているところであった。未だに百鬼夜行は上空を浮遊しながらも徐々に高度を下げており、地上に降りてくるのは時間の問題だった。

「気持ちは落ち着いたか?」

「ああ。大丈夫だよ。ぼくがここで食い止めなければいけないからね。黎明はここから少し距離を空けて見守ってくれ。近過ぎるとどうなるか分からないからね」

「案ずるな。それぐらい心得ておる」

 黎明はそう言うと白蓮から十数歩離れた場所に後退した。

 白蓮は肺に空気を深く吸い込み、息をゆっくりと吐き出したのちに呪を唱え始めた。彼女の詠唱に合わせるように杖の柄に取り付けられた紫色の魔界石も妙滅を繰り返しながら怪しく輝いた。

 彼女は次に杖の先端を地面に突き刺して叫んだ。

「穢されし者よ。哀れな亡者よ。逝くべき場所へゆけ! 冥界転送──黄泉比良坂!」

 呪文が唱え終わった直後、強い風が辺りに吹き始める。空を覆い隠していた暗雲は一気に消え去り、夕焼け空が広がった。やがて空の一ヶ所に亀裂が横方向に走り、まるで人間の瞼が開かれるようにそれは口を開いた。

 空に出現したのは巨大な風穴だった。穴は虚無の黒い闇を覗かせている。そこからは生温い空気が漏れ出していた。

「素晴らしい。白蓮殿、貴殿は素晴らしいぞ!この世ならざる蕃神を召喚するとは」

 黎明は白蓮と彼女が引き起こしている現象を交互に眺めながら感嘆した。それはまるで悪神を崇め奉る信仰者のような盲信と狂気の色を帯びているようだった。

「狂気と混沌の神よ。我が敵のことごとくを葬り給え!」

 白蓮の声に応じるように風穴の中が漆黒から赤い光に変化した後、地上にあるものを吸い込み始めた。清涼殿をはじめとした建築物はばらばらに分解され、逃げ遅れた者や牛車は宙に引き上げられて風穴に吸い込まれていく。まるで竜巻のように凄まじい勢いであった。それでも百鬼夜行は飲み込まれまいと必死に抵抗し続けた。

「狂気の抱擁によって敵を消し去り給え!」

 白蓮の言葉に風穴は応じた。赤い妖光を発している穴の奥から棘がついた複数の触手が外に這い出してきた。触手は恐るべき速さで百鬼夜行の群れを絡めとり、穴へと引きずり込んでいく。おびただしい数の亡者や魔物どもの怨嗟の声が漏れ出してきたがそれも束の間、瞬時にして風穴は百鬼夜行を完全に飲み込んだ。触手が魔物の群れを完全に取り込むと同時に風穴の口は完全に閉じてしまった。

 辺りに吹き荒れていた風は止んでおり、残ったのは崩れ落ちた建物の残骸と黄昏時の静けさだけであった。

白蓮は生まれて初めて酷い疲労感に苛まれていた。立っているのも辛くて地面に座り込んだ。相当に気力と生気を奪われてしまうほどに消耗が激しいようだ。全身に汗をかいていた。

「白蓮殿……いや、白蓮様。今後は主上と呼ばせて頂きたい」

 と、土下座をして彼女に懇願するのは蘆屋黎明であった。

「やめてくれ。僕らは同胞じゃないのか?気持ち悪い」 

「まあ、そう仰らずに。小生は白蓮様が異神まで呼び出すとは思わなかったのです。確かに風穴までは開けると信じておりました。それが予想以上の結果でしたもので……」

「そんなもんかな?ぼくは被害を最小限に抑えたかっただけだよ。あとは何も考えてなかった。初めての詠唱で呪力を制御するのが精一杯だ」

「主上はそう仰いますが世の人はあなたを放ってはおきませんよ」

 黎明の読みは正しかった。この日の出来事によって朽木白蓮の名はさらに広まった。茜色の空に出現した怪異を目撃した人々の意見は様々であった。恐ろしくも禍々しい異神の術を使う不吉な女だと怯える者もいれば、乱世に苦しむ民を救うために八百万の神々が遣わした巫女だと称賛するものもいた。特に帝と皇族らは鵺と百鬼夜行を見事に退けた白蓮を評価し「天導院」という号と報奨金を与えた上で正式に陰陽師への昇格を認めた。

 

 

 7.

 百鬼夜行出現から一月後。

 それはある晩のことだった。

 帝は御所の寝室で眠っていた。夜も更けた頃、喉の渇きで目覚めた帝が侍従に水を所望しようと思って上体を起こした時、突如として黒い人影が寝室の入り口に吊り下げられた御簾を突き破り、凄まじい勢いで室内に踏み込んできた。その黒い人影は懐から蛇を取り出すと帝に向かって投げつけた。蛇は口を開けて牙をむいた状態で飛んでいく。だが、蛇が帝の身にあたる寸前で異変に気付いた侍従が横から走ってきて帝を突き飛ばすことで自らが盾となった。蛇は侍従の首筋に牙を突き刺して毒を体内に流し込むとそのまま消滅してしまった。毒牙にかかった侍従は苦しみだしてそのまま倒れ込んだ。

「誰かー!誰かおらぬのか?」

 帝は侍従を介抱しながら必死に叫んだ。この時、一瞬だけだが帝は寝室から庭先に飛び出していく黒い人影の正体が見えた。月光に中に浮かび上がったのは長く伸びた綺麗な銀髪を靡かせながら走り去る女の背中だった。その身には黒い生地に色とりどりの花の文様がはいった狩衣を纏っていた。

 帝が女を見ているその間にも侍従の様態もみるみるうちに悪化していくばかり。顔色は土色になり、悪寒があるのか身をぶるぶる震わせた。口から泡を噴き出しながら痙攣し続け、土御門晴影が門人を引き連れて帝のもとに駆けつけた時には口や目や耳といった穴から血を出して絶命した。

「どうされたのです?」

 晴影は平伏した状態から面だけを上げて問いかけたが帝は放心状態ですぐに返事が返せなかった。しばらく間があいた後にようやく口を開いた。

「……蛇じゃ。曲者が朕にむかって蛇を投げつけてきたのじゃ。それを庇ってくれた侍従が蛇に噛まれて……」

「蛇? その蛇はどこへ行きました?」

「……消えてしもうた」

「消えた。なるほど。これは蛇蠱でございますね」

「蛇蠱? それはなんじゃ?」

「蠱毒の一つでして蛇を用い、人を猛毒にかからせて死に至らしめる呪いでございます」

「それは恐ろしいのう……」

「ところでこの蛇蠱を用いた者の姿はご覧になられましたか?」

「朕はこの目で見たぞ!顔はわからんが女の後姿を見た。黒い生地に花柄をあしらった狩衣を着ておってな。それに髪の色は銀であった」と帝は自分のまなこを指さしながらはっきり言った。

「それは朽木白蓮でございますな」

「何を愚かなことを!銀髪と言っても見間違いかもしれぬ……それにあの者は我らを守ってくれたではないか。それがなぜこのような」

「人ならざる力を持っているのですから何を企んでいてもおかしくはありません。それに私めは先ほど御所付近の廊下で証拠を拾ったのです」と手にした一本の髪の毛を見せつけながら言った。それは確かに銀色に輝いていた。

「……むう」と帝は白蓮がそのような女子ではないと信じたかったが、銀髪はこの都において彼女しかいない。晴影の言う通り人は過ぎたる力を持てば野心を抱いてもおかしくないだろう。

「残念じゃが……白蓮の仕業とするのが正しかろう。あとのことはそちに任せるぞ」

「はっ。ただちに山城守護職に命じて朽木白蓮を捕らえさせましょう」

「朕はしばらく誰の顔も見たくない。もう、何を信じてよいのやら」

 帝は悲しげな表情を浮かべると俯いてしまい、うなだれながら寝台へと戻っていった。

 

 土御門晴影は御所から自分の邸宅へと向かう牛車の中で珍しく高笑いした。

「ハハハハハ!これで帝の白蓮に対する信頼も打ち砕かれたな。土御門家の権勢も安泰じゃ。のう丑寅よ」

「もちろんですとも。さすがは父上。見事な計略に感服致しました」

 と晴影を褒め称えたのは隣に座っている次男の丑寅であった。

「いくらわしの機嫌がいいからと言って父親にへりくだるようではいかんぞ。これからはお前が戌亥に代わって土御門家、ひいては陰陽寮全体を引っ張っていかなくてはいかん。だからこそ堂々としておれ」

 「肝に銘じておきます。それにしても髪の毛一つで天才と讃えられていた朽木白蓮が破滅するとはあっけないものですね」

 「おとなしく山に籠もっておればよかったのだ。それに蘆屋黎明という奇人と関わったのが破滅の運命を決定づけたな」

「なるほど。ところで奴をどうやって捕らえるおつもりなのです?」

「案ずるな。ちゃんと手段はある。わしの結界術を侮ってもらってはいかん」

「父上の結界術は長き修行によって編み出したものですからね。決して侮ってはおりませんよ」

「必ず捕らえた後、あ奴らに相応しい最期を用意してやろう」

 ほくそ笑む晴影の瞳には怪しい光が宿っている。絶対的な自信を持っていることは明らかであった。

 

 


 8.

 二日後の早朝。朽木白蓮と蘆屋黎明の邸宅に書状が届けられた。

 差出人の名は土御門晴影。書状にはこう書かれていた。

 

 今回の鵺及び百鬼夜行の討伐は見事であった。帝も大変にお喜びだ。陰陽頭としてわしも鼻が高い。そこで貴殿ら二人を我が土御門邸に招いて祝宴を上げようと思っている。

 日時は明日の昼頃。こちらから牛車を迎えにやるので自分の邸宅にて待機してもらいたい。


 白蓮と黎明は手のひらを返したような晴影の態度に困惑していた。あれほど忌み嫌われていたのに邸宅に招待して祝宴をあげようとは一体どんな風の吹き回しであろうか?

 だが、二人に晴影の招きを拒否することはできなかった。大きな手柄を上げたといっても相手は自分たちよりも上である。結局、二人は訝しみながらも晴影の誘いを受けることにした。

 翌日の昼。白蓮と黎明は土御門家が寄こした牛車の中にあった。

 ぎいい、

 ぎいい、

 ごとり、

 牛車の車輪が地面を踏んでいく。

「それにしても黎明。晴影は何を考えているのだろうね?」

「全くですな。あの古だぬきめは政略の化け物。どんな手で我らを陥れようとするかわかりません。ですが祝ってくれるというのですから今日は楽しむとしましょう」

「それもそうだね。ぼくもあの男は気に入らない。だけど彼らとはいずれ袂を分かつわけだからよしとするか」

「そうですとも。鵺すら倒せない彼らに何ができましょう?今後は白蓮様こそがこの都の守護者と讃えられるべきなのです。だからこそこちらはあえて寛容な態度で相手の地位を尊重し、人としての器の大きさを周囲の者たちに見せつけてやりましょう」

 二人が話しているうちに牛車は土御門家の門前にさしかかっていた。

 ぎいい、

 ぎいい、

 ごとり、

 ぎいぃ、

 牛車はゆっくりと止まった。

「土御門邸に到着致しました。屋敷の方で主人が待っておられます。どうぞ足元に気をつけてお降りください」と車の外から行者の声がした。

 白蓮と黎明は牛車から降りると、大きな門をくぐり抜けて土御門家の敷地内に足を踏み入れた。屋敷内は恐ろしく広かった。二人は土御門家の使用人に先導してもらいながら廊下を進んだ。

 白蓮はふと、屋敷に来てから不思議なことに先導してくれている使用人以外の家人とは誰ともすれ違っていないことに気づいた。そこらじゅうで人の息を殺しているような気配を感じるのだが誰も姿を見せようとはしない。妙であった。

 そんな疑問を抱いているうちに大広間にたどり着いた。使用人は無表情で襖を開けて「すでに主人が待っております。さあ、奥の方に進んでください」と言って姿を消してしまった。

 意を決して踏み込んでみたのだが誰もいなかった。それに宴の用意もされていない。

 白蓮と黎明が不思議に思いながら襖を超えて何枚目かの畳を踏んだ瞬間、異変が起こった。二人を囲む形で赤く光る円陣が畳の上に浮かび上がった。さらに円陣内に五芒星の図が出現したのと同時に白蓮は激しい頭痛に苛まれて畳の上でうずくまった。

「あっ、頭が……」

「白蓮様どうされ……うっ、押しつぶされるほどの圧迫を感じる……これはもしや?」

 黎明がおもむろに懐から紙の人形の式神を取り出し、円陣の外にむかって飛ばした。だが、式神は円を超えようとするところで燃えて消し炭となった。

「白蓮様……こ、これは呪術師の力を封じる結界です!」

「ぼくらはハメられたってこと?」

「その通りだ」と白蓮の言葉に応じるように野太い男の声がした。白蓮が顔を上げてみると円陣から距離にして五間ほど離れた先に土御門晴影が立っていた。口の片端を釣り上げて不敵に嗤っていた。

晴影が「奴らを包囲せよ!」と叫んだ瞬間、大広間の全方向に配置されていた襖が一斉に開かれて土御門家の陰陽師たちが室内になだれ込んできた。身動きを奪われた白蓮と黎明を包囲した。

「朽木白蓮。さすがのお前もこの八門遁甲陣の前には手も足も出ぬようだな。かの有名な平将門公を討ち滅ぼしただけのことはある」

「晴影様。これは何の真似ですか?」

「お前は市井の民を異国の邪教によって惑わし、扇動して謀反を企てようとした罪、帝を弑逆しようとした罪で投獄されることが決定した。屋敷の外は山城守護職様の配下の兵によって包囲されている。おとなしく投稿しろ。まあ、死罪は確定だろうがな」

「ぼくが何をしたというんだ!そんな罪を犯した覚えはない。よくも濡れ衣を着せてくれたな」

「ふん、知れたことよ。わしの権勢をもってすれば無を有に変えるなど容易いものだ」

「こんな術、破ってやる!」

「……そ、そうですとも白蓮様。身に覚えのない罪で投降してはなりません。帝も事情を話せば無実だと信じてくださいましょう」

 白蓮を励まそうと必死になっている黎明の言葉を晴影は嘲笑った。

「残念だが帝もお前たちが罪人だと判断しておられる。救いなど何処にもありはしない。もし、抵抗するというのなら白蓮、お前が関わってきた市井の民を異教徒として処断する。それでもよいのか?」

「おのれ……晴影!なんて非道な奴だ」

「黎明。悔しいけどもういいんだ。僕は投降するよ。その代わり罪もない人には手を出さないと誓ってくれ。そうじゃなければ僕は納得できない」

「良いだろう。わしはお前たちさえ排除できれば文句はない」

 朽木白蓮、蘆屋黎明の両名はこうして山城兵によって捕縛された後、右京一条二坊十二町に位置する獄舎「西獄」に投獄された。

 投獄されてから一週間後。白蓮は火炙りの刑、黎明は斬首刑に処されることが通告された。

 


 9.

 処刑当日。場所は京の三条河原。冬の冷たい風が吹きすさぶ日であった。

 白蓮は裸に肌襦袢のみを着せられた姿で木の柱に磔にされた後、足元に薪を組まれてあとは着火されるのを待つだけの身となった。

 一方、黎明は手を後ろに回されて縄で縛られ、茣蓙が敷かれた地面に座らされた。そして、二間ほど離れた前方には磔にされた白蓮の姿が見える。これは黎明が白蓮に心酔していることから考案された刑の手法のようだ。黎明に白蓮の死を見せつけることで絶望させ、彼を絶望の中で斬り殺すという残酷なものである。

 刑場を囲んでいる柵の外には多くの民衆が集まっていた。物見遊山の野次馬もいれば、白蓮に助けられた人もいた。人混みの中、この光景を満足げな顔で眺めていたのは土御門晴影だった。太い両腕を組んで白蓮の姿を見ながらほくそ笑んでいた。柵付近には監視役の兵士だけではなく、土御門家一門に属する陰陽師らも配置されていた。何としても白蓮を始末するという意思表示であり、白蓮に感化された者への見せしめを兼ねていたのかもしれない。

「火をかけよ!」

 刑場での指揮を執る代官の声によって刑は執行された。

 白蓮の両脇に立っていた二人の執行人は手にした松明の炎を薪にかざした。点火。火が薪に広がっていった。執行人は着火を確認すると柵のあたりまで下がった。

 やがて灰色の煙が天に向かって立ち昇り始める。赤々と赤熱した薪がパチパチっと爆ぜる音を鳴らした。

 白蓮は煙を吸い込んで苦しそうにむせこんでいる。火勢は激しくなり、燃え盛る炎が足にも伸びていく。

「何と惨いことを……白蓮様あああああああああー!」

「……」

 白蓮は何かを伝えようと口を動かしているのだが声が出ないようだ。だが、黎明には白蓮の口の動きが何を伝えたいのか理解できた。

 ────い・ま・ま・で・あ・り・が・と・う

「何を言われるのですか。小生の研究を昇華させたのは白蓮様ではありませんか?礼を言うのはこちらのほうなのに……うっ」

 黎明はげっそりと頬がこけた顔を涙と鼻水で汚した。目元には隈ができており、伸びるにまかせた髪や無精ひげがさらに悲壮感を強めていた。

 ────た・の・し・か・つ・た・よ

 白蓮は最期にそう伝えると、黎明に微笑んだ後に首をぐったりさせて動かなくなった。炎はさらに燃え広がっていた。髪や皮膚が焼き焦げていく嫌な臭いが大気に溶け込んでいく。美しかった髪にはすでに光はなく、陶器のように白くて滑らかな肌は皮が破れ赤黒く焼け爛れた肉が剥き出しになっていた。やがて、白蓮の額がじゅうじゅうと泡立ち始めた。脂が炎の中に滴り、火力が増していく。顔の肉が煮えてきた。ぶつぶつと顔中に水疱が浮いてくると次第に眼玉も煮えて白く濁ってしまった。

人相もわからないほど焼け崩れており、生前の面影は残っていない。

 黎明はむせび泣きながら自分は白蓮を敬愛という感情だけではなく、一人の異性としても愛していたことに気づいた。本心に気づいたことで悲しみがさらに彼の胸の内に広がり、むせび泣く声はさらに激しくなって慟哭へと変わった。

「次はお前だ」

 処刑人の冷ややかな声がした。

 泣き叫びながら暴れる黎明は兵士たちに取り押さられ、首を突き出した格好にさせられた。冷やりとする刀身が首筋に触れた瞬間、辺りに誰かの悲鳴が上がった。

 黎明が眼を開けると視界に移り込んだのは地面に転がっている炭化した屍だった。未だに炎が揺れ動いている。位置的に処刑人と兵士ものと思われた。瞼を閉じていたのはわずかであることから彼らは即死だったに違いない。おもむろに面を上げてみる。視線を前方に磔にされたままの白蓮の亡骸に移してみると、その頭上には黒い雲のようなもやもやとしたものが浮かんでいた。物が燃えることで生じる煙と異なっているのは明らかだ。煙なら上に立ち昇っていくのに、それはいつまでも同じ場所に留まっている。さらに目を凝らすとそれは獣の形をしていた。

「……九尾の狐?」

 黎明には黒色の九尾の狐に見えていた。瞳は赤く光っており、黒い体は霊体のように実体をもっていない。口から蒼い炎を覗かせていた。その険しい表情には怨念がこもっている。

 黒い九尾の狐は彼がいるところに視線を向けると、いきなり炎を吹いてきた。黎明は思わず身構えたが蒼い炎は頭上を通り過ぎ、柵の外にいた民衆の何人かに引火した。民衆は化け物の出現、それにその化け物が吐いた火によって処刑人が焼死したことで強い恐怖を感じ、金縛りにかかったように逃げるという思考を失っていた。

 「ぎゃあああああああああああああああああああああああ!!」

 犠牲者が増えたことで我に返り、ようやく逃げ出し始めた。

「熱い、熱い、熱い、熱いいいいいいいいいいいいいいいいいいい!」

「わああああああああああああああああああああああああああああ」

 炎に体を包まれた人々は水を求めて河原を走り回ったが、多くは炎のまわりが早すぎて川に頭を突っ込もうとする辺りで絶命した。

 阿鼻叫喚。辺りは騒然となっていた。

「あれは朽木白蓮の怨霊だあ!」と人々は口々に叫んだ。

 柵を囲んでいた兵士らも逃げ出す始末。

 その場に残った土御門家の陰陽師らは晴影の指揮によって陣形を組み、化け物に対処しようと動き出していた。

 ────今こそ。逃げる時だ。あれは白蓮様の怨霊であり、小生に生き延びて復讐を手伝えと仰っておられるのだ

「この蘆屋黎明、必ずや主命に報いまするぞ!」

 黎明は瞳を爛々と輝かせ、脱兎の如き凄まじい速さで駆け出した。そのまま体当たりで柵を押し倒して逃走を開始した。

 「奴を逃がすな!」と晴影の怒声もむなしく、黎明は次々に追いかけてくる追手をかわして逃げ続けた。

 やがて完全に逃げ切る直前、土御門家の者にこう言って行方をくらませた。

「我は牙を鳴らして怒る鬼。怨念をたぎらせる悪鬼。鉄の如き意思で怨敵への復讐を誓い、冥府魔道を行くは鳴鬼鉄斎であるぞ」

 

 この後、しばらく鳴鬼鉄斎は出現しなかった。だが、黒い九尾の狐は京のいたるところで頻繁に出没するようになり、都を火の海にして大勢の死傷者をだした。

 土御門家の人間も多くは殺された。だが、最終的に陰陽頭の晴影が自分の命と引き換えに黒い九尾の狐を琥珀の玉に封じ込めた。晴影は臨終に際してこの琥珀の玉を次男の丑寅に託した後、「家督はお前に譲る」と遺言を残して絶命した。全身の穴という穴から血を出したというおぞましい死にざまであったという。

 その翌年、今度は帝が熱病に倒れた。高熱が続いた末に衰弱して崩御した。人々は無念のうちに死んだ朽木白蓮の怨霊が強力な呪力によって魔物になったのだと噂するようになった。

 家督を継いだ土御門丑寅であったが今度は鳴鬼鉄斎に悩まされることとなった。鳴鬼鉄斎は現れるたびに姿を変え、都で数々の怪異を引き起こしては土御門家を追い込んだ。いつも土御門家に滅ぼされたのだが必ず次の時代に復活した。鳴鬼鉄斎と土御門家の抗争は永遠に続く呪いのようなものである。その影響からなのか、土御門の血族は皆、朽木白蓮と同じ銀髪で産まれてくるようになってしまった。

 現代においてもこの因縁は続いている……。


 第一章


 1.

 「あいつを止めてくれ……」

 それが彼の最期の言葉となった。彼とは土御門琉惺。俺の上司である土御門聖歌の兄である。怪奇探偵舎の事務所の雑務を一手に担っていた彼があっけなく死んだ。

 俺がすでに瀕死の状態だった琉惺さんを発見したのは二ヶ月前。十二月下旬。雪が降りしきる朝のことだった。

 俺はいつものように怪奇探偵舎を訪れた。不用心にもドアのカギは開いていた。事務所の中に入った瞬間、血生臭いものが鼻をついた。ドアが開け放たれた玄関口の床には赤黒い血溜りができていたのである。その位置から部屋の奥まで引きずったような血痕が続いていた。血痕を追った先にはいつもなら聖歌さんが座っているはずの舎長用の事務デスクがあった。そして、その脇の壁に男が背中を預けて座っていた。室内は薄暗いせいでそれが何者なのかすぐに判別がつかず、近づいてからはじめてそれが琉惺さんであることが分かった。

 彼は上半身に十数ヶ所の浅い傷。それに腹部に一ヶ所だけ深い傷を負っていた。白いシャツのお腹の辺りが破け、血がどくどくと流れ出ているのが見えた。必死に片手で抑えているようだったが出血は止まらない。

「一体、何があったんですか!?」

 俺はすぐに救急車を呼ぼうとしたが琉惺さんはかぶりを振って静止した。

「あかん……もうわては手遅れや。そんなことより……ゴボッ!」

 琉惺さんは言葉の途中で吐血し、蒼白な顔で血で濡れた口を袖で拭った。呼吸は乱れ、冷や汗をかいている。

「わてをやったのは聖歌や……」

「そんなバカな!」

「じっ、事実や……詳しく話してやりたいが……もう時間切れやな」

「しっかりして下さいよ!」

「代わりにこれを君に託す」と琉惺さんはUSBメモリーを俺に握らせた後、最期にあの言葉を残して息絶えた。

「妹を……あいつを止めてくれ……」

 真意を確かめようと聖歌さんに電話をかけたが連絡はつかなかった。俺はあまりのショックで部屋に引き篭るようになってしまった。琉惺さんが亡くなったのはショックだったし、失踪した聖歌さんのことも心配だったが恐怖がそれを上回っていた。確かにこれまで怪異が絡んだ事件に巻き込まれて何度も危険な目に遭ってきたのは確かだ。ただ、だからこそ俺は怖かった。今まで最強の陰陽師である土御門聖歌という人物に守られていただけに彼女が人間に牙を剥くようになった可能性を考えただけで背筋が凍り付きそうだった。気持ちを落ち着かせるまでには恐ろしく時間がかかった。

 託されたUSBに保存されたファイルをPCで開いたのは事件から一か月後のことだった。

 USBメモリーに保存されていたのは動画ファイルだった。再生してみるとPCのディスプレイに映し出された映像には土御門琉惺さんの姿があった。日付は殺害される二週間前。どうやら自分の死を予感していたらしく、遺言メッセージを残していたようだ。

「君がこれを見ているということは恐らく僕は死んでいるのだろうね。これから重要な話をしなければならない」と映像の中の琉惺さんにいつもの陽気さは見る影もなく、真剣な眼差しをカメラに向けていた。語り口調に訛りはないのは驚いたが、意識すれば標準語でも普通に話すことができたのだろう。

撮影した場所はどこかの部屋のようだ。自室だったのだろうか?考えてみればプライベートに関してはほとんど知らなかった。彼自身もあまり個人的な話をしたがらない人だった。

 映像はしばらくの静寂が流れた後、琉惺さんがぽつりぽつりと語り始めた。


 君も知っているだろうが僕と聖歌は日本において陰陽師たちを統括している土御門家の人間だ。土御門と言えばかの有名な安倍晴明の末裔にあたる血筋であり、古から怪異や呪いに関する案件を解決してきた。これだけをとれば呪いや怪異を祓う家業だと思われるが、実際は同じく呪術を扱う組織と凄惨な殺し合いをしてきたという暗い面を抱えている。

 土御門家は室町時代の終わりごろから朝廷で幅を利かすようになり、裏では幕府にも影響力を持ち始めた。その過程で多くの政敵となった貴族や武家を陥れ、闇に葬ってきたのは言うまでもない。

 敵の中で唯一、手を焼いた呪術師がいた。

 名は朽木白蓮。

 彼女は恐るべきことに生まれつき術式を行わずとも呪術を行使できる珍しい体質だったようだ。

 かつては陰陽寮に在籍していたと伝えられている。無償で病人を治癒するなど人柄は善良で市井の民から支持されていた。

 ところが突然、邪悪な異神の力に魅了されてしまった。蠱毒から派生した死霊術のような術を自ら体得したことで陰陽寮から破門。その後は黄泉の妖魔を複数使役させ、邪教を広めて民衆を扇動するようになった。土御門家は朝廷より「朽木白蓮なる者に謀反の兆しあり。ただちにこの悪しき朝敵を調伏すべし」と勅命を受け、朽木白蓮の討伐に動き出した。

 土御門家は全総力をかけて朽木白蓮と戦い、幕府と協力してどうにか捕縛。

 白蓮は邪教を市井の民に広め、朝廷や幕府への謀反を先導しようとした罪で火炙りの刑によって処刑された。

 彼女が死んだことで脅威は去ったように思われた。だが、刑を執行した直後に白蓮の怨霊が黒い九尾の狐となって出現し、都に住んでいる民や建物を鬼火の業火によって焼き尽くした。同時に飢饉や疫病まで蔓延したため、土御門家は朽木白蓮の魂を琥珀の玉に封印し、事態の終息をはかった。

 これによって世の中の厄災は消え去ったものの土御門家だけは呪われ続けていた。当時の当主が変死を遂げた上にそれ以降、土御門家の直系として生まれる者は代々、男女を問わず銀髪という奇妙な現象が起こるようになった。土御門家を苦しめたのはそれだけでなく、朽木白蓮の門弟を名乗る不死の呪術師・鳴鬼鉄斎という者が戦いを挑んでくるようになった。その人物は殺してもまた次の時代には蘇り、怪異を仕掛けては世の中に災いをもたらした。気が付けば鉄斎は鳴鬼流蠱術という組織を作り、現代においても土御門家との抗争を繰り広げている。この過去からの因縁が聖歌を苦しめる結果となった。

 僕の妹の聖歌は幼い頃から陰陽師としての高い適性があった。そのために十七歳にして対鳴鬼の特殊部隊の指揮官に任命されたのだが初陣で危機的状況に陥ってしまった。僕はその現場にいなかったのだが生き残った隊員の証言によれば、前半は呪殺合戦で優勢だったのは聖歌が率いていた部隊だったようだ。ところが途中から戦いで死んだ味方の屍がゾンビのように動き出して戦局が一変した。この死者の軍勢が鳴鬼の戦闘員たちと合流したことで敵側の戦力が倍以上に膨れ上がり、聖歌の部隊が劣勢に陥ったという。後に分かったことだが敵の呪術師に屍を私兵として操れる不死の傀儡使いが数名おり、そもそも戦闘員自体も全員が傀儡兵という死者で構成された部隊だった。だから傀儡兵の動きをどんなに抑えても死んだ同胞が新たな敵として蘇り、最終的には敵だらけになるという悪夢しか待っていない。鳴鬼の連中は西洋の黒魔術や死霊術も取り入れている為、陰陽道しか学んで来なかった我々に対抗手段を見出すことはできなかった。蠱毒など東洋の呪術と西洋の魔術ではまったく仕組みが異なるようだ。結果、戦いは土御門家の敗北だった。部隊の数名は逃走したものの聖歌だけが鳴鬼鉄斎に捕らえられた。鳴鬼鉄斎はすでに朽木白蓮の化身である黒い九尾の狐が封印された琥珀を当家から奪っており、それを捕虜になった聖歌の片目に埋め込んでしまった。奴はかつての主君だった朽木白蓮の復活を使命としており、聖歌の肉体が器にふさわしいと考えていたようだ。

その後、聖歌は無事に土御門本家の京都屋敷に戻ってきたがただちに尋問を受けた。土御門家の総帥である僕らの父が「狡猾な鳴鬼鉄斎が無条件で捕虜を解放させたのは不自然だ。聖歌は工作員として洗脳されたのでは?」と疑念を持ったからだ。土御門家の門人たちによる取り調べ中に突然、琥珀玉を仕込まれた目が暴走して室内の天井に風穴が出現した。この事故で土御門家の人間に多数の死傷者を出してしまった。無意識であっても聖歌の罪は重いために厳しい処分が予想された。だが、さすがに父も自分の娘を殺すことはできず、監視付きの破門という処分を決定した。ただし、聖歌が暴走した場合は監視者によって誅殺されるという条件で聖歌の厳罰を訴えていた家中の者たちを納得させた。そして、僕は妹の監視者を担当することになった。僕も父も聖歌が暴走することは望んでいなかったのだがもしの場合、殺すならせめて身内の手によって葬ってやりたいと考えた。こうして僕と聖歌は土御門の分家がいる東京にやってくることとなったわけだ。

 そして、聖歌は自営業で陰陽師の活動を続けていく中で君と出会った。人の縁というのは不思議なものだね。君が事務所に来るようになってから妹が笑顔を見せるようになって嬉しかったよ。いつまでもそんな状況が続けばいいと願っていたのだが、神御呂司村で片目の封印を解放して力を使った辺りから白蓮の人格が表面化してきたような気がするんだ。これは僕の直感だが恐らく近いうちに聖歌は白蓮となるだろう。そして、僕は妹に殺されるに違いない。自分には身内を殺すことできないからだ。だから僕が死んだら君に聖歌を止めてほしい。たとえ殺すことになってもだ。君にとって残酷なことだというのは承知している。

 だが、記録で見る限り朽木白蓮は史上最強の陰陽師だ。彼女が覚醒したら土御門家だけではなく、この世すべてが滅びを迎えることだろう。君に負担を強いるのは忍びないがよろしく頼む。


映像は真っ暗になって動画ファイルは終了した。俺の心は混乱と恐怖に満ちていた。

 土御門聖歌という人間の中にもう一つの人格が埋め込まれているという事実に驚愕した。やはり、神御呂司村で禍神を葬った際に一瞬だけ彼女の姿が異形に見えたのは気のせいではなかったということだ。

 それにしても恐ろしいと思った。今までは強力な味方として守ってくれていた聖歌さんが肉体を奪われて人類に牙を剥こうとしているのだ。しかもその身に宿る魂は朽木白蓮という詠唱なしに呪術を使い、異界の力で空間を操る史上最強の陰陽師。死後には黒い九尾の狐に変化してこの世に災厄をもたらしたと伝えられている。そんな存在自体が厄災のような相手を止められるとは思えなかった。

────どうすれば。どうすればいいんだ……ダメだ。このまま一人で考えても答えは出ない

 俺は錯綜する思考を停止させた。まずはどうやって聖歌さんを発見するかを考えなければならなかった。すぐ解決に至るわけではないが聖歌さんとは仕事上の付き合いが長い叔父に相談することにした。


 

 2.

 外に出てみるとみぞれ雨が降っていた。

 俺は防寒着の上からレインコートを着込んだ状態で飯綱寺に向かっていた。

 さすがに路面は滑りやすく坂道では転倒の危険もあるためヘルパーの坂口に同行してもらうことにした。

 それにしても寒かった。二月に入ったばかり。一年でもっとも寒い時期なので当たり前といえばそれまでだが、この寒さは物理的な問題だけではないような気がした。それはこれまでの日常が壊れてしまったことへの不安や恐怖なのかもしれない。

 しばらく移動し続けていると坂が見えてきた。

 俺は白い息を吐きながらふと、五年前の夏に起きたあの事件────中学校時代の同級生・安達に手紙で呪われた悪夢のような日々────叔父に相談に行った日のことを思い出していた。思えばあの事件が聖歌さんと知り合うきっかけになり、彼女と神御呂司村で禍神と戦い、怪奇探偵舎の一員となって活動するようになった。それも今では遠い日々のように感じ、自然と涙が零れ落ちた。今となってはみぞれで濡れたのか本当に涙だったのか定かではない。

 気がつけばみぞれ雨は雪に変わっていた。

 坂道も半ばにさしかかり、前方に飯綱寺が見えてきた。

 境内に入ると叔父が傘をさして出迎えてくれた。

「色々と話したいことがありそうな顔をしているな。まあ、とりあえず中に入ってくれ」

 叔父はいつものようにニヤリと笑った。

 

 俺と叔父はフローリングの居間で話し合うことにした。二日酔いの坂口は「待っている間、少しだけ隣の部屋で休ませて欲しい」と言ってきたので好きにさせた。

 居間のガラス戸から見える庭先の芝生にはすっかり雪が降り積もっていた。暖房で暖められた室内との温度差で窓ガラスが白く曇り始めていた。

 叔父はお茶を一口だけ飲み込んでから口を開いた。

「お前が俺に話したいことっていうのは土御門のことだな」

「よくわかったね。いつから人の心が読めるようになったの?」

「実はあの女からお前に伝言を預かっていてな」

 琉惺さんが殺害される二週間ほど前、聖歌さんが飯綱寺を訪れていたそうだ。

「それで伝言っていうのは?」という俺の問いに対して叔父は「落ち着いて聞いてくれ。あの女はな」と前置きをした上で冷静な語り口調で答えてくれた。

「あの女は自分がおかしくなったら正芳に殺してほしいと言っていたんだ」

「……そんな」

 俺は絶句した。まさか聖歌さん自身も自らの異変に気付いていたとは思わなかったからだ。

「あいつは自分の中には凄まじい呪力をもった陰陽師の魂が宿っているといっていたな」

「ああ、琉惺さんの遺言メッセージを観たから知っているよ。怨霊になるぐらいに土御門家を恨んでいるみたいだね」

「そうか。事情を知っているなら話は早いな。あの女も同じことを言っていたからな」

「でも、どうして聖歌さんは俺に殺せると思ったんだろな?感情的にも抵抗はあるけど、何よりも俺に天才的な陰陽師を倒せるわけがないのに」

「いいや。あの女がお前に自分の始末を託したのには理由があるんだ」

「理由?」

「稲生家直系の血を受け継いでいるお前には隠された力があるからだ」

「そ、そんなの初めて聞いたんだど」

「この力はお前の肉体にどんな影響を及ぼすか分からないからな」

「それほど強力ってこと?」

「ああ。事情を説明するには稲生家に伝わる伝承から教えなければいかんな」

 こうして叔父の長い講釈が始まった。


 いにしえの時代。この日本は八百万の神々によって治められていた。神々同士の些細ないさかいはあったものの大きな戦は起こらず、彼らを信仰している人々も穏やかに暮らしていた。だがある時、常世の深淵なる闇から異神が現れた。

 異神の真名は阿座斗悪須あざとおす。その姿は言葉では形容し難いほどに混沌としていた。破壊のみを求める邪神であり、何百体もの巨大な魔物を眷属として引き連れて神州に攻め込んできた。

 天照大神などの有力な神格を中心に八百万の神々は一致団結して邪神を迎え撃った。神同士の想像を絶する熾烈な抗争は千年に及んだ。八百万の神々は邪神の眷属を打ち破ったものの、阿座斗悪須の討伐には至らなかった。光の集合体である八百万の神々と、闇そのものである阿座斗悪須の戦いは一進一退の攻防が続いた。膠着状態が続く中、事態を重くみた天照は千もの神々の御霊を材料に一振りの霊剣を鍛造した。剣の銘は布都御魂ふつのみたま。この世で唯一、神魔を断ち斬ることができる霊剣であったが自我を宿しており、もう一つの姿である神鳥八咫烏になって「ここには我が主となる者はいない。今より選ばれし者を探す旅に出る」と言って姿を消した。

 それから一年後。八咫烏は人間の青年を連れて天照のもとに舞い戻った。八百万の神々は人間に霊剣を操れるのかと訝しがったが天照大神は「この若者と布都御魂に任せてみましょう」と皆を納得させた後、青年を邪神のもとへ送り込んだ。

 八咫烏は布都御魂として霊剣の形になって自らを青年に握らせた。蒼い光に輝く霊剣を手にした彼はたった一人で邪神阿座斗悪須に戦いを挑んだ。霊剣の鋭き刃はたちまち邪神の巨大な体を八つ裂きにしてしまった。青年はいまだに脈打つ邪神の心臓を抜き取り、天照と八百万の神々に献上した。神々は邪神阿座斗悪須の心臓を石化させた後、自分たちの集会場所である神津島という火山島に封じ込めた。

 こうして神州の地に平穏の日々が戻った。戦いのあと天照は悪しき存在に霊剣を奪われてしまう危険を考慮し、布都御魂を霊体化させて青年の肉体に封じ込めた。青年の子孫はナホビノと呼ばれる氏族となった。その家長となった者は代々、臨終の際には霊体化している霊剣を子孫の身に移すことを継承させてきた。


「このナホビノ氏族の子孫というのは────我ら稲生家のことだ!」

 叔父は得意げな顔で高らかに宣言した。凄いのは叔父ではなく、ご先祖様だと思うのだが……。

 俺は稲生家の秘密を聞かされて驚いた。これまで俺が危機的な状況に陥った際に亡き両親の幻影が現れたのも叔父の話によれば、稲生家の嫡男の体内には八咫烏でもある霊剣が宿っているために防御機構が働いたからだという。霊剣を宿した者は優れた霊力を得る代わりに死後、その魂は霊剣と融合した状態で後継者の肉体に宿るという宿命にあるそうだ。つまり、霊剣はただの武器ではなく、稲生家歴代の先祖たちの意識が集合化した存在でもあるということらしい。

 残念ながら俺の身体は難病を抱えているためにその霊剣に耐えきれず、本来の力を発揮することができないそうだ。強靭な肉体であれば強大な霊力を操れるという。ただし、神でなければ肉体から霊剣を具現化して取り出すことはできないという話だ。

「じゃあ、叔父さんに霊剣を譲渡すればいいんじゃね?」

「まあ、通常ではな。ただ、俺は子供の時に払えない呪いを妖魔から受けたせいで穢れちまってなあ」

 叔父によれば稲生家の嫡子であっても穢れると霊剣に拒絶されてしまい、その場合は他の身内に引継がれる掟になっているそうだ。そのため飯綱寺の住職を継いだのが叔父でありながら、霊剣のみが次男である俺の父に継承されたというのが真相だった。

「こちらの都合はおかまいなしってことか」

「そういうことになるな」

「どうすればいいのだろうか?」

「お前でもしっかりと修行をすれば、短時間なら霊剣の力を引き出すことは可能だ。ただし、心身ともに激しい消耗が予想されるだろう。最悪の場合、死に至る危険もある。正直、甥であるお前にやってほしくはない」

「可能性はあるってわけだね……でも、聖歌さんと対峙した時にためらわずにいられるかどうか」

 俺にとっては恩人であり、師であり、上司である土御門聖歌という人間を殺したいなどと思えるはずがない。正直、戦わずに済む方法があってほしいと願っていた。

「そりゃあ、悩むのは当然だろうよ。だからまずは聖歌の居場所を探るとしようぜ。覚悟はそれまでに決めりゃあいいさ」

「確かにそうかもしれない」

 考えがまとまったところで俺と叔父は聖歌さんの捜索をどう進めていくかの計画を練ることにした。


 

 

第二章


1.

 俺が叔父と話し込んでいたら突然、ガラスの割れる音がした。

自分から見て右側────縁側に面したガラス戸に視線を移すと、不審な四人組の男女が窓と格子をぶち破って土足で室内に上がり込んできた。男二名。女二名。全員、髪は銀髪、黒装束に身を包んでいた。初めは生きた人間だと思っていたがよく見ればその目は虚ろで光がなく、肌が病的なまでに青白い。それに腐乱臭を漂わせていた。奴らは死人だ。死んでいるくせに徘徊する死鬼だ。

 「化け物め。どこから湧いてきやがった!!」

 叔父は侵入者に怒号を浴びせると同時に長テーブルの両端を掴んだ。服の上からでも分かるほどに盛り上がった上腕筋をさらに隆起させ、掴んだ長テーブルを奴らに向かって投げ飛ばした。凄まじい怪力だった。不死者どもは映画に登場するようなゾンビとは異なり、俊敏な動きで後方の庭先へ飛び下がって回避した。

 叔父は敵との間合いができたのを確認すると後退し、俺にも同じように下がれと手ぶりで合図した。俺が黙って指示に従うと、次に叔父は壁に掛けてあった弓と矢筒を掴んだ。矢筒を背中に背負い、取り出した一本の破魔の矢を弓につがえた後、弦を引き絞って構えの姿勢をとった。

 敵全員がこちらに向かって跳躍してきた瞬間、慣れた手つきで矢を立て続けに放った。矢は順番に全ての敵の眉間を確実に射抜いていた。だが、屍はゆっくりとした動きで首を傾け、上半身を左右に揺さぶりながら足を引きずって前進し続けている。

「どういうことだ!」と叔父は動揺を見せた。驚くのも無理はなかった。祓い屋の知識として屍の化け物が頭部を破壊されれば憑りついていた悪霊が外へ飛び出し、死体の動きは完全に機能を停止するからだ。そうなるとこれは憑依型ではなく、何か別の力によって操られているということになる。

 俺は叔父の傍らで必死に結界を展開して支援にあたっていたがいつまでも精神力を維持できるとは思えなかった。

「他の何者かが近くで屍を操っているということになるな」と叔父は冷静に呟いた。

 すると、見知らぬ声が返答してきた。

「よくお分かりになりましたね」

 声は年老いた男の声だった。

 気づいた時には俺たちの前に三十歳ぐらいの女が佇んでいた。品のある端正な顔立ちをしている。男を誘惑させてしまうほどの妖艶な笑みを浮かべているのだが、その爬虫類を思わせる無機質な瞳を見ていると怖気が立った。

艶のある黒髪は腰まで伸びていた。服装は紫色の法衣。右手に五鈷杵 左手に水晶髑髏を持っていた。

「驚かれました?」

 年老いた声の主はこの女だった。

「稲生蕭山様。自己紹介が遅れて申し訳ございません。小生は鳴鬼鉄斎と申します」

「……鳴鬼鉄斎ってまさか?」

「正芳。こいつを知っているのか?」

「以前に話した神御呂司村で遭遇したんだ」 

「おや、正芳様。お元気でしたか? 神御呂司村ではお世話になりましたね。お二人とは色々お話したいのですが小生はこう見えても多忙でしてね────単刀直入に申し上げますが、お二人ともおとなしく死んでいただけませんか?」

「お断りだ。なあ、正芳。お前もそう思うだろ?」

「もちろんだ。こっちだって人探しで忙しいんだ。死んでいる暇はない」

「そうですか。苦しませずに殺して差し上げようと思ったのですが残念です。絶望に打ちひしがれながら死になさい」


 朽木白蓮様の処刑からどれほどの年月が経ったのだろうか?

 都の郊外にある河原において、小生は白蓮様の美しい顔が惨たらしく焼け落ちていくのを目の当たりしながら何もできなかった。

 土御門の奴らは小生の両腕を縄で縛って茣蓙の上に座らせた。白蓮様が磔つけにされている場所まで手が届きそうで届かない距離だった。奴らは残酷にも煙と炎の中でもだえ苦しむ彼女の姿を見せつけたのだ。小生がどれほど白蓮様を敬愛し、愛おしく想っていたことを調べたうえでの仕打ちだった。

 これから斬首刑を待っているこの身にとっては自らの死よりも悲しい。

 堪えきれずに暗黒の空を見上げながら泣き叫んだ。慟哭が辺りに響き渡った。それに応じるように返ってくるのは幕府の役人と処刑に立ち会った土御門の者たちの冷笑のみ。

 気がつけば白蓮様の生前の姿が見る影もないほどに炭化していた。

 次は小生の斬首刑という段階になった時、死んだばかりの白蓮様は怨霊となって現れた。瞬く間に黒い色をした九尾の狐に変化した。その場にいた役人と土御門の役人を焼き殺した後、都に向けて飛び去った。

 偶然にもこの身に施された呪術封じが解けた為、小生も白蓮様に追従しようと後を追った。

 黒い九尾の狐となった白蓮様は都に災厄をまき散らし、さらには土御門家を窮地に追い込んだ。だが、狡猾にも不意をついて彼女の魂を琥珀玉に封印した。小生のような未熟者に奴らを退けることは叶わず、無念ながらも白蓮様の復活を心に誓って落ち延びた。

 追手の追跡から逃れていくうちに吉野山中に足を踏み入れていた。次の目的を魔界石に求めると何者かの思念が頭の中に伝わってきた。思念の導きは洞窟で断食と瞑想を行い、魔界石を生み出した異神と対話して活路を見いだせとのことだった。

 だが、どんなに断食と瞑想を続けても神は現れなかった。小生は肉体の限界を迎えて餓死した。干からびた屍から抜け出した意識は闇の底を彷徨い続け、気がつけば宇宙に流されていた。幾万の煌めく光を湛えた星海を過ぎれば漆黒の闇だけの世界。宇宙の中心すなわち曼荼羅に達した時、原始的な太鼓と角笛の音色がした。旋律も整っていない太古の粗野で乱暴な音だったがそこには巨大な意識を感じた。原始宇宙以前よりも古くからそこにあったのだろうと思わせる気配を知覚した時、小生はようやくそれこそが異神であることを理解した。同時に混沌の闇から生じた異神の記憶と同調したことで神々の戦いの歴史を知った。

 異神は言った。敵の神によって自らの魂が宿った心臓を封じ込められたのだと。

 異神は要求した。我が眷属となり、復活に協力することを誓えと。

 異神は慈悲を示した。誓約を結べばただちに望む力を与えてやると。そうすれば死んだ愛するものを蘇らせることができると強調した。

 誓約を結んだ瞬間、小生の魂は産まれた赤子に憑依していた。蓄積された知識と記憶をそのままだ。こうして小生は死期を迎えれば依り代となっている肉体を捨て、別の人間に憑依して蘇る脱魂転者術という秘術を体得した。

 魔界曼荼羅とは死霊術だ。術を行使するには蠱毒で使用する生き物、それに人が発する負の感情が欠かせない。

 まず、小生は自分の望みから計画を進めていった。

 土御門家から白蓮様が封じられた琥珀玉を取り戻した後、魂の器となる肉体を探し続けた。

 江戸時代には山伏の姿をした祈祷師となり、禍神を生み出す蠱術「ハッカイ法」を幸福になる秘術と偽って各地の村に伝播させた。これによって災いが広がり、疫病が蔓延したことで負の感情つまりは陰を回収することができた。さらに陰を増やすために鳴鬼流蠱毒を広めて呪術者を育てた。呪術による暗殺を生業とする者を組織化させ、日本各地で怨念が尽きないように暗躍させた。障害となる御堂家は弱体化させる策は打ってあるので問題なしだ。生き残りが僅かにいても痛くはなかろう。

 念願だった朽木白蓮様の復活はほんとんど完成している。土御門の女の肉体だということに抵抗はあったが適性があるのは事実だ。いずれは白蓮様の意識が体を乗っ取り、自らの手で土御門家を滅ぼしてくださる手はずとなっている。

 ここまで闇の力を蓄えれば誓約である異神の復活も容易いだろう。最後は封印の地で白蓮様と合流して異神を解放する。ただ、異神は自分を破滅に追い込んだ霊剣の血筋にあたる稲生家の者を恐れていた。そのために色々と小細工を弄してきたが稲生家の生き残りは目の前に二人だけだ。こんな簡単な仕事はなかろう。呪いで穢れた坊主に病弱な若者のみ。

 さあ。我が誓約を果たすためにその命を捧げるがいい。


 今にも躍りかかろうとした鳴鬼の後方、寺の山門の桟にゆっくりとギターケースを置く少女の姿を一瞬、俺は見かけたように思ったが次の瞬間、何かが光に鋭く反射して鳴鬼の背後に控えていた部下たちから血しぶきがあがり、不覚にも赤い羽根のようで美しい…と一人ごちたところで、

「させるか!」

「この声は?」

 その声に反応したのは俺だけではなかった。同じように声に気づき、何かを察した鳴鬼が横に飛びすさった空間に、ひらりと少女が舞い降りたのだった。

 今にも躍りかかろうとした鳴鬼の後方、寺の山門の桟にゆっくりとギターケースを置く少女の姿を一瞬、俺は見かけたように思ったが次の瞬間、何かが光に鋭く反射して鳴鬼の背後に控えていた部下たちから血しぶきがあがり、不覚にも赤い羽根のようで美しい…と一人ごちたところで、

「させるか!」

「この声は?」

 その声に反応したのは俺だけではなかった。同じように声に気づき、何かを察した鳴鬼が横に飛びすさった空間に、ひらりと少女が舞い降りたのだった。

 

 

 2. 

 この少女────御堂アズサは数日前、電話で土御門聖歌から頼み事をされていた。

 土御門聖歌は電話で「私は先祖が殺した朽木白蓮という女陰陽師の魂に肉体を奪われつつある状況なの。邪悪で強大な力を使って邪神を復活させようとしているみたい。それを防ぐために助手の稲生正芳君にむけて私を殺すように遺言を残してあるんだけど、きっと決断を迷ってしまうだろうからあなたに彼を支えて欲しいの。それに私は予知夢で邪神を滅ぼす力を宿す稲生君が白蓮の腹心に襲撃される場面を見てしまった。だから同時に彼の護衛もお願いできないかしら?」と明るい口調で言ってきた。

 アズサは土御門が深刻な状況にありながら普段と変わらない様子なので呆れてため息をついた。

 「あのさ、そんな重大なことを笑って言うなよ。あんたには借りがあるから引き受けるけどさあ……話のスケールがデカすぎる。まあ、鳴鬼が関わっているなら放ってはおけないな。それで場所は?」

「稲生君の実家の飯綱寺に行ってもらえばいいわ。住所とか日時はメールで送っておくからね」

 この電話での会話以降、土御門とは連絡がつかなくなっている。もしかしたらすでに白蓮に肉体を奪われたのだろうか。

 アズサは指定された日────つまりは今、こうして飯綱寺に向かっているこの時。最寄りの駅を降りた瞬間、嫌な胸騒ぎがした。邪悪な者たちの臭気がしているので間違いなかった。正芳たちに危険が迫っている。

 道を突き進んでいると寺の山門が視界に入った。

「あれが飯綱寺だな」

 アズサはそういうと山門の下にギターケースを置いてから駆け抜けて境内に踏み込んだ。

 臭いを辿っていくと住居スペースの庭先に出た。ちょうど四体の傀儡が縁側から上がり込み、破壊されたガラス戸から室内に侵入しようとしていた。

アズサは刀の柄を握りしめると一気に敵へ肉迫した。敵に接近すると同時に高速で鞘から抜き放った刀を真横に薙ぎ払った。剣風はかまいたちとなり、どす黒い血しぶきを上げながら傀儡たちの五体をバラバラに切り裂いた。

 室内に踏み込むと稲生正芳とその叔父とされる男が怪しげな紫色の法衣を着た女と対峙していた。ちょうどアズサの眼前に女の背中があった。

「させるか!」

 アズサは女が呪術の文言を唱えようとしていたので刀を頭上に振り上げ、相手に向かって渾身の力で縦に振り下ろした。

 女は瞬時に真横に飛んで攻撃を躱し、着地時に後ろに振り向くと今度は床を蹴り上げ、さらに高く飛翔して庭先に降り立った。

 「あっ、助けに来てくれてありがとう」とアズサに気づいていた正芳が声をかけてきた。隣にいる坊主の男はアズサの剣技に感心しているのか腕を組んで何度もうなづいていた。

「こんな奴、あたしが斬り伏せてやる」

 アズサはそういうと向き直って自分の後方────つまりは庭先に移動した女を視界にとらえる。

女は庭先に着地した後、振り返りざまに「申し訳ありませんがこの辺で失礼いたします。急いでいましてね。お相手はこの者がいたします」と呪を唱えて姿を消した。その直後、庭先の地面から白いフルフェイスの仮面に黒いローブという怪しげな男が這い出てきた。

 男は屋根の上に待機させていた十体の傀儡を呼び寄せた後、何やら指示を出して地中に姿を消した。

 新たに現れた傀儡どもはそれぞれに長槍、青龍偃月刀などどれもリーチの長い武器を手にしているためにさすがのアズサも不用意には近づけない。傀儡どもは素早い動きで彼女をあっという間に包囲するや否や各々の武器を一斉に突き出した。

 アズサは自分の真上に跳躍することで敵の攻撃を回避した後、体の上下を反転させてから地面に向かって右腕を突き出し、拳から金色の光弾を発射した。

その直後、地面が隆起すると同時に衝撃波をともなって爆発した。傀儡どもが爆風に巻き込まれて雪の塊とともに四方に四散した時、すでにアズサは拳を地面についた格好で着地していた。

 傀儡どもは陣形を崩されたことで錯乱したらしく、集団による密集攻撃を忘れて無鉄砲にも一人ずつ襲いかかってきた。確かにリーチが長い武器を持っていたがこうなると敵よりも彼女の方が有利になる。アズサは接近してくる敵に対して、相手よりもさらに遠い距離から気功エネルギーの光弾を撃ち込んで攻撃できるからだ。

 敵は遠距離武器を持っていない為、一体ずつ順番に倒されていった。

 手駒を失った仮面の男はアズサの眼前に出現すると、最終手段だと言わんばかりにローブを脱ぎ捨てて正体を露にした。

 その姿は人間から甲殻類に酷似したものに変化していた。全長は5メートル。頭部はエビそのもので一対の触手があり、胸部前方には一対の顎脚、さらにもう一対はザリガニように鋭利で頑丈なハサミであった。他にも無数の足が生えていて蠢いていた。

 敵は機械から発せられるブザー音のようにやかましい鳴き声で威嚇してきた。アズサは斬撃や打撃を試みたがまったく歯が立たなかった。六節に分かれた背部や腹部は節々に至るまで黒光りする分厚い装甲に覆われており、どんな攻撃にも耐えられそうであった。

 敵は反撃とばかりに突進してきて巨大なハサミを振り下ろしてきた。旋風によって雪が舞い上がる。

 アズサは反撃を軽やかに躱すと地面の雪を拾い上げ、相手の複眼にむかって投げつけた。一時的ではあったが敵を怯ませることに成功した。彼女はこの隙を利用して新たな行動に打って出た。

 アズサは地面を殴って敵のいる方向に亀裂を走らせた。すると地面が盛り上がり、大きな手の形をした土壁となって敵を包み込んだ。相手が土壁をぶち破るまでにはだいぶ余裕がある。

 アズサは正芳たちがいる屋内に駆け込んで「おい、オッサン!酒がはいった一升瓶を貸してくれないか?なるべくアルコール度数が強いやつ」と彼の叔父である稲生蕭山に声をかけた。

 「初対面でオッサンとは失礼なやつだな。助けてくれたのは感謝するが未成年で飲酒はいかんぞ」

「ちげえよ!あたしが飲むんじゃなくて敵にぶちまけるんだ」とアズサは苛立ち気味に言った。

「なるほど。それなら酒よりもアレの方がいいな。ちょっと待ってろ」

 蕭山は一人で頷いて物置に駆け込んだ後、戻ってきて「よしこれを使え」とアズサに手渡した。瓶の中身は無色透明の液体。鼻をつくほどの刺激臭が漂っていた。

「こいつはいい。じゃあ、ケリをつけてくるわ」

 アズサは微笑むと再び庭先に舞い戻った。エビの怪物はちょうど土の壁を破壊して外に出てきたところであった。

「これでもくらえ!」

 アズサは相手の頭部にむかって一升瓶を投げつけた。頭部の装甲に直撃した瓶は砕け散り、中から灯油がぼたぼたと零れ落ちた。

 アズサは霊体として体内に格納してある魔封の篭手を具現化させて右腕に装着すると、手の甲に嵌め込んであった黒水晶に『火之車』という文字を浮かび上がらせた。これは篭手の前の持ち主が封じたとされる妖怪の群れの一つで火を操る。

「ザリガニ野郎。燃えちまいな」

 アズサは指差から炎の帯を放って相手の頭部に着火させた。すると瞬く間に灯油で濡れた頭部に引火して燃え上がった。妖怪の鬼火は敵を焼き尽くすまで消えたりしない。敵はぴくぴくと顎脚を動かしながら泡を吹いて悶え苦しみだした

 真っ黒に焼炎による高熱によって堅牢な装甲だった殻は内部から劣化し始めていた。

「おっと、デザートを忘れてたぜ」

 アズサは不敵に笑うと懐から手榴弾を取り出して敵の頭部に投げた。手榴弾は金属音をたてながら装甲にぶつかった瞬間、耳をつんざくほどに凄まじい轟音を上げて爆発した。

 甲殻類に酷似した敵の頭部の装甲は砕け、内部に詰まっていた軟な肉、それに青色の血液や脳漿などが飛び散った。脳という中枢を失った体は鈍い音をたてながら雪上に横転した。

 正芳と蕭山は敵の沈黙を確認し、庭先に佇んでいるアズサのもとに駆け寄った。

 彼女は振り返ると正芳に気づいて声をかけた。

「ああ、正芳さん。無事で良かった」

「アズサちゃんは相変わらず活発な人だね。あっ、紹介が遅れたけどこの人は俺の叔父さん」

「稲生蕭山という。一応は祓い屋をやっているからお前さんとは同業だ。よろしく頼む」

「あたしは御堂アズサ。以前、聖歌と正芳さんには身内の不始末を終わらせるために世話になった」

 二人は互いに笑みをこぼしながら固く握手した。

「色々と世間話をしたいところだけど、聖歌から頼まれたことがあってね。すぐに伝えたいことがあるんだ」

「ああ……聖歌さんを殺せってことでしょ?」

「知っているなら話は早い。迷っているとは思うんだけどチャンスは一回しかない。しかも期限は三日後だ」

「えっ!そんな急に言われても……」

「気持ちは理解できるけど、鳴鬼鉄斎と土御門聖歌(朽木白蓮)を倒さないと世界が終わってしまうんだ。かなり重要だよ」

 先ほどまで愛嬌のある笑顔から一転してこわばった表情を見せた。正芳に向けられた眼差しは真剣そのものだ。緊張感に満ちた空気も漂わせていた。

「何やら聖歌から聞かされているみたいだな。俺にも教えてくれないか?」

「もちろんだ。あんたにも手伝って欲しいからさ」

 三人はひとまず危機から脱したことを喜び合った後、今後の方針を具体的にするため、互いの情報を交換した。

 

 第三章

 

 1.

 御堂アズサが聖歌さんからもらっていた情報によれば、鳴鬼鉄斎とその手下どもはこの世に破滅をもたらすために邪神を復活させようと目論んでいるようだ。この邪教徒の中でも聖歌さんの肉体を乗っ取った朽木白蓮は優れた呪術師であり、邪神の使徒でもあることから優先して抹殺しなければならない人物。そして、神降ろしの儀式は三日後の二月二十五日(旧暦では一月二十五日)の夜、伊豆諸島に属する神津島の不動池にて行われるということだった。島の名称も稲生家の伝承と一致しているのでそこに邪神が封じられているのは間違いなさそうだ。この島では二十五日の夜に外出することが禁忌とされており、破った者は死んでしまうのだと恐れらている。だが、俺たちには禁忌を恐れる暇はない。逆に自分たちと敵しかいないのだから戦いやすい状況ではあった。

 

 こうして俺たち三人は翌朝、東京湾から出ている神津島行きの汽船に乗船することになった。船は東京湾から伊豆大島を経由して神津島へ向かう航路を進んだ。約二時間程度の船旅ではあったが乗り物に酔いやすい自分にはわずかな揺れでも辛いものがあり、乗船中は終始吐き気との戦いだった。手慣れたヘルパーが同行していればまた違ったのかもかもしれないが、今回の旅は非常に危険なものなので坂口は同行させなかった。代わりに叔父が面倒を見てくれたり、吐き気に襲われた時にアズサが背中をさすってくれたりと二人の支えがあったのでどうにか船旅を乗り切ることができた。

 二時間後。厚い雲に覆われた鉛色した空の下、海上を進んだ先に神津島が見えてきた。

俺はバリアフリー席の窓に映る景色を眺めながら複雑な想いを抱いていた。白蓮に肉体を奪われた聖歌さんと対峙した時、ためらいもなしに戦えるだろうか? 聖歌自身の意識が残っているのかは不明だが自分の師であり、上司でもある人だ。覚悟を決めたといってもきっと冷静ではいられないだろう。それに不安なのは心理的な問題だけではない。俺は自分の魂に宿るとされる霊剣の八咫烏が持っている神魔滅殺の力を開放するどころか、防御結界や攻撃術が以前よりも威力が低下していることに不安を感じていた。叔父やアズサの考察では本来ならば強靭な肉体と精神があってようやく力を行使できる性質のものであり、病弱な俺の体は限度があるのかもしれないようだ。それでも二人は他に方法があるかもしれないし、まずは邪神復活の儀式を阻止することに全力を注ごうと勇気づけてくれた。

 やがて、下船のアナウンスが流れて汽船はゆっくりと島の船着き場に碇泊した。俺は電動車椅子なので船内の乗客のほとんどが下船した後、ようやく島に上陸することができた。

 島は冬季ということもあって観光客はまばらだった。気温は八王子よりも二℃ほど高いようだったが体感的にはやはり寒い。俺たちはすぐに民宿に宿を取り、すでに二日後に迫っている決戦に備えて休息することにした。

 民宿の管理人は「あんたら冬に来るなんて変わっているね」とシーズン外れの来客に驚いた様子だったがすぐに愛嬌のある笑顔で対応してくれた。初日は民宿の近辺をぶらぶらと散策して時間を潰した。そうこうしているうちに決戦の日を迎える。決戦当日の昼間は夜に備えて仮眠を取り、夜の七時過ぎになってから行動を開始した。


 ────夜半前。不動池周辺は静寂に包まれていた。空には三日月が浮かんでおり、蒼白い月光が山頂大地を照らしていた。

 標高五百メートルの天上山、その山頂に形成された平坦なテーブル状の大地に不動池はあった。ハート型の池であり、ハートを形作る二つの丸い隆起側の中心から橋が伸びている。橋を渡ると、池の中央部に位置する水面から屹立した「中島」と呼ばれる大岩があった。大岩と記したが全面ほぼ苔が覆い、そこから隆起するかのように合掌造りの祠があり、龍神が祀ってある。普段は天空の丘から散策の足を偶然にものばした奇特な観光客がたまに立ち寄るばかりで、誰も古に八百万の神々に敗れた邪神がここに封印されているなどとは夢にも思わないであろう。

 車椅子の人間にとって過酷な環境なのにどうして移動できたのかと言えば、それはアズサの魔封の篭手に宿る天狗の力によるものだ。民宿の玄関口でアズサの手が叔父と俺の体に触ると、次の瞬間には天上山の山頂大地にいた。彼女によれば、つむじ風によって全員を移動させたようなのだがどうも理屈がわからない。あやかしの術というものは人知を超えており、容易に理解できるようなものではないのであろう。

俺たちは不動池の西側の赤松の林の中に身を潜ませながら敵の到来を待っていた。不動池まで距離にして五百メートルという地点。目の前を数歩進めば草地でその先に中島にかかる木の橋の欄干がうかがえる。

 「まだ奴らは来ていないようだな」

 アズサは暗視スコープを覗き込みながら呟いた。

 「夜が明けるまでには長い時間がある。それまで待っていようぜ。恐ろしく寒いがな……」

 と叔父が白い息を吐きつつ両手をこすり合わせながら応じた。

「正芳。大丈夫か?寒くないか?」

「ここは夜の山なんだから寒いに決まってるじゃないか。防寒着は着ているから大丈夫だけど」

「えっ。あんたらそんなに着込んで大丈夫かよ?」

 俺と叔父の会話に見張りを担当していたアズサが割り込んできた。

「いやいや……アズサちゃん、登山用の防寒着なしじゃ死ぬって」

「まったくだな。逆に訊くがアズサ、お前はそれだけで寒くないのか?」

「あっ、そっか……悪い、あたしって気功の使い手だから気のエネルギーで体温をあげられるんだったわ」と制服の上から黒のブルゾンだけを着た軽装のアズサがおどけて言った。

「気功って便利だな」

「まあね。正芳さんの叔父さんも気功、習ってみたら?」

「いいかもしれんな」 

 こんな調子で互いに肩を寄せ合いながら決戦の始まりを待っていた。その後も時間潰しに世間話を続いていたが突然、アズサの声音が険しくなった。

「皆、静かに。奴らが来たよ」

「ついに来たんだね。ちょっとスコープを覗かせてもらえる?」

 俺はアズサに頼んでスコープを覗かせてもらった。決して広大ではない不動池の西岸、ハート型の湾曲に接する形で松明を持った集団の影が橋に向かって進んで行くのが見えた。集団の中には松明の炎に照らされた鳴鬼鉄斎の姿もあった。俺の実家を襲撃した時と同様に女の姿で紫色の法衣を着ている。そして、その隣には銀髪の女────朽木白蓮が佇んでいた。白蓮という別人格として鳴鬼に親密な様子を見せてはいるものの、その肉体は俺が今でも敬慕を抱いている聖歌さんにほかならない。

「ありがとう…それでアズサちゃん、これからどうしようか?」

 と、俺はアズサに今後の行動を訊いてみた。

「まず、あたしが先に斬り込むよ。正芳さんの叔父さんもその後に続いて援護して」

「了解した。わしに任せておけ。正芳はどうする?」

「正芳さんにはあたしたちの後方で防御結界を使った後方支援に専念してもらう。だけど、自分の身を守るのを優先して」

「そうだな。戦いが始まればわしらも助けには戻れない。だから、くれぐれもお前は自分の身を大事にするんだぞ」

「わかった。気をつけるよ」

「そうと決まれば早速、行動開始だよ!」

 アズサはそう言うと腰ベルトのホルダーに帯刀している刀の柄を掴み、林から飛び出して不動池がある方向へ疾風のように駆け出した。それを追いかけるように叔父と俺があとに続いた。

 俺たち一行は鳴鬼との距離を半分ほどに詰めた時、突如として現れた朽木白蓮によって行く手を遮られた。白蓮の左右には邪教徒どもが整列しており、今にも攻勢に出る勢いだった。

 白蓮は銀色の長い髪を靡かせながら微笑んでいた。顔も聖歌さんと同じはずなのに瞳だけは異なっていた。怪しく琥珀色に光り続けるその双眸は明らかに人外のものであった。

 「やあ。皆さんこんばんは。ぼくが朽木白蓮だ。まずは余興といきましょうか」

 白蓮はおどけた口調でそう言うと、手下の邪教徒どもに攻撃命令を下した。

 「承知!」

 短剣や鉄の鉤爪で武装した邪教徒たちは口々に応じると、脱兎の如く駆け出した。何の迷いも見せずに凄まじい速度で俺たちに迫ってきた。

 三人の中で最初に攻勢に転じたのはアズサだった。敵の先鋒に居合斬りを放ち、続けざまに三人を倒した。夜気に血生臭いものが混じっていく。邪教徒たちは血しぶきを吹き上げながら倒れる同胞にも動じず、次から次へと襲いかかってくる。

「居合だけじゃ、さばききれないな」とアズサは刀を鞘に納めず、血刀を振りかざして後続の敵に応戦。月光に煌めく白刃が軌跡を描きながら敵の肉体を切断していく。

 一方、叔父は弓を携えて後方からアズサをサポートした。彼女の死角を突こうと迫ってくる敵を順番に破魔の矢で射貫いていった。どの矢も頭部を正確に貫通していた。

 俺は一時的にあらゆる衝撃から身を守る膜状の結界を二人に付与させ、自分の周囲は敵の侵入を防ぐための防御結界で囲んで対処した。だが、敵がこちらに迫ってくることは一度もなく、二人の活躍によって邪教徒の半数以上が殲滅された。辺りは血の海と化しており、骸の山が築かれていた。

 「君たち弱すぎるよ。もういいや。鉄斎が行おうとしている神降ろしの儀式の生贄になりなさい」

 白蓮の指示によって生き残った邪教徒たちはその場から後退し、不動池まで戻っていった。

「それにしても蕭山さんもアズサちゃんも強いね。これまで怪異と戦い抜いてきただけはある」と白蓮は嬉々とした顔で拍手しながら俺たちの方に歩いてきた。

「だけど」と逆説の接続詞で前置きした後に立ち止まり、間をおいてから口を開いた。

「だけど────僕が本当に用があるのは君たち二人じゃない。用があるのは正芳君だよ」

 白蓮は笑顔のままこちらに視線を投げつけてきた。そこに敵意があるようには思えず、どちらかというと好意的な印象すら感じられた。 

 叔父とアズサは庇うように俺の前に立ち、こちらに向かって歩いてきた白蓮を阻んだ。

「そうはいかないよ。この御堂アズサ、土御門聖歌の依頼でアンタを始末しないといけないからね」

「そうだ。唯一の肉親を悪霊などにくれてやるかよ。お前こそ聖歌に体を返して成仏しやがれ」

「どうあっても目の前に立ちはだかるわけだね」

白蓮はやれやれと首を振りながら立ち止まった後、一歩踏み出し「本意ではないがこのボクが君たち二人のお相手をするとしよう」と芝居がかったように左足を前に伸ばし、右手を胸につけながら軽くお辞儀をしてみせた。

「愚か者め。隙を見せたな」

 アズサは白蓮が面を上げると同時に斬りかかった。

 だが、白蓮は名刀“鬼切安綱”の刃を真剣白刃取りによって封じ込め、抑え込んだ刀身をさらに渾身の力でへし折ってしまった。アズサは折れた刀を投げ捨て、腕に装着した魔封の篭手の力を発動しようとしたが間に合ず、白蓮が手から放った衝撃波によって後方────つまりは俺がいるところまで吹き飛ばされて背中を地面に叩きつけられた。

「さあ、アズサちゃん。君はそこで静かにしていて」と白蓮は軽く指を鳴らした。

「何だと!」

 アズサはなおも反撃に出ようとしたが、上体を起こそうとした姿勢のまま動きが停止していた。金縛りの類ではなく、突如として上から押さえつけるような圧が全身にかかったことで物理的に身動きができなくなったのだろう。何故わかるかのかと言えば俺も叔父も同じ症状を同じタイミングで体験したからだ。叔父は立っているのも困難でうずくまり、俺にいたっては声も出せないぐらい息苦しさを感じていた。

 「やっぱり君たちでも体に負荷がかかると辛いよね。実はね。ボクは屍だけじゃなく、重力も操れるんだよ。残念ながらこれじゃあ戦えないよね。悪いけど勝負はあったね」

 白蓮はゆっくりとした足取りで俺のところまで歩いてきた。彼女が目の前で立ち止まった瞬間、俺にかかっていた圧力は掻き消えた。だが、叔父とアズサは未だに白蓮の圧によって動きを封じられていた。

「さあ、これで君だけは楽になったはずだよ。正芳君に頼みたいことは一つだけ」

「お前の望みは何なんだ?」

「正芳君。ボクのものになってくれ」

「……はっ?」

 俺は相手が何を言いいたいのかすぐには理解できなかった。あまりに突拍子しもない言葉に動揺した。

「お前はふざけているのか?」

「ボクは本気で言っているんだけどな」

「どうして?」

「君を気に入っているからだよ。まさか、土御門聖歌が自分だけの意思で正芳君を弟子にしたと思っているのかい?」

「違うのかよ!」

「ああ。ボクは半覚醒ではあったけど、寄生した肉体の主に自分の意思を反映させることが可能だった。聖歌は君を救いたいと考えていたようだけれど、ボクは単純に君を傍に置いておきたかっただけさ。そんなにおかしいかい?人間が犬や猫に抱く感情と一緒だよ」

「だれがお前のペットになるものか!」

「正芳君。君は自分の置かれている状況が分かっていないようだな。おとなしくボクの下僕になれば君だけは生かしてあげると言っているんだよ。これは慈悲だ。君とは聖歌を通じてだが怪奇探偵舎では師匠と弟子の関係で親交を深めたからね。それに言うことを聞くなら死なない体にしてやってもいい」

「確かにお前の下僕になれば不死になれるのかも知れない。だが、そんな条件じゃ無理だな」

「ふーん。君に決定権があると思うのかい?ボクに抗う力も術もないのに」と白蓮は悪童のように嗜虐的な笑みを浮かべていたが俺は動じずに話を続けた。

「そもそも提案が間違っているんだ。俺は命など惜しくはない。むしろ自分の命をお前にくれてやる代わりにこの二人を生かし、聖歌さんに肉体を返してもらいたい。それでついでに邪神を滅ぼしてくれ」

「ほう。興味深い。注文が多すぎるけど大胆で面白い」と白蓮は無邪気な少年のように目を輝かせながら俺を見つめた。

「つまり、君の命にはそれだけの価値があるというわけか?」

「そうだ。お前だって俺が霊剣でもあるヤタガラスの魂を受け継いでいることを知っているはずだ。だから俺を欲している」

俺は堂々と言い放ったが叔父とアズサは驚愕し「……そ、そんな馬鹿なことはやめろ!奴を信じるな」と必死に反対した。

「バレてたかあ。やっぱり君は面白いね。非常に魅力的な提案だからゆっくりと話し合いたい。ここは外野がうるさいから別の場所を用意するよ。ちょっと待ってておくれ」

 白蓮は俺の額に人差し指を当てながら呪を唱え始めた。

「……なっ、何をするんだ!」と嫌がったが白蓮は応じずに詠唱を続けた。

 俺はだんだん強い睡魔に襲われた。抵抗を試みたが全く歯が立たず、視界が真っ暗になると同時に意識を失った。


 2.  

 はっと息を荒げて俺は目覚めた。

目の前には楓の木があり、すべての葉が紅く染まっていた。

紅葉が宙をひらひらと舞っている。地面は紅葉もみじで埋め尽くされていた。

俺はどういうわけか草庵の縁側に座っていた。ちょうど陽だまりになっていて暖かい。

 心地よい環境だが見知らぬ場所だった。よく写真で見るような古めかしい茅葺屋根の建物だ。来たこともないはずなのにどこか懐かしい。

さらに不思議だったのは自分の体が七歳ごろに戻っていたことだ。幼少期は普通に歩けていたから縁側に座っていてもおかしくない。

 でも、どうして少年に戻ってしまったのか?

 そんな疑問を抱いていると右隣りから少女の声が飛んできた。

「やあ。意識が戻ったんだね」

 声の主は朽木白蓮であったがその姿は見知らぬ少女だった。歳の頃は十八。

「……君は?」

 俺が不安そうに訊いてみると、少女は丸い目を見開いて返事をした。

「朽木白蓮であって白蓮ではない。意味がわかるかい?」

「お前が一番望む姿がそれだっていうのなら分かる。だけど……」

「だけど?」

「そんな単純なことではないような気がしてきた。お前が白蓮という名前を口にしたとき、とても遠い過去に別れた友人を懐かしんでいるように感じたんだ。もともと本来の自分ではなかったかのような……」

「さすが見込んだだけはある。その通りだよ。まだ地球の人間には説明してなかったな。まず言っておくがボクは人間ではない」

「人間ではない?お前は土御門家に滅ぼされた陰陽師じゃないのか?」

[それは確かに間違いではない。だが、正確には朽木白蓮の一部だったものと言った方が正しいな」

「さっき地球、と言ってたけど宇宙人とか?こうして言葉が通じるなら宇宙人でも悪魔でもいいが、もっと詳しく話を聞かせてくれないか?君のことをもっと知らないと交渉なんてできない」

「それもそうだね。良いだろう。君にだけは隠さずに話してあげるよ」

「あれはもう恐ろしく遠い過去になるなあ……」

 白蓮は遠い目で宙を仰ぎ、過去を反芻するように淡々と身の上話を語り始めた。



 さっきも言ったと思うけどボクは人間ではない。そもそもこの星の生命体ですらないんだ。

 名前も朽木白蓮ではない。真名をニャルラトホテプという。

 ちなみに君は外宇宙というものを知っているかな? 

 この地球が位置している銀河は内宇宙と呼ばれている。それに対となっている平行異次元世界の宇宙を外宇宙という。

 ボクは外宇宙に存在しているニュクスと呼ばれる暗黒の惑星からやってきた。クトゥルフという種族であり、内宇宙が誕生する以前から外宇宙にて繁栄してきた。かつては君たちに酷似したヒューマノイド型の星人だった。

 それがあるとき、外宇宙全域に版図を拡大させるという野望を抱いた。どんな環境の惑星でも適応できるようにする為、高度なテクノロジーによって自分たちを流動型生命体へと変異させた。形状が流動的なので別の生命体に擬態することが可能だったが、エネルギー補助なしに長期間の活動が困難だった。それを解消させるために編み出されたのが他の知的生命体に寄生し、脳神経と同化することで肉体を乗っ取る能力だ。さらに再生能力を向上させて寄生先を定期的に変更することで不死の存在となった。

 この不死の力によって外宇宙全域を征服し、混沌と狂気の教団と呼ばれる組織を頂点とした巨大な宗教国家となった。幾百万年という膨大な年月を経た後、いつしか不死の我らを定命の他種族は畏怖した。同時に彼らは教団の教皇を最高神、その取り巻きである枢機卿たちを神の眷属と尊称するようになった。

 まあ、他種族が恐れるのも仕方がないことだ。本体の姿は脳髄に無数の触手が生えたようなものであり、それが寄生の対象に選ばれた種族の体内で蠢いているのだからよほど恐ろしく感じたのだろうね。

 こうして外宇宙の神となった我らだったが征服欲は抑えられず、今度は内宇宙への侵略を開始した。その後、かつては教皇であった最高神の魔皇アザトース様の指揮のもとにワープ航行で異空間を超えて内宇宙に到達。我らは内宇宙の中で最も文明レベルが低くかった地球を最初のターゲットに選んだ。

 ところが地球のエネルギーが霊的集合意識と化した大いなる意思・ガイアは数万年前からクトゥルフの襲来を予知していた。星の守護者と呼ばれる精神エネルギー生命体を各地域に出現させ、人類の進化と地球の防衛を任せた。各地域で文明を起こした人類は星の守護者を神として崇め、神を讃えるための建造物アーティファクトを建てた。英知の結晶であるアーティファクトには人類の莫大な思念が込められており、それが守護者の能力を高める増幅器の役割を果たした。君たち地球人は国や民族ごとに宗教を持っているようだが、実は神と呼ばれる存在は全部が星の守護者なのだよ。

 古代において我らクトゥルフと星の守護者は各地で苛烈な戦役を繰り広げた。だが、我らはいつも守護者を強化させる人類の「意思の力」に敗れた。この長きに渡る戦役の終結に繋がった決戦が幾つか起こり、その戦場の一つとなったのがこの日本だった。

 当時、日本は縄文後期から弥生初期への転換期だった。日本の守護者は八百万の神々と呼ばれる存在だ。我々はこの地域が海に囲まれていたことから海生哺乳類、魚類、軟体動物や棘皮動物に寄生して巨大化と攻撃性向上を施した怪物になって戦いを挑んだ。前半はこちらが優勢だった。当時の日本は国家というシステムは完成しておらず、そのことが守護者の弱体化に影響していた。ところが後半になってから「意思の力」が起動した。不死である我らを唯一、殺すことができる生体兵器「ヤタガラス」によって同胞が次々に消滅されていった。我らが魔皇アザトース様も寄生体を破壊された。だが、幸いにもヤタガラスの消耗が予想以上に激しかったことで本体(見た目が人間の心臓に似ていた)の封印にとどめられた。同胞はすべて抹殺されたがボクだけは瀕死ながらも生き残り、生命反応が弱まっていたことが幸いして守護者に存在を探知されなかった。どうにか寄生先を変えながら日本での知識を集める旅に出ることにした。

 そして、旅路の果てに遭遇したのが朽木白蓮という少女だったのさ。

 

 室町時代の終わり頃だった。一匹の狐に寄生していたボクは京都の郊外で過ごしていた。

 ある日の夕方。ボクは街道で野武士に襲われた朽木という貴族の一家を見かけた。ちょど牛車で通りかかったところを襲撃されたのだろう。若い夫婦のようだったがすでに惨殺されていた。ちょうど夫婦の娘らしき少女が荒くれ男どもによって慰めものにされているところだった。ボクは関わるつもりなどなかったからそのまま通り過ぎようとした。

 ────と。少女は何かを呟いた。

 ボクはなぜだか気になって立ち止まり、おもむろに耳を澄ましてみた。

「い……き……た……い」

 少女は生を望んでいた。すでに男どもによって体はボロボロなっていた。衰弱も激しくてすでに虫の息だ。絶望してもおかしくないのに行きたいと望んでいた。

 ボクは気まぐれで助けてやることにした。ボクは他のクトゥルフに比べるとかなり変わり者でね。他種族に興味があるんだよ。とくに君たち地球人は面白い。感情を持っている。それに比べて我々クトゥルフの行動原理は三つだけだ。他種族への寄生、他種族を支配、生に対する飽くなき渇望。

 これじゃ、まるで原始動物のようだろう?

自分で言うのもなんだけどホントにくだらない種族だよ。高次元の生命体に進化しておきながら死を恐れているんだ。

肉体を捨てて完全な精神だけの存在にならないのは何故だと思う?

その理由はね。寄生体を通じてでも物理的に生を実感したいからなんだよ。まったく単純すぎて面白くないし、物質に執着する姿が醜悪すぎて嫌になるよ。

まあ、ボクもかつてはそうだった。それが偵察任務で地球人と接しているうちに君たちに興味を持った。白蓮という少女に出逢った瞬間、ふと、感情を持つということはどういうことなのか知りたくなったんだ。だが、一方的に寄生したのでは相手を理解できない。そこで共生することによって彼女を観察しようと考えた。ボクは朽木白蓮の人格を殺さずに肉体と同化することにした。

 同じ体に二つの人格が存在するわけだから彼女にとっては違和感があるだろうね。だからボクは彼女と対話をした。どんな望みも叶えるかわりに記憶を共有させて欲しいと伝えた。二つの人格が同時に同じ肉体に存在していると意識が混乱してしまう。

 ただ、宿主に記憶の共有を許可してもらえれば混乱は起きないんだ。

 もちろん、彼女も最初は動揺していた。だが、彼女は賢い娘だよ。時間はかかったが自分の立場を理解してくれた。

 こうしてボクの共同生活は始まった。彼女の望みは苦しむ人々を救うことだった。だからボクは彼女が病人を助けたいと望めば治癒力を発現させてやった。怪異に苦しめられる人を助けたいと望めば強力な呪力を与えた。我々クトゥルフが使用する超能力は君たちが呪力と呼んでいるものと性質は同じであり、互換性があるから問題なく転用できる。ただ、ボクが能力を与えても素養がなければ生かせない。彼女が陰陽師としての才能を開花させたのは素質があったんだ。間違いなく天才だったよ。

 だが、当時は蘆屋黎明────鳴鬼鉄斎がアザトース様の眷属だと気づいた時は驚いたよ。おそらく彼が魔界石と命名していた暗黒増幅器は封印されているアザトース様の思念体が異空間を利用して母星から呼び寄せたものだろう。鳴鬼は自覚していなかったが洗脳されていた。暗黒増幅器は他種族

を洗脳して信徒に改宗させる装置だ。信徒になったものは望む力を与えられる代わりにアザトース様の奴隷となる。鳴鬼が白蓮と共に編み出したと言っている技術は我々クトゥルフのものだ。でも、まあ、信徒が増えるということは地球人にとって最悪なことだがボクはそれを止めるつもりはなかった。ボクはこれでもアザトース様の腹心だ。白蓮のことは気に入っていたが同胞を裏切るほどではない。ただ、彼女にはクトゥルフの超能力を使って欲しくはなかったよ。我々の力は宇宙規模であり、それを行使する者は所属する世界の中で異端として排除されてしまう。実際にそうなってしまったけれど……。

このことは本人には説明した。それでも彼女は人々を怪異から救うために力を行使した。

 白蓮が陰陽師になった理由も人々の救済だった。それが当時の人間には理解できなかったんだよ。みんな、白蓮に救ってもらったのにね……土御門家の奴らにいたっては彼女に濡れ衣を着せた挙句、その命を奪ったんだ!彼女が死んだ時、ボクは産まれて始めて怒りの感情を知った。自分でも知らないうちに朽木白蓮という人間に対して情を抱いていたのだろう。親が子供を愛おしいと感じるのに近いかもしれないな。

 ボクはそんなわけで感情のままに人間を殺しまくった。京都の人間がかつて恐れた大妖怪・九尾の狐に擬態して暴れまくった。憎き土御門家を滅ぼそうと思ったが暴走したせいで力を消耗してしまった。休眠状態になりかけていたところを土御門晴影に封印されてしまった。その後に起こった怪異というのはすべて鳴鬼鉄斎がやったことだろう。ボクは眠っていたからわからないけどね。

 それから時代が流れて現代になり、琥珀の玉に封印されたボクの本体を鳴鬼が土御門家から奪還した。目覚めた時にはすでに土御門聖歌の体内にいた。目覚めたといっても最初から肉体を支配できるわけじゃない。今まで休眠状態だったから力も衰えていたんだ。それでボクはこの女からわずかな養分を拝借しながら待つことにした。土御門聖歌の肉体を奪うチャンスをね。もっと時間がかかると思っていたのだけどそのチャンスはすぐに訪れた。あれは君たちが神御呂司村を訪れた時期だ。鳴鬼の企てによって普通なら倒せない強敵の禍神と戦うはめになった聖歌は切り札としてぼくの封印を一時的に開放させ、すべての物体を吸い込んでしまう風穴を空間に出現させる召喚術『黄泉平坂』を実行した。あの直後、彼女本人はすぐに封印したつもりだったようだが実のところ、すでにぼくは短時間で自分の細胞を動かして右目から脳髄に侵入した。それで時間が経った後、ぼくは彼女の肉体を完全に掌握した。それでぼくはこうしてじかに君と会話をしているわけなんだよ。


 朽木白蓮と名乗ってきた異星人の気が遠くなりそうな物語が終わった。突拍子もない奇天烈な話だったが不思議と受け入れられた。きっと今まで怪異と接触し続けたせいで慣れてしまっているのかもしれない。とにかくはっきりしているのはこのニャルラトホテプという神格が外宇宙の至高神の腹心であり、絶対的な超常の力を保有している危険な存在であるということだ。しかも神格にまで到達した彼らのような存在に抵抗する力など我々人類は持ち合わせていない。ニャルラトホテプによれば星の守護者である古き神々に対する人類の信仰が失われた現在、本来あったはずの力を失っている彼らは物質的に干渉できない思念として存在しているに過ぎないという。つまり超常的な味方も期待できない。俺に宿っている霊剣・布都御魂であれば神魔を滅却できるとも叔父は言っていたが、病弱なこの自分では真の力を引き出すことは困難だ。絶望的な状況だが打開策は一つだけあることに気づいた。

「朽木白蓮……いや、ニャルラトホテプ。アザトースから地球を救ってくれ! あの二人も……聖歌さんも……代償は俺の魂だ。お前なら霊剣を活かすことができるのだろ?」

「白蓮でいいよ。発音しにくいだろう。それよりもこれは魅力的な取引だね。良いよ。この地球と人類を救ってあげる。それに聖歌には肉体の支配権の半分を譲渡しよう。午前中だけなら自由にしていい。ただ、君の命を無駄にはしないよ。ボクの力によって君は人間としては死ぬことになる。だが、それは終わりを意味しない。なぜなら君は即座にヤタガラスとして禁忌転生するからさ」

「禁忌転生?」

「ああ。この内宇宙において全ての魂ある者は長い時間をかけて生と死を繰り返している。それを輪廻転生というんだ。そして、輪廻で起こった事象を変えてはいけないという理が存在する。ボクがやろうとしているのはこの理を破ることになるんだ」

「どうして破ることになるんだ?」

「ボクは死という手段を使って君を強制的に八咫烏に転生させるからだよ。この内宇宙において輪廻を無視して任意の存在に転生するなんて有り得ないからね。だけどボクは外宇宙からやってきた神格だ。外宇宙でもかつては同様のものがあったけれど、我々クトゥルフは普遍という理に改変した。つまり、ボクはこの内宇宙の理に干渉できるということだ」

「転生できるのは有り難いがどうして俺の魂にこだわるんだ?俺という存在を消滅させてヤタガラスだけ取り出せば良いのに」

「確かに転生させるのは大仕事だ。でも、霊剣だけ取り出してもボクは契約できない。霊剣の意思が顕現した姿である八咫烏は稲生家の人間の意思を優先させるからだ。そこで君の魂を霊剣の意思として置き換えようと考えている。だから君にはいまここで転生したらボクの式神になると誓約してもらいたい。そうすればボクは霊剣として取り扱う権限を入手できるのさ」

「なるほど。まったく想像できないけど地球を助けてくれるなら誓約するよ。ところで君は平気なのか?」

「何が?」

「いや、だってお前は主君であるアザトースを裏切ることになるんだろ?」

「ああ、そのことなら大丈夫。ボクはもとからアザトース様が嫌いだから。正直、あの生と支配欲しかない年寄りのお守りにもそろそろ飽きてきたよ。もう様なんてつける必要ないね」

「あっそう。ずいぶんと淡泊なんだな」

「人間とは感覚が違うからね。それよりも君が取引に納得してくれて安心したよ。さて、誓約完了ということで現実に戻るとしよう。蕭山さんとアズサちゃんに挨拶するといい。人間としては確実に死ぬわけだから」

「いや、何も言わずに転生させてくれ。あの二人と話したら心に迷いが生じる」

「君がそう言うなら構わないよ。さあ、目を閉じてくれ。十秒後、現実に目覚めるよ。一……二……三……」

 俺は白蓮に言われた通りに瞼を閉じた。白蓮が秒読みしている声を聴いているうちに意識が飛んだ……。


 3.

 稲生正芳が再び目を開けた時、世界の時間は静止していた。自由に行動できるのは彼と朽木白蓮だけだった。白蓮の命令で池の方に移動中だった邪教徒たち、地面にうずくまった姿の蕭山とアズサも硬直している。

 白蓮は正芳の額に触れていた手を離した後、今度は微笑んで彼に視線を合わせてから声をかけた。

「さあ。今から禁忌転生をするとしよう。かなり痛いけど我慢しておくれよ。すぐに逝けるからさ」

「わかった。やってくれ」

「よし!」

 白蓮は呼吸を整えた後、自分の右の手先を正芳の胸に突き刺した。血しぶきをあげることもなく、その手は彼の体内に潜っていく。やがて、あたりをつけたのか何かを掴んだ。

 白蓮の手が何かを掴んだ瞬間、正芳は裂けるような激痛に苛まれて悲鳴をあげた。

「ぎゃああああああああああああああああああああああああああああ!」

 彼の悲鳴が続く中、白蓮は掴んだ何かを勢いよく引き抜いた。すると、正芳の全身が蒼い炎に覆いつくされてしまい、瞬く間に灰の塊となって車椅子の座席と足置き台のうえに崩れ落ちた。

 白蓮の手には眩い閃光を放つ蒼い勾玉があった。

「これは見事な魂だ」と満足げな表情を浮かべた後、白蓮は豹変したように無表情となっておもむろに厳かな声で呪文を唱え始めた。

「我が誓約に応じよ。三千世界の天空を翔ける霊鳥。いま、ここに覚醒せよ八咫烏!」

 その声に応じるように勾玉は白蓮の手から飛び出すと蒼い炎に包まれた漆黒の鴉に変化した。八咫烏は空を何度か周回したのち、白蓮の肩に降り立った。どういうわけか炎が触れても彼女の体は燃えない。八咫烏に主人として認められた者には害を与えない炎なのだろう。

「さて、君との約束を果たすとしようかね。まずはアザトースの眷属である鳴鬼を始末してやろう。ちょうど奴につきまとわれるのはうんざりだと思っていたところさ」

 白蓮は愉快そうにそんなことを八咫烏に語りかけた。そして、一度だけ指を鳴らした後に口笛を吹きながら不動池の方へ歩き出した。


 

4.

 白蓮が指を鳴らした瞬間、静止していた世界は動き出した。

 身動きが自由になった蕭山は稲生正芳の変わり果てた姿に衝撃を受けた。すでに肉体は灰と化しており、彼だったと証明できるものは衣類と車椅子しか残っていないからだ。

 蕭山は泣き崩れた。自分の弟を失っているうえに今度は甥まで失った。絶望的だが同時に本人の意思を尊重をしなければならないことも理解していた。確かに不本意ながら自分たちに邪神と対抗できる力がないのは事実だった。頼もしい仲間であったはずのアズサは白蓮に歯が立たずに敗れた挙句、家宝であり愛刀でもある刀を折られたことで打ちひしがれてしまった。アズサは蕭山の隣で座り込んだまま動かず、憔悴しきった顔でついさっきまで正芳だった遺灰を眺めているだけだ。蕭山自身も戦う気力すら残っていない。危険な存在ではあるが朽木白蓮ならば霊剣の力を発揮できるのだろう。それならせめて霊剣となった正芳を見届けるべきだと蕭山は思って泣くのをぐっと堪えた。白蓮の姿を視界に捉えるために辺りを見渡した。すると、ちょうど蒼く光っている鴉を肩に乗せたまま歩いている白蓮の後ろ姿を見つけた。そのあと、白蓮は凄まじい風となってすぐに姿を消してしまったのだが、彼女が向かっていた方角から見て不動池だということは間違いなさそうであった。

「あれが八咫烏なのか……奴が約束通りに邪神を倒すのかをこの目で確かめねば」

 蕭山は独り言ちて、何を言っても反応しないアズサを背中に背負って「お前も一緒に来てくれ。正芳の望みが果たされるかどうかを見ようぜ」と言って白蓮のあとを追いかけるために歩き出した。


 一方、不動池では邪神復活の儀式が行われている最中であった。鳴鬼鉄斎は橋の中央に佇んだまま中島と呼ばれる大岩に向かって呪文を唱え続けていた。橋の両端には縦一列で無数に並べられた蝋燭があって、灯された火を揺らめかせていた。香も焚かれており、辺りにはその匂いが漂っている。

 池は鳴鬼の詠唱に呼応するかのように水面を変化させていた。水が赤く変色して怪しい光を発し始めたのだ。水温が恐ろしいスピードで上昇しているらしく、ぶくぶくと水面におびただしい泡が沸き立ってきた。

すでに白蓮の命で退却してきた部下たちは池の西岸で待機していたが鳴鬼の「アザトース様の贄となりなさい!」という言葉に応じ、邪教徒である彼らは順番に一人一人、順番に各々が持っているナイフで自分の頸動脈を掻っ切って池に飛び込んでいった。大した水深はないはずなのだが、なかなか死体は浮かび上がってこない。

 鳴鬼に仕えていた全ての手下が贄として果てた時、朽木白蓮はちょうど大岩へと続く橋にさしかかったところだった。

「これは白蓮様、お戻りになられたのですね」と鳴鬼は詠唱を中断して後ろに向き直った。

「いいや。殺してない」

「どういうことですか?計画では霊力が高いあの三人の心臓を我らが神に捧げるはずです。それにどうして八咫烏を連れているのです?忌まわしい敵の武器など破壊すべきです」

「ああ、気が変わってね。それにこんな骨董品を壊すのはもったいない」

「小生には白蓮様が何を考えておられるのかわかりません。敵の武器を手にしてどうされるのです?」

 鳴鬼は訝しげに白蓮の瞳を覗き込んだ。対して白蓮は飄々としている。

「神を殺すのさ」

「殺す?」

「君は意外と鈍いんだね。ボクはアザトースを殺すと言っているんだよ」

「な、何ということをっ! いくら白蓮様でも我らの神に対する冒涜は許されませんよ」

「頭が固い奴は嫌いだな。八咫烏、我の剣となれ!!」

 八咫烏は白蓮の命令に応じるように鳴いて羽根を羽ばたかせ、彼女の肩から飛び立った。空中で全身を包んでいる蒼い炎の火勢を強めると、鳥の姿から両刃の剣に変形した。柄や鍔まで剣のシルエットが成形されており、頭上に掲げた白蓮の手にしっかりと握られた。白蓮はおもちゃを与えられた子供のように無邪気に霊剣を素振りしてみせた。霊剣は薙ぎ払われるたびに唸りながら眩い光を放った。

「白蓮様。剣を収めて下さい。あなたとは戦いたくないのです」

「嫌だね。ボクは好きなようにやる」

 白蓮は何の躊躇もなしに疾風の如き速さで接近し、剣の切っ先を真っ直ぐに鳴鬼の腹部に刺し込んだ。腹から入った剣は背中に貫通。背中から切っ先が突き出し、血しぶきが噴出した。傷口からは血液がどくどくとあふれ続けている。

 白蓮が剣を引き抜いて鳴鬼を蹴り飛ばすと、転倒しそうになった彼の体から水蒸気のような白い煙が立ち昇った。鳴鬼は腹を抑えながら踏みとどまり、恨めしそうに白蓮を睨んだ。

「これがあなたの答えなのですね。貴方のために心血を注いできたというのに……小生を裏切るとは……いいでしょう。かくなる上は我が魂とこの肉体を神に捧げましょう」

「ボクは君の功績には感謝しているよ。ただ、生理的に嫌いなんだよね」

「フフフ。どこまでも身勝手な方だ。恨めしいですがおさらばです……偉大なる神よ!我が命をもって復活を願います!」

 鳴鬼の言葉が響き渡った瞬間、地響きが起こった。池の中央にあった大岩が空中に浮上したのである。大岩は地上から百メートルほど浮上したところで静止すると、今度は赤い光を放ち始めた。赤い光が妙滅を繰り返した後、大岩は鉱物から有機組織に変貌した。それは異様な光景であった。まるで空中に巨大な心臓が浮いているようにしか見えない。赤黒い肉塊の表面には太い血管が浮き上がり、ドクンドクンと鼓動を刻んでいた。やがて、巨大な臓物から一本の太くて長い触手が生えた。その触手は地上で立っている鳴鬼の体を掴んで臓物の本体まですくいあげた。鳴鬼の体は接触すると同時に溶け込んで臓物の一部として吸収されてしまった。巨大な臓物は触手を切り離し、さらに大きくなって今度は黒い球体となった。

 空中に浮遊し続ける黒い球体の表面に突然、パキパキという卵の殻が割れたような乾いた音とともに複数の亀裂が走った。その後、球体が炸裂音を轟かせて砕け散ると、今度はその中から大量の黒い液体が地上に流れ落ち始めた。液体はタールのように粘りがあり、硫黄に似た腐敗臭をまき散らしてながらドロドロと流れ続ける。あまりにも量が多いために不動池から黒い液体が溢れてしまい、地上に洪水のような勢いで広がった。この怪奇現象のせいで不動池を中心に半径三十キロ範囲が悪臭を放つ液体で水浸しになった。

球体があった地点に今度は巨大な楕円形の目玉が一つ出現していた。見開かれた瞳は赤く光っており、辺りの様子を伺うようにギョロギョロと動かしている。東京ドーム三つ分ぐらいの大きさはあるだろか。これが外宇宙を支配する暗黒の邪神、魔皇アザトースの心臓部であった。

 一方、白蓮は空中に舞い上がって滞空し続けることで黒い液体の洪水から逃れていた。

「おや、最高ともあろうお方が隙だらけとは不用心だよ」

 白蓮はアザトースに気づくと、空を切り裂くような凄まじい勢いと速度で急接近した。

 彼女は神剣を振りかざしてアザトースの心臓部を攻撃しようとしたが、突如として発生した衝撃波によって吹き飛ばされてしまった。どうやらここでは見えない力が働いているようだ。

 白蓮は一キロほど飛ばされたがどうにか空中に留まることで地上への墜落を免れた。いくら最強の霊剣を手にしてもかつて仕えていた最高神との戦いに油断は禁物である。気を引き締めた白蓮の顔つきは真剣なものに変わっていた。彼女の鋭い視線がアザトースの目を捉える。アザトースも白蓮に注意を向けているらしく、怪しく輝き続ける赤い瞳が彼女の姿を凝視していた。

 アザトースの瞳が白蓮を睨んだ瞬間、闇に包まれた夜空に異変が起こった。空全体が宇宙の景色に変貌していたのである。空には無数の煌めく星々によって構成された銀河が広がっており、その中心ではアザトースの瞳が怪しい光をさらに増幅させていた。

 その後、次から次へと空の景色が変化していった。ある時はスクリーンのように見慣れぬ大都市を上空から俯瞰した映像が流れたり、空全体に暗き深海の底に沈んだ船舶が映ったりした。最後はまるで未来を予言しているかのように複数の核ミサイルが世界各国の主要都市に撃ち込まれる様子が映し出され、巨大なキノコ雲が立ち昇るところでさっきまでの夜空に戻っていた。

 空が正常に戻った直後、アザトースの瞳が目をつぶった。それがきっかけだったのかは定かではないが今度は地上に流れ落ちた黒い液体に変化が起きた。ブラックホールに吸い込まれていく小惑星群のように液体が重量を無視して空中に引き上げられ、アザトースの心臓部に向かって引き寄せられていった。その速度は地上に落ちた時よりも早く、あっという間に心臓部を覆いつくしてしまった。気が付けば以前よりも巨大な肉塊となり、ピンク色した球状の有機体に変貌していた。つまり、これがアザトースの巨大な肉体ということになる。粘液のせいでぬらぬらと光沢のある表面とその色は胃袋の内壁に酷似しており、人間の体内を彷彿とさせる不気味さを持っていた。

 現代に顕現した魔皇アザトースは地上千メートルの高さまで浮上した後、表面全体に無数の穴を出現させた。穴の幅は直径2メートル。形状は肛門によく似ていて収縮を繰り返している。しばらく収縮が続いた後、すべての穴から透明な粘液が噴き出すと同時に触手が一斉に飛び出してきた。触手はイカやタコなど頭足類の触腕と同様に吸盤を備えており、にゅるにゅると粘液を滴らせながら蠢きだした。

 白蓮はアザトースとの間合い────約一キロを維持したまま相手と同じ高さまで上昇し、まずは相手の様子を観察しようとゆっくり動き始めた。その瞬間、どのタイミングで自分の肉体に出現させたのかアザトースは彼女に向かって巨大な口を開いて待ち構えた。白蓮は相手が攻撃をしてこなそうなので接近を継続しながらも観察を開始した。アザトースの口はサメのような鋭い歯が生えていた。その口の奥に広がっている闇の中心では眩い白い光が渦を巻いていてどこか星雲に似ていた。

 白蓮は嫌な予感がした。相手との距離があと五百メートルという地点に達した時、すぐに彼女の予感は的中した。おとなしくしていたアザトースが突如、口の奥から百体もの飛翔体を射出させてきたのである。飛翔体は白いフルフェイスマスクの形をしていた。金属のように硬質な光沢があった。

 射出された飛翔体は飛行能力を備えていた。飛翔体の群はそれぞれ個別に意思を持ち、戦闘機のように幾つかの隊を編成した上で迎撃に出てきた。敵の飛行戦隊は白蓮に向かって一斉に口からレーザー光線を発射した。その速度は音速を超えており、機動性も旋回性能もかなり高い。

 だが、白蓮も負けてはいなかった。霊剣の加護によって彼女の背中には八咫烏と同じく、蒼い炎を纏った漆黒の翼が生えている。敵の飛行戦隊を上回る機動性で応戦した。急旋回を繰り返して敵の攻撃を回避。そして、すぐに反転して急襲した。白蓮は霊剣を振りかざして次々に敵を破壊していった。すでに霊剣は鉄を熔解してしまうほどの高温に達していたが主人を傷つけることはなく、敵の頑丈な装甲のみを紙のように切り裂いた。最強の武器を手にした白蓮によって三十分も経たないうちに敵の飛行戦隊は全滅した。彼女は前傾姿勢をとると、両手で剣の柄を握りしめる。そして、剣の切っ先を前方に突き出した後、相手が再び飛翔体を射出する前に決着をつけるため、光とほぼ同等の速度でアザトースの口の奥に向かって飛んだ。普通の人間の肉眼では瞬間移動したようにしか感じられない速さである。

 アザトースは白蓮の挙動に気づいて侵入を妨害しようとすべての触手を伸ばしてきた。だが、白蓮はスピードを緩めずに触手を切り裂きながらそのまま直進し続けた。次々に迫りくる触手はぶつ切りにされて地上へ落ちていった。

 彼女は口の奥に入り込むと一旦その場に留まった。そして、蒼い炎の霊剣の火勢を強めた後、ひたすら飛び回ってアザトースの体内を攻撃し続けた。ピンク色の有機組織がどんどん崩壊していった。やがて、アザトースの体の表面に大きな穴が穿たれて、そこから紫色の光が溢れだした。同時に数億人分もの悲鳴が聞こえた。これは邪神に肉体を奪われたり、命を奪われた者たちの怨嗟の声なのかもしれない。この断末魔は全島民の耳にも届いており、多くの者が飛び起きた。

 紫色の光は空に立ち昇るとすぐに消失してしまい、アザトースはこの光を放出しきったところで赤い閃光ともに大爆発した。爆発と同時にまたあの断末魔がしばらく辺りに轟き続けたが一時間も経たないうちに鳴りやんだ。中島と呼ばれる大岩が消失し、橋が壊れたこと以外を除けば、不動池は静けさを取り戻していた。

 空が白み始めていた。先ほどまでの超常的な戦いが嘘であったかのように朝日が昇りつつある。白蓮は銀色の髪を風に揺らめかせ、蒼い炎に包まれた黒い翼をゆっくりと羽ばたかせながら地上に降りていった。



6.

 白蓮と邪神アザトースの戦いを眺めていた唯一の人類が二人だけいた。それは不動池から少し登ったところにある天上山の山頂に逃れていた稲生蕭山と御堂アズサである。

 二人は岩に腰掛けながら霊剣となった正芳の蒼い光を眺めていた。

「……あれが正芳さんの光なの?」

 それが数時間ぶりに口を開いたアズサの最初の言葉だった。

「ああ。あれは霊剣である八咫烏の光だ」

「世界を救ったのね」

「そうだな。正芳の犠牲は無駄じゃなかった……」

 蕭山は眼から涙を零しながら言った。

「悔しいけれどあたしたち人間には何もできなかったね」

 アズサは地面に置いた折れた愛刀を眺めながら悔しげに言った。

「俺たち人間はやれることを必死にやっていくしかないってことだな。俺は正芳の遺灰を持って帰ったらあいつの供養をしてやるつもりだ」

「でも、彼は八咫烏として現世にあるわけだよな?」

「まあ、そうだけどよ……人間としては死んだわけだから葬式ぐらいやらねえと気が落ち着かねえんだ。自分の甥が異形の存在になったなんて簡単に受け入れられるもんじゃない。それに葬式っていうのは遺族のためでもあるんだぜ」

「そうね。あたしはこの折れた刀を持って故郷に帰るわ。師匠には叱られるだろうけど、修行を一からやり直すことにする」

「そうか。良い心がけだな。そろそろ朝一番の東京行きの船が来るから下山するとしようぜ」

「ここにいてもやることないしね」 

  二人はおもむろに立ち上がり、ゆっくりとした足取りで山を降りていった。

 

 

 

 俺は桜が咲き始める季節になると、懐かしい気分になる。

八咫烏という霊的な存在になった自分にとって、たった六年前の春であっても遠い時代に感じてしまうのだ。人間から違うものに変異したわけだから前世と言った方が正しいのかもしれない。

 俺は千里眼という力で俯瞰的に人々の様子を観測できるようになった。

 例えば稲生蕭山の話だ。

 白蓮がアザトースを滅ぼした後、叔父の蕭山は俺の葬式を行った。半年ぐらいは塞ぎがちであったが最近ではすっかり立ち直っている。どこで知り合ったのかは知らないが年下の女性と結婚した。

 御堂アズサは白蓮に敗れたことで自信を失ったものの今は一から退魔師としてやり直そうと、師である祖母のもとで日々修行に明け暮れている。正気に戻ってくれたのは何よりだが、折れてしまった鬼切安綱の修復は難航しているようだ。破邪の力が宿った武具を打ち直せる鍛冶屋は少なく、見つけ出すのは容易ではないのだろう。活発な彼女に戻って欲しいものだ。

 俺が人間だった時に世話になったヘルパーの坂口は介護の仕事を辞めており、今は坂口魯安という名前で小説家として活躍している。彼は俺から聞いたいくつかの怪奇譚をベースに「稲生怪奇譚」というタイトルの小説を発表した。そこそこ売れているらしく毎日を忙しそうに過ごしている。

 そして、朽木白蓮は約束通りに土御門聖歌さんの人格を残してくれた。午前中だけという制限はあるものの自由に行動できて意識もはっきりとしている。ただ、結果的にこうなってしまったことについて聖歌さんは顔を真っ赤にしてお怒りだった。彼女を助けるために人間であることを捨て、朽木白蓮=ニャルラトホテプという邪神の式神になったことを咎められたが、選択肢が限られていたことから現在では渋々ながらも納得はしてくれているようだ。ただ、肉体を奪われたとはいえ兄を殺してしまったことに対する罪悪感は消えないと言っている。

 俺は今、かつて自分が住んでいたアパートの近所にある公園にいる。幾つもある桜の木の枝に止まって花見に来ている人々の様子を眺めているところだ。近頃、巷では疫病が流行しており、日本ではとくにマスクを着用する人の姿を見かける。今では重症者は減っているようだが外国では紛争が起こっており、世界的にも未来に対する不安が増しているようだ。怪異とは人間の負の感情から生じる以上、今後も化け物は発生し続けることになるだろう。

 我が主である白蓮は聖歌さんの肉体を奪った直後に琉惺さんを殺害し、その勢いのまま現当主とその一族を皆殺しにしていたようだ。現在では事情を知らない分家の人々を騙し、陰陽師の聖歌として土御門家を再興させようとしている。それは怪異を退治する祓い屋の最高機関が人外の者に掌握されたということだ。我が主は無暗に破壊を望んでいるわけではないようだがつかみどころなく、正直、何を考えているの分からない。それでも聖歌さん個人の人格が残っているためにストッパーの機能として期待はできそうだ。もっとも、こうして一喜一憂するのもいつまでできるかは分からない。輪廻を無視して転生したことで稲生正芳だった頃の記憶が曖昧になることがある。白蓮によれば霊剣は八咫烏としての意識と歴代稲生家当主の魂が集まって構成された複合的存在であるという。今までは肉体という器があり、それが他人格との干渉を遮断していたことで稲生正芳という人格が守られていた。だが、死によって器を失ったためにもとの複合体に戻ってしまい、そのことで稲生正芳という自我を失いかけているらしい。いずれ俺の意識の中に親や先祖たちの自我が洪水のように流入した後、すべての記憶が消去された上で八咫烏という一つの人格に統合されるようだ。つまりは本当の意味で生まれ変わることを意味しており、稲生正芳という人格が消滅することになる。他人はこれを不幸だと考えるのだろうが、それでも俺は式神として聖歌さんの傍にいられるなら幸せだ。

 

「八咫烏。そろそろ帰るわよ」と聖歌さんの声が聞こえてきた。

 俺は返事の代わりに「カアァー!」と一つ鳴いた。

 昼はただの黒い鴉に過ぎず、人語も話すことができない。

 俺は翼を羽ばたかせて枝から飛び去り、聖歌さんの声がしたほうに向かった。


                       <完>

  

 

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稲生怪幽記────神魔滅殺の神剣 @kazuma1015

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