▲9手 ever after
手ぶらでふらふらと帰ってきた社長は、直が「お邪魔してまーす」と声を掛けても返事もしなかった。
「はああ、どうしよう……」
呆然とした様子でイスに座る社長に、
「社長ー、宛名シールなくなったから、ついでに買ってきてって言ったじゃないですかー」
と、頼子ちゃんが小言を浴びせかけたけれど、やはり反応はない。
「あーーっ、ダメだ! 有坂棋聖! この詰将棋って何手で詰むの? 手数だけ教えて!」
おじちゃんがうんうん唸っていた原因は、昨日の食べ過ぎや便秘ではなく、詰将棋だったらしい。仕事中もポケットに忍ばせていた紙を、直に押しつける。
「おじちゃんにそう呼ばれるの、なんか恥ずかしいです。普通にしてください」
問題を見た瞬間、直はすうっと詰将棋に集中してしまい、私が作ったおにぎりは、歯形がついたまま放置された。
「おじちゃん、もしタイトルをふたつ以上持ってたら、何て呼ぶの?」
「『有坂二冠』とか『有坂三冠』だな。でも名人か竜王取ったら、何冠持ってても『有坂名人』『有坂竜王』になる」
「名人と竜王、両方持ってたら?」
「『有坂竜王・名人』」
「へえ~、複雑」
「━━━━━19手詰めです」
ものの数十秒であっさりと解いて、ふたたびおにぎりを食べ出す。
「それで詰むんだ!」
「詰みます」
「初手2三金は間違いないと思うんだけど」
ふふふふ、と意味ありげに笑った直に、おじちゃんが焦り出す。
「え!? 違うの?」
「いや、いいんじゃないですか? 手数は少ないけど、なかなかいい問題ですよ、これ」
「19手で少ないなんて言ったら、おじちゃんが可哀想だよ」
「だって、19手くらいなら実践でも出てくるレベルだからなあ」
直は、特別詰将棋が得意なわけではないと言う。
「俺の場合は脳トレ感覚。詰将棋回答選手権に出るようなすごい人とは、スピードも解ける手数も違うよ」
ということだ。詰将棋には詰将棋特有の美学や世界観があって、それは将棋そのものとは少し違うらしい。そんな直でも、数日がかりで100手を超える問題を解いているから、やはりこの世界は途方もない。
「はあああ、困ったな」
さっきより大きな声で、社長がこれみよがしにため息をつく。
「社長、具合でも悪いんですか?」
面倒臭い、という表情を隠さずに社員全員、ついでに直まで社長のデスクに集合したのだが、タイミング悪くインターホンから元気な声が割って入った。
「桧山家具配送センターでーす。商品のお届けに参りましたー」
桧山家具なんて高級な店から誰が何を買ったんだろう、と見回すと、同じ表情が五つ返ってきた。
「社長?」
視線を向けるとふるふると首を横に振られた。
「僕は知らない。他の誰かじゃない?」
「俺も違う」
「私じゃありません」
ブラジルも両手を左右に動かしつつ「No! No!」と否定。
「え? じゃあ何? 誰も知らないなら受け取らない方がいいんじゃない? そういう詐欺もあるっていうしさ」
「とりあえず私、業者さんに確認します」
頼子ちゃんが入り口でやり取りしている間も、私たちは醜い争いを繰り広げた。
「どうせ社長かおじちゃんが自分で注文して忘れてるだけでしょう?」
「いや、俺そこまでボケてない。キヨちゃんだろ?」
「桧山家具ってどこにあるの?」
「キヨちゃん、そこから? 有名な高級家具店だよ」
「まあ、高級家具店と縁ある人が、こんな会社にいるわけないよね」
「こんな会社……鈴本さん、入社面接のとき『御社と結婚したつもりで、共に墓場まで参ります!』って言ってたのに、もう忘れたの?」
開けっ放しのドアから入る秋風が、事務所の室温を下げるので、頼子ちゃんはとりあえず箱を中に引き入れた。
「中身は事務用スツールだそうです。心当たりある人いますかー?」
と言うと、蚊帳の外にいた直が、「あ!」と声を上げた。
「やっと届いたんだ。それ、真織に。会社で使ってよ。イス壊れてたでしょう?」
私のデスク前に運び入れられた箱の中身は、どうやらイスらしい。
「そんなの買ってもらえないよ! 誕生日でも何でもないのに。しかも会社の備品!」
三代さかのぼってもド庶民の私は、無闇に贈り物をもらえるようなセレブな神経は持っていない。
「不都合あるなら社長が拾ってきたことにしたらいいよ。どうせ買ったんじゃないから」
「じゃあ、どうしたの?」
「もらった。タイトル取った副賞として。俺別に欲しい物なんかなくて、真織のイスが壊れてること思い出したから」
引き出物でもらったカタログギフトから「うーん、これならまあ使えるかな」って選ぶ感覚で、貴重な副賞を決めたようだ。
「尚更もらえないって! 自分の記念になるような物頼みなさいよ!」
こだわりがない部分は面倒臭がって丸投げする傾向がある人なのだ。就位式に現れたバイオリニストも、直の要望ではなく、
「連盟の会長がファンなんだって。適当にお任せしたら、自分が会いたい人引っ張ってきたみたい。俺が主役なのに、あんな目立つ人連れてくるなんて、やめてほしいよね」
と、顔をしかめた。それに懲りたなら、もう少し考えて決めて欲しいものだ。
「次からもう少し考えるけど、今回はもう変更できないから受け取って」
言い争っている私たちを、配送センターの人と職場のみんなが困り顔で見守っている。
「……わかった。どうもありがとう」
「どういたしまして」
中身は確かに事務用スツールなのだけど、さすがは桧山家具。機能美を兼ね備えた美しいフォルムにつややかな皮。色は、地味を極めたネズミ色一色の職場では浮きまくっているオフホワイト。どこのオフィスならばこの事務用スツールが馴染むのか、というほどに輝く存在感だ。そういえば、去年ブレイクしたオネエスタイリストが「桧山家具でオーダーメイドした」と自慢していた事務所のイスもこんな感じじゃなかったっけ? 少なくとも、うちの職場のどの用具より高級なことは間違いない。
「明らかに社長の僕より偉そう」
社長の言葉におじちゃんも「玉座だな」と頷き、ブラジルはニコニコ見守っている。座ってみると、仕事する意欲が増すのか奪うのかわからないほどに心地よかった。
「真織さん、『陛下』って呼んでもいいですか?」
「『陛下』と社長と棋聖って誰が一番偉いの?」
社長が陛下のイスを奪い、うっとりと座り心地を確認する。
「いいなあ。僕もイスが壊れたら、次の就位式でもらおうーっと」
私はニッコリと微笑んで、社長を玉座から追いやった。
「社長にはいいイスが空きましたよ。高さ調節できないから一番低い座面になりますけど、社長の脚の長さにはちょうどいいから差し上げます」
社内の備品が壊れたら、拾ったりもらったりしないで買ってくれ!
「役に立ってよかった。本当は婚約指輪にしたかったけど、そっちは賞金で買うことにしたんだ」
もののついでに大事なことを言われて、 私はものすごく動揺したのだけど、
「そうそう、それ。その話なんだよ」
と社長が、壊れたイスにドスンと座ってため息を投下した。
「うちの息子がさ、『紹介したい人がいるから近々連れて行く』って言ってきたんだ」
社長以外の全員の視線が一斉に頼子ちゃんに集まるが、彼女は大きな目を更に見開いてブンブン首を横に振っている。本人も聞かされていない話らしい。俯いていた社長はそのことには気づかずに、ギシッと背もたれに寄りかかった。
「あいつの選んだ人だから歓迎してやりたい気持ちはある。だけどこの会社の未来を託す人でもある。そんな簡単に考えられなくってさ」
この場で言えることなんて限られているので、おじちゃんと私は曖昧な援護を口にした。
「いや、むしろ今より安泰じゃないか?」
「社長のことを“ご隠居”と呼ぶ心の準備は、すでにできてます!」
「結婚の挨拶って、やっぱり親が先なんですか? 師匠とどっちに先に紹介するべきなんだろう?」
あろうことか社長は、直が発した一番不的確な発言に反応した。
「そこは親が先じゃないかな?」
「でも師匠の家の方が近いし、『会いたい』ってしつこいから、次の休みに連れていく約束させられたんですよね」
娘さんの結婚が決まったばかりのおじちゃんも、私を無視して冷静な意見を出す。
「挨拶するなら、式や入籍日の予定を決めてからがいいと思う。そこ曖昧だと信用に関わるよ。場所押さえるのも時間かかるしね」
式や入籍以前の問題が残ってますー!
「次に就位式するなら、その時には入籍していたいんです」
「今可能性あるなら王将? 竜王戦も惜しかったけどね」
いやいや、それより! と口を挟みたい私に気づかず、直はガックリと肩を落とす。
「俺、竜王戦と相性良くないんですよね」
「いやいや、1組優勝は立派な成績だよ」
「挑戦できなきゃ意味ないです」
あれ? 結婚は?
話の方向はどんどん将棋に傾いていく。
「そろそろタイトル戦始まるよね。どうなるかなあ」
「防衛するんじゃないですか? 市川君、俺と逆で竜王戦にはめっぽう強いから」
私たち四人を置き去りにして、将棋の話はさらに深みにはまっていく。
「同い年だっけ? 挑戦してたら面白かったのに。勝率は有坂先生が上?」
「直近の直接対決では分が悪いです」
「棋風も全然違うもんね」
「あんなハイリスク・ハイリターンの派手な将棋、普通は怖くて指せないですよ」
「将棋より会社の未来だよー」
割って入った社長を、私はイスごと押しやった。
「いやいや、それより私の未来でしょ! 何も聞いてないんだけど!」
直はようやく思い出したように、私を見た。
「あ、師匠のことね。師匠、真織のこと気に入っちゃって、早く会いたいってうるさいから━━━━━」
「師匠? 私会ったことあったっけ?」
「就位式で会ったでしょ?」
師匠なら当然いただろうし、そういえばスピーチもしていたような気がする(聞いてなかった)。
「どの人かわからない」
「ナンパしていっぱい食べさせた人」
ああーっ! あのおじいちゃん!! ただの将棋好きの好好爺かと思ってた。
「そもそも結婚って何?」
「え? しないの?」
「え? するの?」
「鈴本さんはうちの会社と結婚したんでしょ?」
「社長、今その話はしないで!」
うるさくて仕事にならない、と追い出され、私と直はダンボール箱が山と積まれた色気の欠片のそのまた破片もない倉庫で、輝く未来について話し合うことになった。
「結婚なんて聞いてない」
「えー、あの色紙渡したのに?」
「あれなの? あれがプロポーズ? わかりにくいよ! 『名人取ったら結婚して』ってブーケのひとつでも持ってくるくらいわかりやすくないと!」
ダンボール箱に囲まれているという環境が良くなかったのか、直は極めて冷静に乙女のロマンを握り潰した。
「名人は取るつもりで頑張るけど、いつになるかわからないし、不確定なものに真織を賭けるわけにいかない」
結婚が嫌なはずないけれど、もっとちゃんとプロポーズされると思っていたから、心の準備ができていなかった。素直になるタイミングを逃した私が、モゴモゴ言い淀んでいるのを、直は誤解して受け取ったらしい。
「嫌なら嫌でいいけどね」
あっさり引き下がられると、体温が急に五度くらい下がったように感じた。薄手のカーディガンでは寒くて、二の腕を擦る。本当は言葉なんて重要じゃないのに。私はまた、大事なことを間違ったの?
「やめちゃうの?」
心細げな声はたくさんのダンボールに吸収されて、更に弱々しく響く。
「まさか。時期を待つだけ。知ってると思うけど、俺すごく気は長いの」
出会って十年。再会して付き合っても「一年くらいは待ってみよう」とのんびり構えた人だ。この人のペースだと、名人を取るより、結婚の方がずっと先になるかもしれない。
「結婚してください」
未来を見据えた結果、気が遠くなったので、欲しい言葉は自分で言った。すでに長期スパンで挑む気になっていたのか、直はすごく意外そうな顔をする。
「え? いいの?」
「いいも何も。直以外なんて考えられないもん」
直にとって私が最良の相手かどうかはともかく、私には直しかいない。もし今直が血迷っているならば、目が覚める前に入籍してしまいたい。それでいいから側にいてほしい。
私の気持ちが通じたのか、直は真剣な表情で私を見た。
「悪いんだけど、俺は真織の人生に合わせてあげられない。一緒に生きるなら、俺に合わせてもらうしかないし、嫌なら俺から離れる権利が真織にはある」
と、一応言ったものの、すぐ考え直したらしい。
「権利としてあるにはあるけど……俺に将棋で勝たなきゃ認めない」
私の気持ちを慮っているようで、全然譲歩のない言葉に、ついついまた素直が消え去っていく。
「……手合割は?」
「当然、平手(ハンデなし)だよ。いや、先手くらいは譲ってあげる」
「油断してたら、そのうちうっかり勝つかもよ?」
「そのうちっていつ?」
「直がおじいちゃんになって、飛車とハンバーグの区別がつかなくなったら……勝てる……かも」
直は満足気な明るい笑顔を見せる。
「じゃあ、飛車とハンバーグの区別がつかなくなるまで一緒にいてね。約束」
うつくしい右手が差し出されたので、私もその手を取った。百戦しようが、一万戦しようが、きっとこの人には敵わないのだろう。将棋も、それ以外も。
「次の日曜日、師匠の家に行こう」
「それ、あと一週間伸ばせない? 洋服買わないと」
直の方は心の底から面倒臭そうにひらひら手を振る。
「いいって、いいって。ちょっと行って、一局指してくればいいだけだから」
直の師匠である奥沼政重七段は、自身の対局以上に将棋の普及に力を入れている人らしい。駒の動かし方から懇切丁寧に指導されることは間違いないとのことだった。
「きれいな格好して行っても、どうせ師匠は〈HAWAII〉って書いてる襟がヨレヨレのTシャツだよ? 普段着で問題ない」
「そういうわけにはいかないよ。社会人なんだから!」
これからもずっと付き合いのある人なのだ。第一印象は……もうどうにもならないとしても、精一杯礼儀を払うのは当然だ。
「真織がそうしたいなら構わないけど、師匠は将棋のことしか考えてないよ」
「棋士ってみんなそうなの? 直も頭の中将棋のことしかないよね」
MRI撮ったら脳の皺が格子模様になっていて「王」「飛」「金」なんて詰将棋が書かれてあるに違いない。
「そんなことないよ。真織といるときは下心しかないし」
「それもイヤーーーッ! やっぱり将棋のこと考えてて!」
笑って段ボールを撫でる直は、結局のところ九割将棋でできていると思う。そして私の心の、少なく見積もって七割は直でできている。ということは、不本意ながら、私の心の半分以上は将棋でできているってことになる……?
まさか手相に「桂馬」なんて浮き上がったりしてないかと、食い入るように見ていた私の手を、躊躇いなく直が取る。
「そろそろ行こうか。仕事の邪魔しちゃってるから」
少しだけ前を直が歩いて、引っ張られるように私が続く。お互いの腕の長さ分、私たちには距離がある。だけど私と直の間にある距離は溝じゃない。手を繋ぐためのスペースなんだ。やさしくもしっかり握られた手を見ながら、そんなことに気づいた。
倉庫を出ると気持ちよく晴れた秋晴れの空が広がっていた。少し冷たさを帯びたその青の中を、飛行機雲が一本、真っ直ぐに走っている。
「直」
「何?」
「いい天気だねー」
「うん。昼寝したい」
「仕事しなよ」
高く険しく曲がりくねった道を直は行く。私は手を引かれて、こんな風に景色でも眺めながら隣を歩こう。
真っ直ぐ 共に。
fin.
along 木下瞳子 @kinoshita-to
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