ある特攻兵の最後の3分間ー鎮魂版

第1話

 三菱零式艦上戦闘機――零戦、と通称で呼ばれる戦闘機がある。


 そいつは素晴らしい旋回性能と長い航続距離、強力な武装を持ち、瞬く間に大東亜戦争の各国の戦闘機の中でトップに君臨した。


 だが、オクタン諸島で米軍が完全な機体を鹵獲、徹底的な分析により、装甲板が無い事、急降下制限速度が低い事等が露呈された事で対策が練られてしまい、瞬く間に被害は増大した。


 更に運が悪い事に、戦局の悪化に伴い、日本とはけた違いの工業力により増産され続けるF4UやF6F新鋭機に圧倒され続け、最終的には特攻機として使用され、胴体に250キロの爆弾を搭載しているそいつは、他の爆装した零戦と共に沖縄の空にいる。


 その零戦――三菱零式艦上戦闘機52型甲に乗っている、20代前半の肌艶を持つ或る航空兵は、沖縄の空の下、他の僚機と共に、米艦隊の放つ砲弾が交差する中、被弾する確率を減らす為に、海面すれすれを飛んでいる。


(俺はこれから死ぬんだ……!)


 砲弾の飛び交う戦場、飛沫を上げる海面、目の前にいる敵艦――その航空兵は、ふと、操縦席につる下がっている布製の人形を見つめる。


『この人形は貴方の代わりに死んでくれる』


 ――そんな非科学的な迷信を信じた、その女性は、その人形をせっせと夜なべをして出撃する航空兵に向けて作り上げた。


(吉江……今すぐ君の元へと俺は行くぞ……!)


 人形と共に置かれた写真には、三つ編みにした髪を垂らしている、花柄の着物を着た、そこそこ美人の20代の女性が写る。


 ☠


 真夏の暑いさなか、療養地にある肺結核患者用の入院施設、サナトリウムという通称の場所に、久能吉次(クノウ キチジ)は複雑な表情を浮かべながら建物の中に入って行く。


『ヨシエキトク スグカエレ』


(吉江……!)


 吉江の身内からの電報により、一年前からサナトリウムに入院していた須藤吉江(スドウ ヨシエ)の状態が危険な状態だと知り、予科練での訓練の合間を縫ってここに来たのだ。


 サナトリウムは避暑地にあるのか、夏なのに涼しい場所であるのだが、ここに入院している者は皆土気色で頬は痩せこけており、戦時中の物資不足により薬が不足して満足な治療を受けられないがまま、自分の後ろにいる死神の、死地に赴くぞという悪魔の囁きをじっと聞いているのである。


 吉江の主治医に話を聞き、吉江の命が長くは無いと知った吉次は、深刻な表情で、吉江が入院している病室に足を進める。


 青年が心焦がれる吉江と呼ばれる女性は、当時明確な治療方法が確立されていない肺結核に罹り、治療薬がないままサナトリウムに入れられて、どす黒い血を部屋一面に吐いたと主治医は吉次に淡々と話した。


「吉江、入るぞ……」


 吉次は吉江が入院している病室に、配給品の卵を持ち入る。


 ベットには、髪が薄くなり、頬が痩せこけて骨が浮き出て、目が窪んで、階段に出てくるお化けのような形相の吉江がいる。


(な、畜生、この病は、吉江の命を極限にまで削り取るのか……!?)


「貴方……来てしまったのね……」


 吉江は、結核を吉次に感染させたくないのか、溜息を付いている。


「吉江、お前の病気は治るんだよ……」


(クソッタレ、俺にはこんな嘘をつくことしかできない……! せめて、軍が開発中の薬があれば……!)


 結核の治療薬は戦前から研究が進められていたのだが、完全な治療薬がまともに市場に流通するようになったのは昭和30年代からである。


「貴方、嘘は辞めて頂戴、私の結核はもう重度で助からない、貴方こそ私に何か話したい事があってきたんじゃないの?」


「……ああ、実は俺は、一週間後に特攻隊として沖縄に出撃をする、そのお別れを伝えに来たんだよ……!」


「……」


 吉江は、ベットの中から、小さな布製の人形を取り出す。


「これは?」


「この人形が、貴方の代わりに死んでくれる。……貴方、私はもうこれから長くは無い、見えるのよ、薄暗くて長い階段が。私はすぐそこに行くんだわ……」


 吉江の目には、絶望の涙が浮かんでいる。


 吉次は持っていた卵を地面に落とし、吉江の体を抱きしめる。


「吉江、君は立派な妻だ、君が言うその薄暗くて長い階段は、俺もすぐに上るだろう。それまで待っていてくれないか?」


「え、ええ……」


 ゲホゲホと、吉江は結核患者特有の咳を始める。


「! 先生、直ぐに来てください、直ぐに……!」


「貴方、死にたくない、死にたくないよ……!」


 吉江の喀血した血が吉次の体とシーツにかかり赤く染まっていく。


 ――吉江はそれから直ぐに、まだ若い命を結核により落とし、死神が誘う薄暗く長い階段を歩く羽目になった。


 *


 コバルトブルーの空の色が変わる程に、吉次だけでなく他の若者達の乗る零戦に向けられて護衛艦や空母から放たれた砲弾は、情け容赦なく、薄っぺらい超々ジュラルミン製の機体をこれでもかと抉る。


「うっ……!」


 風防を貫通した弾丸の破片が頭を掠めたのか、吉次の頭から血が流れ落ちる。


 他の特攻機はもういない、全てが撃ち落とされた為だ。


(吉江、お前のいる場所は暗くて寒いだろう、今すぐ俺は君の元へ向かうから、少し待っていてくれ……!)


 吉次は、必死の思いで操縦桿を握り締める。


 主翼からは火が出始めており、今すぐに脱出して捕虜になれば助かるのだが、彼にはそんな選択肢は無い。


(こいつを沈めれば、日本は救われるんだ……!)


 目の前に見えるは、零戦の天敵ともいえる、F6FやF4Uを搭載した大型の航空母艦が護衛艦と共に砲弾を放ちながら、吉次を狙っている。


 吉次は、零戦を巧みに操作して、目の前にいる大型空母に向けて飛んでいく。


「吉江! 俺は確かに君を愛していた! 今から君の元へと行くからな!」


 刹那、吉次の目の前が、色鮮やかに赤く染まった――


 ☠


 とある米空母艦は、沖縄へと航行中に、数機の爆装した零戦の攻撃を受けた。


 その内の一機の零戦は、海面の低空をすれすれに飛ぶという、驚くべき操縦で弾丸をかいぐぐり、母艦に体当たりする直前で、護衛艦が放つ砲弾が爆弾に当たり、爆発四散した。


 それは、彼等が特攻攻撃を受けたほんの3分間の出来事である。


 零戦のガソリンの油と特攻隊員の血で、形容し難い不気味な色に染まった海面には、ずたずたになり顔が分からなくなった日本人女性の写真と、焼けてボロボロになった人形が漂っていた。

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