走馬灯のように

篠原 皐月

若くても、達観できる時がある

「だ、大丈夫……、だよね?」

 鉛筆を持った手を微かに震わせながら、希美が呟いた内容を、周囲の誰も耳にしなかった。もし聞こえた人間がいたとしても、人生における最難関の一つに挑んでいる真っ最中の彼ら彼女らにとって、他人のする事に注意を引かれる精神的余裕など、皆無の人間が殆どだったからである。


「落ち着け、落ち着け、私。ちゃんと問題用紙を見直した。控えてあった答えをもう一度書き直した。本当に、本当に大丈夫だから」

 六年間の学生生活の集大成として、万全の態勢で挑んだ国家試験。今現在は試験1日目の第一科目の試験時間を、あと残すところ三分を切ろうかという時点である。

 当初希美は難なく問題を解き、余裕で試験時間を終えるだろうと確信していたが、試験時間を十五分程残し、あと一問で解答を終えるというところで、とんでもないミスに気が付いた。


(どうしてあと一問なのに、解答欄が二つ余ってるのよ!?)

 どう考えてもどこかで解答欄への記入を一問飛ばし、それから一つずつずれてしまったとしか思えない事態に、希美は動揺のあまり大声で叫びそうになった。しかしあまりの動揺の為、却って思考が停止してしまい、声が漏れ出る事は無かった。


(おおお落ち着いて、落ち着いて、私。まだ時間はあるし、答えも問題用紙に控えてあるから、今から全部写せば良いから大丈夫よ)

 冷静に考えれば、答えが控えてあるなら解答欄と照らし合わせて、ずれた所以降の欄だけ直せば良いはずだが、すっかり動転してした希美は消ゴムを手に取り、回答用紙全体を急いで消し始めた。すると慌てていたせいか、力任せに擦っていた消ゴムが手からすっぽ抜け、無情に通路に転がり落ちる。


「すみません! 消ゴムが落ちたので、拾っても良いでしょうか!?」

 もうなりふり構っていられない精神状態の希美は、勢い良く手を上げて試験官に訴えた。その大声に試験官は元より、受験生達が一斉に彼女に目を向ける。そんな中、会場の後ろに待機していた試験官が歩み寄り、通路に転がっていた消ゴムを拾い上げて希美に尋ねる。


「あなたの消ゴムはこれかしら?」

「はい! ありがとうございます!」

 思わず涙目で礼を述べた希美を見て、何か察する物があったらしい試験官は、彼女の解答用紙と腕時計を交互に見てから告げた。


「あと十分あるわ。落ち着いてね」

「はい」

 そして室内は静寂を取り戻し、希美は一心不乱に答えを書き写す事に専念した。

 国家試験は複数の分野にまたがっており、総得点の何割以上取得が合格と規定が決まっているが、それに加えて各分野毎に規定以上の点数を取得する事が合格の必須条件になっており、この分野一つでも落としたら完全にアウトという、かなり切羽詰まった状況だった。加えて二日間に渡る試験の、1日目一科目でやらかしてしまった事実に、希美のメンタルは早くも折れそうになっていたが、何とか気合いだけで記入を続けた。


「……うん、今度は余ってない」

 半ば虚脱しながら解答用紙に再記入を済ませ、希美が残り時間をあと三分と認識して、冒頭の台詞を呟いた。それと同時に、この六年間の学生生活のあれこれが、奔流のように脳裏に浮かんでは消えていく。


(あんなに頑張ったのになぁ……。最後の最後で、何やってるのよ、私。確かに色々楽しかったから、全てが無駄だったとは思わないけどさ)

 そんな風に緊張感が完全に途切れた希美が、あれこれと思い返していると、あっという間に三分が経過し、試験官が試験終了を告げた。


「皆さん、終了時間です。答案用紙を裏返して、試験官が回収するのをそのまま待っていてください」

 その指示に従い、希美もおとなしく用紙を裏返して手を離し、用紙が回収されるのを見送った。


「希美、いきなり叫ぶから何事かと思ったわよ。試験中に脅かさないでよね」

 試験は学校単位で申し込んでおり、受験番号順で後ろの席に座っていた友人の弥生が休み時間に文句を言ってきた為、希美は素直に謝った。


「ごめん、さすがに動揺した」

「消ゴム一つ落とした位で、何なのよ。あんたがそんなチキンだったなんて、知らなかったわ」

「ええと、消ゴムだけじゃ無かったんだけど……」

「他に何があるのよ?」

「……大した事じゃないから」

「全く、何なのよそれは」

 弥生は完全に呆れ顔になったが、希美はどこか達観した風情で続けた。


「何かさ……、さっきの試験、最後の三分である意味吹っ切れたかも。無駄に緊張していても、仕方が無いよね?」

「何よ、いきなり」

「まだ2日あるんだしさ、気楽にいこうよ、気楽に」

「何なの、そのお気楽さ。ムカつくんだけど?」

「だってさ、国家試験に落ちたって、就職内定を取り消される位だよ? 人の生き死にに係わる事じゃないんだから」

「はぁ!? あんた何を言ってるの? 内定取り消しなんて、一生に係わる事でしょうが!? 信じられない!」

 完全に腹を立てた弥生はそれきり休憩時間にも話しかけず、希美はそれから2日間、淡々と試験をこなしていった。

 そして2日目最終科目も終了し、試験の出来はどうあれ、受験生は全員緊張感から解放され、晴れ晴れとした表情で席を立ち始めた。


「弥生、お疲れ」

「本当にお疲れさまよ。余裕だったあんたとは違ってね」

 希美に素っ気なく応じた弥生だったが、次の希美の台詞に顔色を変えた。


「余裕って事でもないよ? 実は1日目の一科目目で、マークシートの解答欄をずらしていて、それに終了十五分前に気が付いてね」

「はぁあ!? マークシートの解答欄を間違えてずらしただぁ!?」

 思わず弥生が希美に掴みかかって大声を上げると、帰り支度をしていた受験生達がぎょっとした顔で一斉に振り向いた。それに気が付かないまま、希美は笑顔で続ける。


「うん。一応書き直して、見直しもしたけどね。ひょっとしたら他の科目でもやらかしてるかもしれないし。今回、駄目かもね」

 そう言って希美は苦笑したが、弥生は盛大に顔を引き攣らせる。


「だっ、駄目かもねって、そんなあっさり……。と言うか、他人を不安にさせるような話をしないでよ!?」

「一応、試験が終わったし、良いかなと思って。さすがに1日目の一科目直後に言ったら、怒られそうだったから」

「今でも怒るわよ!! 私の心の平穏を返せぇえぇっ!!」

「だけどさ……、これまでの人生を振り替えるのに、長い時間は必要ないのが分かった。三分あれば十分だね。死に際に人生の出来事が走馬灯のように浮かぶって情景が、何となく理解できた」

「一人で達観するな、馬鹿ぁぁっ!!」

 そして希美は妙に清々しい表情で試験会場を後にしたが、弥生を初めとして彼女の告白を耳にした受験生達の顔色は、揃って微妙に悪かった。

 それから約一ヶ月後、試験の合否が発表され、その日のうちに希美は弥生からの電話を受けた。


「試験、受かったわよ。そっちは?」

「うん、受かってた。4月からは予定通り勤務できるね」

「もう、本当に悟りきってるよね!? 私、自己採点して大丈夫の筈だけど、どこかで書き間違ったんじゃないかと、この一ヶ月不安で不安で仕方がなかったんだけど!?」

「あぁ……、うん、ごめん。合格祝いに、今度何か奢る」

「そうして頂戴」

 それで二人はこれを笑い話の一つとして片付け、残り少ない春休みの予定に花を咲かせたが、その後、同じ試験会場で受験した何人かの同級生から、合格報告と共に無用な心配をしてしまったとの恨み節を聞かされた希美は、不用意な自分の発言を深く反省する事となった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

走馬灯のように 篠原 皐月 @satsuki-s

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説