△4手 he is
新たな年を迎え、引き締まるどころか今年も年末まで正月気分が抜けそうもない職場に、ビチッ、ビチッ、と妙な音が響く。
「おかしいなあ。もっときれいな音だったんだけど。この駒安いんじゃない?」
ビチッ!
将棋盤の真ん中に王将を、さっきより強めに叩きつけてみた。すると音に変化はなかったけれど、おじちゃんの顔が青く変化した。
「おいおい、やめろって! これそれなりに高級品なんだよ。
「そんなこと言われてもわからないもん」
「安い駒はプラスチック製だけど、これは本物の黄楊でできてる。しかも彫埋駒って言って、ただ彫っただけじゃなくて彫ったところに漆を入れて表面が平らになるように仕上げてるんだ!」
「ふーん」
ビチッ!
「あああああ! もうダメ! お前には貸さない!」
「何よケチ! 私の彼氏なんて気前良くドミノも将棋崩しもさせてくれたよ? しかも駒五セット分で」
中にはプラスチック製のも、なんだか古くさいやつも含まれていたけれど、直が日常的に使っていた駒は高そうだったから、それなりの値段がしたのかもしれない。あの駒だったら直みたいにきれいなパチンッて音がするのだろうか。
「鈴本の彼氏って将棋指すの?」
「そうみたい。部屋にすごく立派な将棋盤あったよ。テーブルみたいなやつ」
「脚付き持ってるなんてなかなか本気だな。よかったら今度教えてやるって伝えて」
私が結婚を考えようが、別れようが、武には何の興味も示さなかったくせに、直が将棋を指すって知ったら急に食いついてきた。
「『教えてやる』っておじちゃん将棋強いの?」
「はあ? 俺、アマ四段持ってるんだぞ」
「それってどのくらい強いの?」
「若い頃地元では県代表争ったこともある」
おじちゃんは駒を磨く手を止めずに胸を反らした。将棋人口が少ないだけじゃないかと思うけど、県代表と言うのだからそれなりに強いのだろう。
「彼氏は段持ち? 級?」
箱に戻した駒は、私の手の届かないところにしまわれた。安心したように、おじちゃんはお弁当の続きを食べ始める。
「知らなーい。聞いてみる」
直の仕事は時間も不規則らしいので、電話はあまりしない。『直って将棋何段? それとも何級?』とメッセージを送信したけれど、返信は遅いときだと翌日になる。
駒で遊ぶのは諦めて、ふりかけを混ぜ込んだおにぎりをパクついてると、今回はほどなくして『七段』とごくシンプルな返事があった。今日は休みらしい。
「おじちゃん、段位って数字が大きい方が強いんだっけ?」
「そうだよ」
「あは! じゃあ私の彼氏の方が強い! 七段だって!」
おじちゃんは箸でつまんでいたコロッケをボタッと落とした。
「うわ、おじちゃん床にソースついたよ! 拭いて!」
直に負けたのが余程ショックだったのか一向に動く気配のないおじちゃんの代わりに、私と頼子ちゃんがウェットティッシュで拭き取った。コロッケは一口しか食べていなかったけど当然廃棄。
「━━━━━鈴本、それ本気で言ってる?」
「そう言ってるよ。ほら」
携帯に表示された『七段』という文字を見て、おじちゃんは立ち上がった。
「それ本当にアマチュア? プロだろ!?」
「へ? そうなの?」
プロ? プロって将棋指すことが仕事ってこと?
「アマチュアでは通常六段までしか取れないんだよ。七段なんて特例! 名前は? 彼氏の名前! プロなら絶対知ってる!」
「……有坂行直」
「はあああああ~、本気か~」
すっかり食欲をなくしたらしく、おじちゃんは箸を放り出した。が、残したら奥様が怖いと思い直して、残りを無理矢理口に詰め込む。
「おじちゃん、直のこと知ってるの?」
「知ってるも何も! 有坂七段って言えばいずれ名人も取るって言われてる天才だよ」
「へー」
あ、人間驚き過ぎると頭真っ白になるんだ。
名人……へー、名人。直が?
「……彼氏なのに知らないって、ある意味名人よりすごいな、鈴本」
“名人”がすごいってことはわかる。だけど“湯沸かし名人”とか“カビ取り名人”なんて方が馴染み深くて、どの程度すごいのか全然理解できなかった。私が出会ったことのある“名人”なんて、祖母の友人のタツ子さん(漬物名人)だけだから。
「でもおじちゃんだって四段なんでしょう? 三つしか違わないじゃない」
「俺もまあまあ強いと思ってるけど、プロの段位とアマチュアの段位は全っ然違うから。 俺の段位なんてプロにしたら6級になれるかどうか。俺が6級だと仮定して、級は数字が小さい方が上になるから5級、4級、3級、2級、1級、初段、二段、三段、四段、五段、六段、七段。鈴本の彼氏は今ここ」
指折り数えるおじちゃんの左手は、全部折って、もう一度開いても数え終わらなかった。
十二違う……。おじちゃんでもまあまあ強いと自負してるのに、直ってどれだけ強いのだろう。
「ちなみに一段の差ってどのくらいあるの?」
「昇段するには色々規定があるけど、十年以上かかる人もざらにいる。というか、七段なんて生涯上がれずに辞めていく人もたくさんいる。有坂先生って二十六、七歳じゃなかったっけ? プロ入りは高校生だったはずだから十七歳とか十八歳くらいか。一般人の基準から言うと化け物だよ」
おじちゃんの口から語られる有坂行直の経歴は私の知らないものばかり。私の話に涙を流して笑ったり、おいしそうにハンバーグを食べる姿といまいち重ならない。
「有坂が話題になったのは奨励会三段のときで━━━━━」
「奨励会?」
「将棋のプロ棋士は奨励会(新進棋士奨励会)っていう養成機関を出なきゃいけないんだ。基本的には誰か師匠についてもらって試験を受けて、大体は6級で入会する。それで勝ち進んで段位を上げて行くんだけど、プロと認定されるのは四段から。三段まではまあいわばセミプロ」
「ふーん」
ということは、「まあまあ強い」都道府県代表を争えるくらいのおじちゃんが、九つ級や段を上がってようやくプロになれるらしい。これまで“プロ”と名乗る人とご縁のなかった私が思い浮かべた“プロ”は、パチンコで生計を立てている人で、将棋で生活している人がいることさえ考えたことがない。
「有坂が三段のとき神宮寺リゾート杯将棋王大会が新設されて、その棋戦に一名だけ設けられた“奨励会枠”での出場を、当時高校生の有坂が勝ち取った。それでプロ相手に七連勝したんだ。しかもそのうち三人はA級と現役のタイトルホルダーだったから一躍有名になった。まあ、準決勝で敗退したけど」
「三段がプロに勝つってすごいの?」
「プロにもよるけど、現役のタイトルホルダーなら、場合によっては駒落ち(上位者が駒を減らすハンデ戦)でもいいくらい差があるんじゃないかな」
多分、すごいことなのだろう。タイトルホルダーとは、つまりはトップということだ。高校生の直はトップに勝てるほど将棋が強かったのか。
ぼんやりしたまま口に運んだおにぎりは、表面がパサパサと乾き始めていた。
何やらパソコンで検索していたおじちゃんが「あー、なるほどな」とつぶやく。
「有坂はその勢いのまま四段に昇段してプロ入り。順調に昇段して『いずれ名人になる』なんて言われてるのに、数回タイトル挑戦はしてても獲得したことはないんだよ。一般棋戦での優勝もないみたいだし。そろそろ優勝しておかないと」
「なんで?」
「実力あっても『ここ一番に弱い』ってレッテル貼られるだろ? 実力が拮抗した世界だとそういう評価が対局にも影響するんだ。逆に強いと思われていれば、何気ない手でも相手が勝手に警戒して、時には自滅してくれるから」
「ふーん」
もう「ふーん」以外に答えようがない。一緒に聞いている頼子ちゃんも、ポカンと開いたままの口にぼんやり大根の肉巻きを詰め込んでいる。ブラジルはニコニコとインスタントコーヒーを飲んでいるけど、いまだ日本語に不自由している彼にとっては、いつもの会話と変わらないのかもしれない。
「あれ? さっき『彼氏の家でドミノやった』って言ってなかった」
おじちゃんはパソコンに向けていた身体をイスごとクルリと回転させて私を睨んだ。
「うん。駒五セット分で。間にギミックも入れて結構頑張ったんだよ」
手柄を誇る気持ちで嬉々として説明したのに、おじちゃんはどんどん色を失っていく。
「恐ろしい……信じられない……」
「高い駒だから? でもプラスチックの駒もあったよ」
「全部プラスチックじゃないだろ? 俺みたいに黄楊の駒もあったよな?」
「黄楊かどうかなんて私にはわからないけど、一番高そうなのは、もっとこう文字がポコポコ浮き上がってるやつで何か作者の名前が……」
「ばかやろう!」
パコン! とおじちゃんは手近にあった将棋雑誌を丸めて思い切り私の頭を叩いた。
「いいいったーーーーい! 何よ、そんなに高いの?」
「盛上げ駒なんて俺のよりさらに高級品だ! 文字の上を一筆一筆何度も漆を塗って浮き上がらせていく手間暇かかった駒なんだよ! それをドミノに使うなんてバチ当たりな!」
「知らなかったんだもん! それに直だって私以上に熱中してたよ。『ギミック入れよう』って積極的に作ってたのは直の方なんだから」
窒素の抜けた風船が天井から落ちるように、おじちゃんはしなしなとイスに戻る。
「有坂先生って、なんか掴みどころないよな」
そう言えば『先生』って呼ばれてたっけ。塾の講師じゃないかって勝手に誤解してた。正社員じゃなくて、でもちゃんと働いて収入があって、不規則で出張が多い。
━━━━━直は“将棋のプロ棋士”だったんだ。
仕事を終えて自宅に帰ってから携帯で『有坂行直』と検索したら、簡単に『プロ棋士』と写真付きで出てきた。むしろ『有坂ゆ』まで入力した時点で、予測選択でフルネームが上がった。だけど、世の中に彼氏の名前で検索する人なんてどれくらいいるのだろう。今はSNSがあるから結構いるのかもしれない。でも私はしなかった。詮索するようなことはしたくないし、そもそもそんなに直に対して興味がなかったから。
『有坂行直』のページには、私の知らないことばかりが書いてあった。四月十日生まれ、東京都出身、奥沼政重七段門下。どうやら大学には進学していないらしい。それもそのはず、高校三年になる時にプロ入りしているのだから。棋歴には五歳のときにおじいちゃんから将棋を教わったこと、小学生将棋名人戦で優勝したこと、小学校五年生のときに奨励会入りしたことなどが書かれている。
おじちゃんが言っていたプロ棋士七人に連勝した神宮寺リゾート杯のこともあった。棋風はオールラウンダー? 対局内容のエピソードがいくつか書いてあるけど、読んでも私には理解できない。
小学五年 6級で奨励会入会
中学二年 初段
高校一年 三段
高校三年 四段
十八歳 五段(C級1組昇級)
二十歳 六段(王座タイトル挑戦)
二十一歳 B級2組昇級
二十四歳 B級1組昇級、七段昇段
十年以上時間がかかる場合もあるし、上がれずに辞める人もたくさんいると聞いた昇段。ネットで見る直の昇段履歴は、エスカレーターに乗っているかのように順調そのものだった。黙っていても自動的に上がれるんじゃないかと錯覚しそうなくらい。他には将棋の研究書らしき著書も一冊出しているみたいだった。
一気に流れ込んできた情報量に息苦しくなり、何度もため息をつきつつ検索を続けると、対局中の映像が見つかった。イベントで公開対局に臨んだときのものらしい。スーツ姿で将棋盤の前に座る少し若い直は、おじちゃんがよく見ている将棋のテレビそのまま。パチン、と音がする。じっと盤面を見た後、スッと手を伸ばして駒を持ちパチンと置く。迷いなく流れるような動作。指先に吸いつくような駒。そして澄んだ音。あの日、直の部屋で見た姿そのままだった。
本当に本当に、直はプロ棋士だったのだ。
携帯を放り投げて自分も床に転がった。これは確信しているのだけど、直は別に隠していたわけではないと思う。こうやって調べればすぐわかることなのだから、聞けばあっさり教えてくれただろう。私だって隠しているつもりもなく、言っていないことはたくさんある。だけど、インターネットの情報が真実なら、直は人生の半分以上を将棋の世界で生きてきたということだ。もちろん、恋をするのに相手の全てを知る必要なんてない。けれど、恋人で居続けるためには、知っておかなければならないことだってある。
直にとっての将棋はあまりにも大きい。直本人と分けて考えるのは不可能なほど。よくもまあ、将棋以外の部分で付き合って来られたと思う。
昼休みに段位を聞いてからも、直とその話はしていない。私が直の仕事に気づいたことは彼の方でもわかったはずなのに、『今日起きたら昼だったのに、夕方また昼寝しちゃった』としか言って来ない。だから私も『夜眠れなくなるよ』とだけ返した。
とてもショックで何て言っていいかわからない。けれど、何に対してショックを受けているのか曖昧で、そのモヤモヤゆえに結局言えなかった。
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