▲7手 above
近年の夏は、東北と言えど南国と変わらないほどに気温が上がる。今朝の天気予報でも、東北全域で三十五度を超えると言っていた。それを裏付けるような強い日差しが、大きな窓の向こうに広がる日本庭園を、容赦なく照らしている。
その対照をなすように、室内は落ち着いた空間に保たれていた。そこにいるたくさんの人々は誰一人言葉を発しない。けれど静寂とは違う。聞こえるのは衣擦れの音とカメラのシャッター音ばかりだが、それ以上に騒がしいのは、期待と緊張のザワザワとした空気。
その中心に直が座っている。“濃紺”と片付けてしまうにはもったいないほど上品な色合いの羽織に薄鼠色の袴は、最初にタイトル挑戦したとき、お祝いとして後援会の方々から贈られたものだという。
将棋盤を見る直の顔に、いつもの笑顔はない。真剣に本業に臨む直は、私の話に爆笑している大好きな彼氏ではなく、見つめることすら躊躇われるほどに鋭く、底無しに静かな目をしている。画面を通してしまうとわかりにくけれど、きっとあのピリピリした圧力を放っているに違いない。
盤を挟んで反対側には日比野大輔棋聖。真珠色の着物に薄青の羽織を、さすがの貫禄で着こなしている。現在二冠のタイトルホルダーであり、棋聖としては三連覇中である。とは言え緊張はするはずなのに、まさに「泰然自若」といった風情だ。おじちゃんが言っていた、「強いという印象だけで勝手に相手が自滅する」というのもうなずける。日比野棋聖を前にすると、直もヒヨッコ感が拭い去れず、ひらりという扇子のひと振りで跳ね返されそうだ。
「それでは時間になりました。日比野先生の先手番でよろしくお願いします」
立会人の声で対局開始が告げられる。
「よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
対局者ふたりと立会人、副立会人、記録係、観戦記者、地元関係者など、その場にいる全員が深々と頭を下げた。
ひときわ深く頭を下げ、一番最後に顔を上げた直は、そのまま盤面に視線を落とす。挨拶の余韻が消える頃、日比野棋聖の右手が駒を掴んでビシッと指した。
▲2六歩
それを見て、直は視線を一度手元に落とす。気息を整えているのか、じっと動かない。その目には何も映っていない。将棋盤も対局者も、何も。
しゅるりと衣擦れのうつくしい音がしたかどうか。少し心配になる頃、ようやく顔を上げた直は、あのきれいな右手を駒に伸ばした。
パチン。△8四歩
拍手のようにたくさんのシャッター音が響いていた。
* * *
直は挑戦者として棋聖戦五番勝負の第五局に臨む。第一局は日比野棋聖が取り、第二局は直、そのまま交互に勝って二勝二敗。直は次に勝てば初のタイトル獲得、負ければ四度目の挑戦失敗という、ものすごく大きな一戦を迎えていた。
順位戦や予選の対局は東京や大阪の将棋会館で行われるが、こういったタイトル戦は大きなイベントとして全国のホテルや旅館などで盛大に行われる。一局ごとに場所を変えながら、北へ南へ近場へと出向いては対局していて、そのすべてが専門チャンネルで中継されていた。今回も東北の温泉地にある高級旅館で、対局と大盤解説会が行われる。
タイトル戦前日は前夜祭というイベントが組まれることがあり、関係者や招かれた方々と酒食を共にする。どんな風に前日を過ごすタイプの棋士であれ、集中したいから、と引きこもることなんてできない。逆に言うと、普通に過ごしたい直にとってもそれは不可能。
タイトル戦ともなると研究にも力が入るし、移動や取材もある。それでいて他棋戦の対局も変わらずあるので、会える時間は減っていた。
対局日の前日は、東京在住の現棋聖、立会人(棋士)や解説者(棋士)など、みんな一緒に新幹線で現地入りするので、出発日の前日(対局日の前々日)に、「一緒にご飯食べよう」と誘われた。
すべての対局が重要と言っても、さすがにこの対局が他と違うのは明らか。普段あれこれ口出ししない私も、ここしばらくは落ち着かず、大好きなハンバーグもなかなか喉を通っていかない。
「真織が焦ってどうするの」
おいしそうにパクパク食べ進める直は、こんな状況にも慣れているのだと思う。
「無意味だってわかってるよ。でもさ、でも初タイトルがかかってるなんてハラハラするじゃない」
「まあね。でもやることは一緒だし。ここまでなら前にも来たことあるから。負けちゃったけど」
あくまで“普通”を崩さない直に、緊張感は見られなかった。
「緊張をやわらげるテクニックとかあるの?」
「そんなのないよ。緊張しながら指すしかない。でも相手だって緊張してると思うし、お互い様じゃない?」
「そうだけど、私がもたないよ。手に『人』って書くといいんだっけ?」
効きそうにもない古典的なおまじないを思い出していると、
「緊張で息苦しくなってきたら、真織のこと考えるよ」
「……私のこと?」
直はブフッと吹き出すように笑った。
「そう。真織と真織の会社のこと。ニヤけるの隠すためにも、ハンカチと扇子は忘れないようにしないと」
君を想って頑張るよ、と夢見がちな変換をするには、かなり失礼な印象を受けるけど、役に立てるならいいか、と文句は飲み込んだ。
「対局中に笑っちゃったことある?」
「ない。さすがに」
と言いつつ、直は思い出し笑いに震える。
「昔、対戦相手がスーツの中にドクロのベスト着てきたことあって。『ええ! ドクロ!』って思ったけど、顔には出さなかった。でも、対局中、たまーにドクロと目が合ったんだよね」
笑い上戸と言えるほどよく笑う直は、これでも対局中、ほとんど表情が変わらない。本人の中では感情が動いているらしいけど、これまで四局観てきて、私にはほとんど読み取れなかった。人生をかけた一戦を前に、
「あ、このブロッコリー、ハート型だ」
などと嬉しそうにしている彼は、本当に何者なのだろう。
断っても“普通”がいいと言って、直は今回も私のマンションまで送ってくれた。それでも部屋に誘うと「帰れなくなるから」と断られたので、以前仮初めの恋人だったときのように、エントランスでデートは終わり。名残惜しくて、指を絡めて繋いだ手にさらに強く力を込めと、同じように返してくれた。
直が勝とうが負けようが、私に特段の変化はない。勝ったら直の名前の後に「棋聖」と付くけれど、それだって世間のほとんどの人は知らないことだ。でも、それが直にとって少なからぬ意味があるとわかっているから、本人がどんなに“普通”を望んでも、平静ではいられない。
直の手は、特別指が長いわけでもスラリと細いわけでもない。ただの男の人の手なのに、なぜかつるつるピカピカでとてもきれいだ。駒ばっかり持ってきた人の手。私に触れる、これが正解だっていうちょうどいい手。明後日、この手で直は戦う。
夜なのに下がらない気温でベタベタの、それでも見た目は涼しげなその右手を、暖めるように包む。
「真織の手は夏なのに冷たくて気持ちいい」
「私は汗でベタベタで気持ち悪いよ」
「湿気多いと駒が張り付いたりするんだよね」
そっと手を持ち上げて、中指の先に軽く口づける。何の足しにもならない祈りを込めて。そして見上げた直は、ほんのりと笑った。
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
「頑張って」とは言わない。頑張ってるに違いないのだから。私が言えるのは「行ってらっしゃい」。勝っても負けても「お帰りなさい」。
右手を解放すると、その手で直は私の肩を掴み、唇を合わせた。ゆっくりしっかり一度だけ。
「行ってきます」
あれからずっと、左肩には直の手の感触が残っている。
翌日は朝からずっと吐きそうで、仕事もいつもより倍以上時間がかかった。その間に二度イスがストンと落ち、三度躓いて転びかけている。
「真織さん、今日はタクシーで帰った方がいいですよ。この調子だと絶対ホームに落ちます」
ぶちまけてしまったファイルの中身を拾ってくれながら、頼子ちゃんが真剣な声で言う。
「そうする。今は自分でも自分が信用できない」
「有坂さんは、今頃何してるんでしょうね」
頼子ちゃんは窓の向こうに見える、くっきりと濃い青空に視線をやった。
棋聖戦の情報は公式ブログに写真付きでアップされていて、直たちは午後に対局場である旅館に着いたらしい。バスを降りた直の上には、ここと同じような夏空が写っている。
十五時過ぎに行われた検分の写真は、日比野棋聖と直が駒を並べているものだった。そうして当日と同じ環境にして、光の当たり具合や座布団の座り心地、空調など不都合がないか確認するのだ。神経質な人だと、滝の音が気になると言って、人工の滝を止めてもらうこともあったらしい。
将棋をするだけなのだから、気にすることなんてないかと思っていたけど、いろいろ神経を使う棋士は多い。持ち時間がなくなって秒読みに入った時、腕が引っかかると嫌だから細身のスーツは着ない、という人もいる。メガネ率が高いのも、秒読みの時コンタクトがズレた、なんてことになったら目も当てられないからだとか。
四局指して何も言ったことのない直に、検分で何か確認してるの? と聞いてみたら、
「……升目と駒の文字が見えればいいかな」
なんて言ってたっけ。
「それって、逆に見えないなんてことがあるの?」
「たまに見えにくいやつもある。あと照明が反射して盤や駒が光っちゃったり」
タイトル戦だから当然いい盤駒を使うのだけど、品質の問題ではなくそういうことがあるらしい。年季が入って赤く飴色になった駒は、見えにくく感じることもあるのだそう。照明の位置によっては、盤や駒が光ってしまって見えないこともあるとか。
「見えにくいなって思ったらどうするの?」
「別の駒に交換してもらうことも可能だけど、俺からは言い出さないかな」
タイトル戦ともなると、開催する地元の愛棋家から「是非使ってほしい」と自慢の盤駒を持ち込まれることもあって、安易な交換は言いにくいらしい。そもそも決定権はタイトルホルダーにある。今回使うのは旅館が所有している盤駒で、写真で見る限り白っぽい駒だから、見えないなんてことはなさそうだ。
その後、イベントで行われる抽選会用に扇子に揮毫していた。ひとつの扇子に棋聖と直が一字ずつ書くらしい。
直は将棋を始めるのとほぼ同時期に書道も習っていたとかで、お手本みたいにきれいな字を書く。ペン字の方はなぜかカクカクした変な文字で、筆跡鑑定を警戒して定規でもあてたの? と言いたくなる字なのに。
扇子はデコボコしていて書きづらいから苦手だと言っていたけれど、やっぱりくっきり美しい字で、
『進 挑戦者 有坂行直』
と書かれていた。ちなみにいつも揮毫するのは『直進』で、将棋に向かって真っ直ぐ心を向ける直らしいなあ、と感動したのだけど、本人に聞いてみたところ、
「名前をもじってて、しかも何かいい意味っぽいでしょ?」
と、返答の方は非常に軽~いものだった。もらった人ががっかりするから、それは内緒にしてあげてほしい。
「社長、私明日お休みいただいていいんですよね?」
終業後、ひとしきりブログをチェックした私は、荷物をまとめながら社長に確認した。第四局が終わってすぐ、最終日の有給を申し入れていたのだ。前日でもこうなのだから当日仕事なんてしていられない。
「鈴本さんはいいけど、ベンちゃんはダメだよ」
なぜかこそこそしていたおじちゃんの背中が、びくっと跳ねた。
「だめ?」
「だめ」
「どうしても?」
「どうしても」
「じゃあせめてネット中継はつけっぱなしでいい?」
「…………」
「仕事はちゃんとするから!」
将棋に翻弄される会社……いいんだろうか。
頼子ちゃんの忠告通りタクシーで帰宅して、買い置きのレトルトカレーを無理矢理口に運びながらブログを確認すると、前夜祭の様子がアップされていた。私がこんな寂しい食事(レトルトカレーはおいしいけど)をしているというのに、直はきっと山盛りの海の幸・肉の幸・甘い幸を堪能しているに違いない。ブログで紹介されていたのは、ローストビーフやエビチリ、カラッと揚がったたくさんの串揚げ。フルーツなんて、三段重ねのプレートに種類も量もたっぷり盛り付けられていて、彩り豊かで輝いて見える。
市長や将棋連盟会長、そして主催者とあいさつが続き、地元の子どもからの花束贈呈と記念撮影。そして対局者のあいさつとなる。日比野棋聖はタイトル戦で何度かこの旅館を訪れているようで、内容もその思い出について面白おかしく語っていた。さて、
『皆さまこんばんは。棋士の有坂行直です。本日はたくさんの方にお越しいただきまして、誠にありがとうございます。この地を地元とする村西先生とは残念ながらご存命中に教えていただくことは叶いませんでしたが、遺された棋譜を通しまして、たくさん勉強させていただきました。またここはタイトル戦で数多くの名局が生まれた場所としても有名で、同じ場所に立てることを嬉しく思っております。明日は悔いの残らないよう精一杯指すと同時に、ファンのみなさまに楽しんでいただけるようないい将棋をお見せしたいと思いますので、どうぞよろしくお願い致します』
写真の直は、あのベッドでダラダラしている人と同一人物とは思えないくらい堂々としている。タイトル挑戦も今回で四度目。この前夜祭にはもう十回以上出ているのだから、慣れもするのだろう。
『食べすぎちゃった。眠いー』
携帯画面に飛び込んできたメッセージは、きりっとしたブログの写真とは違って気の抜けたものだった。ブログを確認すると、前夜祭は続いているものの対局者ふたりは退出したらしい。
『おいしいものいっぱい食べたんでしょ? いいなー! 私なんてレトルトカレーだよ』
しばらく待ってみたけれど、返事は返って来なかった。対局前日は眠れない棋士も多いと聞くから、そのまま眠ってしまったなら、その方がいい。
何をしていても落ち着かない私も、いつもよりずいぶん早くベッドに入ったのだけど、まったく寝付けずひたすら祈りを捧げていた。
明日は直が先手番でありますように!
どこぞの神様に祈るにしても、「勝てますように」は願ってはいけないような気がして。
チェスや囲碁ほど大きな差はないけれど、将棋もやはり先手がいいと言われている。中には後手番の勝率が高い人もいるけれど、それは少数で、直もやはり先手番の勝率の方が高い。
その先手後手を決めるのが振り駒で、記録係が上位の者(今回は日比野棋聖)の方の歩を五枚取って手の中で振って落とす。五枚中、歩の枚数が多ければ日比野棋聖が先手、と金の枚数が多ければ直が先手となる。
第一局で日比野棋聖が先手となり、その後第四局までは順に先後を入れ替えて指してきた。今回は最終第五局までもつれこんだため、最後は改めて振り駒が行われるのだ。
実力が拮抗していた場合は勝敗を左右するとも言われる振り駒。今回のシリーズもすべて先手が勝っている。直がどんなに努力しても振り駒だけはどうにもならない。
と金三枚、と金三枚、と金三枚、と金三枚…………後は直が自分で何とかするから、神様お願い! と金を三枚出してください!
願い事と寝返りを繰り返して、私は眠れない一晩を過ごした。
中継は対局開始の三十分前、八時半に始まった。私は睡眠不足と緊張で、昨日以上に胃がムカムカして食欲もない。お湯で溶かすタイプの顆粒スープを舐めるように飲みながら、パソコンの前でひたすら時間が過ぎるのを待っていた。
対局者のいない対局室はなごやかな雰囲気が漂っている。記録係の奨励会員が駒を磨いている横で、立会人や関係者が談笑していて、緊張感は感じられない。中継カメラがぐるっと回転して、対局室から見える庭園が映し出されると、見頃を迎えたピンクと白のサルスベリの上に、すでに厳しい日差しが降り注いでいた。
日比野棋聖と直の経歴や、棋聖戦の仕組みなどが紹介された後、画面が対局室に戻ると、今度は一転して全員正座で言葉も交わさずにただ対局者を待っている。そして八時四十六分。画面右手奥の襖から、直が入ってきた。対局室内の空気が、一段と重くひきしまる。直も軽く会釈はするものの、言葉も発せず、誰とも視線を合わせない。さっと下座に座り、時計やお茶、脇息の位置を確認したあとは、身じろぎひとつせずに、じっと棋聖を待っていた。
直は今、たったひとり、将棋しかない世界にいる。そこに入っていけるのはひとりだけ。
その唯一の人物、日比野棋聖は直よりずっと慣れた様子で入室し、ゆったりと上座に座った。直は深く頭を下げて彼を迎える。
着座してすぐに一礼し、棋聖が駒箱を開ける。将棋では上位のものが駒の出し入れをする決まりになっていて、座る位置とこの作業が、立場を示す重要な要素になっているらしい。駒を並べる直の姿に迷いも不安も緊張もないように思える。同時に日比野棋聖は余裕すら感じる手つきだった。
『振り駒を行います』
将棋にはほとんど運の要素がない。だからこそ勝利の栄誉も、敗北の責任も、すべて棋士ひとりのものだ。その中で唯一運と言えるのが、この振り駒である。
記録係が白い布を広げてから、日比野棋聖の歩を五枚取る。
『日比野棋聖の振り歩先です』
カシャカシャと早い動きで手の中の駒を混ぜ、布の上に投げ出した。歩……四枚。
『歩が四枚で、日比野棋聖の先手番となりました』
私は階下の人の迷惑も顧みず、ドサッとカーペットの上に倒れ伏した。
あんなに祈ったのに、神に見放された……。
ため息ばかりつく私と違い、直に変化はない。実はがっかりしているのか、本当に平気なのか、棋士の有坂行直は私には理解できない存在だ。
対局開始の九時まではあと二分。
『この時間、対局者は何を考えているものなんですか?』
聞き手(解説の補佐)の女流棋士が解説者である棋士に尋ねた。
『先後が決まりましたから、今はどういう作戦でいくか考えていると思いますよ』
直の視線はしずかに盤面に注がれている。日比野棋聖もまた、同じ盤面を見ている。戦いは、すでに始まっているのかもしれなかった。
『それでは時間になりました。日比野先生の先手番でよろしくお願いします』
『よろしくお願いします』
『よろしくお願いします』
立会人の声で対局が始まり、まもなく棋聖がビシッと指した。
▲2六歩
撮影する時間を考慮して、駒に指先を置いたまま一、二秒止めてから手を離す。続いて直もゆっくりと歩を進めた。
△8四歩
同じようにたくさんのシャッター音を待ってから手を離した。撮影が一段落すると、取材陣も関係者もすべて退室して、残されたのは対局者と観戦記者と記録係。端の方に座っていた記録係が、タブレットを持って正面に座り直すと、いよいよ空気が濃密になった。
『有坂八段も居飛車でしたね』
『有坂さん、元々後手番ではあまり振り飛車は採用してないんですけど、最近は先手番でも居飛車の割合が増えてますから、日比野棋聖も予想していたと思いますよ』
インターネットの中継番組では、女流棋士とプロ棋士が解説してくれている。将棋の対局を最初からまともに観るのは初めてだけど(いつも平日に行われるので)、とても丁寧なのだろうと感じる。
「ダメだ……。眠い」
が、それでも私にはわからない。解説は現状を説明しつつ、今はこんな手を狙っていて、今後はこういう展開になるんじゃないかな、という棋士の思考を教えてくれるものだから、そもそもそのレベルにない私には暗号にしか聞こえないのだ。
『先手は▲4六歩 ▲4七銀 ▲3六歩。後手もほぼ同型なので、いずれ▲5六銀 △5四銀と上がって、角換わり腰掛け銀に進みそうですね』
などと言われても、昨夜の睡眠不足も手伝って、気づくと瞼が降りている。
私にわかったことと言えば十時半に出されたおやつに、直がフルーツ盛り合わせを選んだ理由くらいのものだ。最初のタイトル挑戦のとき、チョコレートのシミをつけてしまったことを未だに悔いているから、汚れそうなおやつは頼まないのだそう。日比野棋聖は杏のロールケーキとホットレモンティーを注文していて、ふたりとも膝に手拭いを拡げて食べている。
フルーツを食べ終えた直は正座に座り直し、おしぼりで指の一本一本を入念に拭いてから手を伸ばした。
パチン
その手を見ていて、左肩が熱くなったような気がする。あの手は駒を持つ手。そして、私にやさしく触れる手だ。
ああ、どうかどうか、直の努力が報われますように……。
自宅で見ていても埒があかないとわかり、会社の昼休みを狙って移動した。対局もちょうど十二時から昼食休憩に入る。
「おじちゃん! 今どうなってるの?」
奥さんが実家に帰省しているらしいおじちゃんは、強烈な匂いのカップラーメン(とんこつ味噌醤油味)をズルズルすすりながらしっかり中継を見ていた。
「あれ? 休みじゃないの?」
「ひとりでいても落ち着かないし、何より全然わからない」
「まだどっちが優勢ってこともない。本格的な戦いも始まってない小競り合い程度だから」
「三時間も経ってるのに、今まで何してたのよ」
「ここまでだって水面下でいろんな駆け引きがあったんだよ。有坂先生が急戦に持ち込もうとしたのに、日比野棋聖に阻まれたり。牽制し合ってるから一見おだやかな進行だけど、下手すると一気に形勢が傾くぞ」
対局中会話はしないのだけど、盤上で「私はこう指します」「じゃあ、この辺りまではこの定跡で行きましょう」なんてやりとりがなされるらしい。それで言うならば、今日は直が「戦いましょう」と提案しても、日比野棋聖が「応じません」と拒否する、なかなか激しい様相を呈しているのだとか。止まっているように見える画面から、私にはそれが伝わって来ない。
「先手番だったらよかったのに。運悪すぎる」
緊張感に慣れない庶民の私は、早く楽になることばかり考えていた。さっさと形勢有利になって、安心して応援したい。
「いいんだよ、これで」
おじちゃんは底に沈んでいたナルトを拾い上げ、自分が対局してるかのような真剣さで言う。
「今回のシリーズは全部先手が勝ってる。だから先手で勝っても『結局振り駒が決め手だった』って言われるぞ。だから後手できっちり勝って、誰にも文句言わせない形でタイトルを奪取するんだ!」
「……おじちゃん、格好いい」
「だろ?」
昼食休憩中の中継サイトでは、昨日の検分や前夜祭の映像が流されていた。直は盤の前に座って駒を並べているものの、周りがあれこれ話し合っているのに、他人事のようにぼやーっと見ている。聞かれたことにもうなずくばかりだ。前夜祭ではさすがにキリッと挨拶していたけれど、その後ファンの女性とヘラッヘラ歓談している姿には、緊張感の欠片もない!
「有坂さんって人気あるんですね」
お弁当箱を片付けていた頼子ちゃんが、驚きを隠さずに言う。
「棋士の人気は実力に比例するからな。タイトル取ったらもっと人気出るんじゃないかな。……鈴本、そう不機嫌な顔するなって」
私は頼子ちゃんが淹れてくれた冷茶を、まずそうにすすって、返事を回避した。
『この形は先手がいいとされているんです。日比野棋聖は牽制しながら、慎重にこの形に持ち込みましたね』
番組では初手から振り返って解説が行われている。
『後手のこれは新手じゃないかな。このままだと分が悪いので、用意してましたね。地味なところですけど、この歩を進めることによって、先手の銀を抑える意味があります』
「新手ってどれが? 何がどうすごいの? おじちゃん、わかりやすく説明して」
「できるか、そんなもん! トッププロが考えた最新研究なんて、わかるわけない」
「頼りないな」
「俺が悪いんじゃないよ。この対局の進行をみて、その手がよかったのか悪かったのか、これから研究されていくんだから」
騒がしい私たちをなだめるように、女流棋士のやわらかい声が聞こえてきた。
『ここで対局者のお昼ご飯をご紹介します。まず日比野棋聖のお昼ご飯は、特上にぎり寿司とアイスコーヒーです』
見た目ダンディなおじさまだけど、食べ合わせにうるさい人ではないらしい。“特上”というだけあって、ひきずるような穴子やトロ、ウニなどが見える。
『続きまして有坂八段は、天ぷらそば、おにぎり、オレンジジュースと烏龍茶です』
甘い飲み物のあと、さっぱりとしたお茶を飲みたがるところはいつもの直らしかった。
「少ない気がする。体調悪いのかな」
「タイトルかかってるんだから緊張して当然だろ。トイレで吐きながら指したって話も聞いたことある」
自然と眉間に皺が寄った。万が一直が吐いていたとして、対局者に悟られるような態度は見せないだろう。
「だけど有坂先生、序盤ほとんどノータイムで指してた。だいぶ準備して来てたんだと思う」
曖昧に引きつった笑顔を浮かべたのは、おじちゃんの言葉のせいではなく、唇の裏にストレスによる口内炎が二つもできているせいだ。笑うと痛い。
直は最近、ずっと引きこもって研究に没頭していた。たまに連絡取ると「一週間、部屋から出てない」なんて返事が返ってきたりして、私の方も気安く連絡できなかった。具体的に何をしているのかはわからないけど、凄まじい努力をしてきたことは感じているのだ。
「ノータイムだとすごいの?」
「よっぽど研究してるか、決断がいいか。どっちにしても、迷いがないってことだと思う。棋聖戦はタイトル戦としては持ち時間が短いから、自分の時間の使い方と相手の時間の使わせ方、これも戦いの一部だよ」
対局再開の十分前に、直は盤の前に戻ってきた。盤面をじっと見つめる直の近くまで、東北で今年一番と騒がれている日差しが入り込んでいる。室内は冷房が効いているだろうけど、やっぱり暑いのだろう。直は羽織を脱いで袴姿になっていた。
光にも薄まらない髪と揺れない瞳。横から見る袴姿は、羽織を着ていたときよりも身体のラインがはっきりして、スッと伸ばした背筋が際立つ。
日比野棋聖が戻ってきて十三時に対局は再開された。まもなくビシッと日比野棋聖が指す。彼は温厚そうな見た目に似合わず、ビシビシと強い指し方をする。やはり人によって音は違うようだ。その手を見た直は数分考えて、パチンと駒を進めた。
「おじちゃん、どうなったの?」
日比野棋聖がここで長考に入った。天井を見上げたり逆に俯いたり、扇子で仰いだりしながら一心に考え込んでいる。何があったのか気になるのに、解説を聞いていても「わからない」「悩ましい」ばかり。
「局面が難解なんだよ。形勢も互角のままだ」
直の方はというと、一応盤面は見ているものの、ちょっと眠そうな気がする。首がカックリ落ちたりしないか、別意味でハラハラする。本人も危ないと思ったらしく、ポットで支給されているお茶を湯呑みに注いで飲んだ。
「緊張してるはずなのに、見てるこっちも眠くなりそう」
「持ち時間四時間は短い方だけど、それでもずっと集中し続けるのは無理だし無駄。相手の長考中は少し気を抜くくらいがいいんじゃないかな」
「考えなくていいの?」
「ここまではまだ有坂先生の研究範囲内みたいだから大丈夫。研究から外れてからが勝負だから。体力と時間は残しておかないと」
頼子ちゃんに尻を叩かれて、おじちゃんは渋々仕事に戻っていった。私は一人で中継サイトを見続け、解説を一生懸命理解しようと耳を傾けた。解説のスピードが早過ぎて全部は理解できないけれど、それでもなんとか雰囲気だけは掴んでいた。……つもりなんだけど。
「で、結局どっちが勝ってるんだろう?」
中継サイトによっては評価値と言って、どちらが優勢であるかコンピューターの数値で示してくれるものもあるけれど、それも100前後を行ったり来たり。
私にわかったことは、やっぱり直はおやつにはケーキではなく、カシスゼリーとホットコーヒーを注文したということだけ。確かにボロボロ落ちたりはしないけど、逆に水分が垂れてしまわないか気になる。日比野棋聖はショートケーキとアイスティーを注文したものの、手をつける気配はない。
ゆったりコーヒーを飲む直の目の前では、日比野棋聖が脇息にもたれながら扇子をパチパチと鳴らしている。その音によって思考のリズムを作るのだとか。それが効いたのか、まもなくビシッと指した。
すると、それまでぼんやりしているように見えた直が、コーヒーカップを置いて身を乗り出す。しばらくじっと見て、体勢が辛くなったのかバサバサと袴をさばいてあぐらをかいた。行儀悪くも膝の上で頬杖をつき、深く深く悩み続けている。ピクリとも動かなくなった直を残して、棋聖はショートケーキとアイスティーを食べ終え、席を立った。その間直は、ずっと同じ体勢のままだった。
『うーーーん。ここはやっぱり……銀が出るんでしょうね』
解説の棋士が悩みながら、そろそろと銀を進める。
『歩ではなく銀ですか?』
『歩だと手抜かれたとき弱いんですよね』
『でも……結構怖いですよね』
直は小さなワイプの中で大長考を続けていて、解説は睡眠不足の頭には強烈な睡眠作用をもたらす。
『怖いは怖いですけど、でも有坂さんは斬り合いも好きですから』
『そうなんですか?』
『有坂さんって、普段はよく『怖くて指せない』とか『無理無理』とか言うけど、実際対局するとバンバン斬り込んでくるんですよ』
ぶはっ!
半分落ちていた意識が一気に覚醒した。将棋の話はよくわからないのに、なんだか想像できてしまった。
「心配なのはわかりますけど、真織さんも少し休んだらどうですか?」
頼子ちゃんが淹れてくれたのは、いつものインスタントコーヒーではなく、パウダータイプのミルクティーだった。声を掛けられてようやく、自分が微動だにしないでディスプレイを見つめていたことに気づいた。ゴーッという古いエアコンの音も、去年社長がもらってきた扇風機のブイーン、ブイーンっていう音も、全然聞こえていなかった。夏はあまり飲まないホットだけど、その暖かさと強い甘みに癒される。
「うん。ありがとう。だけど『休む』って言っても落ち着かないから、仕事でもしようかな」
それから小一時間、常にない集中力で私は仕事をこなした。外回りから帰ってきた社長が、
「あれ? 今日休みじゃなかったっけ?」
と驚いて声を掛けてくるまで中継サイトは見なかった。その社長を蹴り倒す勢いでバタバタとおじちゃんが駆け込んで来る。
「どうなってる?」
「それは私が聞きたいの!」
今は日比野棋聖の手番のようだけど、直もまた考え込んでいる。
「棋聖が守りを固めるのか、攻勢に出るのかで戦況は変わるよ」
じーっと盤面を見る直の目は、私に見せたことがない厳しいものだ。この人なら、どんな時でもどんな相手でも、将棋で手加減することはないだろうと思った。例え相手の人生を終わらせることになろうとも、全力で指す。直は多分強い棋士だけど、それでも少しでも緩めれば簡単に負ける。余裕なんてない。棋士でいる限りずっと余裕なんてない。
「将棋って消耗戦みたい」
おじちゃんは中継サイトから目を離さずに答える。
「人と人の戦いだから。コンピューターが強くなってるのは、メンタルを考える必要がないせいじゃないかと思うんだ」
「メンタル? 頭脳じゃなくて?」
「処理能力が向上してることは一番の理由だけど、将棋はメンタルの勝負だよ。制限時間に追われながら最善手を探す。正解がわからなくても決断する。そういう焦りや不安が思考を歪めるから」
「棋士だって人間だもんね」
「メンタル面と体力面を考慮しなくていいコンピューターが勝っても、棋士が弱いってことにはならない。ミスを誘ったり、時間攻めしたり、人間同士の対局には、それなりの戦い方がある」
ただ座っておやつとご飯を食べて将棋をするだけなのに、おじちゃんによると一局指すと2~3kg体重が落ちるのだと言う。比喩でも何でもなく本当に消耗してるのだ。
頼子ちゃんが壁の時計を確認した。
「社長、あと一時間だし、今日は早めに上がりませんか? 誰も仕事する気ないみたいだから」
許可を求める言い方をしつつも、すでにパソコンの電源を落としていた。仕事を切り上げても誰も帰らず、おじちゃんのデスクに集合する。
やがて棋聖が攻めを選んだ。その手をみた直は、ガックリと下を向いて、そのまま動かなくなる。
「何か読み違いでもあったかな?」
おじちゃんだけでなく社長も頼子ちゃんもブラジルも、心配そうに画面を見つめる。床についた手のあたりに視線を落としていて、その表情はわからない。だけど、なんとなく、直は別に悩んでるわけじゃないような気がした。
しばらくして顔を上げた直は、表情も仕草も何も変わっていなかった。けれどどこか熱を感じる指先で金を持ち、さっき棋聖の打った歩を取った。
「おじちゃん……」
「これは……一番激しい手順に進んだ」
細かいことは全然わからないけれど、解説の人も、
『さきほど一応解説しましたけど、本当にこの順を選ぶとは思いませんでした』
と驚いている。
『この角がよく利いてますよね』
『この角の働きを緩めるには……▲4六歩、ですか?』
『そうですねえ。でも、こっちの桂跳ねも痛いので……』
「どういうこと?」
いいとも悪いともはっきり言わない解説に苛立ち、おじちゃんに直接尋ねた。
「有坂先生が攻める順が多いみたいだな」
「それって優勢ってこと?」
「いや、受け切られれば有坂先生の玉は薄い(守りが弱い)から危ない。激しい分、ちょっと間違うとすぐに首が飛ぶ」
肩から指先まで真っ直ぐに、少し前に伸びるようにしながら、直が先手玉の上部を守っている金を取った。続いて歩をくるりと裏返して進める。日比野棋聖は王でそのと金を取る。
『これで先手玉はもう受けなしですね。後手玉を詰ますしかないです』
「おじちゃん、説明して!」
「棋聖の玉はもう助からない。だから棋聖は、有坂先生に攻めの手番が渡る前に、有坂先生の玉を詰ますしかない。今から棋聖が猛攻を仕掛けてくるから、それを受け切ったら有坂先生が勝つ。だけど、時間がなあ……」
持ち時間は直も日比野棋聖も一時間を切っている。一時間を切ると60~1まで番号が書かれた紙が出て、一分使うごとに記録係が線で消していく。対局室にはそのシュッ、シュッというペンの音だけが響いていた。日比野棋聖の残り時間はあと三十三分。直の残り時間は、あと十二分。
「……つまり、有坂さんは勝てそうなんですか?」
私以上に知識のない頼子ちゃんは、もっとも端的な質問を投げ掛けた。
「わからない。棋聖もだいぶ持ち駒が多いから、後手玉が詰んでもおかしくない。形勢は互角だよ」
解説でも直の玉が詰む手順を探して、あれこれ検討している。が、今のところギリギリ詰まないらしい。
「大丈夫だって!」
私は目を輝かせておじちゃんを見た。
「間違えなければな。だけど桂馬一枚渡れば詰むみたいだよ。受けを間違わず、且つ、桂馬を渡さない手順を確実に、しかも時間がない中で読み切らないと。こんな局面、一手間違えたら、わずかな優勢なんて吹き飛ぶ」
「どうしたらいいの?」
「あとは指運だ」
おじちゃんの声も苦しそうだ。
「『指運』?」
「一分間、棋士はもちろん必死で読むけど、最後の最後は直感とか反射が決めるってこと」
━━━━━直感は重要だよ。蓄積された経験や知識に基づいて、研ぎ澄まされた感覚で感じることなんだから━━━━━
「それって、積み上げてきた経験とか人間性とか全部出るって意味?」
「そうだ」
怖がり過ぎてもダメ。無謀に突っ込んでもダメ。強い気持ちを持って、けれど冷静に。
「俺なら」
「おじちゃんなら?」
「ビビって漏らす!」
「オムツ穿いて!」
優勢の将棋を勝ち切るには何が必要なのだろう。どうか運なんていう漠然としたものではありませんように。直が納得できる対局でありますように。
直は一度離席し、羽織も着直して戻った。まもなく直の方が先に持ち時間を使い切る。
『有坂先生、これより一分将棋でお願いします』
『はーい』
ここからは一分以内に指さなければ、その時点で負けとなる。もう投了まで、トイレに行く暇も、羽織を着る暇もない。
『50秒ー、1、2、3、4、5、6、』
打ち込まれた飛車から、直が玉を逃がした。まだ少し時間のある日比野棋聖は、じっと考えている。
落ち切らない真夏の太陽のせいで気温が下がらない。だけど汗が止まらないのは、長い緊張状態のせいだ。私はベタつく首筋に何度もハンカチをあてる。
直はやや前傾姿勢になり、脳を冷やすように扇子で扇いだ。そして秒読みに追われるように扇子を閉じて、棋聖の歩を取り込んだ。すかさず棋聖がその歩を飛車で取り、直もその飛車の頭に歩を打つ。
「もうやだー。観てられない!」
観ても観なくてもどうせわからないのに、私は手で顔を覆った。それでも淡々とした秒読みの声が、心拍数を上げていく。
『日比野先生、これより一分将棋でお願いします』
『はい』
ざわざわとした熱が対局室の中を満たしていく。駒音と、衣擦れの音と、秒読みの声しかないはずなのに、うるさいほどの熱気だった。日比野棋聖は持ち駒を銀、香車、飛車、金とバンバン打っていき、直は逃げたり駒を打ったりしながらその攻めをかわしている。
『50秒ー、1、2、3、4、5、6、7、』
棋聖の持ち駒はたいぶ減ったはずなのに、駒を取ってはすぐに打ち込んでくる。
『日比野棋聖、さすがに攻めを繋ぐのがうまいです』
直の手番になれば勝てると、おじちゃんは言ったけれど、逃げることに必死で攻めに転じる隙がまったくない。
『50秒ー、1、2、3、4、5、6、7、8、9、』
直は駒を掴む余裕さえなく、中指の先でスライドさせるように玉を逃がしている。わからないはずの社長も頼子ちゃんもブラジルも、息を詰めて画面を見つめる。
「僕でも、これがすごい戦いだってことはわかるよ」
社長の言葉に、おじちゃんは何度もうなずく。
「本当にすげーよ、これ。今年の名局賞だ」
栄誉ある賞なのだろうけど、指の隙間から中継を見ている私には、何の慰めにもならなかった。
「そんなのもらっても、負けちゃったら嬉しくない」
「そりゃそうだ」
「おじちゃん、どうなの? 勝てそう?」
無駄と知りつつ、すがるように問いかけると、おじちゃんも苦しそうに頭を掻きむしる。
「わかんないって! 他の詰み筋があれば負けるし、桂馬渡れば負けるし、間違えれば負ける!」
「『負ける』ばっかりじゃない!」
「将棋ってそういうもんだ!」
勝つって、なんて綱渡りなのだろう。こんなことばっかりしてる直は、本当にどうかしてる。
棋聖が歩を打つ。直が歩で取る。棋聖が歩を打つ。直が玉で取る。棋聖が角で狙う。直が玉を引く。ふたりとも手つきが乱れ、逃がした玉は升目の中で傾いているし、指した弾みで周囲の駒を弾いてしまう。
「盤も駒台もぐちゃぐちゃ……」
駒台や盤上の駒をきれいに並べるのは、相手から見やすいようにするためのマナー。勝負の公正さを保つためのものでもある。それすらできないほどの激戦だった。
『40秒ー』
ギリギリまで考えることなく、次に棋聖が打った銀は、直の玉から少し離れていた。ずっと玉を守ってきた直は、その銀を無視して、ぐちゃぐちゃの駒台の上から歩を一枚掴む。羽織の袖を左手で押さえ、風をまとうようなうつくしい手つきで、その歩を打ち込んだ。
パチン。
その瞬間、空気が変わった。
『この次は桂打ちですね。王手だから逃げて、金打って、逃げて、桂成り……』
さっきまであれこれ検討していた解説者も、ゆったりとした口調になって、今度は直の攻める手順を解説している。そして、指し手はその通りに進行していった。
「……勝った」
駒台の上の駒をきれいに並べ直している直を見て、しばらく黙ったままのおじちゃんが言った。
「でもまだ終わってないよ?」
「いや、勝った。今はもう形作ってるだけだから」
プロの読みというのは当然だけどアマチュアよりずっと複雑で先が見えている。プロが「あ、逆転は無理だ」って思って投了を決めても、ある程度わかりやすい投了図を作るために、わざと数手指すことがあるらしいのだ。
「お前の彼氏は……やっぱりすごいな」
『いやー、すごい終盤戦でした』
『見ごたえありましたね!』
おじちゃんが言うように、解説でももう直が勝ったこととして話を進めている。直の手つきも落ち着いていて、それはまるでゴールに向かっているようなのだ。じっと盤面を見て、しゅるりと手を伸ばし迷いなく駒を掴む。パチン。その音一つ一つが棋聖に刺さって行くようにも感じる。
『30秒ー』
棋聖が成桂を王で取った。直はその頭にさらに金を打ち込む。
『30秒ー』
棋聖の肩が少し落ちたように思えた。
『40秒ー』
日比野棋聖は、駒台と盤上の駒を中指の先でちょんちょんと整える。
『50秒ー、1、2、3、4、』
次の瞬間、棋聖が前屈みになってため息とともに何か言い、直も深く頭を下げる。それから日比野先生は腕組みして宙を見上げ、直はふうっと息を吐いて頭をがしがしと掻いた。
「えっと……」
状況を確認しようと口を開いた瞬間、画面の『有坂行直 八段』の上に赤字で『勝』という字がついた。同時に
『158手で勝ち 棋聖奪取』
とテロップも出る。
「奪取?」
おじちゃんも呆然としたままうなずく。
「勝ったの?」
「勝った」
「棋聖?」
「棋聖だな」
「真織さん、おめでとうございます!!」
頼子ちゃんにお祝いを言われて、ようやく状況が理解できた。
「やったああああああ!!」
おじちゃんが大声を上げて社長に抱きつき、頼子ちゃんも私の手をぎゅうぎゅう握った。ブラジルは笑顔で拍手を贈っている。私は力が抜けてしまい、イスにもたれかかったのだけど、その座面がストンと落ちた。
対局室には記者がなだれ込んできて、フラッシュとバシャバシャというシャッター音でいっぱいになった。
急に人の出入りが激しくなり、相変わらずシャッターは切られているけれど、ふたりは動かない。日比野先生はまだ難しい表情のまま盤面を睨んでいて、直もその空気を受けて黙り込んでいる。日本の伝統芸能に多いように、勝ってもあからさまに喜ばないのがマナーなのだ。
まもなく、その場でインタビューが始まった。
『では、まずは勝たれました有坂先生からお話を伺いたいと思います。棋聖を奪取されました。おめでとうございます』
『ありがとうございます』
『初めてのタイトル獲得となりましたが、今の率直なお気持ちをお聞かせください』
『よかったです。ほっとしました』
直の声は疲労のせいかボソボソと小さく、たくさんのシャッター音に掻き消されそうだった。
『本局を振り返っていかがですか?』
『ずっと難しくて、よくわからなかったです』
さっき掻いたせいで後頭部の髪の毛が跳ねていて、今後ずっと残る写真なのに威厳も何もない。
『改めてシリーズを振り返ってみて、どんなシリーズでしたか?』
『常に先行される形でしたので苦しかったです。最後までずっと、そんな感じでした』
将棋で脳をすり減らしたのかと思うほど、単純な返答だった。日比野先生の方がずっと堂々とした受け答えをしていて、その貫禄はタイトルを奪われて尚変わっていなかった。
『最後に、棋聖として一言お願いします』
『また気を引き締めて、前に進んでいきたいと思います』
『ありがとうございました。ではお二方とも、大盤解説会場の方に移動をお願いします』
番組は解説に切り替わった。
『この金を見て、日比野棋聖の投了となりました。158手の大熱戦でしたね。先生、投了図以下の解説をお願いします』
女流棋士の言葉を受けてプロ棋士が詰みまでの手順を解説している。嬉しいのに喜び損ねたままただ座っていると、
「真織さん、どれがいいですか?」
頼子ちゃんがコンビニのビニール袋を差し出してきた。いつの間にか、頼子ちゃんとブラジルがお酒やお菓子を買ってきてくれたようだ。
「せっかくだからお祝いしましょう! 社長の奢りです」
「私は何もしてないんだけどね」
「オリンピックで誰かが金メダル取ったら、勝手にお祝いするじゃないですか。あれよりは近いですよ」
金メダルよりはずっとマイナーで、生涯知らない人の方が多いようなタイトル。しかも棋聖はタイトルのランクで言えば一番下位に位置している。賞金が多くないからだ。それでもタイトルホルダーの意味は重い。金メダルや名人より価値が低いなんて思わない。
「有坂さん、棋聖獲得おめでとうございます! かんぱーーい!!」
「かんぱーーい!!」
社長に続いてみんなビールやチューハイの缶を高く掲げる。
「歴代の棋聖は大変なメンバーだよ。想像を絶する名誉とプレッシャーなんだろうな。一期でも取ればそれを生涯一人で背負う……重いよ」
自分の肩に乗っかったわけでもないのに、おじちゃんは背中を丸めてイカソーメンをかじった。当の本人は、大盤解説会場でさっきより明るい表情で本局の解説をしている。
一人で背負う覚悟なんてとっくに出来てるって、直は言ってた。やっぱりそれを分け合うことはできないのだ。だけど、私にも違う覚悟が必要だ。明るくて深い、闇によく似たものを抱える人を、それごと愛する覚悟。隣で何もできずに見守る覚悟。頂点を極めても、いずれそこから転げ落ちても、いつも変わらない笑顔で迎える覚悟。「寄り添う」ってそういうことだと思う。
直と日比野先生は対局室に戻って感想戦に入っていた。感想戦というのは、対局後に「あの場面でこの手を指していたらどうしてた?」「その場合はこうしようと思ってた」と検討し合う反省会のこと。棋士は対局中の全ての手を覚えているから、「あの場面」と指定されてもすぐに盤面を戻せる。それは過去に指した対局もそうだし、他人の棋譜も膨大な量が頭に入っているらしい。
ものすごい早さでパチパチパチパチと盤面を戻し、直は額に手を当てて困ったような表情をしながら聞かれたことに答え、日比野先生はうんうん頷きながら駒を動かしている。
聞いてもわからない私たちは、その様子を横目で見つつ、せっせと缶を空けていった。お酒が足りなくて、ブラジルが二度目のコンビニに走ったほど。
「風見、甘い酒飲みながらよくチョコレートなんか食えるな」
「これ、ファジーネーブルですから。フルーツとチョコレートが相性いいっていうのは常識ですよ」
「そうそう僕も風見さんに賛成。ベンちゃん(おじちゃん)はさ、ラーメンをおかずにご飯を食べるって考えるから違和感あるんだよ。ラーメンスープの中にライスを入れるって考えると自然でしょ?」
「キヨちゃん(社長)、何の話してるの?」
「なにこれ! ココナッツミルクサワー!? すごいセンスだね、ブラジル……」
ココナッツミルクサワーの意外にも高いアルコール度数に顔をしかめていると、ポケットで携帯が震えた。
『かっあよ』
たった一言、直からだった。まさかこのタイミングで報告が来るとは思っていなくて驚いた。感想戦を終えた直は、今頃記者会見の準備をしているはずで、ほとんど暇なんてなかったと思う。携帯だって預けているから、簡単に触ることもできないはず。これまでの四局でも、連絡は深夜だったのに。直はこの大事なときに、『真織に誰より最初に報告する』って約束を守ってくれたのだ。
きっと本当に全然余裕がなくて、漢字変換もできなくて、急いで打ったから字も間違って、それでも直す暇さえなくて。『勝ったよ』それだけ送ることがどれほどギリギリだったのか、わかるメッセージだった。
返信に悩んでいると、記者会見が始まった。主催新聞社から花束の贈呈があり、さっきのインタビューと同じような質問が続いた。
『四度目のタイトル挑戦での初戴冠ということですが、これまでとの違いは何かあったのでしょうか?』
『うーーーん……単純に棋力が上がってきたということと、精神的にもいろいろ落ち着いたというか』
『精神的に落ち着いた、というのは?』
『将棋は好きで始めたことですし、好きでずっと続けてきたことなので、これからもそうやって指して行こう、って』
幾分疲れは感じられるものの、直の声はいつものように落ち着いていて、素直な気持ちが伝わってくる。
『棋聖を取られて、最初に何がしたいですか?』
『両親と師匠に、この後電話したいと思います』
『師匠の奥沼七段は、先ほど『お祝いだから飲みに行ってくる』とコメントされたそうです』
『あはは! じゃあ、掛けても出てもらえないかもしれないですね』
すでに報告をもらった私は、なんだか申し訳ないような恥ずかしいような気持ちになって、『かっあよ』を見つめた。
『これまで心が折れそうなときもあったと思うのですが、そのあたりのお気持ちはどうだったのか、お聞かせ願えますか?』
一瞬考える間を取って、それでも直はこれまで同様、真っ直ぐに答えた。
『苦しかったです。焦りましたし、もう自分にはタイトルは取れないのかなって』
『それはいつ頃からですか?』
『三度目のタイトル挑戦に失敗してからなので、えーっと、三年前くらいです。そこから苦しかったです。今日までずっと』
率直な言葉と炭酸が口内炎にしみた。
「口内炎痛い……。しみる」
じわじわ涙がこみ上げてきて、抑えることは不可能だった。やっと追いついてきた感情が目の奥から溢れ出し、目元にあてた手の甲をスルスルと伝う。
「わ、私、ティッシュ取ってきます」
頼子ちゃんが鼻をすすり、顔を背けて席を立つ。
「ビールってしみるよね」
と社長も目を潤ませていた。
「キヨちゃんも口内炎?」
「いや、僕はポテトチップが目に入っちゃって。ベンちゃん(おじちゃん)こそどうしたの?」
「咳込んだらビールが目から出た」
ブラジルだけはいつものようにニコニコとそんなみんなを見守っていた。
悩んだ末、メッセージはごく短いものにした。
『知ってる。おめでとう』
万感の想いを込めて、そう送った。
『まだまだ直進
棋聖 有坂行直』
と書かれた色紙を持って、ぎこちなくフォトセッションに応じる直を見て、これを読むのは一体どのくらい後になるのだろうと想像しながら。
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