△6手 along
私は入社一週間で諦めたけど、頼子ちゃんは体力気力ともによく続く。
「なんでまた拾って来たんですか!」
「鈴本さんのイス壊れてるでしょ? ちょうどいいかなって思ってさ」
確かに私のイスは壊れている。座面の高さを調節するネジが甘くなっていて、ストンと一番低い位置に落ちることがあるのだ。一番下まで下がると机との高さが合わなくて、ひどく疲れる。座る瞬間さえ気を使えばなんとかなるので、騙し騙し使っているが、ついつい忘れて日に一度はドスッと体重を掛けてしまい、ストンと落ちる仕末だった。
「全然ちょうどよくないです! これソファーじゃないですか!」
「仕事の疲れが癒されるでしょ?」
社長は自慢気に黒ずんだ若草色の背もたれを撫でるけれど、さすがに事務机にソファーで仕事するのは難しい。壊れたイスから腰を上げることなく、少し離れたところにいる社長に呼び掛けた。
「社長、私を気遣ってくれるお気持ちはありがたく受け取りますが、懸案である高さが全っ然足りてませーん」
「せっかく持ってきたのに……」
しょぼくれた社長の背中に頼子ちゃんがトドメを刺しにかかる。
「昔と今は違うんです! ゴミだからって勝手に持ってくるのは犯罪です!」
“犯罪”という単語にひるんだ社長はとうとう言い返せなくなり、しぶしぶソファーに手をかける。すると、ブラジルがサッと反対側に回って手伝った。ふたりが事務所からいなくなって、一気に室内が広くなる。
そんなやりとりを半分目を閉じて眺めていたおじちゃんと私も、ようやく自分の昼ご飯に手をつけ始める……っ! 油断したらイスが下がった。
「ところで鈴本、最近有坂先生とうまく行ってないのか?」
直とはあの中華料理店以来、ひと月以上全く連絡を取っていない。毎日来ていた他愛ないメッセージも、パタリと途絶えている。別れたいわけではないのに、どうしたらいいのかわからない。
将棋がわからないことに変わりはなく、「わからないけどやっぱり彼女はやめませーん」と会いに行っていいものなのか躊躇われて。何より、直の大事なものを否定する形になり、すっかり嫌われてしまったんじゃないかと怖いのだ。会いに行って別の女性がいたら、「何しに来たの?」って冷たく言われたら、想像しただけで視界が潤む。
「よくわかったね」
「あれだけ将棋将棋って騒いでたのに、全然話題にしなくなったからな。有坂先生、この前は勝ったみたいだよ」
「うん。よかった」
食欲がなくて適当に買ったカップ春雨にお湯を注ぐ。
「直には私なんて必要ないんだよ。ひとりで何でも背負えるんだから」
「むしろ彼女がいないと生きていけない男の人なんて、私は嫌ですけどね」
社長とソファーを追い出してスッキリした頼子ちゃんも、ポテトサラダの彩り鮮やかな高女子力弁当を広げた。
「それはそうだけど、でも相手の世界を全く理解できないなんて情けなくない? お互い助け合って生きたいじゃない」
最初から棋士だって知っていたら、将棋込みで彼を好きになっていたら、違っていたのかもしれない。だけど、もう戻れないところまで深く好きになって、それで彼の根幹を為す部分をまるで知らなかったなんて、とてもショックだった。私は何を見て好きになったのかなって、私の知っている『有坂行直』って何だったのかなって。
喜びは二倍に、悲しみは半分に。それが理想だと思うのに、喜びも悲しみも理解できないなら分かち合えない。そして分かち合えないものが、この世には確かに存在するのだ。
「理解できなくても一緒にいられる真織さんだから、有坂さんはよかったんじゃないですか?」
「そうかな? もっとお互いを高め合っていける関係の方がよくない? 上を目指す人なんだから」
げんなりした顔で頼子ちゃんは目を細める。
「でもそういう人たちって、結局『お互いよりよい関係になるために』とか言って別れそう」
「……そうかも」
「高め合ったら別れちゃうと思います」
言い切って、ポップなアイスクリームみたいにかわいいポテトサラダを、ひどく無造作に口に放り込んだ。それを聞いたおじちゃんも深々とうなずいている。
「プロ棋士がみんな女流棋士と結婚してるかっていうと、むしろ少ないと思うぞ。棋士の夫婦でも、わかってくれる良さもあれば、わかってるからこそ面倒な部分もあるって言うし。高め合ったらすり減るんじゃないかな」
「真織さん、前の彼氏さんの仕事はわかってたんですか?」
よくかき混ぜてください、と書いてあるので、カップ春雨をひたすらかき混ぜながら考えた。
「……なんかの営業だったよ。食品関係」
「ほら、その程度の理解で十分なんですよ。むしろ将棋してるって方がわかりやすいじゃないですか。たかだか将棋くらい、どーんと受け入れてください。好きなら振られるまで付き合えばいいじゃないですか」
「そこが一番自信ない。もう振られたのかも」
私から連絡していないことは置いておくとして、直から連絡が来ない理由は、そういうことではないかと思い始めている。
「それはないと思う」
当事者でもないおじちゃんが自信たっぷりに言い切った。
「なんでおじちゃんにわかるの?」
「実はさ、日曜日に将棋イベントがあって行ってきたんだ。有坂先生も来ててサインもらってきた」
棋士のサインは、毛筆で『
「『うちの鈴本がお世話になってます』って挨拶したら『ああ、“おじちゃん”ですね!』って言って、二枚書いてくれたんだ。それがこれ」
差し出された色紙を見て、声が出なくなった。ひとつはよく揮毫しているらしい『直進』。そしてもうひとつ……。
「ニッコリ笑って『お願いします』って渡されて、こっちが真っ赤になっちゃった」
色紙にはお手本みたいにきれいな字で、
『真っ直ぐ 共に 七段 有坂行直』
と書いてあった。『直進』に込められた力強さとは違う、染み入るようなやさしさが感じられる文字。
「別れるならともかく、仲直りするなら今日中に決着つけてあげるべきだよ。明日有坂先生は順位戦だから。昇級もかかってるから絶対負けられない。彼らにとって対局がいかに大事か少しはわかってきたんだろ?」
「……私とのことなんて、直の将棋に影響ないでしょ」
「ある。鈴本の応援があれば勝てる、なんてロマンチックな話じゃなくて、余計な負担はかけるなってこと。実力が拮抗してるから、少しのことで結果が変わることがあるんだよ。人生懸けて対局してる人の、脚を引っ張るようなことするべきじゃない」
「…………」
「ちゃんと仲を取り持ったんだから、一回くらい指導してって伝えて」
『真っ直ぐ 共に』が私の手に押しつけられた。文字の通り真っ直ぐに、墨と紙の香りが立ち上ぼりそうなほど鮮やかに心に迫る。
「私と直の間に『っ』が入り込んでる」
文句でもつけないと泣き出しそうでそう言ったのに、きっと隠し切れていなかった。
「ふう~、ちょうど回収業者の人来てて渡してきたよー」
タイミングよく社長とブラジルが戻ってきて、湿っぽい空気が一掃された。
すると私の手にある色紙を覗き込んだブラジルが、ジェスチャーで「何て書いてあるのか?」と聞いてくる。私と頼子ちゃんは低い英語力を競うように頭を突き合わせた。
「Let's go straight……together……?」
頼子ちゃんが自信なさそうに私に確認する。私は直がこの色紙に込めた意味を考えて、辞書を開いた。「straight」を調べてみると「Go straight along this street.(この道に沿って真っ直ぐ行ってください)」という例文が載っていた。「along」と「together」は基本的には同じような意味だけど、ただ一緒にいるだけの「together」と違って「along」には「~に沿って、(一団としてまとまって)一緒に」という意味合いが含まれるという。
「Come straight along ……with me. かな。通じる?」
直の目指す高みは直線ではないだろうし、私は同じ道を進めるわけでもない。だけど心だけは真っ直ぐ上を目指して。共に寄り添って。だから意味はきっと「真っ直ぐ俺に寄り添って来て」。
ブラジルはいつもの笑顔で何度も頷いてくれた。
胸のつかえが下りたら空腹を感じて、汁気のなくなったカップ春雨はあっという間になくなった。
「お昼ご飯食べ足りないから、帰ろうかな」
ボソッとつぶやいたら、おじちゃんが手で追い払う素振りをする。
「帰れ帰れ。午後の検品と納品処理は俺が代わる。なあ、ブラジル」
わかっているのかいないのか、ブラジルもニコニコ笑った。
「他に急ぎの仕事入ったら、私やっておきますよ」
頼子ちゃんは私の手から春雨の空カップを取り去り、バッグを渡してくれる。
「頼子ちゃん、おじちゃん、ブラジル、みんなありがとう」
「指導対局な!」
「わかった。頼んでみる」
ビニール袋に色紙を入れ、事務所のドアを開けると、冷え込んだ空気が頬を打つ。けれど、その冷え込みのせいかいつもより空気は澄んでいて、むしろ心地よかった。
「えー、俺はまだいいよって言ってないのに……」
社長の言葉は、閉まったドアの向こう側から聞こえた。
13:24
『最初に会った駅のカフェにいます。会ってもらえませんか?』
14:56
『やっぱり無理しなくていいです! でも話したいことがあるので、電話しても構いませんか?』
17:09
『やっぱり電話も無理しなくていいです! 急ぎじゃないし、都合のいい時で大丈夫です』
明日の対局は東京の将棋会館で行われるから、直は自宅にいると思う。そう思って会社を早退した勢いで呼び出したけれど、明日の準備やら、精神統一やら、祈祷やら、お百度参りやらあるかもしれないと思い直して、電話に変えた。それすら負担になる危険性に気づいて、もう一度訂正のメッセージを送り、何杯目かのコーヒーにミルクを落とす。くるくると描かれる渦が壊れないように、そっと持ち上げて、そのままひと口。混ざり切っていないこの状態が一番好き。一杯のコーヒーでたったひと口の贅沢だ。
これを飲み終わっても直から連絡が来なければ出直そう。こんなときの気遣い方さえわからなくて、やっぱり戸惑いはある。でも諦めない。まだ私は自分の気持ちを一度も伝えていないのだから、日を改めてもそれだけはちゃんと言いたい。
窓の外は帰宅を急ぐ人で溢れている。午後早退して、そのままこのコーヒーショップに入って数時間。三人いる店員さんも、二人交代した。定期的に注文をしていても迷惑な客に違いない。
あれから半年近く経ったけれど、このカフェに入るのは、あの日以来初めて。半年前の私は絶望すら実感できないほどに混乱していて、思い返してみてもおかしな決断をしたものだと思う。それが今では、運命なんてものがあるのなら、直と出会うために私は武と別れたんじゃないかって思うほど、すべての偶然を受け入れている。
あの時、駅という人通りの多い場所で泣き出した私に、直が理由を問うことはついになかった。私が恋人と別れたことも、直との付き合いを承諾した意味も、彼は今も知らないはずだ。それでもただ側にいてくれた。私にどんな裏があろうと、過去があろうと。だから私も、ただ側にいたいと思う。直の見ている世界は難しくて、同じものは見えないし、同じ空気を感じることもできないけれど。
すっかりミルクが混ざり切ったふた口目のコーヒーを口に含んだ次の瞬間、吹き出すのを堪えた。
「マオ~、久しぶり! ちょうど連絡しようかなって思ってたんだ」
直との記憶の片隅をかすめた人物が、突然視界に乱入してきた。理性が勝ってなんとか堪えたせいで、コーヒーの一部は胃ではなく鼻の奥に入ってしまった。最後に会ったときそうだったように、武の発言や行動は私の思考と動きを狂わせる。
武は私が誰かと待ち合わせしているなんて思ってもいないようで、自分のコーヒーを持って当然のように向かい側に座った。
「それでさ、やっぱりマオと結婚するのがいいかなって思って、そろそろ迎えに行くつもりだった。ここで会えてよかったよ」
あまりに自然だったから、直とのアレコレは全部妄想で、別れたあの日のまま時間は経っていないのか、と一瞬錯覚を起こしそうになった。けれど、目の前にあるのがアイスカフェラテではなくホットコーヒーだったことで正気を保つ。
「武、別の人と付き合うって言ってなかったっけ?」
「付き合ってみたよ。三人くらい。でもみんな長所短所いろいろあってしっくり来なくて。総合力ではマオが一番だった」
あれから半年で三人……。私はたった一人ともうまく付き合えてないのにすごいな、とむしろ感心する気持ちで聞いていた。人生初の総合一位。それなのに、なぜこんなに屈辱的な気持ちになるのだろう。
「だからマオ、結婚しよう」
時間だけ半年戻して、同じ場所で同じ言葉を言われたのなら、私は笑顔で承諾していたことだろう。今頃はすでに名字も変わっていたかもしれない。タイミングとは本当に恐ろしい。
「私は武とは結婚しない。他に好きな人がいるの」
「は? ああ、他の男とお試しで付き合えって俺が言ったからでしょ? もういいよ、それ」
最後に会ったとき同様、武に私の気持ちは届かなかった。
「違う! 本当に他に好きな人がいるの。武とヨリを戻すつもりない!」
強い口調で言い切ると、武は心から弱り切ったように眉を下げる。私はこの表情に弱くて、結果折れることが多かった。もちろん、それは昔の話で、今は何も感じない。
「そんなこと言われても困るよ。あれから見聞を広めて、やっぱりマオが一番好きだなって思ったのに」
誰よりも一番君が好きだよ、と言われているのに、なぜだかちっとも嬉しくない。
なんとか振り切る言葉を言おうと息を吸ったのとほぼ同時に、私と武の間にゴトンッとコーヒーのカップが置かれた。深みのある黒い水面が大きく波打って、テーブルにこぼれるほどの勢いだった。
「へえ、“一番”ってことは、真織以外に“二番”や“三番”がいるってことでしょう?」
直が武を見据えて立っていた。表情も声もいつもの直なのに、見たことないほど強い圧力を発している。暖房の効いているはずの店内で、ぶわっと鳥肌が立った。もしかしたら盤に向かう直は、こんな空気を放っているのかもしれない。まともに対峙したら吹き飛びそう。
「……あんた、誰?」
直より身長や体つきだけなら大きい武でさえ、その圧力にたじろいでいる。薪割りの斧を振り下ろす要領で、直は更に強めた圧力とともに言葉を落とした。
「真織の恋人です」
「だから、それはただのお試しで━━━━━」
「試した結果、返す予定はありません」
私が持った違和感の正体を、直は明確に示してくれた。誰かと比べられて、あっちより君の方が好きと言われても、比べられた時点で何かが違ってしまっている。
「俺は真織しか知らない狭い世界で構わない。あなたはどうぞ、広い世界に別の“一番”を探してください」
幼い頃にたくさんの選択肢を捨てた人の声だと思った。捨てたつもりはないのかもしれない。ただ一つを選んだ人。それしか知らなかった人。
『将棋しか知らない狭い世界で構わない』
私にはそう聞こえていた。
「行こう、真織」
武がすがるような目を向けてきたけれど、直を追うのに必死で、挨拶もせずに席を立った。
「あ、」
歩き出した直は、大股で武の元へ戻る。
「それ全然口付けてないので、よかったらどうぞ。ごゆっくり」
呆然とする武に直は笑顔で汚れたカップを押しつけ、今度こそ店を出た。
空の底に日の名残はあるものの、吐き出す息の白ささえ見えないほど、外は暗くなっていた。
「話って何?」
勢いよく歩いて駅を出た直は、人の流れから外れる位置で立ち止まって、ようやく私を見た。武と向き合ったときのような圧力はなく、どこか不安気に私を見下ろす。
「さっきの人は元彼で今は別に関係なくて……」
「うん。聞いてた」
「直のこと待ってたら偶然会っちゃって、それで……あんなことに」
「うん。わかってる。俺を呼び出したのはそのことじゃないでしょ?」
コンビニから漏れる明かりを背負って、直の表情は険しく見える。たったひと言伝えたいと思っていたはずなのに、直を目の前にするといろいろな感情があふれて、うまく言葉を繋ぎ合わせることができない。
「ごめんなさい」
今の気持ちに一番近い言葉を選んだら、謝罪になった。
「……何に対して謝ってるの?」
「直の気持ちを疑ってごめんなさい。連絡しなくてごめんなさい」
思えば、いつも直は精一杯の愛情を示してくれていたのに、私は勝手に妄想を膨らませて、勝手に劣等感を抱えて、距離を取ろうとした。でも、私が向き合わなければならなかったのは、棋譜なんかではなく、直の表情や言葉やたくさんの幸せな時間だったのだ。
「直が好きなの。別れたくない」
ふうーっと深いため息が、下げている私の頭の上に降りかかる。
「許さない」
厳しい言葉とは裏腹に、夜を明るく照らすような声だった。
「だから今夜は一晩中謝り倒してもらおうかな」
━━━━━は?
謝罪していたことも忘れて顔を上げると、それはそれは楽しそうな直にバッグを奪われた。そしてそのまま自宅の方向へスタスタと歩く。私のバッグを人質にして。
「すっごく楽しみだなあ」
バッグごと持って行かれると、電車にさえ乗れない。家の鍵だって、中に入ってる一本だけなのだ。アスファルトを擦る音さえ弾む直のスニーカーを、必死に追いかける。
「明日対局でしょう? 順位戦はすごく大切だから、前日は心穏やかにしなきゃいけないって、おじちゃんが」
「人それぞれだよ。数日引きこもる人もいるし、前日でも仕事する人もいるし」
「直は?」
「俺は常に“普通”を心掛けてる」
対局に臨む姿勢も当然個人差があって、寄せては返す波の音さえ気になる人もいれば、人の怒鳴り声のただ中でも平気な人もいるらしい。直は極端に緊張しないように、なるべくいつも通りの生活を心掛けているそうだ。
「だったら、いつも通り“普通”に過ごしたら?」
「今我慢する方が絶対対局に影響する。ずーっとモヤモヤしてるよりなら寝不足の方がマシ」
「寝不足……」
「明日は大事な対局だから、ちゃんと朝起こしてね」
信号待ちで一度立ち止まると、私が並ぶのを待って、歩くスピードを少し緩めてくれた。
「真織を見た第一感で『きっとこの人を好きになるだろうな』って思ったんだ」
「なーんだ。ただの直感だったの」
「直感は重要だよ。蓄積された経験や知識に基づいて、研ぎ澄まされた感覚で感じることなんだから」
冬枯れの街路樹はイチョウだろうかカエデだろうか。眠るようなその枝の間を、半分の月が渡っていく。
「『棋士は一秒間で数百手読む』なんて言われることもあるけど、あれは数字上の話でね、実際は局面を見た瞬間にほとんどの手は捨てるんだ。二つか三つくらいに絞って考える。つまり、直感で何を捨てて何を選ぶのか、考える以前のその選択が命運を分けることがある」
直は突然立ち止まって、来た道を振り返った。見つめる先には、駅がまだ小さく見える。その明かりを見つめながら、突然話を変えた。
「一人暮らしを始めるときは、この駅の近くにしようって決めてた」
通りに並ぶのは、チェーンの牛丼屋さんやお弁当屋さん、コンビニ、オフィスビル。これといった特徴のない街並みに、私は首をかしげた。将棋会館のある千駄ヶ谷までは乗り換えなしで行けるけれど、やや遠い。私も、武の実家がこの近くなので、学生時代は頻繁に来たけれど、彼が家を出てからはめったに来なくなった。住むのに不便はないとは言え、わざわざ選ぶ理由がすぐには思い浮かばない、そんな駅だ。
「俺、四段昇段がかかった対局に向かう途中、具合悪くなってこの駅で降りたんだ。それで座り込んでぐったりしてたら、大学生くらいのお姉さんが『これどうぞ』って水を買ってくれた」
奨励会の対局は一日に二局指す。全部で十八戦するのだけど、直は11勝3敗から、パタパタと連敗したらしい。11勝5敗で迎えた最終日。勝たなければ昇段は不可能だった。
直は当時高校二年生。ちょうどプロ棋士七人を破って注目された時期で、プレッシャーもあったのかもしれない。
「そのお姉さんに格好つけたくて『プロ棋士になるんです』って言ったのに、きょとんとされてさ、『プロ? 将棋にそんなのあるんだ。私なんてドミノくらいしかできないよ』って」
言い終わらないうちに、直はクスクスと思い出し笑いをしている。
「もう一度その人に会えたら、『プロになりました』って言おうと思ってたのに、実際はなかなか言えなかった」
直は改まった態度で私の正面に立った。
「あのときはお世話になりました。おかげで無事、将棋のプロ棋士になれました」
深く頭を下げた直の髪は、夜に溶け込むように黒く、その上を車のライトが通り過ぎていく。
「…………………は? 私?」
「あははははは! 予想通り、全っ然覚えてないんだね」
「うそうそ! 本当に私? 人違いじゃない?」
「赤くて、金色の蝶々のついたお財布使ってなかった?」
「……使ってた」
「携帯に変な人面魚のストラップがついてて、迎えに来た彼氏から『マオ』って呼ばれて━━━━━」
「私です」
昔お気に入りだったお財布と、友達からもらったストラップ。それは確かに私を示しているのに、頭を抱えて考えても、はっきりと思い出せない。
ふたたび歩き出した直は、目を細めて半月を見上げる。
「十年前の直感は、やっぱり間違ってなかった」
直が昇段できたのは紛れもなく直の実力で、私が多少関わっていたとしても、その事実が揺らぐものではない。だけど、それで直が私に目を向けてくれたのなら、たくさんの偶然と、十年前の気まぐれに感謝したい。
「最初から言ってくれればよかったのに」
直は困ったように首を振る。
「だって、真織が俺を好きじゃないってわかってたから。好きでもない男に『十年前から気になってた』って言われたら、絶対気持ち悪かったと思うよ」
「それで、私と少し距離を持ってたの?」
「無理に迫って嫌われたくないもん。十年かかったんだから、あと一年くらいは待ってみようと思ってた」
最初から遠慮なく触れられていたら、こんな風に心を開いていなかったかもしれない。何か裏があるに違いないと、ずいぶん疑ったから。今は、直がくれたすべての言葉を、素直に信じられる。
「ごめんなさい。私、いろいろ勘違いしてた」
「俺も、連絡しなくてごめん。次に会うときは振られるんじゃないかと思ってて。だからさっき謝られてびっくりしたー」
私の持つビニール袋からは『真っ直ぐ 共に』が透けて見えている。
「あのときは自分を拒絶されたようで悲しかったけど、真織なりに将棋と向き合ってくれたんだよね。ありがとう」
直の隣を歩く私のヒールの音も、軽やかに弾んでいた。
蹴飛ばすように靴を脱いだ直は、私を置いてリビングに走る。
「ごめん。明日の準備してて、真織からの連絡に気づくのも遅れちゃってさ。慌てて出たから片付けてる暇なかったんだ」
靴を揃えて後を追った私は、その惨状に笑みをもらした。直が座っていたと思われる場所を中心に、パソコンとタブレット、ティッシュ箱、マグカップやペットボトルが円を描いている。カップラーメンの空やお菓子の空き箱などのゴミも散乱していて、ついさっきまでそこに座る直が、うんうん悩んでいる姿が目に浮かぶ。私も一緒になってゴミを捨て、洗い物をシンクに運びながら、直の本当の日常を垣間見たような気がしていた。
「ごめん。結局邪魔しちゃったね」
「いや、前日に勉強はしないようにしてるんだけど、ちょっと気になったことがあって。終わらせないと終わらないものだから、いいんだ」
直は拾い上げたクッションを抱き締めて、深く息を吐く。
「真織が帰ってきてくれて、そっちの方が助かる」
私を見つめる目の中で、蛍光灯の明かりが揺れている。その目と、腕に抱かれるクッションから視線を逸らすと、並べられたままの駒が見えた。
「そういえば、直の使ってるこの駒っていくらくらいなの?」
話題を変えるのに必死な私の口からは、最も下世話な質問が飛び出した。
「駒の値段?」
「うん。高い駒をドミノに使うなっておじちゃんに怒られた」
「『将棋倒し』って言葉があるんだから、別に構わないと思うけど」
無造作にソファーに戻されたクッションに安心して、将棋盤の前に座る。
「おじちゃんの宝物でも直のよりは安いんだって」
「うーん、子どものときから使ってたやつは安いけど、一番高いのはまあまあかな。こだわって集めてる人の物に比べれば全然だよ。俺は売店の店長に売り付けられただけだから」
将棋会館には書籍を始め様々なグッズを販売している店があって、当然盤駒も扱っている。そこの店長が商魂逞しい人で『上達したければ高い駒を買うのが一番』とか『将棋で受けた恩(お金)は将棋(会館)に返すべき』とか、人によって戦法を変えつつ売るのだそうだ。
「で、いくらなの?」
「答えると嫌味になりそうだから言わない」
嫌味になるほどの値段……。顔はひきつりつつ、興味はいや増す。
「わ、私のお給料より高い?」
「それは……うん」
「ボーナスより?」
「どのくらいボーナス貰ってるか知らないけど……多分」
やっぱり……ドミノに使うようなものではなかった。
今さらながら顔をこわばらせる私に、直は事も無げに言う。
「駒はどんどん使った方がいいよ」
「使い方ってあるじゃない!」
「いいんだよ。楽しかったんだから」
つるりと滑らかな表面には、力強い文字が光っている。途端に指紋をつけるのすら怖くなって、持たずに“歩兵”を指さした。
「これ一枚で何回食事できるんだろう」
「一枚だけあったって使えないんだから、価値ないんじゃないかな」
「『有坂行直愛用の駒』ってメモ書きつけても?」
「価値が上がる理由にはならないね。俺、今のところ無冠だから」
直の駒はやわらかく明るいクリーム色で木目もほとんどない。駒は木目の入り方で人気が左右されるそうで、価値もかなり変わるらしい。おじちゃん自慢の駒にも木目があり、もっと重厚感があった。
「木目もないし淡白な感じの駒なのに、どうして高いの?」
「木目が入ってないこれも、棋士の間では人気なんだよ」
「なんで?」
「見やすいから」
確かにとても見やすい。格調は高いけれど、デザインとしてはプラスチック駒にとても近いものだった。高かろうが安かろうが、使いやすさ重視で駒を選ぶところが、とても直らしいと思った。これまで私が見てきた直も、棋士の有坂行直も、間違いなく同じ人だ。
そうっと駒を持ち上げると、直が使っていると思うせいなのか、ほのかな体温を感じるようだった。そんな私の急激な変化に苦笑いしながら、直はスッと駒を持ち上げてパチンと盤に置いた。
ああ、やっぱりいい音。
失礼して真似してみるけど、
ベチッ!
駒や盤の問題ではなく、扱う人間の問題だったことが証明された。
「駒の持ち方なんて知ってたの?」
私の手つきの変化に、直は目を見開いた。勉強の成果を示せて、私も貧相な胸を張る。
「駒の動かし方もわかるよ」
「へえ~、すごい!」
「えへへ、これで直と対局できる? どんな感じなのかな?」
直は手で口元を覆って吹き出すのを堪えているけれど、声が震えていた。
「……耳掻き一本で軍隊に突っ込む感じじゃないかな」
「バカなこと言ったって、よーくわかった!」
「ごめん、ごめん! でも動かし方わかっただけじゃ対局なんてできないよ。少なくとも詰め方くらいは知ってもらわないとね」
“詰める”というのは玉の逃げ場を奪うことなのだけど、今の私では自爆するだけらしい。
直はパチン、パチンときれいな音をさせながら駒を並べていく。私の方にはずらりと全部。自分の方には王将だけ。
「現状、これでも十分に勝てる」
目が合った瞬間、バンッて大きな音がしたかと思った。将棋盤を挟んで向き合った直は、それくらい強い存在感をぶつけてきた。存在感が武器になるということを、私は身をもって実感した。私たちの間にはきっちり将棋盤ひとつ分の距離があって、立派な盤が校長先生のように睨みを効かせているにも関わらず、私はまるで壁に押しつけられているかのように身動きができない。髪の毛一本一本、肌という肌、すべてに直の気配がまとわりついて逃げ場がない。
「……ちょっと、初心者相手にそんな圧力掛けないでよ」
「ドキドキする?」
「ドキドキするよ!」
直はいつものようにニコリと笑ったけど圧力は緩めず、そのままスーッと将棋盤と駒台を脇に移動させる。
「じゃあ、そのままドキドキしてて」
そう言って、ひと息に距離を詰めてきた。反射的に後ずさってもすぐに逃げ場はなくなって、本当に壁に押しつけられる。
「お、王手とか言わないでよ」
直は思い切り眉間に皺を寄せた。
「そんな恥ずかしいこと言わないよ」
「耳掻き一本の相手なんて楽勝だったでしょう?」
「どこが? 将棋以外は普通以下だよ、俺」
「だってじっくり追い詰めて直の作戦勝ちじゃない。さすがプロ棋士だね」
「下心がないとは言わないけど、作戦なんて立てたことない。真織の指し手なんて読んでる余裕全然ないもん」
「だけどね━━━━━」
「あのね、いい加減黙ってくれない?」
「無理! だってドキドキするんだもん!」
嬉しそうに笑う直に見惚れた一瞬を逃さず、直の指先が私の唇に触れた。駒に触れるときにはあんなに迷いないのに、今は恐々と、まるでココアの薄い膜をそっと撫でるような手つきだった。
「もう、俺が触っても大丈夫?」
私は直のその手を取って、自分の頬へしっかりと当てた。
「……どうぞ。存分に」
直の髪の毛は、思っていたよりもやわらかかった。頬を寄せられるたび、ほんの少しだけ髭の感触がする。そうして繰り返されるキスは、ただの熱だった。
直にまつわるひとつひとつが、空っぽだった身体に一度に入り込んできて、シーツの肌触りも、枕のやわらかさも、何もわからなかった。この唇は、明日には腫れてしまっていると思う。
人肌という概念が吹き飛ぶ熱さに触れたあとでは、暖房の効いた暖かい空気でさえ涼しく感じて、深く布団をかぶる。
「ごめん。明日対局なのに疲れさせちゃった」
「いや、むしろよく眠れそう」
「ちゃんと将棋できるかな?」
「大丈夫。骨折したって、腕一本動けば指せるんだから」
「でも……」
「大丈夫、」
直はやさしく笑って目の色合いを深め、そのまままぶたを下ろす。
「大丈夫。勝てばいいんだから……」
使い込まれた枕に、声の半分は吸い込まれていった。私はシーツの皺と皺の間に顔をうずめる。そして寝息が規則的なものに変わったのを見届けると、巻きついた直の腕をほどいて、そっと寝返りを打った。
身体を休めるためには、帰ってあげた方がいいとわかっていた。だけど、寒さを言い訳にして、ぐずぐずとここにいる。
「ごめん。頑張ってね」
左手だけ直の右手に触れて、祈るように眠りについた。
* * *
昼休み。近所を散歩する感覚でやってきた直を、おじちゃんは下にも置かないもてなしで迎えた。
「有坂先生、いらしてくださってありがとうございます! それから、昇級昇段おめでとうございます!」
指導対局のことを直にお願いしてみたら、「会社に行ってもいいの? 行く行く!」とふたつ返事で了承したのだ。
朝からせっせと片付けた事務所内を、おじちゃんがブルーマウンテンブレンドとショートケーキ(直の分だけ)をトレイに乗せて、うやうやしく運ぶ。普段、コーヒーは粉で生えてくるものだ、と言わんばかりなので、おじちゃんがコーヒードリップを知っていて驚いた。
「ありがとうございまーす。いただきまーす」
その希少価値も知らず、直は遠慮なくコーヒーに口をつけた。そして私の前に広げられている将棋盤を覗き込むと、耳元でそっと囁く。
「もう投了?」
直接耳に吹き込まれた体温にゾクッとして身体が跳ねると、イスがストンと落ちた。
「ひゃっ!」
内容には色気の爪の垢も入っていないのに、このザマ……。
「え! このイス壊れてるの?」
「そう。前から。だから驚かせないで」
イスを直して、そろりと座り直す。
「もうダメ。投了する」
対局と呼ぶにもはばかられる、おじちゃんと私の残した残骸を見下ろし、直は「確かにひどいな」と苦笑いを浮かべた。
「でも投了の必要はないよ。将棋は飛車取られても負けじゃないから」
私はふてくされ顔でショートケーキのイチゴを奪い、乱暴に咀嚼する。
「だって難しくてわからないんだもん。駒の動かし方はわかってても、そこから先どう指したらいいのか見当もつかない」
「中盤の難しさは永遠のテーマだからね」
直は私を壊れたイスから追い払い、そうっと座ってからパチン、と銀を進めた。
「投了はしません」
私相手だと退屈そうにしていたおじちゃんも、にわかに緊張した面持ちで姿勢を正す。
「よろしくお願いします!」
気合いのあらわれなのか、パシッ、パシッ、と力強く指すおじちゃんに対して、直はただ駒を置いただけのようなやさしい手つきだった。肩から指先まで、すうっと伸びたその姿勢は舞のようにさえ見える。
寝起きが悪く「遅刻した場合は~、その遅れた時間×3が~、自分の持ち時間から引かれて~」なんて、枕にしがみついてブツブツ言ってたあの人と、見た目には大差ないのに、頭は回転しているらしい。おじちゃんが悩んで悩んで指しても、直はショートケーキを食べる合間にちょこんと指すだけだった。
「……負けました」
それでも三十分と経たず、おじちゃんの頭は盤に沈んだ。
「ありがとうございました」
「あそこから逆転されるなんて……。いっそ気持ちいいな」
ぬるいブルーマウンテンブレンドを飲んで、直はニコニコ笑いながら局面を戻す。
「この局面ですが、面白い戦法があるんです。プロではもうあまり使われないんですけど━━━━━」
おじちゃんの目は少年のようにキラキラしていて、同時に直もとても楽しそうだった。
「━━━━━で、ここで桂馬が跳ねる」
「え? ここで?」
「はい。その方が楽しいでしょう? プロだとなかなか思うようにやらせてもらえませんが、アマチュアなら思い切って指した方がいいと思います」
頬杖をついてふたりを見ていた社長が、あくびを噛み殺しながら尋ねた。
「そういえば、有坂さんって名人なんだっけ?」
言われた方の直は弱り切って髪の毛をグシャグシャにする。
「残念ながら違います。やっと挑戦を争える立場になれた程度です」
今となっては“名人”がどんな高みであるかわかるつもりだけど、もし出会った当初にプロ棋士だと言われたら、私も「将棋名人?」って軽い気持ちで聞いたかもしれない。挑戦を争うA級に入るだけでもすごいことなのに。
「あれ? 名人挑戦って何? 直ってまだB1じゃないの?」
サラッと聞き流していたけど、おじちゃんもさっき“昇級昇段”って言ってなかったっけ?
「この前の順位戦に勝って昇級が決まったんだ」
「そんなこと言ってなかったよね?」
「『勝った』って言ったけど」
あの日の夜、直は夜十時過ぎにうちにやってきた。順位戦は深夜0時を過ぎることもざらにあると聞いていたのに、
「短手数で終わった」
と、一応用意しておいた豚汁とおにぎりをもりもり食べた。おにぎりを一つ食べ終えたタイミングで、それでどうだったの? と聞くと、勝ったよ、とだけ答えたのは覚えている。
まあ、いいか。普通の会社員だって、仕事の具体的な内容まで話すとは限らないし、とそれ以上深くは聞かなかったのだ。
「さすがに省略し過ぎじゃない? 今の今まで知らなかったんだけど!」
職場であることも忘れて詰め寄る私に、直の方は相変わらずのほほんと返事する。
「言っても知らないかと思って。言った方がよかった?」
「言ってよ。『おめでとう』くらい言わせて」
たくさんのことを理解できなくても、わかりたいという気持ちはある。机の上に置いた手は、自然と拳を作っていた。
「ごめん。これからはちゃんと言う。真織に誰より最初に報告するから」
目からこぼれなかった涙を感じ取ったやさしい声。それがわかったから、私も一度深呼吸してから笑顔を向けた。
「A級昇級と、それから八段昇段おめでとう」
昇段規定にはいろいろあるけど、A級になると八段に昇段する。それくらいの知識は入れておいた。いつまでも蚊帳の外に置かれたくない、という気持ちを込めて。直はちゃんとそのことに気づいてくれて、嬉しそうに瞳を揺らして、ありがとう、と笑った。
「おじちゃんは振り飛車党ですか?」
昼休みは終わったというのに、将棋教室は終わらない。一応たしなめた頼子ちゃんもすでに諦めて、押収したブルーマウンテンブレンドを全員に配る。
「そうそう。特に中飛車が好きなんだけど、四間飛車も指すよ。有坂先生は最近飛車振らないよね?」
『振り飛車』というのは戦法のことで、飛車を左側に動かして戦うこと。飛車を概ね最初の位置のまま戦う戦法は『居飛車』と呼ばれる。どちらかの戦法が得意で『居飛車党』『振り飛車党』と分けて呼ばれることもあるのだが、直はどちらも苦手としないオールラウンダーなのだとか。
「最近は居飛車が多いですね。先攻しやすいので」
あの朝、「よーーーーし! 今日は飛車振るのやめた!」と言っていたのを思い出して聞いてみる。
「戦法ってどうやって決めるの?」
「相手によって柔軟に変える人もいるし、常に自分の得意戦法をぶつける人もいる。この前は対局の後真織と会う約束してたから、早く終わらせたくて急戦を選んだ」
私の指の間をやわらかく撫でる手を思い出して、真っ昼間の職場には似つかわしくない気持ちになった。振り払うために、つい口調がキツくなる。
「軽いよ! おじちゃんには『人生懸けてるんだから脚を引っ張るな』って釘刺されたのに」
「大袈裟だなあ。そんなこと言ったらしょっちゅう人生懸けてるから、いちいち気にしていられない」
直は本当に迷ったとき、こっそり扇子を倒して決めたことすらあると白状した。
「私なんて、人生かけた経験数えるほどしかないのに」
「そう? じゃあ懸けてみる?」
「何に?」
「俺に」
「……何かメリットは?」
「真織をタイトルの就位式に招待するよ」
就位式って言うのはタイトルを獲得した人に、就位状とか賞金とかを贈る表彰式のこと。私を招待する、なんて言うのだから当然他人の就位式じゃないわけで。
「取れるの?」
「取るよ」
ジョークでもはったりでもなく、真顔で直は答えた。
「有坂先生だと、言い切っても笑う人いないよな。早く“無冠の帝王”返上してよ」
「……はい。挑戦失敗の記録塗り替える前には、なんとか……」
がっくりうなだれた直の元に、ブラジルがニコニコしながら近づいてきた。その手に持ってるのはマグネット式の将棋盤だ。
「ブラジルって将棋指せるの?」
盤を指さして尋ねるとちゃんと伝わったようで、ニコニコ頷いている。社長が英語で何か尋ね、ブラジルも身振り手振りを交えながらいつもより饒舌に答えている。
「お祖父ちゃんから将棋教わって指してたんだって」
直も納得して強くうなずく。
「そういえば、ブラジルは日系移民が多かったから、昔は結構盛んだったんだよ」
「私よりブラジルが将棋得意なんて違和感……」
楽しそうに駒を並べている直とブラジルの間に、社長が割り込んできた。
「僕、囲碁だったら得意なんだけど有坂さんできる?」
仲間外れが寂しかったらしい。いつの間にか囲碁のセットを持ち込んでいた。
「囲碁はルール知っている程度ですね」
「ちょうどいい! やろうやろう!」
「有坂先生、俺も!」
社長のイスを軽く蹴って、おじちゃんも場所を確保した。
「手合割(ハンデ)はどうしますか? 遠慮なく言ってください」
「角落ち……二枚落ち……。いや、やっぱり角落ちで!」
将棋ではハンデをつける時、上位の人間が駒の数を減らして戦う。二枚落ちで角と飛車、四枚落ちは更に香車、六枚落ちだと更に桂馬を減らす。直と戦う前におじちゃんは自分のプライドと戦った末、角だけ落として挑むようだ。
「ブラジルは四枚落ちでいいですか?」
直の正面に社長、右におじちゃん、左にブラジル。本当に将棋(&囲碁)教室そのものだ。
「三人一度に相手するなんてできるの?」
「イベントでは十面指しくらい当たり前だから囲碁にさえ集中していれば平気」
十面指しというのは、十人がそれぞれ盤を並べて、棋士一人が一手ずつ移動しながら指していく形式のことだそうだ。十もの盤面を把握して、ハンデがなければそれでも全部勝てるのだから、三人くらいお遊びだろう。
「有坂さん、すっかり馴染んでますよね」
真面目な頼子ちゃんだけは、昼休み終了後しっかり仕事に戻ってキーボードを叩いている。直は真剣に社長との囲碁に取り組んでいるのに、おじちゃんが一手指すとチラリと一瞥してすぐに駒を進めて囲碁に戻る。おじちゃんは、ううーと唸ってまたしばらく悩む。今度はブラジルがペタッと指すと、すかさず一手指して囲碁に戻る、という構図がずっと続く。
「……馴染んでるね」
「なんとなくわかります。居心地いいんでしょうね。うちの会社って変人ばっかりだから」
社長とおじちゃんが変なのは認めるし、ブラジルもブラジル人だからってことではなくかなりおかしい人だ。
「そうかもね」
「失礼を承知で言いますけど、有坂さんも一般的にはかなり変わってるので、うちの会社は水が合うんじゃないかと」
この会社で唯一囲碁にも将棋にも興味がない頼子ちゃんは、全てを『変人』で片付けた。容赦のない彼女の言葉で急に不安になる。
「わ、私も“変人”かな……?」
書類をトントンッとまとめて、頼子ちゃんは言い切った。
「変人を好きな人は変人です」
「…………」
「大丈夫です。その理屈で私も変人ですから」
大丈夫かどうかはともかく。
「え? 御曹司(極小粒)って変人なの?」
「あの社長の息子ですよ? まともなはずないじゃないですか」
働かずにボードゲームに打ち込む男たちを眺め、会社の未来が、そしてそこで働く自分の将来がものすごく不安になった。
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