▲3手 more
ゴミ箱を倒されて、中の紙くずが散らばった。ため息しか出ない私の代わりに、頼子ちゃんがしっかりクレームをつける。
「これじゃあ仕事になりません!」
「……倉庫の方に連れていくよ」
「商品に匂いでもついたらどうするんですか! ご自宅に連れて帰ってください!」
「うちにはネコが三匹いるし、定期的に通ってくるノラも含めるともっと……」
社長、今度は犬を拾って来たのだ。知らない場所でパニックになっているのか、あちこち走り回っている。散らばった紙くずを拾い集めて、ゴミ箱ごとソファーの上に避難した私も、頼子ちゃんの味方に回った。
「どっちみちここでは飼えないんですから、飼い主見つかるまでは社長が連れ帰るしかないですよ」
物なら増えても、捨てて来い! って言えるけど、生き物はできない。人間たちが言い合いしている間も、犬は好き勝手に動き回っていてゆっくり座ることさえできないのだ。
事務所は騒がしいけど倉庫は無事なのに、おじちゃんはどさくさに紛れて将棋を観ている。今日は竜王戦の第六局が北海道であるとかなんとか。このドタドタもものともしない集中力を発揮して、パソコン画面に食い入っている。
混沌とする社内に頭を抱えていると、ポケットで携帯が震えた。
『カニは好き?』
直からの唐突なメッセージだった。一応仕事中だけど、私もこの混乱に乗じて返信する。
『大好き!』
『お土産に買って帰るから、明後日家に届けるね』
カニは大好きだけどご縁はオブラートより薄い。カニってどんなカニ?
『缶詰め?』
『生だよ』
嬉しいけど調理方法知らないし、好きだからって家で一人で食べるのは寂しい。ひとり黙々とカニの身をほじくる独身女の姿を想像してみてください。カニという食材の豪華さが、寂しさを一層引き立てます。カニの濃厚なうまみとともに、じんわり広がる悲しさ。カニを噛み締めているのか、込み上げる涙を噛み締めているのか……。
『明後日は私が直の家に行くから一緒に食べようよ』
了解、というメッセージを確認して、再び携帯をポケットにしまう。
「きゃあ!」
犬を避けた頼子ちゃんの肘が当たって、積んでいたバインダーが雪崩を起こした。
直のマンションは出会ったあの駅から徒歩十分のところにあった。駅前は賑やかだけど、少し歩くと閑静な住宅街になる。こぢんまりしていながらも割と新しくきれいなマンションの八階だった。
「お邪魔しまーす」
「どうぞ」
直に続いて入ると、自分の家とは全然違う匂いに包まれた。なかなか大きなシューズボックスがついていて、マンションにしては広い玄関はいっそ寒々としている。短い廊下を抜けると、そこは私の部屋より広いリビングで、ソファーとローテーブルとテレビにパソコン、あとはそれなりに収納家具がいくつかあるくらいなのだけど、何よりも存在感を放っているものがあった。
「直って将棋指すの?」
リビングと続き間になっている和室は襖が取り去られていて、そこに将棋盤があった。小学校のとき男子が学校に持ってきていた折りたたみ式の安っぽいものではなく、テーブルみたいになっている分厚いやつ。サイズは普通の(と言っても普通がよくわからないのだけど)将棋盤と同じだろうし、隅に寄せてあるにも関わらず、部屋の主のごとく自己主張している。
「……真織さん、ちゃんと『指す』って言葉知ってるんだね」
無意識に使っていた言葉を指摘されて、私の方が意外だった。
「うちの会社のおじちゃんが大の将棋好きでね、『囲碁は打つもの、将棋は指すもの。これ常識以前!』ってうるさいの」
「そうなんだ。だけど将棋を指す側の人間から見ると、ちゃんと『指す』って言ってもらえると心を掴まれるね」
「そういうもの?」
「うん。今掴まれた」
帰り際見せるあの目みたいに、直は深い瞳を少し揺らした。やはりどうしたらいいのかわからず、逃れるように将棋盤に近づく。
「あ、これが駒? こっちも立派だね。見てもいい?」
「いいよ」
桐箱(多分)を開けるとこれまた手触りの良い布袋が入っていて、中でカシャカシャと音がした。中身は予想通り将棋の駒だった。ザラザラと袋から出してみると、やはり記憶にある安い駒よりは立派なような気が、しなくもない。
「なんか高そう。こんな駒持ってるなんてよっぽど将棋好きなんだね。強いの?」
いつもならテンポよく返ってくる返事が聞こえない。不思議に思って振り返ると、直は魂でも抜かれたようにポカンと私を見ていた。その反応に私の方までポカンとしてしまう。すると突然お腹の底から笑いがこみ上げてきたらしく、直はひとりでクツクツと笑い出した。
「そんなこと聞かれたの、小学校以来かなー?」
そんなに笑われるほどおかしな質問だっただろうか。少し不満げな顔になった私に気付いたのか、直は笑いを収め、今度は少し悲しそうな、それでいてどこかスッキリした複雑な笑顔で答えた。
「そうだね。将棋、好きだし強いよ」
部屋に将棋盤があったから「将棋が好きか」と聞いた。それに対して直は「好きだ」と答えた。何もおかしなところのない、ごくごく普通のやり取りだったのに、直の表情と言葉が頭から離れなかった。
「真織さんは将棋指せる?」
「私? 全っ然! この読み方すら知らないもん」
『香車』と書かれた小さな駒を一つ摘んで見せる。
「ああ、それは『きょうしゃ』」
「そうなの? 『かしゃ』かと思ってた」
「『香料』の『香』らしいよ。当時貴重だったものから名前つけたんだって。『金』『銀』『玉』『香料』。その様子だとルールも知らないでしょ?」
「うん。私が将棋でできるのなんて……これくらい」
数枚駒を立てて指でチョンッと押すと、パタタタタときれいに倒れた。
「この駒、倒れる時いい音するね! すごい! 久しぶりにやったら気持ちいい」
ちょっと感動して直に笑顔を向けると、なんだか床をのたうち回って笑い転げていた。
「あははははは! そ、そんなに楽しいならまだ駒あるから全部並べてみようか」
ヒイヒイ笑いながら直はクローゼットから駒を出してきた。その数一、二、三……五セット!
「なんでこんなにあるの?」
「集めてるわけじゃないから多い方じゃないよ。昔使ってたやつとか、いただいたやつとか。はい、全部使って」
言われるままに出してみる。駒は一セット四十枚らしいのだけど、中には予備で一、二枚多く入っているものもあって、五セット全部だと二百五枚。
「これはいい音がするから将棋盤の上に並べたい」
「じゃあ、盤から床に続くようにこっちの方に延ばして行こう」
「え! 将棋盤もふたつあるの? じゃあこれも使う」
「何かで橋を作って繋げたらいいかも」
「この駒……ちょっと不安定で立たせるの難しいな。倒れても被害が少なくて済むように途中途中に衝立置いておくね」
「せっかくだから間にギミック挟む?」
「ギミック?」
「例えば……」
直は周りを見渡して数冊の本を持ってくる。
「本でこうやって階段を作って、そこを下るようにする、とか」
「わーいいね! 楽しそう!」
山と積まれた駒の中から直はスッと一つ取って並べる。また一つ取って並べる。目の前で繰り返されるその動作に釘付けになった。それは流れるように自然で美しい動きだったのだ。直が駒を取るというよりも、駒が直の手に吸い寄せられていくみたい。直の視線は並んでいく駒の方に向いていて、取る手は見ていない。スッ、スッ、というその動きは無意識のものらしい。同じように持とうとしても、私だと駒に嫌われているのか簡単に掴めない。掴んでも特段美しくない。おじちゃんが駒を持っているところを見たことないけれど、将棋を指す人ってみんなこんな風なのだろうか。ついボーッと見とれてしまって、慌てて作業に戻る。
階段を並べ終えた直は、続けて大型の本でスロープを作っていた。
「倒れた一個がここを滑ってくれるといいんだけど」
ちょっとそっと本を傾けても、駒は全然滑ってくれない。
「もっとスロープの角度を急にしたら?」
「かなり角度をきつくしないと難しいな」
本と駒の材質の問題で、滑らせるのは難しそうだった。
「何か転がる物を置いて、倒れた駒がそれを動かすようにしたらどうかな。スロープを転がって、次の駒に繋がってくれたら……」
「ちょっとトイレットペーパーの芯取ってくる!」
実験を繰り返してみた結果、スロープの角度をつけると芯が勝手に転がってしまうし、逆に安定させると、軽い芯とはいえ駒で動かすのはなかなか大変だった。
「芯を押す駒は玉にしよう。少しでも重量ある駒の方がいいから。それで芯をスロープにギリギリ止まっている状態にしておかないと」
直は色々試行錯誤して、スロープの角度を調整し、結局細く切った布ガムテープを二重に張り付けてストッパーとした。駒も少し落下させることで、芯に与える衝撃を大きくする。
その間私は割り箸で橋を作って盤と盤を渡してみたり、開いた本をかぶせてトンネルを作ってみたり、工夫を重ねていた。
「下るのは本でもいいけど、上るのは本だと厚すぎてダメだね」
「あ、ちょうどいいのがある!」
直は何十枚か真っ白な色紙を持ってきた。
「これなら少し厚みがあるし、高さ調節もできるよ」
「本当だ。ありがとう」
何度か倒しながらも、一応最後までドミノは完成した。
「真織さん、スタートしていいよ」
「私が押していいの?」
「真織さんが始めたことだから」
「なんか、緊張するね」
こうしている間にもどこか倒れそうなので、余計な押し問答はせず、遠慮なく押させてもらうことにした。
「じゃあ、行きまーす!」
将棋盤の上に並んだプラスチック製の小さな“歩”をチョンッと押すと、トトトトトと素早く倒れ、割り箸の橋を渡ってもうひとつの将棋盤の上に向かう。やはりとても澄んだ音をさせながら立派な駒たちも順に倒れていき、本の階段を下って、落下した王将がギリギリで止まっていたトイレットペーパーの芯を押した。グランと揺れて芯は見事にスロープを転がる。
「あ! やった!」
無事に次の駒が倒れ、本のトンネルをくぐってから、色紙で作ったゆるやかな階段を上る。そして上り切った最後の一個が崖から落ちて、カランと金属のボウルに入った。
「わああああ! やったー!」
「おおー、できた」
時間にすると多分十秒程度だったと思う。並べたりギミックを作ったりした時間に比べてなんてあっけない。それでも最後まで思った通りに倒れてくれて、ものすごい充実感があった。
さすがにもう一回やる気持ちにはなれず片付け始めると、種類ごとに集める私に対して直は全部の駒を将棋盤の上にゴチャッと固める。
「真織さん、将棋崩しは知ってる?」
「見たことはある。ジェンガみたいなやつでしょ?」
五セット分まとめた駒の山はなかなか壮観で、将棋崩しもやり甲斐がある。点数とか難しいことは考えず、とにかく音をさせずに取ろうということになり、直は私に先手まで譲ってくれた。それでも、悩んで悩んで端の方をこわごわ引っ張る私をあざ笑うかのように、直はあの美しい手つきでスイスイと抜いていく。時には指一本で二~三枚まとめてすーっと取る。それはずっと見ていたくなるような気持ち良さがあった。
「なんでそんなに上手なの?」
「『なんで』って言われても」
「直の指って吸盤みたいになってない?」
「普通だよ。ちょっとベタついてるかな」
右手の指先をじっくり触らせてもらうが、全然ベタついていない。乾き過ぎてもいない。あったかくて、やわらかくて。こんな風に触らせてくれるのに、私からは遠い手。
「手、きれいだね」
掴む力をゆるめて顔を見上げると、パッと手を引っ込められた。
「モデルになれそう?」
「それは無理かな」
モデルみたいな“見せ物”の手じゃない。なんというか“実用的”な手だ。ベタつきだけじゃなく、大きさも厚みも、全てこれが正解だっていうようなちょうどいい手。
「不正がないことはわかった。直の番だよ」
直はやっぱりほとんど迷わずスイと取った。手の問題じゃない。駒が直を選んでいるのだ。当然だけど、私が負けた。駒が私の手を嫌って逃げまくったせいだ。将棋はルールさえ曖昧だけど、これですら負けるなんて余程相性が悪いに違いない。終わった時には同じ姿勢を続けていたせいでぐったりしていた。
「はあああ、疲れたー。背中痛い。直は平気なの?」
「いや、多少は肩凝ったけど、同じ姿勢を続けるのには慣れてるんだ」
言葉通り、痛がる様子もなくサッと立ち上がる。
「もうお昼過ぎてる。お腹すかない?」
かれこれ一時間以上も将棋に没頭していた。それを意識したら急にお腹がすいてきた。
直は黒いエプロンをつけてキッチンに入る。冷蔵庫から取り出した発泡スチロールの箱には、私なんぞはテレビでしかお目にかかったことないレベルのカニが、ドーン、ドーンと二匹(カニって二ハイって数えるんだっけ?)鎮座していた。
「わあああ! すごい! こんな立派なカニ、友達の結婚式で食べたくらいだよ。しかもそのときは脚一本だけ。これ食べていいの? 嬉しい!」
「結婚式で食べたならタラバじゃないかな? 地元の人に聞いたら本当においしいのは毛ガニだって言うんだ」
直は携帯で食べ方を確認しながら寸胴鍋を出した。
「『カニ味噌がこぼれないように、甲羅を下にして茹でます』だって。大きな鍋ってこれしかないからいいかな?」
「いいよ、何でも。火が通れば食べられるでしょ」
一人暮らしで炊き出しするような鍋持ってる人なんて、滅多にいないと思う。殻のまま一度軽く洗って、大量の塩とともに茹でると強烈な磯の香りが部屋中に充満し始めた。
「高価なはずなのに悩ましい匂いだね。直は匂いついても平気?」
「嬉しくはないけど、まあ気にならないよ」
とは言え、赤くなったカニにはテンションが上がる。迫力と存在感はさすがだ。
「そう言えばこのカニどうしたの? 地元の人って?」
「一昨日まで北海道に行ってて、せっかくだからお土産に買ってきた。あとはイカ飯とラーメンと豚丼とスープカレー。デザートにお菓子も買ってきたよ」
カウンターに並んでいく北海道物産展のごときレトルトパックと箱。
「買い過ぎ……」
「真織さんは何が好きなのかわからなかったから。それにレトルトは日持ちするから大丈夫。あ、お菓子は余ったら職場にでも持って行って」
「ありがとう」
私のためにあれもこれもって選んでいる直の姿を想像したら、なぜだか胸がいっぱいになった。せっかくのカニも喉を通らないかもしれない。
手伝いを申し出てみたところでご飯は炊けていると言うし、あとはレトルトパックをあたためるだけだった。
お湯が沸くのを待ちがなら、カニと格闘する直を見ると、食べやすいように外した脚や爪の殻の一部を切り取ってくれているようだった。男性のエプロン姿というのもなかなかいいもので、腕まくりによって見えている肘から手までのラインに胸が高鳴る。おじちゃんもよく腕まくりしてるけど、チラリともときめいたことなんてないのに。
私のいかがわしい視線に気づくことなく、直は甲羅の三角部分を切り取った後にパカッと開いた。
「おお~! すごいカニ味噌!」
直の反応からして、これはおいしいものなのだろう。だけど私から見たら、ただのグロテスクなどろどろだ。
「私、カニ味噌食べたことない。パスタソースに含まれてるやつくらいしか」
「もったいない! 毛ガニはカニ味噌がおいしいんだよ。ホラ」
直はティースプーンに茶色いそれをすくって、何のてらいもなく差し出す。見た目で抵抗があったのに、直の手からだとすんなり食べられた。ティースプーン越しに私の震えと熱が伝わりそう。
「……あれ、おいしい」
「そうでしょ? パンとか野菜をつけてもおいしいよ」
私の中にドキドキを残してあっさりカニの解体に戻る直は、全然気にしていないみたいに見えた。
カニを食べる時は無言になるというけれど、直が一本一本割ってくれたから、会話も滞りなく流れていく。
「セレブに生まれなくてよかった~! カマボコくらいしかカニとの接触がないと、こんなにも感動できるんだもん!」
「結婚式で食べたんじゃなかった?」
「たった一本だよ? あんなのただの飾りでしょ?」
「カニも喉を通らないよ……」と乙女なことを考えていたのは誰だったのか。着込んだ乙女をバサリと脱ぎ捨てて、豚丼にイカ飯にスープカレーにと手を伸ばす。おいしい物の前では、食べ合わせなんて些細な問題だ。
「会社の方はどう?」
犬騒動であの日は仕事が進まず、二日続けて残業した疲労が、イカ飯のおいしさを一瞬忘れさせた。
あの後、カオスと化した事務所の中で、ブラジルが映画のワンシーンのように優しく犬を抱き上げた。唯一英語が離せる社長に何やら話し掛けていたのだけど、社長の顔がみるみる晴れて行く。
「おお~、ありがたい! ブラジルが飼ってくれるって!」
早々に飼い主が見つかって喜びたいところだけど、雇用契約書を作った私はすかさず指摘した。
「ブラジルってマンション住まいだよね? ペット可なの?」
社長が通訳してくれるけど、言葉の問題じゃなくて話が噛み合っていかない。
「お前じゃ話にならん! 奥さんに電話しなさい! ワイフ! テレフォン!」
デキる頼子ちゃんはササッと社員名簿をめくって奥さんの連絡先に電話した。
「━━━━━はい━━━━━はい。あ、そうなんですね! いいんですか? ━━━━━はい! よろしくお願いします! お仕事中すみませんでした。失礼しまーす」
何度も電話越しに頭を下げつつ通話を切って、ニッコリ笑う。
「ペット可のマンションだから、ちょうど犬を飼おうと話してたらしいんです。本当はちゃんとペットショップで買おうと思ってたけど、そういう理由なら雑種でも構わないって」
「奥さん、素敵! 器がデカい! ブラジルを養うだけあるね~」
犬も自身の状況が理解できるのか、先程までの暴れようから一転、大人しく応接セットの扇風機の横で昼寝を始めたのだった。
「あはははははは! 拾われた者同士、身を寄せ合って生きていってくれるといいね」
楽しそうな直の姿に、私の苦労もちょっとだけ報われた気がした。
一時間の作業は思った以上に私を疲れさせていたようで、パチンという澄んだ音で目覚めて初めて、眠っていたことに気付いた。食後にコーヒーを飲みながらテレビを観ていて、そのままソファーで寝てしまったらしい。直のものと思われるタオルケットが、私をまるごと包み込むようにふわりと掛けられていた。
薄暗い部屋を見回して、テレビの下にあるレコーダーの時刻表示を確認すると十五時四十三分。起きあがろうとした私の耳に、再びパチンという音が聞こえてきた。少ししてまた、パチン。パチン……パチン……。顔と目だけ動かして音のする方を見ると、直が将棋盤の前に座っていた。流れるような動作で駒を掴み、パチンと置く。また別の駒を掴んで、パチンと置く。それを何度も何度も繰り返している。
少し前の私だったら、ひとりで将棋指すなんて暗いな、なんて思っただろう。だけど暮れかけた光の中で、無駄も迷いもない動作で駒を動かし続ける直の姿は、神々しくさえ見えた。はっきりとは見えないながら、その表情は穏やかで、見ている私の心もとても幸せな気持ちになる。その姿をもっと見ていたくて、目だけ出るようにタオルケットを引っ張りあげ、もうしばらく寝たフリを続けることにした。
パチン……パチン……。
その音で目覚めたはずなのに、眠りに誘われそうなほど癒される。口元まで覆うタオルケットからは男の人の匂いがして、思わず深く息を吸い込んだ。
駒音に導かれるように一緒に過ごした時間を遡って行くと、出会いは武との別れがきっかけだったと思い出した。あんなに悲しかったのに、直のことも最初は面倒臭かったのに、武のことはほとんど思い出さなくなっていた。九年も付き合った人と別れたにしては薄情なほど。静かにあっさりと、季節が移り変わるように、直は私の生活を塗り変えた。もう元に戻りたいなんて思わない。そっか、私は直のことが好きなのか。
妙な出会いだったにも関わらず、ずっと穏やかな時間をくれて、いつの間にかそれが当たり前になって。こんな時間がいつまでも続けばいい、と思う。同時にこんな時間がいつまで続くのだろう、とも思う。私たちの関係って、一体何なのだろう。
『どうするの? 仮初め彼氏に 片想い』
あ、季語が必要なんだっけ? えっと、
『どうしよう? 誘うに誘えず クリスマス』
いや、川柳に季語はいらないのか。
『クリスマス 彼氏がいるのに 一人きり』
結局季語入っちゃった。
手慣れたペースで検品に励みながら、脳内で道路標識より情緒のない川柳もどきを考えてしまうくらい、私はもどかしさに身を捩っていた。
直との曖昧な関係を進めたいと思っても、自分から誘う勇気がない。普通に彼氏だったら「クリスマスはどうする?」ってお菓子を食べながらでも聞けるけれど、「私と直って付き合ってるんだよね?」と確認から入る必要がありそうなのだ。
社会人になると、なんとなーくイイカンジになって、さりげなーく食事の機会を作って、それとなーく雰囲気出して……ってお付き合いが始まるのだと聞いていた。だけどそこにトラップが仕掛けてあって、マナーを無視して「私たち付き合ってるんだよね?」と確認してみると「え? 付き合ってないよ」と返されることもあるのだとか。たけどまさか「付き合いましょう」「そうしましょう」って始まった相手に、再度確認が必要なんて、クレジットカードの登録並みの念の入れようだ。
検品を終えて商品をおじちゃんに引き渡してから事務所に戻ると、当の直からメッセージが届いていた。
『明後日、鰻食べに行かない?』
お財布を開いて、一万円札の数を数える。単品だけなら五千円もあれば足りるだろう。
『行く』
送信してから違和感に気づいた。明後日は十二月二十四日。『イブに食事しよう』ではなく『明後日』なんて、直って何かを深く信仰していて、宗教が違うイベントはやらない主義なのか。それとも、考えたくないけど、たまたまイブだっただけで通常のお誘いなのかもしれない。頼子ちゃんなんて、御曹司(極小粒)が半年以上前から予約していたという、なんとかクルーズで豪華ディナーらしいのに。きっと濃紺の小箱をパカッてされるに違いない。対して私は鰻。鰻はもちろん高級だし大好きだけど……鰻だ。危ない、危ない。絶対期待しない方がいい。
結局あらゆる確認ができないまま当日を迎えた私は、浮かれるな! という戒めに反して真新しいワンピースを着込んでいた。私の中に潜む、飼い慣らせない野獣のごとき乙女が暴走した結果だ。けれどアプリコットピンクのワンピースを着ている頼子ちゃんよりは地味に抑えたグレー。乙女もそこは自重したようだ。
待ち合わせのカフェにもつい早く着いてしまったのに、やはり直は早く来ていて、紙を見ながら深く考え込んでいた。半分残っているコーヒーは、すっかり冷たくなっているに違いない。
「お待たせしました」
声を掛けると直はすぐに顔を上げ、ちょっと驚いてからしっとりと目の色を深くした。その目はやっぱり居心地が悪くて、痛いほどの胸の内まで見透かされそう。
直はこれも毎回のように、コートのポケットに紙を突っ込んだ。
「じゃあ、早速行こうか」
葉を落とした街路樹にもショーウィンドウにも、こまやかなイルミネーションがめぐらされ、街中の光量が多い。そして、それぞれに精一杯のおしゃれをした恋人たちは、その光量を上回る輝きを放っていた。そんな中を、ごく普通の平日と変わらない態度で、直は淡々と目的地へ向かっている。
「鰻屋さんなんだよね?」
「うん。だけど懐石料理っていうか、鰻以外も出してもらえるよ。今日は俺がご馳走するから」
「懐石料理!? 無理無理! そんな高級品ご馳走になんてなれないよ!」
「たまにいいじゃない。俺が食べたいんだし」
「だったらせめて割り勘にしよう! そうじゃないと申し訳なくて味わえない」
古びてもそれが味わいとなっている上品な引き戸の前で、直は珍しく不機嫌な顔をした。
「真織さんが立派に働いていることは認める。だけど、俺だってそれなりにプライド持って仕事してるし、食事一回くらいで破産したりしないよ」
私は単純に悪いなって思っただけなんだけど、それが直の仕事振りを否定することになるなんて思わなかった。
「……ごめんなさい」
「謝らなくていいから、楽しくおいしく食べよう」
腹をくくった私は直に続いて引き戸をくぐった。着物姿の店員さんに案内されたのは、畳の上にイスとテーブルが用意された不思議な個室。
「こんなお部屋初めて」
「俺も。珍しいね」
二階なので夜景というほどではないけれど、普段の数倍キラキラが増した街並みは十分に見ごたえがあった。
「きれい……」
節電が叫ばれる昨今で、これが無駄な電気だってことはわかってる。わかってるけど、きれいなものはきれいなのだ。
「もしかして、これを見せようとしてくれたの?」
「え? ああ、うん。そう」
強く頷く直の様子はとても素直だった。
「なんだ。偶然か」
「……うん。ごめん」
「偶然でも見られてよかった。ありがとう」
直はホッとした顔でイスに座った。
「お腹すいたね」
グラスに注がれたビールと一緒に、前菜が運ばれてきた。とりあえず乾杯して(「メリークリスマス」とは言わなかった)箸を伸ばす。やはりクリスマスを意識してか白くて丸い謎の食べ物は、真ん中が星形に繰り抜かれ、ピンク色のつぶつぶが埋め込まれている。
「あ、長芋に明太子か」
直も少し驚いた顔で、でもおいしそうにもぐもぐ咀嚼していた。小さな魚の照り焼き、丸い鰻巻き、一切れずつ数種類盛られたお刺身。直はきれいな手つきで次々と口に運ぶ。
駒を扱っているときもそうだけど、直の迷いのない手の動きが、とても好きだと思った。熱の上がる頬は、飲み慣れない日本酒のせいにする。あまり得意ではないのに、飲みやすいものだからどんどん飲めてしまい、事実酔ってもいた。
「真織さんのところの社長、最近は何か拾ってきていないの?」
鰻は白焼きか鰻丼か選べたので、私も直も鰻丼にした。鰻のふっくらとした身は、へー! 鰻ってこんな味だったんだ! と初めて知る食べ物みたいにおいしかった。
「拾うどころか逆に、頼子ちゃんと私が電子辞書と睨み合いしながら必死に作ったブラジルの雇用契約書を捨てかけて、頼子ちゃんに一日口きいてもらえてなかった。あの人、そのうち頼子ちゃんに捨てられると思う」
「でも捨てられたら、自分で自分を拾ってきそうだよね」
そう言いながら爆笑する直は、少し酔っぱらってるのか、いつもよりトロンと甘やかだった。これだけたくさんご馳走になったのに、肝吸いが一番好きだと言っても、
「何でもいいよ。真織さんが満足してくれたなら」
と笑う。お腹いっぱいの胃をやさしく癒す肝吸いと直の笑顔に、私もうっとりと目を細めた。
帰りのタクシーの中ではお互いずっと黙っていた。やましいことは何もないけれど、運転手さんがいると少し話しにくい。普段は電車と徒歩で移動しているから、この距離での沈黙は息苦しかった。そっと見上げた直の顔は街に溢れる光が逆光となって、いつも以上に感情がわからない。不安になって見つめていると、安心させるようにふわんと笑ってくれた。
今、ものすごくキスがしたい。
私の気持ちの濃度に反応したように、直の瞳の色も深くなった。
その目の奥を、もっともっと近くで見たい。
私と直の間に流れる空気の密度が変わった瞬間、直はふっと窓の外を向いてしまった。狭いはずのタクシーの中で、急に遠くなる。
込み上げる何かを堪えるために俯くと、視界に直の手が入った。駒を持つきれいな右手。こうして一緒に帰るのは何度もあったことなのに、一度も手を繋いだことがない。とても近いのに、少しフラついてもぶつからない程度には距離がある。少し効きすぎたエアコンの熱い風が、私と直の間を悠々と抜けていく。
せめてその手に触れたくて、中指を反らすようにして伸ばすものの、すぐに力が抜けてしまう。もう一度指を伸ばしても、どんな魔法がかかっているのか決して私の言うことを聞いてくれない。そんな不毛な葛藤を繰り返しているうちに、私のマンションに着いてしまった。
「真織さん、これ」
別れ際になって、ラッピングも何もされていない紙袋を渡された。
「一応クリスマスプレゼント。何を贈ったら喜ばれるかわからないから、気に入らないかもしれないけど」
「ありがとう。……直もクリスマスは知ってるんだね」
「さすがに知ってるよ。でも言ったら警戒されるかな、と思って」
「なにそれ」
私も小さな包みを押し付けるように渡す。無駄になるかと思っても用意したプレゼントだ。深い緑色のリボンをやさしく撫でて、直はにっこりと笑った。
「ありがとう」
タクシーを待たせたままなので、名残惜しくてもマンションに入った。いつもの直の視線が酔った肌にはいつも以上に沁み込む。私はその余韻をまとったまま部屋に入って、喉乾いたなーと言いながらもそのままソファーにドカッと座り込んだ。
「中身……なんだろう?」
直がくれたのは白い卵形の小さな望遠鏡のようなものだった。隣のハンドルでクルクル回るようになっている。全体が星や天使の羽や宝石みたいなビーズで装飾されていて、蛍光灯の光を受けてキラキラ光る。
「かわいい……でも、これ何?」
卵にはレンズのようなものがついているので覗いてみると、中は一層キラキラしていて、小さな星や色とりどりに輝く砂がゆっくりと、そして次々と変化していく。
「万華鏡かあ」
万華鏡と言うと、和柄の筒状で、中のビーズがザラザラ回るイメージしかなかったので、それは衝撃的だった。
「すごい……トローンってなってる」
中に液体が入っているらしく、私の記憶にあったカタッカタッというぎこちない変化ではなく、溶け合うようにトロリふわーんと変化する。どの一点を切り取っても幻想的できれいで、目が離せずに、クルクルクルクルとハンドルを回し続けた。
きっと一生懸命選んでくれたのだろう。詳しくない私でも、その辺に売っているものじゃないことくらいは想像がつく。私があげた手袋なんて陳腐に思えるくらい素敵なプレゼントだった。
直に向けた行き場のない気持ちが満腹の胃の奥に溜まって、身体が重かった。普段通りベッドで眠るのを、この重みが邪魔をする。
『省エネ』なんて言ってたのに、私の中には何の役にも立たない熱が溢れている。そうして燻った熱は発電所のタービンではなく、ひたすらに万華鏡をクルクル回す。
踏み込むのを躊躇ってしまうのは、それなりに理由がある。付き合いたいという直の言葉は嘘ではなかった。でも、このプレゼントからも直の愛情は感じるのに、それがどの程度のものなのかわからないのだ。身体を要求されるなら話はもっとずっと単純だったのに。いずれにしても、直が求めている「恋人」と私がなりたい「恋人」との間には大きな乖離がある。
どんなに細かく過去を思い起こしても、一度も直から好きだとは言われた記憶は見つからない。万華鏡を回すほど想いは増すばかりで、私はとうとう眠れないままソファーでイブの夜を過ごした。
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