「また会いに来たよ」
蜜柑桜
さよならとはじめまして
人も動物も眠りに落ち、静まり返った世界。森に囲まれた小さな町の真ん中で、教会の鐘が十二回、厳かに鳴り響いた。雲が西へ泳ぎ、空を洗って山の向こうへ行ってしまうと、町の上に満天の星が輝いた。灰色の雲から顔を出した月の光が、家々の屋根の上へ優しく降り注ぐ。
その白い光が、教会のそばの青い屋根を照らす。
明かりのついた最上階の部屋からは、苦しそうな女性の声が途切れ途切れに聞こえた。
しかし、月が天窓に姿を映したそのとき、窓のガラスの向こうから、激しい赤ん坊の泣き声が飛び出してきた。
その瞬間、星屑の中から一つの輝きが地上へまっすぐに落ちてきた。銀色のそれは屋根に降り立ち、小さな窓の上へ覆いかぶさる。
すると、火がついたような赤ん坊の泣き声が、ぴたりと止まった。
「あらこの子、笑ってるのかしら……」
息を切らした女性の声に安堵のため息が混じる。腕に抱かれた、赤ん坊は、ふっと天窓の方を見上げたようだった。
それに応えるように一つ瞬くと、銀色の光は屋根から飛び上がった。
その光は、小さな子供の形をしていた。
頭に金の輪を頂き、白い衣の裾を風になびかせて、背中の羽根を動かして、夜の空に光の筋を描いて飛ぶ。
教会の高い尖塔の上に止まると、子供はそこに腰掛けて、青い屋根の家を眺めた。
「エル、お誕生日おめでとう」
––––––––
天使のファラは、神様の使いだ。
この世界のどこへでも、神様の言葉を伝えに行く。
新しい命が生まれたとき、命を宿した母親に、御祝いの言葉を伝えに行く。
エルはファラの友達だった。一緒に何度もおつかいをした。朝の霞の中を、昼の太陽の下を、いつも一緒に飛んで行った。
けれども何ヶ月か前、ちょうど今日のような月の美しい夜のこと。エルは羽根を失った。天使の輪が空に消え、人の世界へ旅立った。
一人になったファラは待っていた。エルがもう一度、この世に姿を見せるのを。
青屋根の天窓から、まだ光が漏れている。夜の静寂の中に、女性とその家族の明るい声が流れてきた。
––––––
その後も、ファラは何度となくエルを訪ねた。
エルの名前は変わったけれど、ファラの友達はいつもファラと繋がっていた。
目が見えるようになった日。窓辺に降り立つファラを見て、エルが微笑んだように見えた。
初めてハイハイをしたとき。ファラの飛ばした綿毛に向かって、エルが小さな手を上げた。
とりわけエルが辛い時、悲しい時、ファラはエルのところに飛んで行った。
叱られてべそをかいた朝、ファラの歌声に泣き声が止まった。
逆上がりに失敗した夕方、ファラの投げた花びらを、机に飾って笑いかけた。
友達と喧嘩した夜、窓辺に座ったファラに「ごめんね」と言った。
そうして何ヶ月、何年も、ファラはエルのそばにいた。
エルも綺麗な女性になった。
そして初めて、本当の恋をした。
一晩中、胸が張り裂けそうになりながら、手を小刻みに震わせながら、何枚も何枚も書き損じを丸めては捨てながら、便箋に想いを綴っていた。
ファラは窓を叩いて、呼びかけた。でもエルは気がつかなかった。
昔のエルなら、窓の外を見てすぐに笑うのに、こっちを見向きもしなかった。
ファラは月の光を集めて、机を照らした。大丈夫だよ、と話しかけた。
エルは顔を上げて、ちょっと天窓の方を見たけれど、すぐに顔を下に戻してしまった。
手紙を見直す瞳が潤んで、唇をぎゅっと結んで、今にも文字が滲みそう。
ペンを置いても、上から下へ、上から下へ、何度も何度も読み返す。
やっと、端と端を慎重に合わせて便箋を畳み、そろそろと封筒に入れたエル。そのままぎゅっと拳を握りしめ、机に突っ伏した。
ファラの顔を一度も見ずに。
ファラは天窓から空へ、舞い上がった。
それから、エルがファラを見ることはなくなった。
お仕事、家族の病気、友達とのすれ違い、ファラは今までと同じように、エルの顔が暗くなると天窓越しに呼び続けた。
けれども、エルはファラに気付かなかった。
その代わり、優しそうな男の人が、エルの隣に座っていた。エルの話を聞いて、その涙を止めていた。気付くとその人はいつもエルのそばにいた。それだけでエルの顔は明るくなっていた。
(もう、エルに私は要らないのかな)
高い木の枝に腰を下ろして、ファラはまんまるの月を眺めた。月の光が天窓に射し、笑い合う二人が見える。
もうエルは、ファラがついていなきゃいけない小さな子供じゃなくなった。エルは自分の世界を作ったのだ。
(幸せに、エル)
「さようなら」
吐息に乗せて呟いて、ファラは膝を抱えて目を閉じた。
––––その瞬間。
ファラの周りが白く輝いた。金の輪が夜の闇に溶け消え、羽根は眩い銀の光を放って、ファラの身体を包んだ。それはどんどん大きくなり、あたり一面が煌々と、光の球に照らされた。
その色が、月の光よりも白さを増した、次の刹那。
光が弾けた。
再び世界に闇が戻った。
木の上に、ファラの姿はもうなかった。
––––––
水平線が橙に滲み出す。まもなく、鮮烈な黄金色の朝陽が町を明るく染め上げ始めた。その光のほとばしりが、教会のそばの家の青い屋根に到達した。
すると屋根にはまった天窓の向こうから、始めは弱く、そして次第に力強く、赤ん坊の泣く声が、朝焼けに彩られた空に響き渡った。
部屋の中、半身を起こした女性の手に、白い布に包まれた小さな子が渡された。
「……初めまして。やっと顔が見られたわ」
女性は涙の滲んだ瞳で初めて抱く子の顔を覗き込む。
「でもずっと一緒にいたみたい。そうね、名前は……」
隣に立つ男性に目配せし、女性はふわりと微笑んだ。
「よろしくね、ファラ。私達の世界に生まれて来てくれて、ありがとう」
Fin.
「また会いに来たよ」 蜜柑桜 @Mican-Sakura
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