「おはよう」が聞きたくて

東雲 彼方

夢だと分かっていても

 今、夢を見ている。夢を見ていると分かるのは、すれ違う人々の顔がハッキリとは分からないから。けれどそれ以外は凄くリアルで心臓に悪い。今置かれた状況がもっと楽しいものであったら良かっただろうに、薄暗い病院の廊下とか、本当に気味が悪い。背筋を冷や汗がつうと伝った。

 夢って突然始まるから前後関係が分からない筈なのに、置かれている状況が分かっていたりすることが多い。今は多分、自分の診察を待っているとかそういう類のものではない。椅子に座って焦りながら手を組んで待っている。これは多分――、

「先生ッ、宏隆の容態は?!」

 私は目の前にゆっくりと現れた白衣の男に切羽詰まった様子で声を掛ける。レンズは蛍光灯の光を反射して、黒縁眼鏡の奥はよく見えない。そして先生はゆっくりと頭を振る。その動作だけで言わんとすることがよく分かる。これは夢。分かってる、分かってるけれど……頬を伝う熱いものを感じてしまって胸が締め付けられる。


 そして記憶がフラッシュバックする――どうせこれも夢なのだけれど――。


「宏隆おっそいなぁ」

 私は待ち合わせ場所である有名コーヒーチェーン店の窓際に座って、待ち合わせの相手を待っていた。店は駅前の大きな交差点の目の前にあって、待っている人が駅の方から来れば直ぐに分かる。そんなお店の窓際という、最高な場所で待ち始めてから1時間は経とうとしていた。30分ほど前に「ごめん、電車遅延してて遅れそう。急ぐからもう少し待ってて!」というメッセージが飛んできてからというもの、一切連絡がない。少しのイライラと心配が綯交ぜになったよくわからない感情が自分の中に渦巻いていた。机の上に置いていたスマホの側面に触れ画面をつける。本来の目的は時間を見ることであった筈なのに、視線は何故か日付の方に向いていた。

「……今日は5周年の記念日なのになぁ」

 はぁ、と深い溜息が静かな店内に溢れた。もう少しBGMの音量を上げてくれればこんなに響くこともなかったのに、などと心の中で八つ当たりをする。普段ならしっとりとした雰囲気の店内とそこに流れるお洒落なジャズに心躍らせるというのに。今は焦る要因にしかならない。

 露骨に落ち込む背中を見ては首を傾げる。普段は記念日なんて気にしない、それどころか忘れているような人間なのに。夢だからか。けれど冷静に考えてみればおかしなところが沢山ある。そもそも付き合って5周年の記念日は先月終わっている。夢だと分かっているからこそ俯瞰して見られる。だがそれと同時にどこか冷めた気持ちで事の顛末を眺めることになってしまったのだ。ここまで冷静になっているのならば夢も覚めてくれればいいのに。けれどそこにいる私は。だから今こうして上から眺めているにはどうすることも出来ないのだ。

 ふと視線を上げて外を見たら、交差点を走ってこちらにやって来る彼氏の姿がそこにあった。まったく、遅いんだから、と苦笑しつつも手を振る。それに気付いて向こうも走りながら手を振ってくれた。もうすぐ会えると分かっただけでさっきまでの憂鬱な気持ちはなくなり、喜びが満ち溢れる。なんて単純な女なんだろう。

 ――そう思っていた。次の瞬間、キィィィィというブレーキ音と共に猛スピードで走ってきた大型の乗用車が交差点に突っ込んでくる。それからはスローモーションのようにゆっくりと時間が流れていった。交差点を横断していた人々を次々になぎ倒し、撥ねとばし、轢いてゆく。血飛沫が辺りに散って、平和だった交差点は一気に地獄絵図と化す。そして最後に、


 最愛の人が真正面から撥ねられて宙を舞い、反対側の壁に打ち付けられて身体がぐしゃっと潰れた。


 私はそれを一度も瞬きすることなく他人事のように見ていた。そして何度か頭の中でその光景がフラッシュバックする。ようやく元の時間の流れと音が戻ってきた頃には、数多の悲鳴と血の紅と犠牲者、そして横転した車だけが残されていた。

「嘘、嘘よ……なんてこと……」

 身体の中心がすっと冷えていくような感覚を覚えながら荷物も置いて外に飛び出す。立ち尽くす人々を押しのけ前に進む。そして最愛の人の亡骸を見つけたとき、私は足元から崩れ落ちた。



「璃子、璃子!」

 私はハッと我に返り勢いよく起き上がる。息が上がっていて上手く呼吸が出来ない。その背中を優しく誰かにさすられる。なんとか呼吸が整ってきたところで視線を背中の手の主の方に向けた。

「あ……ひろ、たか……?」

「随分と魘されてたけど、大丈夫?」

 まだぼんやりとしていて上手く頭が動かない。あれ、さっき目の前でぐしゃぐしゃになってたのに。動いてる、ちゃんと生きてる。血塗れじゃないし、酸素マスクもしてないし、いつもの宏隆だった。

「よかった、ちゃんと生きてる」

 ほっと胸を撫で下ろす私を見て彼は苦笑する。

「どんな夢見てたのさ……まぁいいや。とりあえず、大丈夫?」

 こくん、と首を縦にふるのが精一杯だった。今の自分は酷く幼いだろう。けれどそれを考える余裕すらなかった。冷や汗が止まらない。途中までは冷静というよりは冷ややかに見ていたけれど、スローモーションのようにゆっくりになったシーンからは落ち着いて見てはいられなかった。夢だと分かっていても、もしこれが現実に起きてしまったらと考えずにはいられなかったから。もしそんなことが起きても私は何も出来ない。きっとあの夢と同じ事を繰り返す。ああもう嫌だな、怖い。

「大丈夫じゃないでしょ。ほら、おいで」

 そのまま宏隆に優しく抱き締められる。そうだ、この温もりに触れたかったんだ。離れてしまうかもしれない恐ろしさから目を背けたかった。そう自覚した途端に目から涙が溢れだす。彼は黙って頭を撫でてくれた。

「……宏隆ありがと。もう大丈夫」

 ふと恥ずかしくなって無理矢理引き剥がすとこちらに微笑みを向ける宏隆の姿があった。

「おはよう、璃子」

「おはよう」

 ああ、これだ。私が欲しかったのはあなたの「おはよう」が聞けるようなごく普通のだった。その言葉が私に幸せをくれる。


 起きたときにそこにあるあなたの温もりこそが、私にとっての最高の目覚めなんだ。

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「おはよう」が聞きたくて 東雲 彼方 @Kanata-S317

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