【KAC7】社畜生活の終わりと無職の始まり

綿貫むじな

最高の目覚めの為に仕事をやめよう

 俺の今いるプロジェクトはまさに今、炎上していた。

 SNSの炎上なんて生易しい(ある意味アレも厳しいが)ものじゃない。

 連日連夜の会社での泊まり込みを強いられる毎日。通勤で行き来する時間があるくらいなら仮眠室で少しでも寝てシャワー室で軽く汗と垢を流し、トイレで髭剃って身だしなみした方が時間の節約になって良いとかマジな顔で宣う先輩が居たりして、一言で言ってヤバい現場だ。一年前にアサインされた時から嫌な予感しかしない場所だったが、最初はそれでもまだ毎日2時間くらいの残業で済んで帰れたのに、半年前からこれだ。

 最近は週末にようやく帰れるくらいで、それでも家の掃除したり溜まった下着やスーツのクリーニング、あと思い切り寝るだけでもう休みが終わってしまう。一応会社にはなぜか洗濯機と乾燥機もあったりするのでこれで朝昼晩と飯が食える食堂でも作ったらマジで会社に住みだす人間が現れるんじゃないかと思うくらい末期的な現場だった。

 と思ったらついに会社は一階に社食を作った。仮眠室も拡張するとか言い出して、それで社員への福利厚生は良好ですとか言い出したら言った奴をぶん殴ろうかと思った。あとで見つけたのでぶん殴ってやった。

 俺は如何なる状況であろうとも、白い目で見られようとも土日の休みは何としても死守していたのだが、ついに俺の強情すらかなわない状況になってしまう。


「申し訳ないんだけど、土日も休日出勤して埋め合わせしてもらいたい」


 無情なる上司からの通告に、立場のない平サラリーマンは嫌でも従わなければならない。

 下っ端がヒーコラ言いながら朝令暮改される仕様に翻弄されつつ、コードを書き換えている。そんな中主任や係長クラスの人びとは上からのお偉いさんに呼び出され、詰められ、顔を青くして戻って来たかと思ったら来週には居なくなっている。

 そうしてまた協力会社からやってくる、プロジェクトリーダーの役目を背負わされた可哀想な人。あまりにも挿げ替えられすぎるものだから、リーダーなのに仕様や機能を把握出来ていない有様。俺のようなペーペーの新人にすら色々聞いてくる。

 最初のリーダーは確かにプロジェクトをまとめられるような、有能オブ有能な人だったんだが、彼が激務で胃潰瘍になって血を吐いてぶっ倒れたのが運の尽きだ。

 上役とも交渉が出来てリーダーシップが取れる人も居なくなると、上の言う事をへいへいと聞く人間しかリーダーにならず、それでいて下への圧力ばかりかけるものだから出来る人々は嫌気が差して辞めていく。

 それでぽんぽん人を入れたりしていると、もう現場はわやくちゃだ。

 俺もそれで入れられた方なのだが、正直経験とかそんな事言ってられる場合じゃないくらい仕事が降ってくる。当たって食らいつくどころか粉々に砕け散るわこんなん。

 会社で定時に起きる事もままならなくなってきたある日、ついに事件は起きる。


 上司の中でも嫌味とパワハラで悪名高い奴が、俺の事を名指しで目の前で罵った。

 一時間くらい、ねっとりじっくりと、人の胃を言葉で搾り上げるってのはこう言う事を言うんだろうなって言うくらい、蛇のように執拗なやり口。きっと弱気な人間はこうやって何人も潰されたに違いない。


 だから思い切りぶん殴ってやった。


 殴った時、奴の吹き飛ぶ姿がやけにスローモーションに見えた。

 背後の書棚にぶつかって上から資料が挟まっているバインダーが山ほど埃をたてながら嫌味な課長の上に落ちて来た時は笑ってしまった。

 俺は自分の、殴った手を見つめる。

 歯が何本か俺の拳に刺さっているが、こんな痛みくらいどうって事は無い。

 それくらい奴は俺のストレスの元になっていた。

 傷害で訴えるとか何とか叫んでいるのが聞こえたが、元々パワハラでアレな評判を振りまいていただけに周囲の人間も冷ややかな視線でその課長を見ているだけだった。

 かといって、暴力を振るった俺のような人間にも賞賛を送るほど皆は子供ではない。

 傷を洗う為にトイレに行くと、一人の同僚が同じくトイレに入り、用を足す前に俺の肩を叩いて曖昧な笑顔をみせてくれたのだけが唯一の救いだ。

 ともかく、暴力事件を起こしたのは間違いない。

 俺は現場の部屋に戻り、まずその場の上司に辞める事を伝える。

 彼は何も言わずに承諾し、続いて俺は派遣元である自社の上役と社長にも辞める事を伝える。彼らは利益がどうたらとイチャモンをつけて来たが、だからどうしたという感じしかなかった。利益なんざ犬にでも食わせちまえばいい。途中のプロジェクトだからと言って知ったことか。俺以外に誰が俺の健康を考えてくれるというのか。このクソみたいな連中が考えてくれるのならまだ働くこともやぶさかじゃないが、こいつらの考えている事は所詮利益と会社の存続だけだ。俺の経験になる事とか、未来の事なんて全然考えてやしねえ。そんな場所に居る価値はあるか? いやない。奴らのわめく声はノイズだ。雑音だ。雑音はシャットアウトしてしまえばいい。

 俺は全く使っていない有給休暇三週間分を使い切る事にした。

 

 次の職場なんて勿論何も決まっちゃいない。

 その前にたまりに溜まった洗濯物と汚れた部屋と、俺の疲れをどうにかしないとならない。何かを考えるなんてその次の次の次の次の、そのまた次だ。

 酒をぐっとあおり胃を軽く満たす程度に食事を取り、敷きっぱなしの布団にシャワーを浴びてから寝転がると、仮眠室の他人の臭いが染みついていない、自分だけの匂いに安心を覚える。

 他人の匂いが無い場所ってのは、これほどまでに心穏やかになるものか。気が付かないうちにうんざりしていたようだ。


「……疲れた」


 泥のように眠りたい。

 それだけが今の俺の切に願う事。

 次の日は携帯のアラームに無理やり意識を覚醒させられることもなく、昼を過ぎて夕方にまですら眠れるのが今から楽しみで仕方なかった。

 最高の気分で目覚められる。きっと。



 次の日。

 果たして俺が目覚めたのは、夜だった。

 夕方を通り越して夜とは笑ってしまう。俺は確か昨日は日付が変わる前に眠ったはずだった。15時間以上寝た、と俺がSNSにツイートするとイイネ!が何個か着いた。

 思わず笑みがこぼれる。

 それより前の書き込みはもう1か月も前になるのを見て、あまりの忙しさによってSNSを見る事すら忘れていたのに気づく。

 ほかの人の呟きも俺の社畜ぶりと似たようなものだが呟けるだけまだマシなんだろう。

 本当に忙しければ余所に脇目を振る余裕すらない。

 余裕がなくなると何を見ても憎しみしか生まれなくなる。

 いつの間にか心の余裕を仕事に殺されていたのだ。

 

 俺は缶コーヒーを片手に近所に出る。上下スウェットのだらしない姿のままで。

 だらだらとした速度でゆっくりと周囲を見ると、結構街並みが変わっている。

 あそこの弁当屋いつの間にか潰れて選挙事務所になってらあ、とか、大衆居酒屋だと思ってたら潰れてまた居抜きの別の居酒屋が入ったりとめまぐるしい。

 どれだけ自分の視界が前のめりで狭まっていたのかを改めて実感する。

 コーヒーを飲み干し、ゴミ箱に捨ててそこらのラーメン屋に入る。

 ラーメンを食べて、ビールを飲み、ほろ酔い加減でぶらぶらして家に帰り、グダグダと携帯を眺めながら布団に寝転ぶ。

 ただそれだけしかしていない、有給初日。

 何も考えずにただ心の赴くままにやりたいように、やりたいことをただやるだけの日。完全に心を、頭を空っぽに。

 多分俺にとっての幸せってのはこう言う事なんだろうな。

 忙しさにかまけて、俺は完全に忘れてしまっていた。

 自分の今求めているものはなんなのか、心の底から願うものはなんなのかを。

 どんな時であれ、俺は俺の心のままに願うままに、圧し潰される事なく生きていきたい。

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【KAC7】社畜生活の終わりと無職の始まり 綿貫むじな @DRtanuki

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