第5話 妖刀陰摩羅鬼

プロローグ


時は戦国の世。美濃国武儀郡関郷に有名な刀工の一族がいた。とくに二代目の孫六兼元が有名である。刃の鋭さと刀身の頑強さがあることで戦場における実用性が高く、武田信玄・豊臣秀吉・黒田長政・前田利政といった戦国大名から愛用された。彼の作品の中でも前田家の家宝にされた名刀「二念仏兼元」は斬られた人が念仏を二度唱えて死すなど斬れ味で有名である。


天下に名をはせた刀工でありながらも兼元は満足できなかった。彼は向上心が高く、さらに完璧な刀剣を目指していた。だが、なかなか納得のいくものが作れない。


そんな時、奇妙な出逢いをすることとなる。


季節は冬。木枯らしが吹きすさぶ夜のことであった。


兼元が酒を飲みながら囲炉裏の前で暖をとっていると突然、何者かが戸を叩く音がした。


初めは「こんな夜遅くに誰が来るのだ?風のせいに違いない」と無視していた。だが、あまりに何度も戸が叩かれるので仕方なく玄関口に向かって「こんな夜遅くにどなたか?」と叫んだ。


すると、戸の向こう側から男の声がした。


「夜分遅くに申し訳ない。拙僧は修行で全国を行脚しておる者。よろしければ夜が明けるまで暖をとらせて頂けまいか?」


「それは難儀でございますなあ。少々お待ちを」


兼元は立ち上がると土間を踏み越え、玄関口の戸を引いた。


外に立っていたのは背が高い僧であった。頭に網代笠を被り、土埃まみれの黒衣を身にまとい、履いている草鞋もボロボロで長旅を続けていることは容易に想像できた。穏やかな表情をしているので一見すれば無害そうな男である。だが、見開かれた両目の瞳には不気味な光が煌々と輝いていた。その瞳は魅力的でもあったが、背筋が凍り付きそうな恐れにも似た感情も沸き起こった。とは言え断るのも忍びない。もはや酔いもすっかり醒めてしまった。それは室内に忍び込んでくる夜気のせいなのか、相手に対する言い知れぬ恐れなのか兼元にはよくわからない。


「お坊さまとは知らずにとんだご無礼を。さあ、たいしたもてなしはできませんが中へお上がり下さい」


兼元と僧侶は囲炉裏を挟んで向き合うような格好で座布団に座った。


「私は刀鍛冶を生業としている者。名を兼元。屋号を孫六と申します。さあ、今宵は冷えますので熱い茶でもお飲み下さい」


兼元は挨拶をしながら茶を差し出した。


「これはかたじけない」


僧侶は有難く湯飲みを受け取ると茶を一口飲み込み、手短に自らの名を名乗る。


「申し遅れたが拙僧の名は鳴鬼鉄斎。密教の修行僧をしておる」


「密教のお坊様でしたか。さぞや厳しい修行をされておられるのでしょ?」


「なんの。拙僧は駆け出しの右も左も分からぬ愚僧に過ぎぬ。とても悟りの道とはほど遠い……そちらこそ関の孫六といえば天下の刀工ではないか。拙僧などよりも一つの道を極めておられるはず」


「いえ、鉄斎殿。私は自らが納得できる刀剣を造れていません」


「ほう。悩んでおられるのですな。拙僧でよければ聞かせてもらいたい」


「それは有り難い。完璧な刀剣を目指しているのですが、なかなか……いくら黒鉄を叩いても満足がいかないのです」


「ほう。満足できぬということかな。では逆に問うが、完璧な刀剣とは何か?」


と問われた刹那、兼元の眼光が鋭くなった。目が血走っている。


「刀剣とは人を殺す刃物であります。ゆえに無粋な飾りは不要であり、狂うほど殺意が宿った刀剣でなければなりませぬ」と熱を込めて答える。


鉄斎は「狂うほどの殺意が宿った刀剣」という言葉に不適切な笑みを浮かべた。


「ならばその殺意に怨念をこめるということか?」


「そうです。相手を斬り殺すというのですからそれは怨念と同義」


「ならば拙僧は素晴らしい物を持っておるぞ」


「素晴らしいもの?」


「兼元殿の刀剣造りに必要な材料だ」


鉄斎は懐からずずずぅっと白い何かを抜き出した。子供の腕ぐらいの長さで、つるつるとしていて光沢がある。


──もしや、これは人骨では?


兼元は急に恐ろしくなって言葉を失った。額には汗が滲んでいる。


しばらく沈黙が流れた。囲炉裏の薪がぱちぱちと爆ぜる音。


闇の中、燃えさかる炎が二人の顔を赤々と照らしていた。互いに眼光が鋭く恐ろし気であり、まるで悪鬼どもが宵闇に紛れて悪事を企んでいるような絵面だ。


兼元は何度か深い呼吸を繰り返して気持ちを落ち着かせ、ようやく口を開いた。


「鉄斎殿。それは人骨ですか?」


「否。これは妖の骨だ」


「ほう、妖の骨とは珍しいですね」


「陰摩羅鬼おんもらきという妖怪だ。ろくに供養もされずに放置され、無念仏となった死者たちの怨念が怪鳥に変じた妖魔の類ですな。無差別に生きた人間を呪い、祟って災いを呼ぶという」


「……そんな恐ろしいものの骨をどうして?」


「これは二月ほど前のこと。拙僧がとある山に足を踏み入れた際、襲ってきたのだ。こちらも基本的な法力を心得ておるので退治したのだが片足だけ残ってしまった。骨も砕いてやろうとも思ったのだがこやつが不憫でしてな」


「不憫?」


「さよう。骨となったこやつは夜になるとかすかな声で拙僧に囁くのだ。それが何とも物悲しゅうてな」


鉄斎が語るところによると、毎晩のようにその骨から大勢の亡者のものと思われる声で無念さを訴えてくるのだという。生者が憎い。恨めしい。生きるものすべてを呪い殺したいと想いをぶつけてくるいうのである。


「拙僧は仏の道を志す立場にありながらも奴らが辛そうで同情してしまった。成仏させてやりたいところだが、こちらには幾万もの死霊を浄化させるほどの力はまだない。それで旅を続けながらも悩んでおったところに今宵、偶然にも兼元殿と知り合ったところなのだ。手を貸してもらえまいか?」


「話が見えてきませんな。私にどうしろというのです?」


「それは単純明快。兼元殿、この骨を材料に新たな刀剣を造りなされ」


「刀剣を?」


「さよう。この骨に宿っているのは殺意のこもった怨念。兼元殿が求めていた殺意と同じではないか。この二つの殺意を合わせれば完璧なる刀剣が造れる」


「なるほど。私が妖魔の怨念を刀剣として生まれ変わらせ、剣の使い手に与えてやれば亡者どもも満足するというわけですな。幸いにもこの世は乱世。名刀を欲する武者など無数にいる」


「そうじゃ。この骨を柄にすれば強い殺意が宿り、刀身に兼元殿の熱意を込めれば頑強な刀剣を作れるはず。さすれば至高の業物ができましょう」と鉄斎は骨を差し出した。


兼元殿は「承知しました」と喜んで骨を受け取り、礼を言おうとした時には鉄斎の姿は掻き消えていた。辺りを見回し、いぶかしげに兼元は首を振った。夢のたぐいかと惑うたが、兼元の手元にはしっかりと陰摩羅鬼の骨が託され、その重みをしっかりと感じていた。


彼はそれからというもの人が変わったように毎日、鍛冶に没頭した。寝食を忘れた日もあったという。


その後、兼元は堺の商人から譲り受けた南蛮の刀剣を参考にしてさらなる刀剣の試作に励んだ。


最終的に両刃の西洋剣を鍛造し、その柄の素材に陰摩羅鬼の骨を用いた。この業物を殺斬刀「陰摩羅鬼」と銘打つ。兼元はこの剣を武田家の家臣・多田三八郎に譲った。


陰摩羅鬼を手にしたこの武将は戦場で多くの手柄を得た。たった一人で数多の名だたる敵将の首を討ち取った武勇から家中においてすらも「多田戦鬼」「妖刀陰摩羅鬼」と畏怖された。だが、妖刀を手にして鬼と恐れられた多田三八郎も最期は戦場において非業の死を遂げたという。残念ながら彼の死は報われることもなく、数十年後には仕えていた武田氏も滅亡してしまった。


その後、この剣の行方は分かっていない。


夏の夜。新宿の繫華街はやかましいほどに賑わっていた。道を行き交う人の群れ。飲食店などから流れるBGM。いかがわしい店に誘おうとする呼び込みの声。歩きながらスマホで通話している若者たちの賑やかな声。最近では外国人も多いせいか様々な言語が飛び交っている。


道路沿いにびっしりと雑居ビル群が立ち並び、眩しいほどのネオンの灯りによって街の上空は怪しい光に包まれていた。その青い光は不気味であり、何やらよからぬことが起きるような不吉さすら感じさせる。オフィス街では過酷な労働による疲れ、人間関係によるストレスは少しづつ心を蝕んでいくのだろう。そうした要因が自殺や殺人を生み出すのかもしれない。そういった意味で東京は眠らぬ魔都なのだ。


某企業に勤務する入社一年目の川原明美はすでに心を病み始めていた。ただでさえ忙しいのに大学時代に交際していた元カレからストーカー被害を受けているのである。毎日、メールや電話をよこすようになり、着信拒否したので諦めてくれるだろうと期待したが、今度は職場や自宅前で出待ちをして声をかけてくるようになった。さすがに怖くなって警察に相談したが、明美宅の周辺の巡回回数を増やす程度で心もとなかった。


帰宅中も明美は男の気配を感じていた。今夜もどうにかまいてやろうと、わざと人通りの少ない路地裏を通って駅を目指して歩いている。この道は先を進んでいくたびに道幅がどんどん狭くなっていく。照明が少なくて薄暗い通路の両側の壁面には雑居ビルから伸びている通気ダクトや電気系統の配線が張り巡らされており、人通りが全くない状況はさながら迷宮にでも迷い込んでしまったようだった。通行人がいないせいで相手の足音がはっきりと聞こえるようになってきた。


明美のヒールがアスファルトの地面を踏んでいく音から数歩遅れで何者かの足音がついてくる。


コツコツと硬い革靴の音。大股で踏みしめるような歩き方をしているようだ。


──これはアイツの足音じゃない。


明美の記憶では元カレはどことなくなよなよとしており、情けないぐらいにトボトボと歩く癖があったのだ。彼女は追い詰められた状況に置かれていることで普通の人より敏感になっているのかもしれない。だが、背後から聞こえてくる足音は見知らぬ人物というのは確かだった。


明美は恐怖に耐えきれなくなって走り出した。早くこの通路から抜け出して駅に辿り着きたかった。革靴の硬質な音が耳の後ろでスピードを速めた。時折、ヒールでつまずきそうになったが懸命に走った。追跡者は執念深く、というより余裕をもって距離をゆっくりと確実に縮めてきているような感じだった。喉が渇いてヒリヒリする。


彼女の首筋には恐怖がべったりと張りついていた。


それを振り払うように首をふり、背後をふり返った。追いかけてきたのは黒いローブを着た男だった。フードを被っているせいで顔の全貌は不鮮明だが、目だけが異様に光っているのは分かった。


明美は正面に向き直ってさらにスピードを上げた。


額にねばい汗が浮いていた。


ほとんど全力疾走だった。学生時代は陸上部だったのでそれなりに体力はある方だったが、いつまでもつか分からない。


しかし、希望はまだあった。記憶が確かなら次の曲がり角を右に曲がり、その先を数十メートル直進すれば駅前の表通りに出られるはずだった。そこまでいけば人通りもあり、さすがに相手も手を出してこないだろう。


ようやく曲がり角を右に曲がった時、背後から迫ってきた気配は嘘のように掻き消えていた。


背後を振り返ったが男の姿はない。


正面に向き直って膝に手をつき、うつむいた状態で立ち止まる。ぜいぜいと肩で息をしながら落ち着くのをまった。


──どうにか逃げ切った。


明美は自分が危機から脱したのだと感じた。


そんな安堵感を打ち消すように突然、上空から鳥の鳴き声と羽ばたく音がした。


「カァアアアー!クゥホゥー!」


彼女の頭上を黒い影が疾風とともに背後から前方に向かって飛んで行った。明美が深呼吸をしながら面を上げた時、彼女の眼前には先ほどの不審な男が佇んでいた。心臓が止まりそうだった。悲鳴すら出せない。あまりの恐怖に全身に寒気を感じた。


外灯の下で男はすでに黒いローブを脱いでいた。服装は白い紋付袴。男の推定年齢は三十前後。年齢に似合わず白髪。長髪で腰まで伸びている。


男の顔は死人のように蒼白だった。


鼻筋が通った端正な顔だちをしていたが、眼窩にはまっている目玉は真っ黒だった。双眸の奥が赤く光っている。そして、腰には刀剣を佩刀していた。まるで時代劇の世界から血に飢えた辻斬り浪人が現代に飛び出してきたような異常さがあった。


──コイツは危ない人間だ……というか絶対に普通の人間じゃない。


だが、まだ男との距離はわずかに離れている。今、通報しながら駆け出せば逃げられるかもしれない。どうにか明美は身の危険を感じて咄嗟に警察に通報しようとした。しかし、いくらショルダーバッグに手を突っ込んでも滑ってスマホの端末が握れない。そもそも手のひらに感触がない。


バックから腕を引き抜いて手先を確認した時、彼女は瞠目する。先ほどまであった手首がないのだ。いや、正確には手首から先が切断されていた。切断面から血液がどくどくと噴き出している。


どういうわけか遅れて激痛が走る。


「ぎゃああああああああああああああああああああああ!」


明美は痛みに喘ぎながらその場に崩れ落ちた。


ふと、上を仰いでみると男は目の前にいた。男はいつ抜刀したのか血濡れた両刃の剣を片手に握っており、地面に座り込んだ彼女を見下ろしている。


男は口の片端を吊り上げ、不気味に嗤った。そして、涙と鼻水を垂らしながら泣き叫び、命乞いをする彼女の頭上から剣は振り下ろされた。


早朝。新宿駅から一キロもない場所に位置する路地裏で他殺体が発見された。


被害者は新宿区内の商社に勤務している川原明美。二十四歳の女性。遺体は頭部から腰にかけて真っ二つに両断されていた。警察の推測によると凶器は相当に重量があってなおかつ刃渡りの長い刀剣類だと思われる。


あまりにも惨たらしい殺人事件であるために現場付近では警察だけではなく、大勢の野次馬やマスコミ関係者で混雑していた。夏の強い日差しの中、狭い場所に多くの人が密集しているせいで辺りはサウナのような熱気が漂っていた。


人混みから少し離れた場所に一人の女子高生が佇んでいた。マスコットキャラクターのキーホルダーが付いたギターケースを背負っている。黒髪で髪型はショートカット。褐色の肌は夏の日差しによく似合っている。体型は細身ではあるものの、何かのスポーツをやっているのか高身長で四肢はしっかりと発達していた。全体的にボーイッシュな雰囲気だが品のある顔をしており、目鼻立ちははっきりしている。


警察の捜査員たちによってブルーシートを被せられた遺体が運ばれていく様子を見ながらふと、少女は小さな声で呟いた。


「この嫌な気は間違いない……やっと奴においついた」


少女──御堂みどうアズサ。彼女は三か月前にある事情で高知県内の高校から転校してきた三年生。


実家は高知県安芸郡に位置する小さな集落「御堂ノ庄」。


御堂家の歴史は平安時代にまで遡る。


源頼光が鬼の大将である酒吞童子の討伐に出陣した際、共に従軍した家臣・渡辺綱こそが御堂家の先祖にあたる。酒吞童子討伐後、源頼光からその功績を認められ、褒美として名刀「鬼切安綱」を拝領した。それ以来、渡辺氏は歴史の裏で朝廷を脅かす悪霊・鬼・妖魔などの怪異を討伐する組織「討鬼衆」を指揮するようになった。長い期間、怪異から都を守護してきたのだが平治の乱に巻き込まれてしまう。渡辺氏は源氏の一族であったことから平氏に激しく抵抗する。しかし、抵抗むなしく戦に敗れ、名刀とともに土佐へと落ち延びた。そして、住み着いた地名が御堂の庄だったので姓を「御堂」に変えて静かに暮らすこととなる。それでも稼業である討鬼衆としての仕事は子孫たちに継承されていった。


御堂家は退魔師の家系ではあるが陰陽師や祈祷師とは異なった戦法を好んだ。彼らは武士であることから刀剣による武術にこだわり、独特の退魔術を編み出した。それが御堂流気功抜刀術だ。


これは体内のエネルギーである気を刀剣に込めて戦うことを基本とする。丹田より発せられる気の力はそのまま敵にぶつけても効果的ではあるが、気を他の物体に付与することでさらなる爆発的なダメージを与えられる。気功を纏った刀剣は万物のあらゆるものを切断することができる。それは物質として存在する妖怪の肉体だけではなく、悪霊などの霊体すらも滅殺できるというのが御堂流の凄まじさだ。


これまで御堂家から天才的な技術をもった使い手が多く輩出されたが、現代において天賦の才を発揮したのは一人だけだった。


それはアズサの父であり、百代目当主の御堂辰巳である。


彼は気功抜刀術によって怪異に苦しむ多くの人々を救ってきた。また祓い屋の間でも著名な人物であり、彼に憧れた霊能者たちが続々と討鬼衆に加わった。


御堂家の発展に貢献した辰巳であったが彼は娘の行く末を見届けられずに殺された。


その犯人とはかつては御堂辰巳の弟子であり、鬼討衆を裏切って鳴鬼流に加わった男・宗像冬也である——


「必ず追い詰めてやる……」


アズサは転校を繰り返しながらも宗像の気配を追いかけ続けた。それから二年の歳月をかけてようやくここ東京までやってきた。


──まったくこの臭い……ほんとに不快になる。もはやこれは妖気だな。


アズサは顔を歪ませながらもふと、腕時計に目をやる。そろそろ登校時間をむかえようかという頃合いであった。


「あっ、マズイ!! 早くしないと遅刻する」


アズサは駆け出すとそのまま事件現場をあとにした。


十七時過ぎ。夕日の光が高校の校舎とグラウンドを茜色に染めていた。


下校中のアズサが校門を抜けて歩道に踏み出した時、目の前を男が通り過ぎて行った。男は黒いローブを身に纏っていた。夕方の薄暗さでは顔まではよく見えない。だが、全身から妙な臭いが漂っており、アズサにはそれが何者なのかわかっている。腐敗臭のように人を不快にさせる妖気──それは仇敵、宗像冬也が放つ不浄な気の臭い。


アズサはすぐにでも襲いかかりたかったが、人前で騒ぎを起こすのは賢明ではない。炎のように燃え盛る激情を抑え、相手の出方を警戒しながらも尾行することにした。


アズサは同じく下校中の生徒たちに紛れて歩き出した。人混みに入った方が気づかれにくいはず。


人混みによって宗像の背中は目視できないが臭いによってはっきりと前方数メートル先を歩ていることは確かだった。


尾行を続けているうちに新宿駅の構内にたどり着いた。構内は帰宅ラッシュということもあって会社員や学生で溢れかえっていた。人混みを掻き分け、妖気をたどっていくとどうやら宗像は中央線・高尾行きのホームに移動していた。アズサは改札口で切符を買い、中央線ホームへと続く階段を駆け上がって後を追った。


アズサがホームに立つとすでに高尾駅行きの電車が停車していた。殺到する乗客たちの波に流されるように車両の中へ移動した。人と人の壁に挟まって揉みくちゃになり、ほぼすし詰め状態と化していた。車中は冷房がついていたが人間が発する息や熱によって酷く蒸していた。


電車はゆっくりと走り出した。徐々にスピードが上がっていく。


都心部から離れていくごとに少し乗客が減っていき、八王子にさしかかった辺りから座席に座れる状態になっていた。アズサが妖気の臭いを嗅ぎながら周囲を見回してみると、宗像は隣の車両に乗っているようだった。間に立っていた女子高生の集団が談笑しながらお互いのスマホ画面をのぞきこんでいる。その向こう、車両と車両の間を遮断しているドアの窓ガラス越しに宗像の背中が見えた。それにしても不思議だった。魔法使いのような黒いローブを着た男なんているだろうか。そんな男がいたら怪しいに決まっている。にもかかわらず宗像は街中でも警察から職務質問されてはいない。他の人の反応を見るにどうやら誰も宗像の存在を認識できていない様子だった。透明になっているのではないのだろうが誰も奴の存在に気づけないのかもしれない。


──黒いローブは特殊な力が宿った外套なのかも。


アズサはそんなことを考えながら宗像の背中を凝視した。


そうこうしているうちに八王子駅を通り過ぎ、終着駅である高尾駅に停車した。アズサは相手との距離を保ちながら歩き出した。


空は夕焼けに染まり、町と山は闇の中に没しつつあった。宗像は駅を降りると、住宅団地を過ぎた辺りでさらに人通りが少ない道を選んで突き進んでいく。外套の能力を信じ切っているのか、尾行を気にする素振りさえ見せない。アズサも後方から追いかけた。


道路は急斜面になっていった。目につく景色は大学のキャンバスや病院ばかり。草木が鬱蒼と生い茂る山間の雑木林へと通じる小道にさしかかっていた。いったいどれぐらい歩いたのだろうか。すでに辺りは宵闇に包まれていた。だが、幸いにも夜空には月が出ていた。月明りのおかげで足をつまずくことはなかった。


しばらく道なりに進んでいくと廃病院が見えてきた。目的地はこの場所であったらしい。宗像は錆びついた正門の鉄扉を押し開けて中に入っていった。コンクリートでできた広大な建物内部の天井や壁面にはところどころにヒビが入っていた。窓ガラスのほぼ全てが割れており、月明りが抜け落ちたように底知れぬ闇がうかがえた。かつては病院だったらしく、かろうじて「救急入口」の看板がかった建物の脇から奥へと入っていった。床だった場所は土がむき出し、崩れ落ちた壁と天井には植物の蔓、ツタによって覆いつくされていた。もはや、廃墟は自然の一部と化していた。


アズサは妖気を追っているうちにかつては中庭だったと思われる開けた場所に出た。そこに追い求めてきた仇敵が佇んでいた。待っていたかのように宗像はアズサを見据えていたのだった。


月は中天にかかっていた。蒼白い光の粒子が周囲に立ち込める中、御堂アズサと宗像冬也は対峙した。わずかに風が吹き、中庭の雑草を揺らした。


宗像は両腕を組んだ格好で立っていた。すでにローブは脱ぎ捨てている。まるで死神のように白一色の紋付袴を着ていた。両手には黒い革製のグローブ。腰に帯刀しているのは妖刀・陰摩羅鬼。形状は厚みがある両刃の剣。鋼は漆黒の闇のように黒い。形状としては一般的に西洋ではロングソードと呼ばれているものだ。全長は百センチ。


対するアズサは懐から取り出したホルダー付きのベルトを腰に装着し、ギターケースに格納していた刀剣を掴んで取り出した。御堂家当主の証である名刀・鬼切安綱。平安期に鋳造された刀剣である為、刀身が多く反り返っている。俗に太刀と呼ばれるものだ。刀身の長さは三十センチ。


ギターケースを地面に投げ捨て、愛刀をベルトのホルダーに差し込んだ。


宗像は満面に下卑た笑みを浮かべながら口を開ける。


「よお。気の臭いで俺を追跡してくるとは大したもんだ」


「この裏切り者め……よくも父を殺したな!」アズサは拳を強く握りしめ、怒りに身を震わせて獅子のように吠えた。


「過ぎたことをうるせえなあ。キャンキャン騒ぐんじゃねえよ」


「過ぎたことだと? ふざけるな!」


アズサはさらに激昂した。そのまま怒りに任せて相手に喰ってかかろうとしたが歯を喰いしばって堪えた。”己の大義を見失ってはならぬ”という祖母の言葉が脳裏に浮かんだのだ。それに何も考えずに突っ込んでも返り討ちにされるだけであり、敵の挑発に乗っていけない。


アズサは空いた手でセーラー服のつば広の襟をなでしつけ、冷酷な口調で御堂家の当主として裏切り者に死刑を宣告する。


「宗像冬也。戯言はここまでだ。貴様は御堂家と討鬼衆を貶めたばかりか、未だに行く先々で無実の人間を殺し続けている。貴様のような外道はこの御堂アズサが家名と大義によって誅殺する」


「ふん」


宗像はそんなことかと言わんばかりに鼻で笑った。


「くだらねぇな。これからお前と俺は殺しあうんだぜ。そこに家名だの、大義だのは無意味だ。堅苦しくてたまらねえや。お前は父親そっくりだな。まったく、嫌気がさすぜ」


宗像はよほどに不愉快らしく、地面に唾を吐き捨てた。


「貴様とこれ以上、無駄話を続けるつもりはない。さっさと剣を抜け!」


「いいぜ。ちょうどお偉いさん方からお前を殺すように命じられたからな。俺としちゃあ、綺麗なお前の顔を苦痛に歪ませ、さんざん犯した後に嬲り殺してやりたかったんだが。まあ、仕事だからちゃっちゃと片付けるか」


宗像はアズサの顔を見ながら舌なめずりすると口を閉じ、腰に帯刀している剣の柄に手をかける。そして、抜刀した剣を両手で握りしめ、切っ先をアズサに向けた状態で身構えた。


アズサは左手でがっちり鞘を腰に押さえつけ、右手で刀の柄を握りしめる構えをとった。これは居合の構えだ。鞘から刀を引き抜くとほぼ同時に間髪を入れず、相手を即座に斬り伏せるという剣技。御堂流気功抜刀術ではこの技に気功を用いることが基本とされ、使い手は体内に流れている気のエネルギーを刀の柄を握る手から刀身全体に流し込む。気の力を纏った刀が鞘から抜き離れた時、通常の居合斬りよりも威力と速度が格段に跳ね上がる。


アズサは抜刀に備えて深呼吸と同時に全身の気を刀身に集めた。


しばらく沈黙が流れた。聴こえてくるのは虫の鳴き声と両者の息遣いのみ。風は止んだ。


先に静寂を破ったのは宗像だった。宗像は疾風のような速度でアズサに接近し、足で地面を蹴って空中に跳躍し、両手で剣を大きく振りかぶって急降下。地面に着地すると同時に剣はアズサを目がけて振り下ろされた。その剣の勢いはまるで宇宙から飛来した隕石が大地に激突したのと酷似しており、衝撃波を伴って土埃を巻き上げた。


アズサは宗像の剣が振り下ろされる寸前で真横に転がって回避すると、そのまま起き上がって宗像の後方に向かって駆け出した。相手の剣が振り下ろされた直後に生じる隙を逃さず、背後から回り込んで渾身の一撃を喰らわせてやろうという策である。アズサは宗像の後ろに接近するのとほぼ同時に居合斬りを繰り出した。


閃光を伴う抜刀──通常の人間の肉眼では目視できないが、濃密な気のエネルギーを含んだ刀が白色の光を放ち、軌跡を描きながら敵にむかって薙ぎ払われたのだ。


アズサの脳内でシュミレートされたイメージでは鞘から抜き放たれた白刃が敵の背中を切り裂いたはずだった……が、眼前にあるはずの宗像の背中はない。


──消えた?


そう不思議に思いながらも高速で納刀したアズサは背後に殺気を感じた。すぐに後方に向き直ったがすでに遅かった。気づけないほどの速さで彼女の後ろに回り込んでいた宗像が前蹴りを繰り出していたからだ。咄嗟に両腕で上半身を防御するが衝撃に耐えきれず、仰け反った格好で後方へ蹴り飛ばされてしまった。


アズサは地面に倒れ込んだ際に背中を強く打ちつけてしまい、目の前が真っ暗になった。鋼鉄の塊で叩きつけられたような衝撃と鈍痛が全身を駆け巡った。


宗像のスピードは尋常ではない。アズサが起き上がろうとした時にはすでにこの男は馬乗りになってのしかかり、刃を彼女の喉元に押し当てた。


「さてと、死ぬ前に言い残すことはねえか」と宗像は白い歯を剥き出し、口の両端を吊り上げて嗤った。


しかし、アズサはここで命をくれてやるつもりはなかった。手のひらを傷つけながらも両腕で宗像の剣を掴んで押し返し、そのまま突き飛ばした。ついでとばかりに地面の土を掴んで宗像の顔に投げつけた。アズサは宗像が目潰しにひるんだのを見逃さず、すぐさま起きると後方に飛び下がって間合いを取った。


宗像もすぐに視界を取り戻して起き上がったが、苦々しい表所を浮かべながら舌うちをした。


「俺も遊びが過ぎたようだな。さっさと殺しちまえばよかったぜ」


「手加減をしていたというのか?」


「わずかな力で簡単に殺せると思ったんだが。やはり、お前を殺すには本気でいかねえとマズイようだな」


宗像はそう言うと片手に握った剣の切っ先を前方へ突き出し、囁くように小さな声で呪文を唱えた。呪文を唱えると陰摩羅鬼の刀身が赤一色に発光した。まるで殺した人間たちの血を吸い取ってきたかのような深紅の赤だった。


「呪血時雨!」


宗像の声に呼応するように陰摩羅鬼の切っ先から何十発もの赤い光球がアズサに向かって発射されていった。機関銃による連続射撃のように高速で飛んでいく。


アズサは必死に避けようと試みたが光球は追尾してくるために逃げ切れず、全弾をまともに浴びてしまった。体に命中した光球は泡の如くはじけて赤い液体と化し、アズサが着ている制服をずぶ濡れにした。たが、血まみれのように全身が赤く染まっただけで痛みはなかった。


「これは何の真似? あたしをバカにするのもいい加減にしろ!」


「すぐにわかるぜ。この技の本当の恐ろしさをな」


「……あれ、何だか頭がふらふらする……」


アズサは突如、貧血に似た症状に苛まれた。目がくらんで立っているのも容易ではなかった。それに頭がふらふらした。さっきよりも鼓動が早くなっているせいで息切れしてきた。


「いったい何が起こっているというの?」


「俺の呪血時雨という技は簡単に言うと毒のようなものだな。じわじわと敵を弱体化させていく。お前の服に染みついた赤い血のようなものは怨念が物質化した液体であり、血液量の減少を引き起こす呪いだ。放っておいてもお前はじきに死ぬ」


「そんな姑息な技を……」


「まあ、放っておくものもいいがそれじゃあつまらねえ。お前の首をもらうぜ」


宗像はいきなり駆け出すとあっという間にアズサに接近し、剣を片手に斬りかかってきた。


アズサはふらついた足取りながらも必死に相手の斬撃を避けようと努めたが、自分の思うように身動きが取れない。回避するのに一苦労な状態では反撃するのも難しかった。


宗像は容赦なく素早い動きで一方的に攻撃を叩きこむ。続けざまに突きを三連続で繰り出した。


アズサは突きの二撃目までは完全に避けた。だが、三撃目を避けようとしたところで足がふらつき、相手の剣が掠めた際に肩を負傷してしまった。思ったよりも傷が深いらしく、出血が止まらない。


アズサはふらついた勢いで足を躓いてしまい、その場に倒れ込んでしまった。起き上がったが立ち上がれず、地面に座っているのもやっとだった。彼女は傷を押さえながら自分の未熟さに痛感した。


宗像が衰弱したアズサにとどめを刺すために剣を頭上高く振り上げた──その刹那、数枚の護符が真横から飛んできた。護符はアズサの体に張りつき、たちまち光のベールとなって包み込んだ。首を刎ねようとした宗像の剣は弾かれてしまった。


「……どういうことだ?」と宗像も動揺を隠せない様子だった。


アズサも気になって視線を護符が飛んできた方向に向けると、そこには見知らぬ女がいた。


年齢は二十七、八歳ぐらいだろうか。小柄で痩せ気味の体型だった。容姿は端正な顔だち。目鼻立ちがくっきりとしており、髪の毛も銀色に染まっているので白人女性にさえ見える。髪型はミディアムヘアーで右目だけを前髪で隠していた。


巫女装束風の服を着ているが黒一色に染められていた。青い月明りの中、佇んでいるその姿は魔女のような怪しさと神秘性を感じられた。


その女は囁くような声で呪文を唱えると、手のひらに燃え盛る火球を作り出して宗像に投げつける。火球は宗像の体に接近した瞬間、即座に爆発した。その爆発によって引き起こされた衝撃波によって宗像を吹き飛ばした。


宗像はすぐに起き上がったが苦虫を嚙み潰したような顔をした。


「けっ、陰陽師かよ。めんどくせえな……ひとまずは撤退か」と気だるそうに呟き、懐から煙幕の玉を地面に投げつけた。辺り一帯は白い煙に包まれた。煙はすぐに消えたが同時に宗像もいなかった。


黒衣を纏った銀髪の女はアズサに駆け寄って手を差し伸べる。アズサはその手を借りて起き上がろうとしたものの戦い疲弊した肉体は限界を迎えたらしく、そのまま意識を失った。


七年前。高知県香美市御堂村において惨劇が起こった。


御堂村は夜叉王山の麓に位置する人口百人程度の寒村である。かつては御堂の庄と呼ばれたこの土地における有力一族「御堂家」の邸宅内で異変が起きた。


夜の七時頃。御堂家の百代目当主・辰巳は怪異討伐から帰ってきたところだった。三十代後半とは思えないほどに美丈夫である彼の顔も白い着流しも墨汁のような黒い液体に染まっていた。それは巨大な蛭の姿をした異形が体内にもつ有毒な体液だ。


無事に討伐したのだが死に際に吐き出された敵の毒を浴びてしまった。普段なら容易に回避できた事態だが、今回は戦闘に巻き込まれた村の子供を庇ったせいで行動が遅れてしまったのだ。幸いにも怪異絡みの奇病を治す巫女である妻・遼子が現場に同行していた為、迅速な対応によってすぐに元気を取り戻した。


辰巳は帰宅するとすぐに怪異の体液で穢れた羽織を配下の祈祷師に焚き上げを命じ、自身は愛刀を手に禊の間へと向かった。


御堂家において禊の間というのは妖魔や怪異などと総称される化け物の類を退治した後、討伐に用いた刀剣を祓い清める場所である。強力な怪異の血や呪詛をまともに浴びてしまった武具は穢れてしまい、放置しておくとすぐに朽ち果てしまうという考えで御堂家の先祖たちが始めた儀式だった。


禊の間と呼ばれる部屋は四畳半の板の間だ。入ってすぐ正面の壁際に祭壇があり、その傍らには神々の力が宿るという夜叉王山の湧き水で満たされた桶と砥石、それに火が灯された一対の燭台。


薄暗い部屋の中で辰巳は慣れた手つきで刀の汚れを冷水で洗い流し、神社の神主が厄払いなどで用いる祝詞を唱えながら刃を研ぎ始めた。


それから一時間後。辰巳が丹念に研いだ愛刀を鞘に納めて退室しようと立ち上がった時、廊下の方から女の悲鳴が上がった。


辰巳は声の主は妻だとすぐに気づき、急いで室外へと飛び出した。声は寝室から聞こえている。廊下を走り抜けて寝室に踏み込むと縁側の窓が開け放たれており、そこには破門したはずの男の姿があった。


「貴様は!?」


「師匠、久しぶりだな。今日はあんたに訊きてえことがあってきた」


辰巳は相手の不遜な態度に激高した。かつてこの宗像という男は御堂流気功抜刀術の門弟だった人物で辰巳が期待していたほどの素質があった。にもかかわらず御堂家を裏切り、祓い屋業界では殺し屋と忌み嫌われる呪術集団「鳴鬼流」に寝返ったのである。噂によれば宗像は組織からの高額な報酬と自らの殺人欲求を満たすため、鳴鬼流に批判的な祓い屋たちの暗殺を担当しているという話だ。


その裏切り者が堂々と家中に土足で踏み込んできたのである。辰巳としてはこの害悪をただちに抹殺したかった。だが、すでに宗像は辰巳の妻を羽交い絞めにして人質としている。悔しいが妻を見殺しにするなど彼にはできない。


辰巳は抜刀しかけた愛刀を鞘に納め、相手の要求に応えることにした。


「何が望みでこんな真似を?」


「俺はただ陰摩羅鬼おんもらきっていう剣を探しているだけさ」


「陰摩羅鬼だと?」


その言葉を耳にした瞬間、辰巳は真っ青な顔になった。相当に動揺しているのか額からは汗が噴き出している。


陰摩羅鬼とは御堂家が保管している妖刀のことだ。戦国時代、狂気に憑りつかれた刀工によって生み出された禍々しい刀剣である。その妖刀を手にした武者は多くの手柄を得たものの、剣の邪悪な魂に吞まれて暴走してしまった。戦のさなかに敵味方問わずに虐殺した後、どういうわけか最期は自害して果てた。これ以上味方に損害を出したくなかったのか、罪悪感に苛まれたのかはわからないが、一時的に自我を取り戻していたのは確かなようだ。不気味なことに武者の死後、陰摩羅鬼に変化が起こった。両刃の刀身が黒く変色し、鋼の表面に赤い光が妙滅を繰り返すようになった。まるで生きているように……心臓が脈打つかのように……。


武者の形見として妖刀陰摩羅鬼を所持していた彼の親族たちは妖刀に不吉な予感を感じ取った。その予感が合っていたと言わんばかりに数年後、この一族は流行り病で死に絶えてしまった。


時代は流れて──世は江戸。妖刀はある古物商の手に渡った。どのように発見したのかは不明だが、古物商は妖刀に異様なほど魅入られていたという。最終的にこの古物商も発狂して自害するという最期を迎えたという。


この古物商の妻子は妖刀を恐れてとある寺に預けた。ところが妖刀を預かった住職は一年も経たないうちに変死した。妖刀の処分に困った遺族は御堂家に保管を頼み込んだ。


こうして妖刀・陰摩羅鬼は御堂家が保管、封印することとなった。厳重に結界や護符によって強化されたお堂に妖刀を封印したので現代では触れなければ無害だった。そんな禍々しい代物を宗像は涼しい顔で要求してきたのだ。


「あんな危険なものをお前に渡せない」


「ほう。そうなると奥さんを殺さなくちゃいけねえな」


「うぅむ……教えてやるから妻を離せ」


辰巳は妻を助けて欲しいと懇願し、宗像を屋敷の裏手にある小さなお堂まで案内することにした。妖刀陰摩羅鬼はこのお堂に保管・封印されていた。


辰巳は妻を人質に取った宗像を屋敷の裏手に位置するお堂まで案内した。お堂は夜の闇の中でひっそりと佇んでいた。装飾を施されていない質素な造りだったが何故か異常な存在感があった。静寂の奥に何かが潜んでいるような不気味さがそこにあった。


扁額には伏魔堂と書かれてあった。入口は鉄製の格子扉になっていて施錠されていた。


辰巳は懐から鍵を取り出して開錠し、扉を押し開けて中に入った。長い年月を外界から閉ざされていたことで室内の空気はひどく淀んでいた。しかし、そんなことなど気にならないぐらい堂内の禍々しさは際立っていた。床や壁面にずらずらと経文が墨で書いてある上におびただしい数の護符まで貼ってあった。


こじんまりとした堂内の奥には祭壇があり、そこに細長い桐箱が置かれている。箱の蓋は三枚のお札によって封がしてあった。


辰巳は祭壇の前に立つと厳かに真言を唱えた。すると、しばらくして桐箱を封じていたお札が燃えて消え去り、自然に蓋が外れて刀剣が露わになった。血のように赤黒い鞘に納められたこの刀剣こそ妖刀、正式な銘は「殺斬刀・陰摩羅鬼」である。


宗像は人質を取った状態で辰巳の隣に立って待っていた。陰摩羅鬼を目にした瞬間、人質に取っていた辰巳の妻を手放し、辰巳を押しのけて妖刀を掴んだ。宗像は新しいおもちゃを手にした子供のように目を輝かせて歓喜すると、さっそく刀剣を鞘から引き抜いた。まるで妖刀陰摩羅鬼が目覚めたように鋼が怪しく黒光りした。


「こりゃあ見事な業物じゃねえか。こんな埃がかぶった場所に死蔵されてちゃもったいねえ」


「これで満足したはずだ。さっさと当家の敷地から立ち去れ!」


「そりゃ無理な相談だな」


「どういうことだ?」


「どうもなにも俺が組織のお偉いさんから頼まれた依頼には──あんたらの命も含まれてんだよ」


「な、何!」


辰巳の腕は相手の殺気に反応して自然と柄に伸びたのだが……手がしびれて柄を掴めず、居合を繰り出すタイミングを逃した。宗像の身動きも異常に素早く、気づいた頃にはすでに辰巳の右腕が切り落とされていた。瞬く間に血だまりが床の上にできた。


辰巳の妻は家人を呼ぶために堂内から飛び出そうとしたが、背後から宗像の凶刃を受けて絶命した。


妻が床に崩れ落ちた時、辰巳は悲しみと憎悪に満ちた声で叫んだ。だが、思うように動けない。体全体が麻痺して動けずにそのまま倒れ伏した。肩から先を失った切断面からは血が噴き出している。


宗像は辰巳のそばに近寄ると不敵な笑みを浮かべ、片腕を失いながらも起き上がろうともがいている彼に自分の顔を近づけた。


「毒の威力は予想以上に強力だな」


「……ど、毒だと?」


「今日、あんたが倒した蛭の化け物さ。アレはうちの組織があんたに毒殺するために作ったのさ。この毒を喰らった直後は大したダメージはない。軽い拒絶はあるだろうがすぐにおさまっちまう。ところが他の遅延性の毒よりも恐ろしいのは死ぬ寸前になるまで何の症状もないところさ。つまり、あんたは今回の依頼を受けていた時から死ぬ運命だったのさ」


「……ひっ……卑怯者……」


「俺が手を下すまでもないのは残念だがな。そういう依頼だからしかたがねえ」


「……ぐぼおっ……」


と、辰巳は憎悪と苦悶に満ちた表情を浮かべた末、最期に大量の血を吐いて絶命した。


宗像は辰巳の死亡を確認した後、何食わぬ顔で御堂屋敷の門から堂々と立ち去った。途中、不審に思った門弟たちや家人の者、それに討鬼衆の数十名と遭遇したが動揺もせず、抵抗する隙も与えず一方的にことごとくを惨殺していった。生き残った者は仕事で他の地域に出張していた討鬼衆数名。また、御堂家の一族に関しては外出していたアズサと祖母の二人だけという壊滅的な状況だった。この時、帰宅途中だったアズサは自身が過酷な運命に陥るなど夢にも思っていなかった……。


2.


わたしは今でも深夜、あの悪夢にうなされて目覚めることがある。


七年前。血の海と化した床に倒れた父と母の姿。目の前の光景を目の当たりにした当時の自分は現実の事として受け入れられず、泣きながら冷たくなった両親の遺体を交互に揺さぶっていた。だが、どんなに起こそうとも二人が帰ってくるはずがない。それから何日も泣きながら過ごしたが次第に悲しみよりも、親を殺した仇であるあの男──宗像冬也に対する憎しみの方が強くなっていった。わたしは幼い時から奴のことが嫌いだった。全身から危険な雰囲気を漂わせていた。今にも誰かに危害を加えるような空気だ。


祖母の牡丹は事件後、日本各地に飛んでいた討鬼衆や弟子たちを招集し、宗像冬也の追討を命じた。父の辰巳と親交のあった祓い屋たちもそれを耳にして自主的に協力を願い出てくれた。


父は人から慕われる人物だったが祖母も傑物だ。還暦はとうに過ぎているはずなのに三十代後半にしか見えぬ若さと美しさを保ち、祓い屋としても現役で活躍していた。小柄で華奢な体にいつも中国の道服のようなものを好んで身につけている。祖母には十九歳の時、青龍刀を手にたった一人で化け物の群れを薙ぎ倒したという武勇伝があり、祓い屋業界ではその美貌と武勇を称えて「羅刹天女」とあだ名されているそうだ。


事件から一か月が経ったある日、祖母は十歳のわたしに今後の生きる道を問いただした。


「おい、アズサ。お前には今後、どのように生きていくつもりだい?」


「……どうって?」


「お前には二つの道がある。一つは御堂家当主の跡はつかずに普通の人間として平凡に生き、親の復讐をわしに一任する道。二つ目は修羅の道さ。御堂家当主を目指して修行し、仇敵である宗像冬也を自分の手で討ち取り、なおかつ危険な妖刀陰摩羅鬼を破壊すること。それであんたの意志は?」


「わたしは自分で奴を殺したい。お父様とお母様の仇を討ちたい!」


「よくぞ言った。それでこそ我が孫じゃ。ただし、わしの修行は厳しいぞ。それでも耐えられるか?」


「……」とわたしは返答に迷った。祖母が弟子に課している修行は過酷なものであることは知っていたから、下手をすれば殺されてしまうのではと恐れたのだ。だが、沸々と込み上げてくる敵への怒りをおもえば大した障害ではないと己を奮い立たせた。わたしは何度も深呼吸を繰り返した後、大きな声で「耐えてみせる」と返事をした。


「良い返事だ。これよりわしとそなたは師弟関係となる。身内だからという甘えは捨てよ!」


「はい。分かりました!」


この日から過酷な修行の日々は始まった。まず、祖母はわたしに剣術の基礎を叩きこむために木刀による特訓を開始した。


腰を立てる姿勢の意識づけから教えられた。要するに顎を引き、背筋を伸ばして腹部に力が入った状態のことだ。これを意識したうえで木刀を両手で構えて素振りししつつも上半身の構えを崩さず、足さばきを巧みに利用して相手に打ち込んでいく訓練を毎日やらされた。言葉では簡単に言えるのだけれど、当時のわたしは苦戦した。木刀と言っても竹刀より重量があり、小学校低学年だった自分の腕力では掴んで構えるだけで精一杯だった。木刀を両手でつかんでも足がふらついて転んでばっかりの記憶がほとんど。よく祖母に腰が入っていないと怒られたものだ。それでも中学校に上がってからは部活も剣道部を選んで練習に励んだおかけで基本は理解できるようになっていた。


だけど、御堂流気功抜刀術はただの剣術ではない。気功そのものを使うことができなければダメだった。かくして祖母による修行は第二段階に入った。剣術の稽古は継続しつつ、朝と夜に瞑想をすることが課された。瞑想と言っても頭の中でイメージしないといけないことがあった。体内において気が生じるとされる丹田(へその下あたり)を意識し、そこから気の力が全身に流れる光景を想像することで気功が操れるというのだ。正直、わたしは頭で理解できなかったから物凄い苦戦すると思っていた。だけど、素質はあったらしく、気づいた時には気功を使えるようになった。


剣術の基礎と気功の扱いマスターしたところで祖母による修行は第三段階に入った。ここからは木刀に気を込めて戦うことを基本として、祖母と二人で模擬戦を行うことになった。あれは本当に恐ろしい実践訓練だった。


気の力が込められたものはどんなものであっても凶器になってしまう。


着物の帯だけで肉を切断したり、一本の小枝で岩を貫くことも可能だった。


実際に祖母と毎日のように行っていた模擬戦において、わたしはいつも満身創痍だった。祖母が繰り出してくる切っ先を避けても風圧にあっただけで傷ができた。鍔迫り合いで押し切ろうとしても逆に気功で木刀ごと吹き飛ばされ、庭先の地面に何度叩きつけれたことか。わたしも気功を扱えるから普通の人間よりも回復は早く、翌日には傷が治っていたけれど祖母の容赦のなさを身をもって理解した。


そんな祖母による修行は体力作りも手を抜いてはいなかった。わたしは祖母に連れられて夜叉王山に登らされた。夜叉王山は御堂家の人間だけが入山を許されている場所であり、地元の村民にとっては忌地とされている。そのために舗装された参道はない。獣道や植物が鬱蒼と生い茂る茂みをかき分け、切り立った断崖絶壁を超えて山頂を目指すという過酷な登山だった。夜叉王山はそれなりに標高が高いから山頂までは時間がかかり、途中はキャンプをしながら三日かけて登ったものだ。恐ろしい道のりだったけど、祖母と夜を明かすのは楽しかった。焚火を挟んで向き合うような格好でよく二人で話をしたのを覚えている。祖母は怪異と総称される様々な妖怪や妖魔に関する話を聞かせてくれた。


そんな祖母と日々を過ごすうちにわたしは十五歳になっていた。


ある日、祖母は私に試練を課してきた。試練とは夜叉王山の山頂で一晩、たった一人で過ごすというものだ。昔から夜叉王山の山頂には荒々しい神や百鬼夜行の群れが立ち寄ると言われている。祖母はそういった恐ろしげなものを目撃しても動じない精神力を試すためのテストを行うと言った。その日の夕方、祖母は私を夜叉王山の頂につれていった。ごつごとした地面の岩肌に五芒星の結界を描き、その上に私を座らせ、夜食や夜を明かすための必需品を渡して「明日の朝、わしが迎えにくるまでこの結界から動いてはならん。異形の者たちが声をかけられても返事をしてはならん。これを破ればお前は殺される。わかったな」と忠告して山を下りて行った。


日没を迎えると辺りは静寂と深い闇に包まれた。獣の気配や虫の音すらも聴こえてこない。私はだんだん辺りの不気味な静けさが怖くなり、思わず目を瞑った。背筋がゾクッと寒くなった。


それからどれぐらい時間が流れたのかは覚えていないが突然、辺りが騒がしくなった。巣で眠っていたであろう野鳥たちが何かに脅え、羽ばたいて飛び去る音が聴こえてきた。気になって目を開けてみると、夜空に浮かぶ赤い月の中に黒い点があった。しばらく眺めていると黒い点がどんどん大きくなっていった。私は途中で気が付いた──それはこちらに接近しつつある何かの影だということに……。


その正体は魑魅魍魎どもの群れだった。大蛇のように縦に長く伸びた群体と化して空中をうねりながら飛行し、月が出ている方向からこちらへ移動していたのだ。個々の化け物の姿は黒い影に見えなかったけど、奴らは共通して赤い目を怪しく光らせながら蠢いていた。


いつまにか魑魅魍魎の大きな群れはわたしの頭上をぐるぐると旋回し始めた。化け物共のうち二つの声がこちらに向かって何やら囁いてきた。


「へへ、うまそうな人間の娘じゃな」


「かかかか、喰うてしまうか」


「だめだ。おれはあの娘とまぐわいたい」


二匹はさんざんに欲望を露わに囁きあっていた。それを戒めるように群れの元締めらしき野太い声が怒鳴った。


「この馬鹿垂れどもめ!あんな小娘で我らの腹など満たせぬものか。それよりも早く人里に下りて田畑を食い荒らすぞ」


その声によって囁き声が静まり、再び動き出した魑魅魍魎の大群はわたしの頭上を通り過ぎてどこかへ消え去ってしまった。わたしはほっと溜息をついた。内心、いつ喰われてもおかしくない状況に叫び声すら出せないぐらい脅えていたのだ。だが、安堵したのも束の間だった。続けざまに新たな怪異が起こった。月すら出ていた夜空に前触れもなく、忽然と暗雲が立ち込めてきた。墨汁のように真っ黒な雲。月明りが遮られたことで辺りはさらに暗くなった。わたしは再び目を瞑った。直感的にこれから訪れるであろう何かを視界に入れてはいけないと感じた。当然ながら何かの正体は分からなかったけれど、そう思ったのだ。


そして、それはすぐに降りてきた。


雷が落ちたような轟音と一緒に何やら重量のあるものが空から地面に降ってきたのを感じた。凄まじい音に鼓膜が破れるかと思った。目を瞑っていたから視認できたわけじゃないけど、地響きによって生じた振動が体に伝わってきた。音はわたしのいる場所から一キロぐらい先の前方だと思う。


そいつは二本足で歩けるらしく、足音がどんどんこちらに接近してくる。わたしの鼓動は高鳴った。どくどくと脈を打ち、すごい速さで血液が血管の中を駆け巡っているのを感じた。


質量がありそうな足音。歩くたびに地面が揺れたからそいつは相当に巨体だったのだろう。


やがて、足音が結界の外で止んだ。結界の外周といってもそれほど範囲は広くないからすぐに相手の息遣いを感じた。生臭い吐息が顔にかかった。吐き気を催すほどの血生臭い。苦しいぐらいに不快だった。


わたしが瞼を閉じたまま顔をしかめていると、地の底から漏れ出てきたように低く、威圧的な野太い声が頭上から降ってきた。


「貴様!誰の許しを得てここに来た!?」


「……っ!」と返事しそうになり、必死に自分の口を抑えた。返事をしなければ殺されそうな勢いだったから返事をしそうになったのだ。


「おい、聞いておるのか!」


「……」


「おのれ。我を誰だと思っておる。我こそはこの山の主、夜叉王ぞ!」


だんだん相手の声が荒々しくなった。


「人の子の分際で神を恐れぬとは生意気な」と夜叉神はわたしの長い髪を乱暴に掴んだ。今にも髪の毛ごと頭皮が引き剥がされるのかと思うぐらいに激痛が走った。


「ううっ……」


「目を開け! きかぬと言うなら貴様の体を八つ裂きにしてやるぞ」


さすがにこの恫喝には心臓が止まるかと思った。


このまま殺されると思った時、瞼越しに眩い光が射し込んできた。思わず目を開けた時、目の前には何者もおらず、陽光が顔に当たっているだけだった。気配を感じていた場所に黒い獣毛が落ちていた。だが、何の毛髪なのか確かめるためにかがもうとした時、すでにそれは消えていた。


いつの間にか夜が明けていた。祖母が迎えに来たのはそれからすぐのことだった。


「よくぞ夜叉神様の試練に耐えた」


祖母によれば御堂家は夜叉神という神を信仰しているらしい。新しく御堂家の当主を目指す者に度胸試しをするために親族が夜叉神に祈願し、それに応じた夜叉神がああいった手荒いしごきをするのだという。百鬼夜行の魑魅魍魎共も夜叉神が神通力で呼び寄せたに過ぎないということだった。


わたしは夜叉神のしごきに耐えたことで最終試験を受けるための資格を得た。


試練を達成してから一週間が過ぎたある日の朝、わたしは祖母から最終試験の内容を伝えられた。これまで過酷な修行に耐え来たけれど、この試験に比べれば大したことではなかったと実感している。正確に言えば試験というよりも退魔師として最初の怪異討伐だった。実戦に活かせてこその訓練だとする御堂家の方針によって代々、当主候補者や退魔師見習いに課せられてきた通過儀礼なのだという。


わたしに与えられた仕事は夜叉王山の裾野辺りに位置する洞窟・蛇妖窟に出没するという「四俣の大蛇」を殺すこと。この怪物はヤマタノオロチほどの大きさ──二十キロあったとされる──ではないものの祖母によれば、十メートルほどの太くて長い胴体があり、先端から四つの首に分かれている大蛇の妖魔だという話だった。ただ、普通の大蛇と違うのは邪眼で敵対する者を幻術にかけて惑わし、混乱しているところを襲撃してくるから注意が必要だと言った。情報はそれだけだった。その特徴以外は倒し方すら教えてくれなかった。そこまで知っているならどうして放置していたのかと疑問にも思ったが最終試験なので黙って従うことにした。


わたしは祖母が用意してくれた無銘の日本刀を受け取り、目的地の蛇妖窟を目指して歩き出した。


夏の山は生命力に満ちあふれていた。新緑の葉をつけた樹木は鬱蒼と生い茂り、獣や鳥はエサを求めて活発に動き回る季節。山のいたるところでセミの鳴き声が響き渡っていた。


午前十時。わたしは蛇妖窟の入り口に到着した。空では太陽が煌々と輝かせているにも関わらず、鬱蒼と生い茂る草木に囲まれた洞窟付近だけが薄暗い雰囲気を漂わせていた。ぽっかりと穿たれた穴の奥は漆黒の闇が続いていた。


わたしは懐中電灯を片手に洞窟の奥へと踏み込んだ。中は夏とは思えないぐらいにひんやりとしていた。湿った空気とカビの臭いが混じった何とも言えない不快な臭気が鼻腔を刺激した。大人一人がどうにか通れそうな通路を進んでいると足元にぬるっとした感触があり、思わず足が滑ったものの踏ん張ってライトを地面にあてた。苔むした地面が地下水でわずかに濡れていた。敵の気配がないことに安堵して先へ進んだ。


 すると、いきなり開けた場所に出た。


円形状に空洞が広がっていた。鍾乳石が無数に突き出した天井には地上と繋がっている穴が空いているらしく、わずかな光が自分の足元を照らしていた。それでも地上と比べれば視界が悪いことに変わりはない。空洞の中心部に視線を向けると黒い塊が蠢いていた。わたしはただの岩だと思っていたから驚いて懐中電灯を地面に落としてしまった。黒い塊はその音に反応してこちらに向かって動き出した。


正体は四俣の大蛇だった。四つそれぞれの頭は目玉を怪しく光らせ、口から激しく息を吐いて「シャアアアア」と噴気音をたてて威嚇してきた。目の前に鎌首を持ち上げて立ちふさがった怪物は確かに巨大で恐ろしかったけれど同時に「これを倒さなければ前に進めない」という覚悟が決まった。何がなんでも気功抜刀術の免許皆伝を得て、御堂家の当主として害悪を絶たなければならない。


わたしは深呼吸を何度か繰り返した後、腰に帯刀していた刀の柄に手を当てた。敵の邪眼と視線が合わさらないように下をむいた。邪眼と目が合ったら幻術によって金縛りになり、八つ裂きされて捕食されるのは確実だった。かといって相手の動きを捕捉できなければ絞め殺されてしまう。こうなると短期決戦を狙うしかない。素早く片付けたり、高速で斬撃を繰り出すには居合が妥当だった。ただし、居合の斬撃を一手でも失敗することは許されない命がけの戦いだった。


わたしは全神経を集中させながら目を閉じた。気功抜刀術には視覚を奪われた際に用いる戦い方がある。俗に闇衣と呼ばれる回避技だ。気功抜刀術を用いる術者は気功を操る為、殺気を察知して攻撃をよけるというもの。わたしはこれを利用して目を閉じた状態で襲い掛かる四つの頭が発する殺気を捕捉し、それにむかって居合を繰り出すことにした。


わたしは軽く息を吐いた。瞼を閉じた状態で面をあげた。ほぼ同じタイミングで大蛇が襲ってきた。敵の攻撃を巧みにかわし、接近してきた首を順番に居合を繰り出していった。この時、自分の頭の中には雑念などは一切なく、無心で蛇の首を刎ねた。


両目を開けるとそこには干からびた大蛇の死骸が転がっていた。


「どういうこと?」


わたしが狐に化かされたかのように放心状態で佇んでいると背後から拍手の音が聴こえてきた。驚いて振り返るとそこには祖母の姿があった。


「アズサ。見事だったよ。これでお前は免許皆伝じゃ」と祖母は感心した素振りを見せながら笑った。


「これは何なの?」


「お前が斬ったのはわしが作り出した幻影じゃ。敵を倒す際に無心で対応ができるか試したわけさ」


「お父様もこれを?」


「もちろんさ。これは御堂家で代々行ってきた伝統。大蛇を四首にしたのは初期仏教における四禅にちなんだのじゃ」


「四禅って?」


「簡単に言うと瞑想じゃな。詳しくは知らぬが瞑想の状態が四段階あるらしい。それらをすべて超えると不苦不楽の状態になり、完全なる無の境地に達するということじゃな」


「よくわからない」


「そうだろうな。ただ、わしなりに助言を与えるとすれば……」と祖母は一旦、口を閉じた。それから数秒後、祖母は険しい表情を浮かべて私の顔を凝視した。


「つまり、憎しみに囚われてはいかんということじゃ」


「憎しみ?」


「そうじゃ。お前の宗像冬也に対する復讐心は理解している。わしとて手塩にかけた息子を殺されたのだから奴は憎い。だが、御堂家は罪なき人々を怪異や害悪から守るという大義がある。これを失えば気功抜刀術とて虐殺の道具と変わらん。それを忘れるな」


「……完全に理解できたわけじゃないけど、努力するよ」


「それでこそ、我が自慢の孫じゃ。さあ、家に帰るとしよう」


「……う、うん」


わたしは両親を殺した仇敵を討つという執着心が原動力だっただけに複雑だった。ただ、祖母の気持ちは理解できた。気功抜刀術は怪異と総称される化け物共に振るう刃であり、人間に向けるべきものではない。感情に駆られて剣を振るえばただの殺人剣だ。それは頭で理解しているけれど、宗像を前にして無心で戦える自信はなかった。


その後、複雑な気持ちを抱きながらも祖母の仕事に同伴して退魔師としての仕事を学んでいった。わたしは最終的に祖母から宗像冬也の誅殺する許可を得た。同時に祖伝来の名刀・鬼切安綱を授かり、宗像の気が発する臭気を辿って上京することとなった。


……だが、わたしは宗像に敗れてしまった。感情を完全にコントロールできたとはいえない。それに自分の技に対する傲りがあったのだろう。


こんなことで宗像を倒せるのだろうか……。


アズサは自分の悲鳴で目覚めた。


酷い悪夢だった。


全身が汗でびっしょり濡れている。


彼女は今でも時々、両親が血の海と化した堂内において惨殺された光景を夢の中で見てしまう。忌まわしい記憶が蘇るたびに暗鬱な気分になった。


アズサは上体を起こして辺りを見回した。どうやら見知らぬ一室に置かれたソファーの上で仰向けに寝かされていた。


「ここは?」


アズサは昨夜の記憶を振り返る。宗像冬也との激戦において深手を負わされ、絶体絶命に追い込まれたところを謎の女に助けられたのだった。その後の記憶はまったくない。


不思議なことに肩に受けたはずの傷は嘘のように消えていた。何の痕跡も残ってはいない。


「……どういうこと?」とアズサが肩をさすりながら傷の消失に戸惑っている突然、左横から女の声が飛んできた。


「すっかり元気になったようね」


「……えっ!」


アズサは驚いて思わず立ち上がった。声がした方向に振り返るとテーブルを挟んだ反対側にこちらと向き合うような形でソファーがもう一つ置いてあり、そこには銀髪の女が座っていた。テーブルの上にはアズサの愛刀が格納されたギターケースが置かれていた。


ソファーに座っている女の片方の目は髪に隠れて見えないのだが、露わになっている目の瞳がたまに琥珀色に光っているように見えた。口元には微笑を浮かべている。


女の後方には事務机があり、さらにその背後に大きく開かれた窓から朝の光が室内に射し込んでいた。


女は昨夜の黒い巫女服とは違い、女性用のリクルートスーツに身を包んでいた。


「私は土御門聖歌。ここは怪奇探偵舎よ。怪異に関連した事件の捜査及び解決を目的に業務を行っているの。私個人としては副業で解呪師の仕事もやっているけどね」


「……わたしは御堂アズサ」


アズサはこの女を信用してよいものかと訝しげに相手の顔を凝視しつつもひとまずは助けてくたことに礼を伝えた。


「いいのよ。ちょうど怪異事件を解決した帰りに通りかかっただけだから。それにしてもあなたって訳ありのようね。もし、良ければお話だけでも訊かせてもらえない?協力できることもあるかもしれないし」


「……はあ」


アズサはこの女を完全に信用して良いかの判断がつかなかった。


——ずっと笑ってるし、それがこっちを試しているようで不快だ。それに……何とも言えない妖気のような強い気配が漂ってるんだけど、不思議と邪悪ものは感じられない。少なくとも宗像や鳴鬼流のような無頼の徒ではなさそうだけど……。


アズサの信条として他人の協力を仰ぐことはプライドが許さなかった。しかし、生き延びたと言っても宗像に敗れた事実に変わりはなかった。


——これ以上何の罪もない人々を宗像に殺されるより、少なくともこの怪しい女はわたしの敵ではなさそうだし、宗像の攻撃からわたしを救い出した能力もある。それなら味方に引き入れて宗像をともに倒すために利用するのが真っ当では?


結論としてアズサは事情を打ち明けた上で協力を求めることにし、ここにいたるまでの経緯を伝えた。御堂家と鬼討衆のこと、妖刀陰摩羅鬼のこと、それを手にした宗像冬也と鳴鬼流のこと……ただ、祖母のことや自らの気功抜刀術の修行や詳細については伏せておいた。


土御門はアズサの話を一部始終、興味深げに耳を傾けていた。話が終わったところで彼女は一言呟いた。


「なるほどね。その陰摩羅鬼という妖刀。あの刀からは凄まじい呪いの力を感じたわ。相当に危険な魔導骨董ね」


「魔導骨董?」


「この世の理を歪ませかねない危険な呪力が宿った道具のことよ。たぶん、このままあなたがあの男と何度戦っても勝ち目はないと思うわ」


「それはどういう意味だ? このわたしが弱いと言いたいのか!」


「まあ、落ち着きなさいよ。ただああいう相手には勝ち方があると言っているの。べつにあなたの剣技を疑っているわけじゃない」


「勝ち方?」


「ええ。呪力相殺という現象があってね。強さが同等の呪いをぶつけると呪いの力が一時的に消失されてしまうの。だからあの妖刀に強力な魔導骨董で対抗すれば相手に大きな隙が生まれ、そこにあなたの剣技を叩き込めれば勝機はあると思うわ」


「……しかし、わたしは魔導骨董なんて持っていないぞ」


「確かに魔物を倒すための武器で魔導骨董は破壊できないでしょうね。ただ、私の知り合いには魔導骨董に詳しい骨董品屋がいるの。良ければ紹介しましょうか?」


「それは本当か? しかし、こちらはあまり大した額は払えないぞ」


「そんなのいいわよ。今回は無料で協力するから」


「どうして他人にそこまでするんだ?」


「……私も鳴鬼流と因縁があってね」


「あなたも奴らに恨みが?」


「まあ、それはあの男を倒したあとにでも話してあげるわ。それよりも骨董品屋がある場所は特殊だから色々と注意事項があるから、うちの助手に説明させるわね」


「助手?」


「いまから呼び出すから待っててね」と土御門はスマートフォンを取り出して助手に電話した。


土御門が電話をかけてから三十分後、その助手と呼ばれている青年が現れた。電動車椅子のスティックを操り、わたしのそばにやってきたが、こちらの目を見ずに顔を伏せたまま挨拶だけして、名前だけ稲生正芳と告げた。年齢は二十歳過ぎぐらい。外見は根暗だがどこにでもいそうな若者にしか見えない。


髪型は短髪。若いのに黒髪には白いものが混じっている。アズサはこの土御門という怪しい女にいつも良いように利用されているに違いないと思ったが、青年が女を見る瞳には信頼と情が込められていた。


──こんな怪しそうな女とどうしてつるんでいるのか?


アズサは稲生という青年の女の趣味については理解できそうになかった。それでも骨董品屋への行き方を教えてくれるのはありがたかった。


「稲生君。まあ、そんな事情だからこの子に妖神街の骨董品屋への行き方と注意事項を教えてあげて。私はこれから別の仕事の調査に行くから留守番よろしくね」


「……聖歌さんも人使いが荒いなあ。俺、今日は休みのはずなんですけど?」


「まあ、良いじゃない。何事も修行だと思って」と土御門は稲生の肩を軽く叩いて笑った。


「わかりましたよ。任せて下さい」


「オッケー。稲生君もアズサちゃんもそれじゃあまたね!あそこのシフォンケーキ、売り切れてないわよね……」


「面倒ごとを俺に押し付けて自分はカフェですか、ほんとに責任者ですか……」


「アズサちゃん? ちゃん付け?」


アズサは土御門の馴れ馴れしさに嫌悪感を露わにしたが、彼女はそのまま忙しそうに部屋から出て行った。


「申し訳ないですね」と稲生は穏やかな声で声をかけた。


「うちの舎長は忙しなくて落ち着かないでしょう?」


「いや、別に」


「そう。それなら良かった。あと、法外な値段とか吹っ掛けられてない?」


「それは大丈夫。お金はいらないって」


「聖歌さんがただで人助けなんて珍しいなあ」


「そんなことより骨董品屋への行き方!」


「ああ、ごめんなさい。そうだったね。とりあえずバスに乗って下迦楼羅という停留所に向かって──」と稲生は淡々とした口調で目的地への道順を説明してくれた。


まず、下迦楼羅の古戦場に位置する供養塔を見つけること。その供養塔から北東に向かって進むと「はなれ鳥居」と呼ばれる石柱があり、そこが異界である妖神街の入り口だということだった。


稲生によれば骨董品屋が属している妖神街は色々な事情で現世では生きにくい妖怪、妖怪と人間の混血者である「妖人」たちが隠れ潜んでいる隠れ里のことらしい。


大昔は里程度の集落だったようだが現在、大都市にまで発展しているために「妖神街」と呼ばれているそうだ。街の周囲には現実世界と隔絶するための結界が張られている。ただ、妖神街と現実世界を行き交う行商人が存在するために例外的な交通手段が一つだけあった。それは妖神街の支配者が発行している通行手形と呼ばれるものだ。通行手形には二種類あるという。一つは二人組で使用する行商人用手形、二つ目は一人で使用する特使用手形。幸いにも怪奇探偵舎は二つを保有しており、アズサには移動速度が速まる効果のある特使用手形を貸してくれるということだ。


「あと、はなれ鳥居から骨董品屋の店内に入るまでは口をきかないことだね。その間はずっとこのお面をかぶっていないとダメだから」


このお面──というのはテーブルの上に置かれた鬼の面のことらしい。よく分からないがアズサは稲生の言う通りにすることにした。


アズサはギターケースを肩にかけ、お面を片手で掴むと稲生に礼を伝えて玄関口へ歩き出した。


外に出ると土御門にそっくりな男が箒を手に掃除していた。男も若そうだったが年齢は分からなかった。彼はアズサに気付くと自らを土御門の兄・琉惺と名乗り、妖神街の通行手形を渡してくれた。


「ほな。気を付けてな」と何故か関西弁で見送ってくれた。


「おかしな人たちだ」とアズサは思わず吹き出してしまった。御堂家の誇りと宗像冬也打倒のためだけに真っ直ぐ突き進んできた彼女にとって、自由気ままに生きている彼らはどこか滑稽で羨ましいとも思った。


気がつけば琉惺という男の姿は消えた。事務所の中に戻ったのだろう。


アズサはただ一人、事務所に向かって一礼してから妖神街を目指して歩き出した。


アズサは稲生から教えてもらった地点から異界に入り込んだ。闇の中、妖神街に通じている一本道を突き進んだ。鬼の面をしっかりとつけ、道中で異形の群れと遭遇しても相手にせずに走り続けた。


気がついた時には白い霧の中を走っていた。次第に霧が晴れていき、荒涼とした風景が露わになった。厚い雲によって太陽の光が遮られた灰色の空。大地は血のように赤く染まり、草木は一本も生えてはいない。動物の痕跡も存在しない死の世界が広がっていた。そんな荒涼とした大地に一本の太い道路が続いている。


アズサは異界の光景に圧倒されながらもその道を進んでいった。しばらくすると道の両側に石灯籠が出現し始めた。延々と建ち並んでいる灯篭には緑色の火が灯されていた。


その石灯籠の一群を越えた先に巨大な赤い城壁がそびえていた。万里の長城を思わせるほどの迫力がある。街への入り口である大門は鋼鉄で造られており、不気味に黒光りする鉄の門扉の高さは10メートル。幅は旅客機が通過できるほどの広大なものだ。


扁額には大きな文字で『妖神街』とあった。


アズサは門前にいた衛兵らしき二名の男に通行手形を見せ、城郭内に足を踏み入れた。


城壁内の領域は広大なものだった。街はよく整備されており、住宅や商業地区など目的別に分けられていた。碁盤の目のように区画された街並みは唐代の長安、平安期の京都を髣髴とさせた。稲生から聞いていたのと同じくこの街は色んな国や時代の建築物が混在した不思議な雰囲気が漂っていた。稲生からもらった地図によると骨董品屋は街の東部に位置する日本と中国の妖怪が住んでいる商業地区「桃花源」の路地裏で店を構えているようだ。


桃花源は騒がしくも鮮やかな場所だった。中心部には壮麗な楼閣が聳え、その周囲にはネオンの看板を掲げた風俗店や賭博場が軒を連ねていた。


ガス灯が建ち並ぶ通りから少し外れた路地裏に入り込んだ先に骨董品屋は建っていた。


骨董店──悪羅。


黒い外壁。赤い屋根のこじんまりとした洋風の家。


アズサは玄関口の前に立つとドアノブをゆっくり回して店内へ入った。


内の照明は蛍光色ばかりで目がくらみそうだった。内装の色まで赤と黒を基調としているせいで気持ちも落ち着かない。


店の商品棚には奇妙な物が陳列されていた。


底から呻き声が聞こえてくる壺。


生きた人間のようにまばたきする西洋人形。


緑色の液体で満たされたガラス瓶に保存された胎児。


煙を噴き出している錆びついた洋風のランプ。


血濡れた腕が飛び出している玉手箱。


どれも不気味で因縁めいていそうな一品ばかりだった。幾つもの商品棚が整然と並んでいる一画を通り過ぎた先にはカウンターがあった。店主らしき女がカウンターテーブルの上にどっかりと座り、煙管をふかしていた。


女は三十代前半ぐらいに見えた。体型は細身だがそれなりに身長もありそうだった。


髪の色は暗い赤。長い髪に櫛を差して花魁風に束ねていた。


唇や耳にピアスが反射して光る。


端正な顔立ちに鼻筋がすっと通った美人だ。だが、アイシャドウと口紅がラメ入りの紫色であるためにけばけばしい印象が強かった。


蜘蛛の姿が刺繡された赤と黒を基調とした着物を羽織っている。裸に着物を無造作に羽織っているので胸元が露わになっているが本人は気にしていない様子だった。


「おや、あんたが御堂アズサかい? お面を取りな」と女は気さくに声をかけてきた。


「そうよ」


アズサは言われた通りに鬼の面を外した。


「あたいはアラクネさ。あんた小娘にしては大人びた顔だね」


「はあ……それは褒めているの?」


「まあね。土御門からは色々と聞いているよ」


「世間話は良いからさ、陰摩羅鬼の対処法を教えてよ」


「気の強い女だね。せかさなくてもちゃんと良い手を準備してるよ」


アラクネはそう言うとテーブルから下り、レジ近くに置かれた白い布袋を掴んでアズサに手渡した。


袋の中身は不明だがずっしりと重い。


「これ重いんだけど何?」


「まあ、開けてみな」


アズサは言われた通りに袋に手をかけ、おもむろに中身を取り出す。


それは朱色の籠手。右手用の籠手だった。籠手というのは筒状の織物を肘まで通し、その表面に金属などを装着して補強する防具である。ただ、不思議なのは手の甲の部分に水晶玉がはめ込まれていることだった。何のための装飾は不明だった。


「これは?」


「魔封の籠手さ」


「何それ?」


「妖刀陰摩羅鬼を最初に使った男の遺品だよ」


アラクネによればその男は戦国時代、武田信玄に仕えた二十四将の一人・名を多田三八郎といった。あまたの戦場で功績を残している。また妖怪退治も有名だった。おもに火車、天狗、鬼の三体を討伐したとされ、いつも右腕にはこの「魔封の籠手」を身につけていた。


この魔封の生地裏には高僧によって経典がびっしりと記してあり、籠手には悪しきものの妖術や呪術を無効化する力があるそうだ。


「これで本当に陰摩羅鬼と互角に戦えるの?」


「本来は魔物の身体の一部、欠片そのもののほうが強力で、無効化しやすいのだがこの籠手のように、長年人や妖魔の生き血をすすった呪物でもできないことはないだろう。ただ、陰摩羅鬼と同等の力‥‥それは同時に強力な呪いを宿しているということだ。実際、多田三八郎はこの籠手で呪力相殺させて陰摩羅鬼の力を制御してはいたが、最終的に二つの魔導骨董から生じる力による負担に耐えられなかった」


「最期はどうなった?」


「死んだよ。闇に落ちてね。まあ、味方の兵を殺してしまう前に自害できたのは救いだったろうね。狂気に苛まれながら愛する者たちを手にかけるよりはましだろ」


「確かに‥‥」


「はっきり言っておくがあんたがこれを使ってどうなるかはわからない。ただ、強靭な精神力が必要だろうね。覚悟はあるかい?」


「もちろん。宗像冬也を倒さなければ一般人が殺され続けることになる。御堂家の当主としてもほっておけない」


「なるほどな。あんたには大義があるわけだ。逆に言えばその大義を見失い、私怨のみに囚われた時‥‥あんたは闇に落ちる。その可能性を踏まえたうえで籠手を使うか決めな」


「そうだな」


アズサは独り言のように呟くと静かに押し黙った。正直なところ彼女の心境は複雑だった。宗像冬也が親を殺した仇敵だというのは事実だ。仇討ちという想いも強いのだが、祖母の教えも忘れたわけではない。御堂家は弱きものを助ける存在である以上、かつては身内だった者が殺人鬼となるのは一族の恥だ。家長となったからには私怨を捨て、いたずらに人命を奪う害悪は討つという大義を守り通さねばならなかった。


「この籠手を使わせてほしい」思い悩んだ末、静寂を破ったアズサの瞳には闘志の炎が燃え上がっていた。


アズサはおもむろに籠手を装着した──とその瞬間、激痛が腕に走った。


「‥‥ううっ!」


長くて鋭利な針を深々と肉体に刺されたのと同等の痛み。同時に籠手と皮膚の表面の間に違和感があった。まるで籠手から無数の触手が伸びてきて、皮下組織へと侵入してきているような感覚がした。


アズサは痛みに耐えきれず必死に籠手を外そうともがいたが取れない。そればかりか痛みの方もさらに増していく。今度は腕の骨──手首から前腕骨にかけて──に鉄の楔を打ち込まれたのではないかと思うほどの圧倒的な痛みが襲ってきた。


アズサは右腕を抑えた状態でその場に倒れ込み、床をのたうち回った。痛みに熱が伴い、冷や汗で服はぐっしょりと濡れていた。


彼女は息を乱しながらも「……わ……わたしに……なにを?」と自分を見下ろしているアラクネをにらんだ。アラクネは煙管の白い煙をくゆらせながらも、すました顔をしている。


「説明が足りなくて悪かったね。その魔封の籠手は使用者の肉体と同化しちまうんだった。長いこと死蔵してたから忘れちまってさ。もう少しで同化するから我慢しておくれ」


「……ち、ちっくしょう!そ、そんな大事なこと、先に教えておけ……」


アズサの怒声の最後の言葉が痛みにかき消されたのだった。


それから一時間後。アズサの腕の痛みは落ち着いてきた。だが、彼女の右腕に異変が生じていた。籠手そのものが消失し、そこにはめ込まれていた水晶が手の甲に浮き出たような状態になっていたのである。


アズサは右腕をさすりながら、どうにか立ち上がるとカウンターテーブルに近寄り、テーブルの上に両手を置いて踏みとどまった。


アラクネはアズサの背中を撫でて「よく耐えたね。これで魔封の籠手はあんたのもんだよ」とどこか楽し気な口調でささやいた。


アラクネの話によれば、魔封の籠手は鬼の生身の腕を秘術で武具に変えられたものだという。この籠手と同化することで使用者の身体能力を超人的なレベルにまで高めるそうだ。同化するといっても普段は体内に消えるので日常生活に支障はないらしい。身に危険が迫った時や戦闘時になると実体化して右腕を覆う武具となるしくみだという。


「まだ説明不足の謝罪がないんだけど?」


「ごめんごめん。実際に装着したらどうなるか見たかったものでね」


「まったく人が悪い……それでこれは幾ら?」


「いや、お代はいらないよ」


「はあ? あなたにとってこれは商売でしょ」


「土御門が持ってくる頼み事は面白くて愉快だ。面白いからそいつはくれてやる。ただ、それでも借りを作りたくない思うのなら──またここに来ることがあった時に仕事を無償で引き受けておくれ」


「そういう仕事が一番面倒だから約束はできないけど考えておく。この籠手をくれたことは感謝するよ」


「籠手をつける時に体力を消耗しただろから休んでいきな」


「……ありがとう」とアズサは礼を伝え、その言葉通りに再び床に倒れ込んで目をつぶり、そのまま眠ってしまった。


アズサが店内を出たのはそれから二時間のことだった。彼女は再び鬼の面を被り、小走りに街から離れて現実世界への帰路を急いだ。


アズサは元来た闇の道を抜け、はなれ鳥居から現実世界に戻ってきた。


辺りはすっかり夕方の風景になっていた。空は茜色に染まり、夏の熱気と湿り気をおびた風が優しく吹き、原っぱの草がカサカサと音を奏でていた。遠くに連なる山々の稜線に太陽が隠れるまでにはまだ時間はありそうだ。


アズサは驚いていた。彼女がこの場所に来たのは午前中のことであり、本人の体感的には二時間程度でしかない。アズサはこの世界にはまだまだ自分の知らないことがあり、世界は不思議なことで満ちていることを実感した。お面は使い切りだったのか戻ってきた時に消失していた。


アズサが西日に目をしかめながら歩き出した──その時、前方から禍々しい殺気と不快な臭気が迫ってきた。


(……これは!)


人影が彼女のほうに向かって歩いてきていた。足音をたてながらどんどん接近してくる。


アズサは右腕が疼きだすのを感じた。手の甲に露出した水晶が赤く光り、瞬く間に右腕全体が肩まで朱色の装甲に覆われた。これは敵対者が出現した証だ。


やがて、人影は相手の顔を視認できる距離で立ち止まった。


──宗像冬也だった。


「ようやく見つけたぜ。お前の気配は離れていてもわかるんだがさっきまでつかめなくてなぁ。ようやくちょっと前に気づいて慌てて参上した次第だ。こんなところにどんな用があって来たのかは知らねえが、昨日の続きを始めようぜ。お前の首を持ち帰らねえとお偉いさんに解雇されちまうんでね」


「のぞむところだ。だが、昨日と同じようにいくと思うなよ」


「ほう。妙なもんを身につけているようだな。何でもいいが俺を失望させるな。ザコを殺すのは飽きてきたんでな」


宗像はアズサの右腕に興味を見せたが動じることもなく、人を馬鹿にしたような笑みを浮かべていた。


アズサは慣れた手つきでギターから鬼切安綱を取り出し腰に帯刀した。


宗像は妖刀・陰摩羅鬼を抜刀しており、片手で掴んで切っ先をアズサの方に向けていた。昨夜と同じように刀身が赤色に光りだした。あの血の呪術を繰り出そうといるのは確かだ。だが、魔封の籠手の影響で陰摩羅鬼の刀身に宿った光はすぐに消えた。こうなると黒い鋼の大剣でしかない。


「呪力相殺か……おもしろい。呪術なしだろうと俺は小娘ごときにやられるつもりはねえよ」


と、宗像は吐き捨てるように言った後、すぐさま両手で陰摩羅鬼を掴んで駆け出し、五十歩ほど離れたアズサに向かって突進していった。待ち構えるアズサを気迫で圧倒するかのように肉迫していく。


アズサは宗像の振り下ろした剣が眉間に触れる寸前、後方に飛びすさって攻撃を回避した。彼女が着地した直後、空振りしたばかりの宗像の側面にまわりこんで居合の斬撃を喰らわせる。刃は確実に相手の横腹を斬り込んだはずだったが、血は噴き出すこともなく、かわりに金属の鈍い音が鳴った。


宗像は羽織の下に鎖帷子を着こんでいたのである。羽織が破れて切れ目が無残に揺れるのもかえりみず、衝撃を受け取ったまま回し蹴りを繰り出し反撃した。


ガコォォォォォォン!


アズサは瞬間的に納刀し、敵の蹴りを装甲に守られた右腕で受け止めた。


──わたしの身体は頑丈になっているみたいだ


昨夜までのアズサの身体ならば、重たい蹴り技を受ければ容易に吹き飛ばされていた。ところがいまの彼女は華奢な体型にもかかわらず倒れることもなく、自分を狙ってきた相手の足を左手で掴んでいる。勢いにまかせてそのまま宗像を投げ飛ばした。


宗像は突っ伏した姿勢で顔面から地面に叩きつけられていた。それでも次の瞬間、この男は起き上がった。その顔はぶざまに砂にまみれていた。その際自らの歯で唇を切ったらしく、口の端から血の雫がしたたり落ちていた。額や鼻、下顎まで擦り傷だらけ。


宗像は手で鼻血を拭きながらアズサを睨んだ。組み合う前に見せていた不敵な笑みを消し、その瞳を冷酷な殺し屋のそれに変えた。簡単に殺せるような相手ではない。先ほどの一撃だけで着こんだ鎖帷子に亀裂が入っており、使い物にならない状態だった。こうなった理由は身体強化されたアズサの刃が通常よりも濃密な気功によって強度と鋭さが増していたからだ。このまま斬撃を受け続ければどのみち鎖は砕けて散る為、これ以上防具を纏っても無意味だった。


宗像は羽織と鎖帷子を脱ぎ捨てると、アズサを睨みながら間合いを取った。袴だけとなった宗像の手には妖刀・陰摩羅鬼。刀身は鈍く黒光りしていた。


剣を立てて頭の右手側に寄せ、左足を前に出して構えている。これを剣術では八双の構えという。正面から見た時、前腕が漢数字の八の字に配置されていることから名付けられた。刀をただ手に持つ上で必要以上の余計な力をなるべく消耗しないように工夫されている。相手との単純な剣による攻防では実用性が多少犠牲になっており、居合の相手がその剣を抜く前に相手の左肩口から右脇腹へと斜めに振り下ろす『袈裟懸け』や、または相手の鞘を差して剣を抜く前に側の胴体を狙った『逆胴』を仕掛けられるのかと宗像は頭の中で仮想した。


一方、アズサは宗像のその仮想を知ったかのようにためらいなく居合を捨て、右足を引き体を右斜めに向け、陽炎のように煌めく白刃を右脇に取り、剣先を後ろに下げた構え方を取った。脇構えである。大きく半身を切ることによって相手から見て自身の急所が集まる正中線を正面から外し、こちらの刀身の長さを正確に視認できないように構える。が、相手から遠いため咄嗟に切り払うことが難しくなる。左半身はわざと無防備となり敵の攻撃を誘いやすく、相手の視線や意識から遠い下段や横から攻撃を仕掛けられるので相手の胴・籠手・下半身への迎撃には有効な構えとなる。刀はそのままに体だけ振り向くことで下段の構えに素早く移行できるなど、後ろからの奇襲にも対応しやすい構えである。


両者は身動き一つせず、向き合ったまま対峙した。聴こえるのは互いの息遣いと風が草を揺らす音のみ。鳥獣や蝉の鳴き声はしなかった。


夏の風が凪いで辺りはさらに静けさに包まれた。


数分後、二人は静寂を打ち破るように駆け出していた。そのタイミングはほぼ同時だった。


両者は凄まじい勢いで衝突。肉迫するやいなや切り結んだ。


汗がほとばしった。


刀剣がぶつかり合う度に火花が散り、鋼同士が衝突することで生じる金属音が鳴り響いた。


俊敏な動きで剣技がふるわれた。


切り結ぶこと数合。攻防を繰り広げた後、両者は息が苦しくなったのか間合いを取ると、再び無言で対峙した。


互いに肩で息をするほどにその呼吸や乱れていた。


宗像は何を思ったのか突然として構えを解いた。片手で掴んだ剣を肩に担いだ姿で不敵に嗤った。


「この剣の呪力を封じた上、俺を剣技でここまで追い詰めるとはな。だが、こっちにも奥の手はあるんだぜ」


そう言い放った刹那、この殺人鬼は両手で剣を逆手に持ち替え、躊躇もなく切っ先を自らの腹部に突き刺した。傷口から大量の血液が噴出した。


「!?」


アズサは相手の予想もしていなかった行動に唖然となった。


宗像は口から血を吐きながらも笑みを絶やさず、腹に突き刺した剣をさらに押し込んだ。その勢いで剣の先端が背中から突き出した。


さすがにこの状況では絶命する──そのはずだったがこの男が迎えたのは死ではなかった。


宗像の肉体と剣が液状化して融合した後、地面に崩れ落ちて大きな黒い水たまりとなった。正確には水というよりは粘性があるタールのような物質に見える。


アズサは刀を構え、警戒しながらも黒い物質に近づいた。観察していると黒い水たまりは沸騰したように泡がぶくぶくと湧き上がってきた。


アズサは本能的に身の危険を感じ取って横っ飛びに跳躍した。その予感は間違っていなかった。彼女が回避した後、水たまりから翼を生やした人型の怪物が飛び出してきた。身長三メートル。


頭部は細長い嘴がある鷺に酷似した鳥。体は人間の男のものだった。胸部や腹部の筋肉は彫刻のようにくっきりと割れていた。肩や腕も筋肉で隆起している。足のつま先には猛禽類の鋭利な鉤爪。発達した背部には長大な漆黒の翼。全身を黒い羽毛に包まれたその姿は怪鳥人間と呼ぶに相応しい。


怪鳥人間は両目を赤く光らせ、人語を話し出した。


「驚いたようだな。これが陰摩羅鬼の力よ」


少しこもっているように聞こえるが、その声は確かに宗像冬也のものだった。


「この剣は刀身に蓄積された強力な妖力によって使い手を怪異に変化させる魔導骨董。妖力とは妖怪固有の力であり、呪力とは異なる属性とされている。これなら呪力相殺はできねえはずだ」


怪鳥と化した宗像は両翼を羽ばたかせて空中へと舞い上がり、瞬時にその姿を消した。実際には消えたのではなく、音速を超えたスピードで飛び回っているために視認できないだけだった。アズサの身体能力はたしかに向上していた。だが、それ以上に相手の速さは尋常ではなく、彼女の動体視力が追いつけない。


アズサが油断した瞬間、宗像は上空から急降下攻撃を仕掛けてきた。凄まじい疾風とともに鉤爪が彼女を胴体を引き裂こうと襲い掛かる。彼女は相手の殺気を察知してギリギリのところで避けたが肩を浅く斬られた。


防戦一方に追い込まれたアズサ。反撃の隙すらなかった。急降下するところを刀で下から斬り上げようとすれば、背後に回られてタックルをもらってしまう。もし、魔封の篭手による強化がなければとっくに体はバラバラに砕け散っていたことだろう。それでもジリ貧となり身体が内部から悲鳴をあげ続けている。


辺りは夕闇が没しつつあるために視界が悪すぎた。


「わたしにも高速で天空を駆け抜けられる翼があれば……」


アズサが藁をも掴むような願いを声に漏らしていると突然、小手の水晶が赤から緑に発光しだした。そして、水晶の中に「天狗」という文字が浮かび上がった。


「これは?」


天狗という文字が浮かび上がった後、アズサの全身がつむじ風に包まれ、セーラー服が風に吹かれて靡いていた。


「はっ!」


アズサは一声を上げると同時に地面を蹴って宙へ飛び上がった。なんとなく飛べるような予感が実現し、アズサの心は圧倒的な敵を目の前にして躍った。どうやらこの篭手には鬼だけでなく、多田三八郎が封じた天狗をはじめ多くの妖怪たちの妖力が宿っているようだ。


アズサは一旦、敵の間合いから離脱するために上空を目指した。その速度は疾風のように凄まじく、ジェット戦闘機にも劣らぬ音速に達していた。不思議なことに彼女は息苦しさを感じず、吐き気すら催さなかった。全身を包んでいる風の中が繭のようになって肉体への負担を軽減しているのだろう。


「ほう、そんなこともできるのか。これはまだまだ楽しめそうだ」と宗像は一人ごちて、地面を蹴ってアズサを追尾した。


両者は優勢な位置を取ろうとひたすら上昇し続けた。瞬く間に山々や街並みが小さくなっていく。


薄い雲を貫き、気づけば成層圏に到達していた。眼下には暗い雲海が広がっており、その稜線に太陽の半分が没していた。


斜陽が照り返す雲海の真上、二人は空中で静止した状態で対峙した。


アズサは鬼切安綱の切っ先を宗像に向け、正眼の構えを取った。


「宗像冬也! 貴様との戦いはこの天上で終わりにさせてもらう」


「望むところよ。アズサ。俺はお前を奈落の底へ叩き落してやる」


怪人とかした宗像冬也は太い両腕を頭上に掲げてケケケケと啼いた。


夕陽が沈みゆく中、二つの影は激突した。互いに自らの刃を振りかざす死闘。アズサは気功の力を纏った刀剣による斬撃によって。宗像は恐るべき速度を生み出す両翼と鋭利な鉤爪によって相手の命を狙った。


他には何者も存在しない世界に激しくぶつかり合う金属音と空間を切り裂く風の音が鳴り響いた。蛇行や旋回を繰り返しながら交差するように飛び交い、すれ違いざまに攻撃を繰り出した。


アズサはすでに敵の急所がどこなのか見当がついていた。それは宗像の背中に生えた翼だ。相手は翼によって航行を制御している。これを破壊することができれば勝利は確実なのだが、相手も簡単に急所を撃たせるはずがなかった。そこで彼女は刀身に練り上げた気功を注ぐために納刀し、静止したままで宗像の背後に大技を叩き込むチャンスを待つことにした。その技とは御堂流気功抜刀術において、御堂家当主のみに許された一子相伝の秘技。相当な量の気功エネルギーを消費するので日に何度も使用できるものではない。しかし、ひとたび技を繰り出せば相手を確実に仕留める必殺剣。今までのアズサであれば気功エネルギーの最大量が足りず、一度も実戦で用いたことがない試みだった。祖母から剣技のみは教授されてはいたのだが、気功を注ぎ込んでの本番は行っていない。されど、強敵である宗像冬也を葬るためにはこの技を使わねばならない。むしろ、ここで使わなければ死ぬのは彼女だった。


一方、宗像冬也は容赦なくアズサに攻撃を仕掛け続けた。宗像は彼女が防戦に転じたことから傲慢にも自分が優勢にあると勘違いをしていた。


アズサは相手の十連撃に耐え忍び、充分な量の気功を刀身に充填した。


宗像は間合いを取った後、両翼を畳んで流線型の形となって猛スピードで加速した。体当たりしようとアズサは向かって一直線に襲いかかった。


アズサはこの瞬間を見逃さず、自分に向かってくる宗像の姿を視界に捉えた。自分の体とぶつかる寸前、高速で相手の頭上から数メートル離れた上方まで飛翔し、反転して眼下にいる宗像の背中を目がけて抜刀──


「御堂流気功抜刀術 秘奥義──黄龍燕衝破!!!」


鞘から引き抜かれた刀身が虚空を薙ぎ払った直後、斬撃が金色に輝く三日月型に具現化して敵に向かって放たれた。


宗像は急上昇することで回避したように見えた──が、この男の敗北はすでに決定していた。宗像が躱したと思っていた斬撃は下方へと流れた後に上方へと反転し、長大な黄金の竜に変化して飛翔した。黄金の竜は凄まじい勢いで上昇の途中にあった宗像を追尾し続けた後、この男の両翼が生えた背部に追突した。追突した竜は消滅して衝撃波となり、宗像の漆黒の翼を完全に破壊した。


「うぬ……俺が負けたっていうのか? 畜生っ! こんなクソガキさっさと殺しておけば……」


宗像は両翼を失ったことで失速し、血しぶきと黒い羽根をまき散らしながら地上へと落下していった。


数分後。怪鳥人間と化した宗像は轟音と共に地上へと墜落した。墜落による衝撃で肉体は無数の残骸となって砕け、臓物と一緒に地面に散らばった。


アズサが地上に降り立った時にはすでに日没は過ぎており、辺りは夜の闇に包まれていた。宗像の墜落地点はちょうど決闘が始まった下迦楼羅の草地だった。


土煙が立ち昇っており、衝撃で生じた窪みに妖刀陰摩羅鬼が突き刺さっていた。金属固有の光沢は消え失せており、枯れ木が突き刺さっているようにしか見えなかった。どれに今まで漂っていた禍々しいほどの邪気が弱まっていた。


アズサが手で陰摩羅鬼に触れた瞬間、宗像の残骸とともに灰となって空中に四散した。激しい戦いで刀剣の呪力と妖力を激しく消耗したようだ。


「父様。母様。仇は討ちましたよ」


アズサの心は達成感に満ちていた。だが、彼女はこれで自分の使命が終わったとは思っていない。こうしている今も自分が知らないどこかで怪異どもが罪もない人々を苦しめているのだと思うと憤りで腹が立ってくる。これはアズサにとって終わりではなく、怪異を狩るものとしての第一歩となる戦いだった。


──これからも歩みをとめはしない。人間に害を及ぼす怪異は何であろうと討ち滅ぼす。


アズサは決意を胸に刻みつけ、宙に飛び散った灰が風に流されていくさまをただ黙って眺めていた。


アズサは土御門の事務所に戻ったのは夜の八時過ぎだった。


土御門聖歌はメガネをかけ、デスクの上でノートパソコンのキーボードをガチャガチャと叩いていた。クライアントへの報告書を作成しているようだった。


「あら、無事に終わったみたいね」


土御門は作業を一旦止めると、目の前に佇んでいるアズサに微笑みながら声をかけた。


「……ああ。あんたのおかげで助かったよ」とアズサは少し照れくさそうに礼を言った。


「ところであなた、私の事務所で働いてみない?」


「あんたには感謝しているけど……断る」


アズサは真顔できっぱりと断った後で少し笑みを浮かべ、「ところで何であんたは私に協力してくれたんだ? 金にもならないのに」と言った。


「……実は私も鳴鬼と因縁があるのよ。話が長くなるけど聞いてくれる?」


「もちろん」


「あれは十年も前のことだったわ」と土御門は過去を振り返っているらしく、天井の蛍光灯を眺めながらポツリポリと語りだした。


御門家は安倍晴明の末裔にあたる家系であり、古くから京都において多くの陰陽師を指揮する名家として朝廷内で栄華を誇ってきた。


土御門家と鳴鬼流蟲術の因縁は室町時代後期のこと。土御門家一門の権勢を脅かしかねない人物が現れた。


その女の名は朽木白蓮。


平安期において安倍晴明の宿敵だった蘆屋道満の子孫とされているが実際の出自については不明。


白蓮は十七歳で陰陽師として天賦の才を開花させた。貧困に苦しむ民に救いの手を差し伸べたという。怪異を祓うだけでなく、不可思議な力で病に苦しむ人々も救ったと当時の記録に残っている。


その力というのは未だに謎が多いのだが、朽木白蓮は陰陽道だけではなく、真言密教、西洋の黒魔術など様々なものを自分で組み合わせた呪術「魔界曼荼羅」を自在に操っていた。異次元空間へと繋がっている門を開くことで奇跡を起こしたり、異形の神すら召喚できるのだと白蓮が語っていたという伝承すら残っている。


京の都において市井の人々から絶大な人気を得た白蓮だったがそれを快く思わない勢力があった。


それは陰陽師の頭領である土御門家だった。当時の土御門家当主は一門の権力を簒奪されるかもしれないという不安だけではなく、白蓮が黒魔術という外国の得体の知れない邪法を用いていることに危機感を募らせていた。そこで当主と側近らは天皇や室町幕府の重臣に「朽木白蓮なる者は市井の者に南蛮の邪教を広めた挙句、天下国家を転覆せんと目論んでおりまする」と進言した。


数日後。土御門家の陰陽師十数名は朽木白蓮とその配下の者達の呪術を封じて捕縛し、役人に引き渡した。


翌朝、彼女は役人から何の取り調べもされずに三条河原において火刑に処されてしまった。


ところが白蓮はその後、炎の中から黒い九尾の狐となって復活した。現場にいた陰陽師や役人らを喰い殺し、京の都に大規模な火災を引き起こしたと記録にはある。結局、苦戦はしたものの土御門家が総力を挙げて白蓮を琥珀のたまに封印した。もちろんこれは影の歴史だから土御門家の者しか知らない事件だ。


だけど、それだけでは終わらなかった。朽木白蓮の死後、彼女の腹心だったと自称する鳴鬼鉄斎という人物が暗躍して日本各地で怪奇事件を引き起こすようになった。この人物は何度殺しても土御門家の当主が変わる度に姿や場所を変えて復活する為、土御門家と鳴鬼流蟲術の戦いはイタチごっこになってしまった。土御門家は鳴鬼に対抗するための組織を結成。それはかつて私が隊長を務めていた「夜行」という特殊部隊だった。


これでも私は土御門家において幼い時から神童ともてはやされていた。十歳の頃には遊びのように式神を使役していたものよ。当主である父親からは期待されていたし、自分もそれに応えようとしていた。


私が十七歳になった年、鳴鬼鉄斎が京都に出現した。それに伴って夜行が新たに編成されることになったので自分から入隊を志願した。呪術の能力が高く、土御門家当主の娘ということもあって未成年ながら隊長を任された。嬉しかったわ。ここで功績を上げれば父親の期待に応えられると思った。


でも、今になって考えるとそれがいけなかった……功を焦りすぎていたのだ。


隊長に就任してから一週間後。京都の市街地において土御門家と鳴鬼流蟲術による集団戦闘が勃発した。土御門家は秘密に怪異対策組織として政府に属しているからすぐさま報道規制が行われ、表向きは過激テロリストによる毒ガス事件が発生したという理由で市民の避難はすでに済んでいた。


両者の呪術師達による呪術合戦は熾烈を極めた。初戦では土御門家の勝利に終わったが翌日から鳴鬼の攻勢が活発になり、さらに鳴鬼鉄斎自身が別働隊を率いて戦場に出現した。


鳴鬼が投入してきたのは傀儡兵という死人によって構成された部隊。簡単に言えばゾンビと同じようなもの。


私は本隊を救うために夜行を率いて参戦したけれど、状況は悪くなっていった。それは鳴鬼の呪術によってこっちの味方が死ぬ度に傀儡兵へ変化してしまうため、時間の経過とともに敵の数が膨れ上がっていった。私は指揮官として撤退を命じるべきだった。夜行は最前線で長期間の戦闘する組織ではなく、索敵や後方支援、怪異によって引き起こされる被害の拡大防止が主な任務だった。非情だけれど本隊を見捨てて撤退し、本部に戦況報告するべきだった。だけれど、私は後退するをことを許さずに交戦継続を命じ続けた。そうしている間にも土御門家の本体と夜行の人間が鳴鬼によって抹殺されていき、気がついた時には味方は全滅していた。そして、私は傀儡兵に捕らえられて鳴鬼鉄斎のアジトに連行された。一ヶ月近くも監禁されていたようだがその間の記憶はない。ただ、鳴鬼に何かをされたのは間違いない。土御門家に救出された時、私の右目の眼球は抜き取られた状態であり、そのぽっかりと空いた眼窩には琥珀色の玉が嵌め込まれていた。これが私の災いの始まりとなった。


父親は私が敵に洗脳を施されたのだと疑ってかかり、土御門家の門弟達に命じて何度も拷問にかけさせた。忽然と鳴鬼鉄斎が姿を消したことですでに戦いは終わっていたようだが、敵の襲撃を恐れていた父親は私が知っているであろう情報を吐かせようと躍起になっていた。だが、何の意味もなかった。私は何も憶えていなかったからだ。同じ土御門家の呪術師達に全身に痣ができるぐらいに暴行されたり、水責めにされたり色々と残酷なことをされた。


私が拷問に耐えかねて気絶した後に事件が起こったらしい。自分は何も覚えていないが、後に兄の琉惺に聞くところによれば、あまりの衝撃に私が気絶した瞬間、空間に風穴が開くという超常現象が発生したようだ。拷問を行った数名の門弟が穴に吸い込まれて消滅したという。私はこの事件によって土御門家の人間達から忌み嫌われるようになり、父親からも夜行を壊滅させた罪で破門されてしまった。


その後、私は父親が呼び出した密教僧に右目を封印され、監視付きで東京へ移住することになった。監視役は現在の私の怪奇探偵舎の事務員であり、実の兄でもある琉惺が担当者だ。


もし、右目の力が暴走して人命を奪うような状態になった場合、私は実の兄に抹殺されることになっている。


「私の右目を見て。これが証拠よ」


土御門家聖歌は立ち上がると、銀色の髪をかきあげて封印が施された右目をアズサに見せつけた。


話に聞いた通りその右目には眼球がなく、底知れぬ闇が続く穴がぽっかりとあいていた。闇には赤色の梵字が浮かんでいる。


「……っ!」


アズサは彼女の右目から漂ってくる禍々しさに怖気立ち、一歩だけだが思わず後ずさりしてしまった。本能的に身の危険を感じたのかも知れない。


土御門はアズサの反応を見て笑った。


「怖い? そうよね。何なら殺してくれてもいいのよ。もし、暴走したら私も人間に害をなす怪異と何なら変わりはないのだから」


「いや、あんたはまだ理性を保っているようだから斬らないよ……それに妖怪だけどアラクネみたいな協力者を紹介してくれた恩もある」


「そう言ってもらえると嬉しいわ。じゃあ、私のところで働いてみない?」


「それはさっき断ったでしょ」


「ダメ?」


「ダメ!」


とアズサはきっぱり断った。


「残念ね」


土御門は本当に残念そうな顔でうなだれながら椅子に座った。


アズサは土御門の姿を少し不憫に感じ、正直に誘いを断った理由を伝えることにした。


「正直に言うと確かにあんたは怖いよ。完全に信用して良いのか分からない。それにわたしは実家に帰って祖母に仇討ちが終わったことを伝えたいし、修行のために全国で怪異退治の旅に出ようとも考えているんだ」


「修行の旅かあ。いい考えね」


土御門は感心したように微笑みながら頷いていたが突然、何かを思い出したように口を開いた。


「それなら一つ頼み事をしてもいいかしら?」


「……まあ、恩もあるから引き受けてやってもいいけど。ちなみに何をすればいい?」


「旅の途中でもし、鳴鬼鉄斎の情報を掴んだら報告して欲しのよ」


土御門の目つきは鋭く、その表情は真剣そのものだった。それに対してアズサも真面目に訊いた。


「別にいいけど。目的は復讐か?」


「もちろんそれもある。だけど、殺す前に奴には聞きたいことがある。私に何をしたのかと」


「なるほど。引き受けるよ。こっちも鳴鬼流の奴らを野放しにするつもりはない。ひとまずは共同戦線と行こうか!」


「いいわねその言い方。よろしくね」


かくして奇妙な協力関係が出来上がった。一人は人間と怪異の間に立つ者、一人は自分の正義を掲げて怪異を討ち果たす者。本来ならば相容れない二人が共通の敵を前に手を結んだ。


アズサは複雑な想いを抱きながら土御門の事務所を後にした。彼女は正直、自分の志が正しいのか迷い始めていた。


───本当に怪異を斬ることだけが正しいのだろうか?


一言に怪異といってもその数や種類は膨大なものだ。国や地域によって呼び名は違い、すべてが悪害をなすとは限らない。今までアズサは妖魔鬼怪の多くは人間に牙を剥くものだと考えていたが今回、土御門やアラクネのように友好的な者がいることを知った。宗像を倒せたのも魔導骨董を手に入れたからだ。それに今の彼女の肉体には呪力と妖力をもった篭手が融合している。普通の人間から見れば恐れるに違いない。


「今後は善悪を見極めなければな」


アズサは夜空を見上げながら独りごち、ゆっくりと夜道を歩いて行った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る