▲5手 about it
こんな時に限って私も実家で法事があったりして、直とはすれ違いが続いていた。
プロ棋士だとわかってしまえば、公に発表されている対局やイベントの予定はすぐに調べられる。直は今週末大阪で対局をして、そのまま関西方面のイベントに出演するようで、週末は『出張』の予定だそうだ。
一度タイミングを逃してしまうと言い出すことができず、例え直がどこで何をしているのか知っていても、それを話題にはできない。今も中継サイトで解説(中継される対局において、盤面を示しながら将棋の解説をする)の仕事をしていて、女流棋士とふたりで大盤(解説用の大きな将棋盤)の前に立っている。
『有坂先生、この後ですけど……』
『この後は、同歩と取って、同銀』
『金じゃなくて銀で取るんですね?』
『同金と取った場合、7三角打ちが痛くて━━━━━』
日本語しか話していないのに、私にはひとつも理解できない。直は女流棋士と笑い合ったりしながら、マグネット式の大きな駒を動かす。駒を取って盤外に貼り付けるときには、女流棋士に手渡していて、彼女はとても慣れた様子で直の解説のサポートをしていた。まだ若い直よりさらに若く、白地にブルーの花柄スカートの揺れさえも瑞々しい。
わかってる。これは仕事なんだから、お互いに他意はない。仕事仲間に女性がいたのは意外だったけど、会社員だったら当たり前のことだし、いちいち嫉妬なんてしない。だけど、彼女ならばわかるのだ。直の仕事も想いも辛さも喜びも。
対局している人たちは相変わらず静止画のようだけれど、ときどき直と同じように駒を掴んでパチリと置く。似たような音はするけれど、強さだったり早さだったり微妙に違うせいで、わずかながら音も違うように聞こえる。
ざわつく気持ちを静めるためにひとつ深呼吸してから、私もおじちゃんの駒を置いてみる。が、相変わらずベチッという無味乾燥な音しかしなかった。
「直の駒はもっといい音するのになあ」
「そりゃ駒じゃなくて指す人の問題だよ。そもそも持ち方が違う」
「駒の持ち方なんてあるの?」
おじちゃんは真ん中三本の指で駒を摘み上げる。
「こうやって人差し指と薬指で摘んで中指を添える。それで持ち上げたら中指と人差し指で挟むように持ち換えて……こう!」
パチッ!
「へええええ! なんか難しいことしてるんだね。でも確かに、手の形が独特な理由がわかった」
画面の中の棋士も、指したあと中指でチョンチョンと駒の位置を直している。ピンと伸ばされた指はスラリと長く、やはりとてもきれいだった。
何度かその持ち方でやってみるものの、どうにも不安定で直みたいにきれいな手つきにはならない。
「なんだかどんどん音が悪くなる。ブレずにスパッと置ければ直みたいないい音するのかな?」
駒を動かす直の手つきは、無造作なほど自然体なのにうつくしい。肩から指先まで真っ直ぐに伸びて、揺らぐこともなかった。
「は? 有坂先生みたいな音目指してんの? なんて図々しい。あの人たち何億回駒持ってると思うんだよ。絶対無理無理!」
おじちゃんは鼻で笑ったあと、ふと真顔になった。
「俺の甥っ子、卵アレルギーだったんだよ。もう治ったけど」
「はあ……」
突然何の話をするかと思ったが、おじちゃんが妙に真剣だから言えなかった。
「三歳くらいの時にびっくりしたことがあって、粉薬をさ、こうやって自分ひとりで上手に飲むんだよ。袋を開けて、口に薬を入れて、水でゴクンッて。なんだかその動作だけ妙に大人びてて印象的だった」
思い描くようにおじちゃんは宙を見上げ、古びたイスがギシッと鳴った。
「生後半年から毎食前に飲んでるんだって。一日三回。人生の大半をそうやって薬飲んできたわけ。板についた動作は、それだけ人生に寄り添ってきた動きだってことなんだよ」
つまり、直や他のプロ棋士の動きも、人生の大半を懸けてきた動きだという意味だろう。箸を持つよりずっと多く、呼吸するのと同じくらい、直は駒に触れてきたということか。
「プロ棋士になるって大変なの?」
奨励会というところを出れば、プロになれるらしい。それしかわからない私は、専門学校のようなイメージを持っていたのだけど、おじちゃんは質問を返してきた。
「鈴本、年間で何人がプロ棋士になれると思う?」
「え! 人数制限があるの?」
おじちゃんは重々しくうなずいた。
……プロ野球選手よりは絶対少ないはずだ。野球選手って何人くらいなれるんだろう。球団がだいたい十球団くらいあったはずで、ドラフト十位って聞いたことないから一球団につき七~八人くらい取るのかな。じゃあ八十人くらいとしよう。それよりはずっと少ないはずだから……
「十人くらい?」
少な過ぎたかな、って二十人に変えようと思った途端、
「不正解。四人」
とびっくりする数字に訂正された。
「四人!? たったそれだけ!?」
「三段リーグっていって奨励会三段が半年間リーグ戦で十八局対局する。それで上位二名が四段に昇段してプロになる。半年で二名だから年間四名。それしかなれない(別規定あり)」
「………………」
まさかそんなに少ないなんて思わなかった。プロ棋士を目指す人数自体、野球少年より少ないとしても、かなりハードなはずだ。
「そもそも奨励会に入るのだって、かなり難しいんだ。全国から“天才”や“神童”ばかりが集まって受験するんだから。入会して七割勝てれば昇級昇段。また上のクラスでもっと強い奴を相手にして、そこでも七割勝たなければならない。毎日の寝る間も惜しんで研究に充てて、練習対局を続けても簡単なことじゃないよ」
常識的なおとぎ話も知らないほど、『興味が他に向かって』た直は、やはり将棋しか見てこなかったのだろう。修学旅行を含めて、学校のイベントに参加できないのは、奨励会員ではよくあることなのだそう。
「しかも年齢制限があって、二十一歳で初段、二十六歳で四段に上がれなければ強制的に退会させられる(別規定あり)。つまり、幼い頃から将棋だけに人生を捧げて、他の何もかも捨てて打ち込んでも、四段に上がれなければ二十六歳でゼロ、いやまともな社会生活していないからマイナス状態で世間に放り出されるんだ」
直の経歴を見ると小学生で入会していた。その年からずっと奨励会にいて、二十六歳で無に帰したら……。
アッサムティーを飲みながら興味なさそうに聞き流していた頼子ちゃんも、眉間に皺を寄せた。
「退会を余儀なくされた人の中には、それでも別の形で将棋に関わる人もいれば、完全に縁を切る人もいる。別の人生を歩める人はいいけど、絵に描いたような転落人生を歩む人だっているんだ。プレッシャーや焦りで吐いたり血尿出したりしながら地獄の三段リーグを戦っても、四段に上がれなければただのアマチュア。それを見ると、中途半端に才能なんてなくて俺は幸せだって思っちゃうね」
ブラジルがインスタントコーヒーを淹れて社長にも渡し、社長は笑顔でひと口飲んで、熱さで舌をヤケドしたらしい。頼子ちゃんがため息をつきながら、冷蔵庫から麦茶を出した。のどかで平和な日常の光景がここにある。
「直も、その三段リーグにいたんだよね?」
うちの会社の話が大好きで、こののんきさを愛する直から、戦場に立つイメージは浮かばない。
「当然! そこを抜けなければプロにはなれないんだから。有坂先生は年齢制限なんて気にせずにプロ入りできたと思うけど、絶望して奨励会を去っていく人間を幼い頃から見てきたはずだよ。そういう死屍累々の上で将棋指してることは十分知ってる」
「よほど将棋が好きなんだね」
「どうかな? 奨励会に入ると『好き』なんて感情はなくなるらしいぞ」
「でも『将棋、好きだし強い』って言ってた」
「へえ~! そんなこと言ったんだ。そんな余裕ある世界じゃないと思ってたから意外だな」
「そうなの?」
おじちゃんは頼子ちゃんの机の上から、勝手にりんご型のメモを一枚取って、そこにボールペンでピラミッド型を書き付ける。
「プロに入ったら入ったで生涯ずーっと戦いだから。プロ棋士は名人を除いて全棋士がA級、B級1組、2組、C級1組、2組(その下にフリークラスもある)ってクラスでそれぞれ一年間リーグ戦をするんだ。それで上位者が昇級して下位者が降級する。A級棋士はその中でもたった十名しかいない。そしてその頂点に君臨するのが名人だ」
クセの強い字でピラミッドの先に『名人』と書き、ぐるぐるっと丸で囲った。下々の人間である私は、そのメモを見ながらピラミッドの上をイメージしたけれど、霞がかって頂点なんて見えない。
「名人って、すごいんだね」
「A級の中で成績トップだった棋士が名人への挑戦権を得る。それで七番勝負で先に四勝した方が一年間名人を名乗るんだから、正真正銘に強い棋士だよ」
確か直はB級1組だったな、という私の思考を読んだおじちゃんは、何やらサイトで確認している。
「有坂先生は……B1で、今年は今のところ10戦して8勝2敗。A級への昇級争いに絡んでる」
彼氏の仕事が順調なのだから喜ぶべきところなのに、私の気持ちは沈んでいった。おじちゃんを通して語られる世界は、同じ日本で起こっていることとは思えず、そこに身を置いている『有坂行直』という人が私の知っている直と同一人物という実感が持てない。それ以上に、私の知っている直がどこかにいなくなってしまう気さえしている。
直に会いたい。会えたらいつもみたいにどうでもいい話をして笑って、このモヤモヤも消える気がするのに。
『有坂先生、銀打ちでした』
『あははは。予想、外しちゃいましたね。歩成りの方が自然だと思ったんですけど……。銀打ちは指しにくいのになあ』
『有坂先生なら歩成りを選びましたか?』
『そうですね。銀打ちなんて指せないです。怖いもん』
『うふふふふ』
画面の中にいる直とは、言葉さえ通じない気がした。
将棋プロ棋士というのだから、当然将棋を指すのが仕事だ。「そういえばテレビでやってるのを見たことがあるなー」(チャンネルを変えるときに素通りした)という人も多いだろう。私もです。
じゃあ普段はどんなことをしているのかというと、一般人の感覚からするとびっくりするくらい休みが多いのだ。おじちゃんの話によると、もし何もしなくても勝てるなら、月に二~三局将棋を指すだけでいいという。幼稚園児の方がずっと過密スケジュールに思える。
ただ、何もしなくても勝てるわけはないから、勝つための研究やそれに基づく練習対局をする。それは気の遠くなりそうな細かく深い作業で、永遠に終わりなんてない。新しく誰かが見つけた手も、すぐに研究されて古くなる。でも研究を続けなければ遅れを取って勝てなくなる。だから逆に言うと、どれほど時間があっても足りないくらいなのだとか。パソコンを使って指した将棋を解析し、定跡と呼ばれる過去の研究結果を見直し、最新の棋譜から情報を集め、独自の手を探し、対戦相手を分析し、実践的な練習対局を指し、合間に詰将棋(玉を追い詰める手順を考える練習問題)を解く。一日数時間~十時間以上、それを何日も何年も。研究以外にも、イベントに出演したり、解説をしたり、アマチュアに指導対局を行ったり、本や記事を執筆する人もいる。
直に「今日も休み?」と聞くと「うん」と答えることが多いけど、私と会っている時間を休みにしているだけなのだ。
順位戦(名人挑戦者を決める)を含むタイトルの棋戦は、竜王戦、叡王戦、王位戦、王座戦、棋王戦、王将戦、棋聖戦、と全部で八つあって、それ以外にも一般棋戦と言われる大会がいくつかある。そのほとんどはトーナメント戦(決勝はリーグ戦になるものもある)なので、早々に負けると対局数は減って暇になるし、どれもこれも勝つと忙しくなる。
棋士は対局料と賞金が収入のメインだから、初戦で負けた場合と勝ち上がってタイトル挑戦者になった場合では数十倍(場合によっては100倍以上)収入が変わってくるらしい。ちなみに、タイトルを取った場合の最高賞金額は竜王戦の四千万円超え! 将棋指して四千万!
直の成績も簡単に調べられる。だからおじちゃんに聞いてみたのだけど、
「王将はこの前ダメだったんだよ。でも王位はリーグに残ってるし、棋聖もいいところまで来てる」
とやっぱりよくわからなかった。
今私の目の前には数冊の将棋本が積まれている。おじちゃんから借りた“参考文献”だ。将棋本と言っても将棋そのものを学ぶ、いわゆる“棋書”ではなく、棋界のことをあれこれ書いたもの。直のいる世界のことを知れば、もう少し直のことがわかるかもしれないと思ったから。
ベッドに横になって読み始めた私は、いつの間にか壁に背をあずける形で座り込んでいた。昔だったら数ページで眠くなっただろうけど、今は食い入るように文字を追う。背中とお尻が痛いし、肩も凝っているのにやめられない。面白いからではなく、ほとんど恐怖に近い。あまりに一般社会から離れていて、とてつもなく壮絶で。
将棋のプロ棋士になるような人は当然将棋をたくさん指してきたのだけど、それは将棋しかしてこなかったとほぼ同義だった。もう“仕事”ではない。私が今の仕事を辞めても、就職活動をして別の仕事を探すと思う。別の仕事をしたからと言って、私が私でなくなるわけじゃない。
でも棋士は違う。将棋を取ったら何も残らないというよりも、将棋を取るなんてできない。一般的な生活をしてきていないから、他の生活なんて知らないし、極端な場合、頭はいいくせに学歴は中卒の人さえいる。一般社会で中卒はアルバイトさえ難しい。文字通り、将棋に人生のすべてを懸けている。
特に奨励会の過酷さは凄まじい。自分の人生すべてを否定されて放り出された二十六歳は、その後一体どうやって生きていけるというのだろう。
「誰かが勝つってことは誰かが負けるってことだからな。有坂先生が三段リーグを抜けてプロになった陰には、先生に負けて人生を潰された人もいたはずだ」
おじちゃんはそんなことも言っていた。制度を考えると当然のことだ。
「直ってそういうタイプに見えないんだよ。人を蹴落とすような」
「人を蹴落とすことはしなくても、将棋盤挟んで手を抜くことはしないだろ。先生自身だって、人生かかってるんだから」
直は優しいけど、手を抜くことはないだろう。この数ヶ月一緒にいて、それはすんなりと納得できた。どんな状況であれ全力を出す人だ。
「コンピューターがどんどん強くなって、研究も昔の何十倍ものスピードで進んでいる。手を緩めていられるわけない。呼吸してる間にも、新しい将棋が生み出されているんだから。プロ棋士でいる限り、一生毎日戦いだ」
毎日戦いなら、それを支えてあげたいと思うのに、今の私ではそんな次元にない。
おじちゃんから借りた本には、魂を削るようにして一手一手指す棋士の話もあった。どんなに努力を重ねても下位の組から抜けることができず、恐怖に怯え続ける人も。どう頑張っても敵わない苦しみから逃れるために、お酒やギャンブルに逃げて身を滅ぼす人もいた。
将棋なんてただのゲームなのに、それに振り回されるなんておかしい、とも思う。だけど、例えば鬼ごっこをするとき、本当の鬼じゃないとわかっていても恐怖心は本物であるように、将棋しかない世界に生きる彼らにとって将棋は絶対なのだ。負けることは自分自身を否定されること。つまり、毎回自分自身を懸けて戦っている。
本を閉じて時計を見ると、日付が変わってだいぶ経っていた。明日も仕事だから早く寝ないといけないのに、頭が冴えて眠くならない。
直の将棋ってどんなものなんだろう、と携帯を手に取った。将棋の対局には対局者二人以外に記録係がついて、その対局の棋譜を残す。プロの公式戦での戦いはすべて後世に残されるのだ。だから棋士は勝つことはもちろん、恥ずかしくない内容の将棋を目指すし、また過去の棋譜からその棋士の生き方や人柄にも思いを馳せる。今は携帯でも簡単に検索できるので、私でも直の棋譜を探し出すことができた。
順位戦B級1組5回戦
先手▲ 国分大地七段 VS 後手△ 有坂行直七段
▲7六歩 △3四歩 ▲2六歩 △8四歩 ▲2五歩 △8五歩 ▲7八金 △3二金 ▲2四歩 △同歩 ▲同飛 △8六歩 ▲同歩 △同飛 ▲3四飛 △3三角 ▲3六飛 △8四飛 ▲2六飛 △2二銀 ▲8七歩打
将棋をもっと知れば近づけると思った。でも、知れば知るほど直はどんどん遠くなる。一手一手積み重ねた棋譜は重くて、重いのに何ひとつ私には教えてくれない。
ふと、ドミノをやったとき、不安定で倒れそうな駒があったことを思い出した。あの駒は、角が少し取れて丸くなっていたのだ。
「あっ!」
その事に思い至って声が出た。
将棋の勉強の基本に“棋譜並べ”というのがある。棋譜を見ながら実際に将棋盤に並べて対局を再現するもので、棋譜並べと詰将棋は基礎中の基礎。角が取れるほどなんて、あの駒で直は何千局棋譜を並べたのだろう。何千局練習したのだろう。待ち合わせのとき持っていた紙だって、十中八九、詰将棋だ。将棋盤の格子模様が見えたことだってあったのだから。
直の周りにはいつでも将棋が溢れていたのに、私は何も見えていなかった。見えていても、気づこうとしなかった。
第9回神宮寺リゾート杯将棋王大会二次予選
先手▲ 有坂行直七段 VS 後手△ 馬場敏男九段
▲2六歩 △8四歩 ▲2五歩 △8五歩 ▲7八金 △3二金 ▲2四歩 △同歩 ▲同飛 △2三歩打 ▲2八飛
直はあのきれいな手でパチン、パチンとこれを指したのだ。何十万回、何百万回。一手一手魂を込めて。そうして今も、また何十年後にも、直の残した棋譜で将棋を学ぶ人たちがいる。
私にあんな駒音が出せるはずない。だってあれは直の人生の音なのだから。
狭くてマニアックな世界だけど著名人だし、私よりずっと直の価値を理解できる人はいくらでもいる。だって、直と一緒に大盤解説していた女流棋士は、打てば響く反応で一緒に納得したり驚いたりしていたじゃない。
勝負の世界に身を置いているなら、もっとお互いを高め合っていける関係の方が、きっといい。直だってそのうちそんな風に思うようになるだろう。それで、やっぱり別の人が自分には合ってると気づく日が来る。
「私じゃ、無理だよ……」
人生のやり直しは簡単じゃない。直は生涯将棋を指して生きていく。直にとって将棋は趣味じゃない。ただの仕事でもない。
私が知らなかったのは、有坂行直そのものだ。
“出張”から帰ってきた直は改札を抜けて、風の冷たさに首をすくめた。
「真織さん、餃子食べに行かない?」
まるですれ違っていた時間なんてなかったみたいに笑顔でそう言う。実際、直にとってみればすれ違いなんてないのだろう。私が勝手に距離に気づいてしまっただけだ。
「私は麻婆豆腐が食べたい」
「わかった。じゃあこの近くの中華に行こうか」
アスファルトを走ってくる風は強く冷たく、中華料理店までの徒歩五分さえ長く感じた。暖房の効いた店内に入ってもなかなか身体はあたたまらず、巻いてきたショールを膝にかける。
メニューを開いてまもなく、直は回鍋肉定食と餃子を、私は麻婆豆腐がのったラーメンを注文した。
「最近、会社で何かあった?」
おしぼりで指先まで丁寧に拭く直の口元は、すでに綻んでいる。
「ブラジルが突然うどん職人になりたいって言い出して━━━━━」
「あはははははは! もう面白い! なんでそう話題が尽きないの?」
仕事を辞めて四国に移住するというブラジルを、社長とブラジルの奥さんで必死に説得するという珍事があった。私はとりあえず三人にインスタントコーヒーを淹れてあげて、自分のカフェオレを手にじっくりと修羅場見学の姿勢を取っていたのだけど、ちょっと思いついたことがあった。
「讃岐うどん作れれば、何でもいいんだよね?」
私が見つけたのはコンビニ弁当を作る工場で、その一環でコンビニで販売される讃岐うどんも作っているところだった。頼子ちゃんが雇用条件や外国人の受け入れについて先方に確認したところ、採用してもらえるとのこと。ブラジルはアルバイトを掛け持ちすることに決め、社長も分厚い胸を撫で下ろした。
「……というわけで、ブラジルは週一回、会社が休みの土曜日にその工場にも勤務することになったの。先週嬉々として行ってきたらしいよ」
「頼子ちゃんって、仕事以外でも気が利くんだね」
「本当に助かってる。彼女がいる限りうちの会社は安泰!」
「んー、おいしい」と麻婆豆腐を頬張りながら、また将棋の話をしていないことに気づいた。今思い出しても口の中は熱々の豆腐でいっぱいで、飲み込んだときには直が別の話をしていたから、すっかりいつものペースに流されていた。
これまでなら「まあ、いっか」と忘れてしまっていたと思う。でもさすがに今回は、会話が途切れるのを待って、だいぶ重くなった口を開いた。
「……一緒に解説してた人、若くてすごくかわいい人だったね」
直はちょっと恥ずかしそうに笑った。
「観たんだ」
「うん。デレデレしてた」
「それは見間違いです」
「おじちゃんが『有坂先生は女性ファンが多い』って言ってた。若手の有望株だし、周りに美人は多いって」
「そんなこともないけど、言われると嬉しいね」
そう言っても嬉しそうな様子はなく、直は言葉を続けた。
「それで、言わなかったから怒ってるの?」
うまく隠していたはずの負の感情に、相変わらず直は遠慮なく踏み込んで来る。極端に同情したり、下手に慰めたりしないのは、人生に絶望する人を何人も見てきたからかもしれない。落ち込む人を相手にするくらい日常茶飯事なのだろう。
「怒ってないけど、なんで言ってくれなかったのかなって」
聞かなかった私もどうかと思うけど、直だっていくらでも言う機会はあったはずだ。ここまでくれば、ある程度意図を感じる。
「最初は単純にタイミング逃したのと……途中からは言いにくくて」
「どうして?」
「マニアックな分野だって自覚はあるから。女性は特に敬遠しがちでしょ?」
興味なくても好きな人のことなら何でも知りたいのに、と思って、口に出す直前でやめた。だって、私は直のことを好きじゃなかったのだから。
最初に将棋のプロ棋士ですって言われていたらどうだっただろう? 今となってはもうわからない。
「敬遠はしないけど、もっと別の人と付き合った方がいいかもって思う」
私の声色は自分で思った以上に暗く響いて、さすがに直も表情を堅くした。
「別れたいってこと?」
「そうじゃないんだけど、そうじゃないんだけどね、私は直にふさわしくないと思うの」
「その“ふさわしい”って何が基準?」
珍しく直の声が剣呑なものに変わった。わずかな変化なのに、その迫力に身がすくむ。顔を上げられなくて、レンゲを持つ手と半分ほど減った麻婆豆腐ラーメンを見つめ続ける。
「私は将棋がわからないから。直のいる世界のこと理解できないし」
「できないし?」
「だから直が将棋で落ち込んでいても支えてあげられないし」
「あげられないし?」
「もっと将棋をよくわかってる人ならそれができるから。そういう人は直の周りにいっぱいいるでしょう?」
私の言葉を聞いても返事はせず、直は黙々と、ほとんど一気に残りの定食を食べ切って、パシンと箸を置いた。
「いるよ、たくさん。将棋のことしか考えてない人ばっかりね」
直は笑わずに私の顔をしっかり見る。
「俺は真織さんに何か要求した? 支えて欲しいって言った? 慰めて欲しいなんて言った? 俺は記憶にないけど、真織さんにはあるのかな?」
パチン、パチンと
「棋士はね、いつもひとりで戦うんだ。仲間って言っても結局はライバルだし、対局になれば常にひとりで考えて、ひとりで決めて、ひとりで全ての責任を負う。誰も助けてくれない。でもそんなこと分かり切ってる。覚悟なんて小学生のときからしてきた。今更支えてもらう必要なんてない」
プロ棋士は約160人。その中でタイトルホルダーは最大でも八名、最小だと一名。スポットライトには定員があって、どんなに親しくても、一緒に研究をしても、手を取り合って上る高みではない。そして譲り合う場所でもない。
「結局、真織さんは引いたんでしょう? たかがゲームに必死になってる俺たちに。常識から逸脱してるもんね。それが嫌だって言われたら、俺はどうしようもない。ごめん、帰る」
引いたんでしょう? と言われて否定できなかった。根底にあるのは敬意だったとしても、確かに私は引いていたのだ。自分とはあまりにも違う生き方だから。
私にも社会人として積み上げたものが少しくらいある。でも直の世界にいると、それはほとんど役に立たない。直が社会人として欠落していることがあるように。
私は自分が理解できないからって将棋の世界に引いて、それで直を傷つけたのだ。向けられた言葉の重みで顔が上げられず、直の背中を見送ることもできなかった。
帰り際に直はしっかり私の分までお金を払って行ったらしい。そうしてご馳走してくれたラーメンも、胸が詰まって食べられず、すっかり冷たくなっていた。
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