幕が開くまで後三分

若槻 風亜

第1話


 暑さ寒さも彼岸まで。そんな言葉が脳裏をよぎる温暖な日差しの中、青年――西本にしもと 青雲せいうんは綺麗にしたばかりの墓の前で故人を偲び手を合わせる。春の彼岸こと春分の日である今日、周囲からは線香の穏やかな香りが立ち上っていた。

 時刻は午後三時を過ぎた頃。青雲の他に墓場に人はいない。もっと早くに来る予定だったのだが、ちょうどプレイしていたゲームが佳境で抜け出すことが出来ず、すっかり遅れてしまったのだ。家を出る前に時計を見た時には焦ったが、墓参りをしてから直行すれば次の予定には間に合うので、今は心情に余裕がある。

 目を瞑り手を合わせること数分、ようやく立ち上がった青雲は、西本家之墓と刻まれた墓石を静かに見下ろす。横に置かれた墓標には家系図でつながれた人々の名前がいくつも刻まれているが、青雲が認識しているのは彼が子供の時分に亡くなった母と、近年亡くなった祖母のみ。祖父を含め、他はせいぜい家の仏壇で写真を見て知っている程度だ。ちなみに父は青雲が生まれる前にどこぞに消えたそうなので顔すら知らない。

 とはいえ、二人もいればこの場で思い出に耽るのには十分だろう。優しい母と厳しい祖母たちの思い出が次から次へと、まるで泉のように湧き出てきた。あの時怒られたっけ、あの時は褒められた。あれは喜ばれた。あれは悲しがられた。あれは嬉しかった。あれは辛かった。あれは驚いた。あれは楽しかった。あれはやってよかった。あれはやらなければよかった。あれは――。

 とめどなく溢れてくる記憶に自然と青雲の瞼は降りていく。ホームビデオが残っていなかったらもう声すら忘れてしまっていたかもしれない、それでも大切で大好きな人たち。今の自分を見たら、彼女たちは何と言ってくれただろう。しっかりやっているね? もう少し頑張りなさい? 楽しそうね? 大変そうね? 考えを巡らせたところで青雲は祖母でも母でもないのだから、答えなんて出ない。そんなことは分かっているけれど、思考を巡らせずにいられなかった。

 少しだけ強い風が吹く。風自体が耳元で擦れるような音と、近くの大樹が枝葉を揺られて起こした、まるで波のようにさざめく音が一帯を支配した。その傍らでは、軽い音を立てて地面を落ち葉が転がっていく音も聞こえる。

 それらの音を、温かい風を、鼻をくすぐる芳香を、胸いっぱいに吸い込むように、青雲は静かに深く息を吸った。まるで青雲以外誰もいないように思えるほど静かで、けれどこの上なく賑やかな世界。記憶に浸りながら、あるいはただ無心で、青雲はそこに身を委ねる。

 比較すれば日が近い祖母ですら、亡くなってからすでに二年以上が経過していた。ここまで深く沈み込むのは度が過ぎる、とも青雲は思っている。けれど、どうしても墓に来ると青雲の心は亡き祖母と母を追いかけてしまう。もしや自分はババコンでマザコンなのだろうか、などと考えれば、自分から自分に向かう皮肉を感じた。

 どれほどの間そうしていただろう。ふと目を開けると、墓前の香炉に備えた線香は燃え尽きるまでもう少しと言った所だ。随分長いこと浸っていたな、と青雲は腕時計に視線を落とし――固まる。

「やっべえ三時四十分! 映画間に合わねぇ!」

 それまでの静かな空気から一変。青雲は線香入れをバッグの中にしまうと、自前の掃除用具を一気にまとめ、墓に一礼してから慌ただしく駆け出した。

 そう、彼の次の予定とは映画観賞だ。平日仕事や他の趣味で時間が取れないので、ちょうどいいからこの日に、と計画していたのである。ゲームに集中しすぎたことを悔やみはするが、後の祭りだ。節度を持って動かないから慌てる羽目になるのです。なんて、かつては今の青雲と同じ教育者だった厳しい祖母からのお小言が聞こえた気がする。

「ええっとぉ? とりあえずダッシュで駅だろ。そしたらロッカーに掃除用具預けて、電車乗って移動して……確か駅から徒歩五分だったよな。行ける、大丈夫だ俺落ち着けクールに行け」

 自分に言い聞かせるように何度も大丈夫と唱え続けて疾走する青雲は、恐らくはたから見たら完全に不審者だろう。だがこの映画は見逃すわけにはいかないのだ。

 マイナー作家の小説を原作に実写で映画化されたのだが、発表当初ファンたちの間では「この作品を再現出来るわけがない」と否定的な意見が溢れていた。しかし、実際に始まってみれば評価は上々。原作ファンの青雲も観るかどうかを心底迷っていた。決意したのは「観た上で批判する」と豪語して出かけたネット上の友人であるガチファンが、観終わった途端「俺が間違っていた。頭を丸めるべき時は今」と発信したため。その瞬間、心の天秤は「観る」で振り切られたのだ。

 現在公開二週目ながら客は絶えないようで、青雲が今朝確認した時点ではすでに席は全て埋まっていた。万が一遅刻などしようものなら、早々に座席の中央付近を取った青雲は多数の人の前を「すみません」と謝りながら通り抜ける羽目になる。それはいくら心臓に毛が生えている、神経が図太いと友人や同僚、果ては生徒にまで言われ続ける青雲でも遠慮したい。

 運動不足の体を酷使して駅まで着くと、青雲は予定通り掃除用具を駅のロッカーに預け、二番目に早くに来る電車をホームで待った。一番早くに来た電車も駆け込めば間に合ったのだが、仮にも教職に身を置く身としてはそれはさすがに出来ない。次の電車でも間に合うから、と必死に逸る気持ちと弾む息を整える。

 待つこと数分。ホームに滑り込んできた電車にそそくさと乗り込み、空いている座席に腰を下ろした。汗が冷えて少し寒かったが、背後に負った窓越しの陽光がぽかぽかと体を温めてくれる。

 束の間の安息を得た青雲は改めて時計に目をやった。時刻は午後四時五分。映画館のある駅まで十七分、駅から映画館まで約五分。走るか早歩きすれば約三分。入場してから発券で、並ばなければ最速一分。並んでしまえば過去の体験だと最長十分。映画の開始は四時三十分だが、始まってからしばらくは予告が入るから、それを踏まえれば何とか本編には間に合う。はず。

 脳内で何度もシミュレーションを繰り返すこと十数回。電車は目的の駅にたどり着く。周囲の迷惑にならない程度に早歩きをして改札を抜け、目当ての場所までスピードを保って移動した。

 よしいいぞ、これはいいペースだ。シミュレーション通りの行動を取れてほくそ笑む青雲。だが、その笑顔は予定より少し早く映画館に着いた途端に引きつることとなる。よく利用するその映画館の中は、かつて見ないほど人で溢れかえっていた。

 何故、と衝撃と困惑を覚えるが、壁に掛けられたポスターを見てすぐさまその理由を理解する。キッズ向けの映画と泣けると評判の恋愛映画が、ただいま絶賛上映中なのだ。

(しまった、そういえばこれがあるから早めに移動しようと思っていたんだ――!)

 返す返す午前中にゲームを始めてしまった自分を殴りたくなる青雲である。なお、墓参りに長時間使ったことは特に変更もなければ

 諦めていつもより長い列を形成する発券機に並ぶこと十四分。こんな日に限って発券機行列最長時間を記録してしまったが、何とか無事に発券を終わらせた青雲は早足で店員に示された番号のシアターに入った。すでに暗くなっているシアター内には予告の映像が流され、観客たちの視線はスクリーンに注がれている。

 やりたくなかった「すみません通ります」を何度か繰り返し、ぽっかり空いた中央の席に座り、すぐさまスマホの電源を落とした。落とす直前見た時計は午後四時三十九分。予想通りなら、本編まで後三分ほどだろうか。

 息はとうに整ったが、気持ちはまだ整っていない。青雲は周りの邪魔にならない程度に深呼吸を繰り返す。魅惑の世界に飛び込むまでに与えられた最後の三分、青雲はただただ、期待に胸を躍らせるのだった。



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