△8手 for you

 受付に並ぶ長い列を見て、私はそっとため息をついた。


「もう……大失態~~」


 直の棋聖就位式は、都内にある聞いたことのないホテルで行われる。ところが、聞いたことがないからって油断した自分を呪うほどに立派なところだった。リゾートホテルらしく、窓の外にはライトアップされた大きなプールと、東京湾が広がっていて、残暑の陽光が水面にきらめく。結婚式程度の気持ちでやってきた私の予想を遙かに超える豪華さだった。

 さわやかな青い絨毯を踏む脚が、ふわふわと頼りない。プラスチックのパールじゃなくて、地味ながら母からのお下がりの本真珠(極小粒)を選んだことだけは自分を褒めたい。危うく場違いになるところだった。

 格式に関しては将棋連盟と棋戦の主催者に由来するものだとしても、300人を越える人が直のために集まっているのだ。

 私は三時まで仕事をして、着替えて美容院に行き、受付開始の六時少し過ぎに会場であるこのホテルに着いた。ここに来て、ようやく気づいたのだ。


「あ……招待状忘れた」


 絶対忘れないようにバッグに入れたのに、直前でバッグを変更したときに移し忘れたらしい。家族でもなく、将棋関係者でもなく、招待状も持たない私は、受付を抜ける手段が何もなかった。主役は忙しいらしく、直とは連絡がつかない。

 とりあえず受付の列に並ぶものの、立場を証明する手段は何も浮かばなかった。ハラハラしながら私の番になり、一応免許証を出してみたのだけど、案の定困った顔をされた。


「申し訳ございませんが、ご招待のない方をお入れするわけには参りません」

「あの、えっと、招待状を忘れてしまって……」


 関係者には招待状を、一般のファンは事前に200人がインターネットで申し込んでいた。


「どちらかの関係者の方ですか?」

「あ、はい。有坂行直の……知人、です」


 自分の立場の曖昧さを思い知らされる。こんな公の場で『彼女』なんて単語は出せないし、言ったところで怪しまれるに違いない。


「お名前を伺ってもよろしいでしょうか?」

「鈴本真織です」

「鈴本様ですね。少々こちらでお待ちいただけますか?」


 受付の女性は近くに控えていたホテルの従業員に何事か伝えて、男性は頷いてどこかに向かった。私は入り口脇に誘導されて、他のお客さんの視線を受けながらポツンと立って待つ。


「はあ……世界違うな」


 200名のファンは、一ヶ月募集期間があったにも関わらず、三日と経たず定員に達したらしい。そうして集まった人たちは、まさに老若男女、いろんな人がいた。足元が覚束ないおじいちゃんも、将棋とは無縁そうに見える若い女性も、逆にいかにも将棋好きそうな少年も。棋士としての直の人気を突きつけられるようだった。

 先日だって、おじちゃんがニヤニヤしながら携帯を見せてきた。


「これ、去年の賞金&対局料ランキング。毎年十位までは発表されるんだ。今年はタイトル獲得したからもっと上がるんじゃないかな」


 ついつい下世話な興味で私と頼子ちゃんは画面に引き寄せられる。


「へえ~! 一位になると一億近くもらえるんだ!」


 野球選手やサッカー選手みたいな知名度はなくても、さすがに一般人とは違う。するすると目線を下げると七位に直の名前が連なっていた。


「これはあくまで賞金と対局料だけの金額だから、これ以外にイベントの出演料とか解説料とか諸々入ってくるはず」

「有坂さんって年収二千万超えてるんですか!? 見えない!」


 頼子ちゃんは驚きのあまり気を使うのをすっかり忘れたようだ。


「うん、同感。どこに消えてるんだろうね、このお金。この前あげた十円返してもらおうかな」


 地方に行くとお土産を大量に買ってくるくらいで、特別何かにお金掛けてるようには見えない。将来記念館でも建てるつもりで積み立てしてるのだろうか。


「あれ? 鈴本、テンション上がらないのか?」

「どうせ私が使えるお金じゃないしね。彼氏と言えど他人の二千万より、私の月給が二千円上がった方が、ずっとずっと嬉しいなーーーっ!!」


 後半はデスクで作業中の社長に向かって、大声で言った。狭い事務所のはずなのに、社長には永遠に聞こえないらしい。

 あのときは全然実感がなかったけれど、こうして見ると、やはり違う世界で生きる人なのだと感じた。シャンデリアが眩しく見えて、視線は足元ばかりを漂う。

 しばらくして、さっきの従業員がメガネの若い男性を連れて戻り、私を示した。男性は穏やかな表情で、少し小走り気味に近づいてくる。その顔に、なんとなく見覚えが……。


「失礼ですが、鈴本さんはもしかして有坂の“真織さん”?」

「あ、はい。鈴本真織と申します」

「ああ、やっぱり! 初めまして。有坂の兄弟子の梨田史彦です」

「あ! こちらこそ初めまして!」


 見覚えあるはずだ。梨田さんは解説や指導が評判の棋士で、今期の棋聖戦第二局の解説もしていた。直ともっとも親しい棋士のひとりなのだ。


「すみません、ご迷惑をおかけして」

「いいえ、いいえ。鈴本さんがいなかったら、有坂だってがっかりするでしょう」


 梨田さんが会釈するだけで、受付はすんなり通してもらえた。


「鈴本さんは、将棋は指されないんですよね?」

「……はい。すみません。梨田さんの解説も、何もわからないまま観てました」


 梨田さんはヒラヒラと手を振る。


「いいんですよ。サッカーをする人だけが観戦を許されるなら、あんなに人気スポーツにはなってないでしょう?」

「それも、そうですね」

「指さない方にも楽しんでいただけるような解説を、俺たちも目指してますから」


 細かい手の意味はわからなくても、ちゃんと聞いていれば流れはわかる。アマチュア高段者にも、私のような指せない人にも対応した解説は、とても難しいだろうと思う。


「もっとわかってあげられたらいいんでしょうけど」


 梨田さんは少し首を傾げて、複雑な笑顔を見せる。


「うーーん、俺の奥さん、そこそこ指せる人なんですけどね、良し悪しですよ」

「そうなんですか?」

「隠しておきたいミスも筒抜けですから」

「直にも、そんなのありますか?」

「あるある。去年の叡王戦の頓死(最善手で対応していれば勝てたのに、応手を間違えて自玉が詰んでしまうこと)なんて、絶対知られたくないと思いますよ」


 ふふっ、と楽しげに笑って「バラしてやりました」と言うので、私も遠慮なく笑った。


「いいこと聞いちゃいました」


 梨田さんに案内されて入った会場は、ガヤガヤと人で溢れ、大きな金屏風のある高砂や豪華に活けられた装花が眩しかった。まるで有名人や政治家のパーティーみたいで、「やっぱり直も有名人なんだな」と再確認させられる。


「羨ましいですね」


 梨田さんは少しだけ切なそうに、今はまだ誰もいない高砂の方を眺めている。


「俺も就位式に奥さんを招待してみたいなあ」


 棋士になれる人は一握り。その中でタイトルを獲得できる人は、さらに一握り。多くの棋士が憧れて憧れて、それでも手にすることができないタイトル。その就位式なのだ。

 黙ったままの私に、梨田さんはメガネの奥のやさしい目をふんわりと細めた。


「有坂なら今後何度もあるかもしれないし、有坂でさえこれが最後かもしれない。どちらにしても苦しんで苦しんでようやく掴んだタイトルですから、今夜は目に焼き付けていってあげてください」


 軽く一礼して去っていく梨田さんに、深々と頭を下げた。安易な言葉は言えなかった。

 金屏風は大きなシャンデリアの明かりを反射して、自ら光を放っているかのように見える。その眩しさも、ちゃんと胸に刻んでおこうと思った。


 参加者は圧倒的に男性が多いかと言うとそんなことはなく、女性も思った以上にいる。ただの将棋ファンなのか、直のファンなのか。ファンなんて当然持ったことないし、誰かを夢中で追い掛けた経験もない私には、とても不思議な存在だった。


『有坂行直棋聖です』


 司会のアナウンスで新棋聖である直が入ってくると、会場は大きな拍手に満たされる。お付き合いのような適当な拍手じゃなくて、みんな強く心のこもった音を出している。直は入口で深く一礼してから、時折会釈しつつ高砂に続く道を真っ直ぐに進む。スポットライトの強い光の中で、直の黒髪と黒い紋付き羽織は、よりくっきりと存在感を放っていた。

 高砂に直が着座すると、主催新聞社の代表取締役、将棋連盟会長とあいさつが続く。それから就位状、賞杯、賞金が授与された。『棋聖』と書かれた銀色の賞杯を持つ直を見て、本当にタイトルホルダーになったんだなあ、と感慨深く見つめていると、ほんの一瞬、直が賞杯を少し持ち上げて笑った。『やったー』という声が聞こえるような無邪気な笑顔だった。

 直にとって、このタイトルの価値はとても重い。背負うものも多い。けれど、根底にあるのは、将棋を始めた頃と変わらない「勝って嬉しい」という単純な気持ちなのかもしれない。

 目に焼き付けておいて、と梨田さんに言われたのに、あふれる涙でその姿は見えなくなった。ハンカチで顔を覆っているうちにも、式は進んでいて、直の謝辞になった。


「みなさま、本日はお集まりいただき誠にありがとうございます。四段になる前から期待する声をいただいて約十年、四度目にしてようやくタイトルを獲得することができました。これもみなさまの応援、お力添えの賜物と思い感謝致しております。これまで将棋を指すことが辛い時期もあり、焦りも不安もありました。それでも結局は将棋が好きなんだ、という初心を思い出し、一手一手指せたことがいい結果に繋がったのだと思っております。こうして棋聖のタイトルを一年間お預かりしますが、来年またこの場に立てるよう、精一杯精進して参りますので、これからも応援よろしくお願い申し上げます。どうもありがとうございました」


 わずかに微笑みながら話す直を、忘れないでおこうと思った。特別面白くもない、ありふれた謝辞だけど、直の本心だとわかる。真っ直ぐ届く、真摯な声だった。

 花束の贈呈があり、連盟常務理事による乾杯の発声でパーティーが始まった。予想通り、直はたくさんの人に囲まれて、あちこちに挨拶して回っている。居場所のない私はやっぱり一般ファンに紛れつつ、お寿司だローストビーフだと高級な料理を眺めて歩いた。


「ほらほら、遠慮してないで食べなさい。余ったら捨てられるだけなんだから」


 無造作に、しかしバラエティー豊かに盛りつけられたお皿をグイッと突きつけられる。


「あ、ありがとうございます。いただきます」


 お皿をくれたのは、くたくたのスーツを更に着崩したおじいちゃんだった。私の反応を待つことなく、次のお皿に料理をどんどん盛っている。この人も直のファンか関係者のはずなのに、パーティーにはさして興味ないように見える。せっかくなので気になっていたローストビーフを遠慮なくいただいた。


「お嬢さんも将棋が好き?」


 タイミング悪くおじいちゃんに質問され、口一杯に入っていた柔らかなお肉を、もったいなくも素早く飲み込んだ。


「はい、まあ。自分では指せませんけど」


 好きか? と聞かれると悩ましいけど、プロ棋士を尊敬はしている。自分でもいつかもう少しわかるようになりたいと思う。おじいちゃんは哀れむように眉を下げた。


「それはもったいない。是非やってみなさい。楽しいから。ほら、食べて」

「はい。少しずつ覚えたいと思ってます。……いただきます」


 マグロのお寿司を口に入れた途端に、また質問が来る。


「有坂を応援しているんだね?」


 さすがにすぐは飲み込めないので、うんうんと首を縦に振った。


「よかったねえ、タイトル取れて。取れるときに取らないんだもの。ライバルにも先越されるし、みんな心配したんだよ」


 おじちゃんもそんなこと言ってたっけ。何度もタイトル挑戦しながら、結局一つも獲得できなかった棋士も多いのだそうだ。


「本当によかったですよね」


 おじいちゃんは自分では食べずに日本酒をくいくい飲んでいて、私にばかり手振りですすめてくる。そのペースで私もどんどんお皿を軽くしていった。


「これからはまた大変だから、今夜くらい楽しまないと」

「大変、ですか?」


 おじいちゃんはまた新たな日本酒で口を湿らせる。


「彼は、恐らく“平凡な天才”だから」


“平凡な天才”という奇妙な言葉に首をかしげると、おじいちゃんは独り言のように続けた。


「有坂には将棋の才能があるし、期待されるようにいずれもっと大きなタイトルを取るかもしれない。でも、史上最年少、最短記録、史上初、そういうどうやっても手にすることができない記録もすでにたくさんある。彼がようやく一つ階段を上がった頃に、本物の大天才が現れて、そういう記録を全部塗り変えて行くはずだ。過去の大天才と未来の大天才の間を預かる“平凡な天才”なんだよ」


 長い将棋の歴史の中でタイトルホルダーは何十人もいる。記録には残っても記憶から消えてしまうタイトルホルダーがほとんどだろう。おじいちゃんが言うように、直は“史上最強”にも“平凡”にもなれない“平凡な天才”なのかもしれない。


「別にいいんじゃないでしょうか、“平凡な天才”で」


 おじいちゃんは目で私を捉えたまま、コクリと日本酒を飲んだ。


「こんなにたくさんの人が応援してくれて、それに報いることができたんですから」


 いいも悪いもなく付き合い続けるしかない。直にとって将棋とはそういうものだ。直がどんなに努力しても敵わない大天才が現れるかもしれないし、そうでなくても加齢との戦いが待っている。栄光の先には衰退しかないのも事実だろう。

 それでも直は、好きなことを仕事にできて大きな成果を出したのだ。タイトル獲得後、ネットでの反応を見たら


『やっと……やっと……長かった』

『待たせやがって。もう泣ける』

『棋聖ひとつで満足するなよ! このまま複数冠狙っていけ!』


 と、熱いメッセージが溢れていた。たくさんの人が直を応援し、自分のことのように喜んでいる。これで不幸なんて言ったら、好きでもない仕事をして生涯を終えるたくさんの凡人たち(もちろん私を含む)にも、切なげに高砂を見つめていた梨田さんにも、顔向けできないよ。


「それに、二度と就位式ができなくても、あの子はきっと、今日のことを忘れません」


 直を見つめる少年の目は、まるで恋をしているかのように輝いていた。私は直の側にいても、ただの添え物になるしかできないけれど、直の残したものは確実に後世に伝わっている。直を追って同じ道を進む人が、きっとたくさんいて、そうして将棋の未来が作られていくのだろう。

 おじいちゃんは赤い顔でふんわり笑った。


「さっきの謝辞はよかったねえ。『将棋が好き』なんて棋士の基本だけど、なかなか堂々とは言えないから」


 直は前にも私に言った。『将棋、好きだし強いよ』って。あれは真実とは少し違うのだと思う。でも敢えてそれを口にした、彼の想いを汲みたい。


「できるなら、直もアマチュアに戻って、あれもこれも全部吹っ切れて、心から将棋を楽しめればいいのになーって思います。本人の気持ちは、違うと思いますけど」


 直自身はシンプルに強くなりたいと思っているし、それを応援する気持ちはある。けれど、余計なものは取り去って、純粋に楽しんで欲しいとも思うのだ。そのためにはタイトルもプロという立場も、ない方がいいのかもしれない。


「それは有坂からするとタイトルを取るより難しいかもしれないね。ゲームは結局勝たないと楽しくないし、弱い相手に勝っても楽しくないから。勝利の美酒は、飲めば飲むほど喉が渇くから困るね」


 おじいちゃんはデザートがたっぷり乗ったお皿を私に押し付けて、新たな日本酒のコップを片手にふらふら人の中に消えて行った。


 ザワザワと会場が沸いたと思ったら、背の高いイケメンがバイオリンを手に入って来るところだった。おじいちゃんから受け取ったイチゴショートとマンゴープリンとチョコレートムースとレアチーズケーキを詰め込みながら、目線だけで彼を追う。アナウンスによると、有名音大の講師でありバイオリニストだということだった。彼は簡単に祝辞を述べたあと、呼吸するようにバイオリンを構えた。その姿だけで周りからため息がこぼれる。

 音楽に疎い私はその曲を知らなかった。(バッハ 無伴奏ヴァイオリンパルティータ 第三番 プレリュードだそうです)それでも生演奏というのは力があり、CDやテレビだったら聞き流していたはずの耳と目をがっちり掴まれた。濃いめの顔だからバイオリンがよく似合う。目で見えるほどに漏れる色気は自然に伏し目になるせいだけじゃなくて、演奏の力なんだろう。

 主役である直を凌駕する存在感に不安になって本人を見るが、失礼にもぼんやりしているだけに見える。直がクラシック好きなんて聞いたことないから、きっと知らないのだと思う。直や私だけでなく、この場にいる多くの人は、音楽に詳しくないんじゃないだろうか。そんなこともわかっているだろうに、イケメンバイオリニストは華やかに楽しげに渾身の演奏を続けていた。

 彼も直や他の棋士ときっと同じ。音楽を愛し、幼い頃から音楽に人生をかけてきたのだろう。直の駒音と同じように、彼のバイオリンも人生の音だ。だけどそんな音色も私には半分も理解できていないと思う。同じように音楽を志す人には伝わっても、私には彼の音を理解できるだけの素地がない。

 なーんだ、将棋だけじゃないじゃない。私に理解できないことなんて、この世にはたくさんある。むしろ、アーティストを中途半端に理解できちゃって「彼の見た目も人柄もみーんな大好きなんだけど、歌声と作る曲だけは受け入れられない」なんて方が事態は悲惨じゃないかな。絶対そうだ。わからない方がマシ!

 そんな妙な納得をした頃に、演奏は豊かな余韻を残したまま終わった。極上の笑顔を見せる彼には申し訳ないのだけど、彼の演奏とは違うことに深い喜びを覚えて、私は盛大な拍手を送った。

 イケメンが残していった盛り上がりのままにファンとの歓談の時間に突入し、直の前には長い行列ができた。順番に一言ずつ言葉を交わして、直は握手や写真撮影に応じていた。男性も女性も心から嬉しそうに「初タイトル獲得、おめでとうございます!」とか「三段の頃からずっと応援してました!」と声を掛けている。若くてきれいな女の人が相手だとちょっと嫉妬しないこともないけれど、直はこんなにたくさんの人から愛され支えられているんだと実感できて、素直に嬉しかった。

 将棋はとても孤独な戦いだ。何日も何百時間も一人で勉強して、作戦を立てて、たった一人で戦う。さっき将棋も音楽も同じだと思ったけど、もしかしたら音楽よりも将棋はもっとずっと伝わりにくい。それでもその将棋を通して、この人たちみんなが直を愛してくれているんだ。それでその想いにようやく報いることができたんだな。本当に、本当によかった。例え彼を一番理解できる人間が私じゃなかったとしても。

「おめでとう」という気持ちを込めて最後に直を見て、私は会場を後にした。


 豪華なお料理とお酒を前に調子に乗り過ぎた私は、ふわふわ揺れる身体と重い胃を抱えてエレベーターのボタンを押した。

 食べ過ぎた……。おじいちゃんに勧められただけでも多いのに、ついついおかわりしたマンゴープリンが効いたな。

 ゆっくり近付いてくる階数表示をお腹をさすりながら見ていると、「真織!」と呼び掛けられた。振り向くと、黒い紋付きをひらひらさせた直が、大きな花束を抱えて走ってくる。酔っ払った頭には、夢の中の出来事のように現実感が薄い。


「おおー、本物の有坂行直だ」


 ずっと就位式の中心にいた人が目の前いる。そんな贅沢に、お腹だけでなく、胸もいっぱいになった。


「随分酔ってるね」

「うん。おいしかったよ。……私がいたの知ってたんだ」

「会場に入ってすぐわかった」


 目が合った記憶がないから、知らないのだと思ってた。


「マンゴープリン三つ食べてたのも、いつもよりお酒飲み過ぎてたのも知ってる」

「それは知らなくていい。あれ? 式は?」


 もう終盤とは言っても終わったわけじゃない。主役が抜けられるはずもないのに。


「トイレって言ってある。だからあんまり時間ない。これ、持って帰って」


 バサリと大きな花束を押し付けられて、目の前が色でいっぱいになる。ピンクと紫のトルコキキョウに目を奪われていると、花束ごと抱き寄せられ、やさしい手が少しほつれた私の髪の毛をスルリと耳に掛けた。花束で人目を隠すようにして、しっとりと唇を合わせたら、花の香りが強くなったように感じられる。化粧直しをしていなくてほとんど取れていたリップは、直によって完全に摘み取られてしまった。


「来てくれてありがとう」


 ほとんど口移しの言葉は、酔った身体をさらに酩酊させていく。


「おめでとう。すっごく格好良かった」

「ありがとう。それが一番嬉しい」


 多分、半分本当で半分嘘。本当に嬉しいのはもらう言葉じゃなくて、自分で獲得した栄誉だ。それは誰とも分けることのできない、直だけのもの。だけど今、一瞬だけ、この人は私だけのもの。

「気を付けて帰って」と私の頭を一撫でして、直はまた走って戻って行った。その背中の向こう、大きな窓の外に広がる東京湾の夜景が、さっきより輝いて見える。だけど私はごちそうとお酒と花の香りと、何より直の手とキスのせいでフラフラになってしまって、乗り込んだエレベーターの中にヘナヘナと崩れ落ちた。

 神様ありがとう。棋聖を独り占めできて、幸せでした。

 座り込んで一心に神に感謝を捧げる私は、エレベーターの“1F”ボタンをすっかり押し忘れていて、乗り込んで来た男性から不審な目を向けられることになった。



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