朝顔ノベル

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朝顔ノベル

 夏休みが無条件で楽しかったのって、小3ぐらいまでかなあ。

 毎日寝る時に明日の朝の太陽を布団の中で思い浮かべてさ。

 明日は何しよう、って考えてた。

 それで、朝日が部屋の中に差し込んでくるとさ、まだ起きるには随分早い時間でも、もう胸がくすぐったいような感じがして、早く外に出たい、っていう素晴らしい気分だったな。


 でも、次の年の夏休みからは世界が一変した。


 わたしはただただカレンダーを眺めて、ああ、まだ後1ヶ月残ってる、ああまだ後二週間ある、っていう感じでモラトリアムっていうの? とにかく先延ばしの状態を確認するだけの夏の毎日になってしまった。


 以後、ずっと、中2の今に至るまで。


 人のせいにするわけじゃないけど。

 原因は、小4のクラス替えから始まった、いじめ。


 わたしの容姿が人に好感を与えるものじゃないっていうのを、いやというほど同胞から刷り込まれた。その内に同胞は管理者となり支配者となって、わたしの人生をコントロールし始めた。


 朝はわたしにとって漆黒の時間帯となり、むしろ学校から帰ってくる時に見える有明の月が、お日様よりもわたしの希望となってくれてたかもしれない。


 これでもわたしは足掻いていた。

 自発的に救いを求めて。


 一番有効だったのは、音楽だ。

 わたしの脳内で鳴り続け、同胞・後に支配者どもから汚されたり恥辱を負わされたりする感覚を麻痺させてくれた。

 そしてこれがとても重要なことなのだけれども、絶対に奴らが聴かない音楽でないとダメだった。

 それが、わたしのせめてものプライドだった。


 そしてもうひとつ救いを求めたのは、本だ。


 まだ小学生だったのに、わたしは心理学の本を読み漁った。そして差別と被差別の感覚なんかを学術的に述べた心理学としてもどちらかといえば専門的なものを読み漁った。

 むしろ概論的な入門書よりも目的意識がはっきりして分かりやすかった。


 わたしは音楽と同様に本にはまっていった。

 途中からは東洋思想や経営哲学的な範疇にも踏み込んで、つまりはわたし自身が救われるというよりは、わたしをいたぶる同胞→支配者どもを学術的に、「あいつらはダメだ」と結論づける論旨を求めて、自分の中で消化していたのだ。


 小学生のわたしが、だ。


 けれどもその本たちは救いとならなかった。


 小学校高学年ともなれば、いわゆる第二次性徴ってやつの真っ只中だ。

 男子は男子の、女子は女子の。

 そしてわたしは女子の、空に浮かぶお月様と密接に関わる生理現象が始まった。


 それに合わせて、決定的な、人間として屈辱的な方法を使ったいじめの行為を受けた。


 内容は、言えない。


 その際、わたしが読んだ本は、残念ながらその救いとはなってくれなかった。

 ただ、脳内で鳴らし続けた、アメリカのスリーピースバンドのギターの轟音が、わたしの辱めを受ける感覚を遠い異世界の出来事のように緩和してくれた。


 こんな状態だったので、夏休みの読書感想文の宿題が、唾棄したくなるほど苦痛だった。


 他人の選んだ、わたしの人生にとっては不要な課題図書。


 わたしの初期の人生がこんなにも絶望的なのに、絶望を装って予定調和の希望とやらが描かれる小説の数々。


 バンドの歌詞に合わせて、’fuck off !’と心の中で絶叫していた。


 ところが、中2のこの夏、わたしはなぜか女性の音楽教師が課題図書としてセレクトした小説に驚愕した。


 タイトル


『A drop of water on a morning glory』


「朝顔の、露?」


 そういうタイトルの、短編小説だった。

 冒頭でその小説は詩のごとくこうつぶやく。


「人間は朝顔の花びらに乗った水滴のように脆くて儚い」


 音楽教師は音大を卒業したばかりの女の子先生だった。

 舐め切られてて、授業が成立したためしがない。

 いつも授業の最後にはその音楽教師が泣きながらひとりでピアノを弾いているその周りに女子生徒が数人、彼女を慰めるようにして立ち尽くす。


 わたしはその立ち尽くしている優しき女子生徒たちからすらいたぶられるんだけれども。


 それはさておき、ある種、わたしと同様にいたぶられているその音楽教師がセレクトした短編小説を、まずは入手するところからして大変だった。


 絶版になっていてネットの本屋にも在庫がない。

 県内の本屋にあろうはずもない。

 わたしはツイッターのフォロワーさんたちに投げてみた。


ノネ:『A drop of water on a morning glory』っていう本を売っている所を知りませんか?


 心やさしきフォロワーさんが教えてくれた。


アルジョ:神保町のすずらん通りの外れの本屋に多分あるよ。一回電話してみたら?


 電話して在庫を確認し、発送してもらうのではなくって、わたしは東京まで電車に乗って買いに行った。本屋の店員さんが、色あせた表紙の、同人誌のような薄い本をわたしに手渡してくれた。


 帰りの電車で全部、読んだ。


 次の朝、わたしはとても不思議な感覚で目が覚めた。


『ならぬかんにんするのこそまことのかんにんとみなさんよ』


 本に書かれていた一節が、文字としてでも音声としてでもなく、感性、という表現しかできないココロの動きを引き起こした。


「起きなきゃ」


 わたしは中2のくせに、ラジオ体操に行ってみた。ハンコを押してくれたおじさんが、ぼそっ、と言った。


「今日びここへ来てくれる人は、何かを期待しているんでしょう? いつもと違う行動を」

「え。分かるんですか?」

「もちろん」


 わたしはわたしを救いたい。


 その後は・・・


 わたしはラジオ体操に出かけたまま家には戻らず、電車で隣の市の、県で一番大きな図書館に行った。

 その図書館の、閉架書庫の中に設置された閲覧ブースでわたしは司書にオーダーした。


「標本付き人体図鑑。ギターカタログ。ラ・カンパネラの楽譜。ガトリング砲の図面。内田百閒全集」

「やるね」


 女性司書が抱えきれないぐらいの分厚い本を山積みにしてわたしのテーブルまで持ってきてくれて、ドン! と置いて、ウインクして行ってしまった。


 残されたわたしはこの閉架の空間で孤独だった。

 孤独に読みに読んだ。

 夕方になり、そして夜になり、今朝の女性司書が今度は閉館を告げに来てくれた。


「ほら。ジムノペディよ」


 閉館を告げるサティの、ジムノペディが、悲しく、けれども美しく、そして明日への序曲たる今日のエンディングのように聞こえた。


『人生僅か五十年花に譬えて朝顔の露よりもろき身を持って』


 次の朝も、A drop of water on a morning glory のオープニングのフレーズで目を覚ました。


「書こう」


 わたしは今度は海に向かった。早朝の誰も通らない道を自転車を走らせて。

 夏の朝の涼風の中、それでもわたしの背中は汗だくになって、ガンズ・アンド・ローゼズの銃と薔薇をペイントした黒のTシャツが背中にぴったりと張り付いた。


 家に朝ごはんを食べに戻ることをせずにそのままデパートの横のイベントスペースに設置されたオープンカフェに行き、スマホとコンパクトなワイヤレス・キーボードを置いてわたしは小説を撃ちこんだ。

 網目のスチールでできたテーブルが、バンドのキーボードスタンドのように激しく揺れるような筆圧で。


 これを、毎日。


 書けなくなったら閉架書庫で読み、ジムノペディを聴いた。


 8月31日の深夜。

 わたしは大いなる安心感を持って眠りについた。


 9月1日、新学期。


 わたしは読書感想文の朗読を、自ら手を挙げ、立候補した。

 わたしをいたぶる連中が、嘲笑したけれども、知ったことではない。


 そして、わたしが書いたのは、感想文などではなく、『A drop of water on a mornig grory』という美しい文章に触発された、わたしの処女作。


 わたしの初めての小説を、教室の荒み切った空間の中で読み始めた。


 瀧の水を、ざっ、と流したような清涼な冒頭の文章が、教室の空気を切り裂いて響き渡った。


「わたしは昨夜の月影の下に葬られた自分の死骸を踏み越え、陽光にて蘇る」


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