△2手 well
社長が今度は扇風機を拾ってきたので、恒例となっている頼子ちゃんとの応酬が、また元気に始まった。
「社長! ゴミを拾ってきちゃダメって言ってるじゃないですか!」
「これはゴミじゃない。リサイクルショップに持ち込もうとして重くて困ってたおばあさんから、道の途中で譲ってもらったんだ~。『捨てる神あれば拾う神あり』むしろ神に等しい行為だよ」
「では私は『捨てる神』になります。事務所は狭いんですから」
「待って! ちゃんと動くんだから!」
『神』の懇願により、事務所内に強風が吹き荒れる。
「ほらほら! 次の夏は涼しくなりそうだねえ」
「真織さーん」
しつこかった残暑もすっかり鳴りをひそめ、ショールが手放せなくなってきたというのに、社長は気持ち良さそうに強風にあおられている。社長が吹き飛ばされるのは構わないけれど、書類が舞うのは困る。
「まあまあ、今回は問題なさそうだから見逃してあげたら? エアコンも最近変な音するし、もしかしたらその扇風機に救われる日がくるかもしれないよ」
フォローを入れつつ、バチンと強めの音をさせて扇風機を止めた。バサバサ言っていた壁のカレンダーも落ち着きを取り戻す。
「鈴本さん、わかってるねえ」
うちの社長はよく変な物を拾ってくるのだけど、今回はちゃんと使えるだけマシだと思う。
「あ、お昼だ! 頼子ちゃん、コーヒーは私が淹れるから機嫌直して」
「すみません。ありがとうございます」
私が勤めている(株)Tachikiは小さな小さな貿易会社で、中国から爪楊枝を輸入している。
そこで私は商品の検品(輸入品には粗悪品や虫なんかが混ざっていることもあって、ぜーんぶ確認します)、営業を兼務している社長が取ってきた契約関係の雑務など、こまごまとした仕事を一手に引き受けている。というのも、従業員は社長を含めても片手で足りるほど少ないのだ。社長と私、経理の風見頼子ちゃん、出荷全般を担当しているおじちゃん。ここに明日からアルバイトがひとり加わる予定だけど、それでも五名だ。
おじちゃんは社長の友人で同い年の五十代。この会社設立時から一緒に働いている。営業で外回りが多い社長に代わって、副社長業も兼務しているのだけど、ゆる過ぎる社風に流されて敬語は入社ひと月ですっかり取れてしまった。
恐らくみなさんが思い出す爪楊枝は基本的に食品などを刺すために使うもの。こけしをイメージして付けられている飾りの部分は、こんな細かい細工もできますよーと技術をアピールするために施されたのが始まりだとか。従ってあれは日本特有の形状だったのだけど、今となっては同じようなものが中国から安価に輸入することも可能になって、うちみたいな会社が存在する。ちなみに歯に挟まったものを取る用の爪楊枝は別の形状をしていて……なんて話はどうでもいいか。
お昼は各自自由のはずなのに、なんとなく全員集合することが多い。バタバタと階段を駆け上る音がして、おじちゃんが飛び込んできた。一階が倉庫、二階が事務所になっているのだ。おじちゃんは愛妻弁当を広げるのももどかしげにインターネットを立ち上げる。そのデスクにコーヒーのマグカップを置くと、パソコン画面から目を離さずお礼の代わりに片手を上げた。
「今日は何?」
「竜王戦第三局」
「ふーん」
一応聞いてみたものの、これは単なる挨拶代わり。おじちゃんは大の将棋ファンで、なんとか戦だ! かんとか戦だ! と熱心に観ている。将棋を観るために職場のパソコンで有料サイトを契約するほどの猛者だ。ちなみに料金はおじちゃんの給料からしっかり引かれているらしい。
私には静止画にしか見えない、大人ふたりが向かい合って座っているだけの映像を流し見て、頼子ちゃんにもコーヒーを渡す。彩りも綺麗な手作り弁当を広げる彼女の横で、私は鮭フレークをぶちこんだだけの、お手製というにもはばかられるおにぎりにかぶりついた。
あれからふた月近くが経過している。直からはほぼ毎日、『お仕事終わった?』とか『今日の晩ご飯は何だった?』とか、そんなどうでもいいメッセージが届く。それに対して私も『今日は少し残業して今終わったところ』とか『二日続けてのカレー』とか返している。少し面倒臭いけど、このくらいは“彼女”の義務だ。それで誘われれば週に一回程度食事に行く。昨日も直の方から『水曜日は空いてる?』と連絡が来たので、明日会うことになっている。でも、ただそれだけだ。
「真織さん、今週の金曜日でもいいですか?」
「うん。私は大丈夫だよ」
「他のみんなも都合いいみたいなので、金曜日でセッティングしますね」
「うん、ありがとう。幹事なんて任せてごめんね」
食べる手は休めず、携帯のスケジュールに『歓迎会』とメモをする。
「頼子ちゃんは大丈夫なの? デートとか」
「今週は出張でいないんです」
「はあ~忙しいね~。さっすが大手の営業マン!」
頼子ちゃんは、実はうちの社長の息子(こんな会社でも一応御曹司って言うのかな? “御曹司(極小粒)”としておこう)と付き合っている。彼は大手の貿易会社で営業として活躍しており、私の勝手な予想だと手取りなら社長より稼いでいるんじゃないかと思う。
社長を訪ねてやってきた彼が、入社間もなかった頼子ちゃんのかわいらしい外見と高女子力に一目惚れし、培った営業力を駆使して自分を売り込んだのだ。将来は頼子ちゃんと手に手を取り合ってこの会社を盛り立てて欲しい、というのは、結婚も吹き飛んで定年まで辞めるつもりのない一社員の希望だ。ちなみにふたりが付き合っていることを社長は知らない。
「真織さんは彼と会わないんですか?」
「うん。明日約束してるから金曜日はないと思う」
「あれ? 彼氏さんに会うのって、いつも週末じゃありませんでした? 明日は水曜日ですよね?」
一連の出来事を隠してるつもりはないのだけれど、曖昧過ぎて話していなかった。
「それ前の彼氏。今は違う人と付き合ってる、一応」
『一応』と付けずにいられなかったのは、本当は付き合ってないんじゃないかと、私自身疑っているからだった。
「ええー! そうなんですか? 前の彼氏さんとは長かったから、てっきり結婚するものだと思ってました!」
うん、私も!
「なんかいろいろあってね」
これほどまでに現状をまとめる言葉はないだろう。そう、「なんかいろいろ」だ。
「今の彼氏さんは土日休みじゃないんですか?」
「そうみたい。平日に今日は休みって言ってることが多いから」
「何のお仕事されてるんですか?」
言われてハタと気付いた。
「あれ? 何だろう? ちゃんと聞いたことなかったな。正社員じゃないって言ってたから、勝手にフリーターだと思ってた」
しっかり者の頼子ちゃんからすると信じられないことのようで、おいしそうな手作り弁当越しに遠慮のない呆れ顔を送ってくる。でもちゃんと働いてくれさえすればどうでもいい。武の仕事だって結局よく知らなかったし。
直は無口というわけではないのだけど、何でも楽しそうに聞いてくれるせいで、ついつい私がしゃべりすぎてしまう。そのためか、彼についての情報は全然増えていかない。
「そういえば、『先生』って呼ばれてたな」
この前一緒に食事していたとき、直に電話がかかってきたのだ。
「ごめん、ちょっと電話」
私が頷くのを確認して通話ボタンを押した途端、余程声が大きかったのか、電話から漏れ聞こえたのだ。
『━━━━━あ、もしもし有坂先生!』
「もしもし、すみません。何度かお電話いただいてましたよね?」
戻ってきた直が別の話題を持ち出したために忘れていたけれど、確かに『有坂先生』と呼ばれていた。
「学校の先生じゃないですよね。平日にお休みがあるんだから」
「うん。土日に仕事してることもあるみたい。あと出張も多い」
「出張ですか?」
「大阪が多くて、それ以外にもあちこち行くって言ってた」
最初はマメにお土産をくれたんだけど、あまりに多いから大阪や東京近郊はいらないと断った。そもそも正社員でもない年下男子にあんまりお金を使わせるのも申し訳ないので、食事代も大雑把に折半して支払っている。こんな小さな会社でも一応私は正社員で、倹しく生活するならば困らないくらいのお給料はいただいているのだから。
必要以上にハンバーグを噛みながら考え込んでいた頼子ちゃんは、神妙な顔つきでゴクンと飲み込んだ。
「………塾の講師じゃないですか?」
「塾?」
「学校と違って土日勤務もありそうだし、あちこちの支店回ることもあるだろうし。正社員契約じゃないなら尚更勤務形態は不規則だと思うんです」
「あー、本当だ。学校の先生っぽくはないけど、塾ならあり得る」
会話していればわかることだけど、頭はいい人のようだ。だけどどことなく浮き世離れしている雰囲気があって、“先生”と言っても学校の先生とか弁護士とか医師なんてイメージじゃない。だから塾の講師(しかも正社員以外)という答えは、思いつく範囲では一番しっくりする。そっか、塾か。
「まあ、彼氏の仕事くらいサラッと聞いてみてくださいよ」
「そうだね。……頼子ちゃんのハンバーグおいしそう」
「別に普通です」
当たり前の疑問だったはずなのに、おにぎりを包んでいたラップを捨てる頃にはまたすっかり忘れていた。
おじちゃんは食品を刺す用の爪楊枝(社長が買ってきたコンビニ弁当の箸袋に入っていたものを勝手に押収)で歯間の清掃をしながら、
「うーん、すでに後手有利か? 市川は強いな」
なんてボソボソ言い、その隣で社長が、
「僕、囲碁は好きだけど将棋はさっぱり」
と退屈そうに卵焼きをかじっている。私の結婚がダメになっても、彼氏が変わっても、何も変わらない平和な昼休みがのんびりと過ぎて行く。
私が生まれた頃、地球はすでに温暖化していて、省エネは当たり前だった。草食系や恋愛を必要としない人が増えた要因の一つが、そんな環境にあるんじゃないかと、こっそり思っている。
かく言う私も恋愛に割けるエネルギーは多くない。ぬるい職場とは言え仕事はあるし、一人暮らしだから家事だってしなければならない。自分の時間と、それとは別に休む時間も欲しい。だからペースが安定していた武との付き合いには、とても満足していたのだ。恋愛も車と一緒で、走り始めと停まる時が一番エネルギーを使うみたいだから。
急ブレーキでエネルギーを使い切った私は、もう一度走り出すのがものすごく面倒で、直とのお付き合いにはとにかく省エネを心掛けていた。待ち合わせは私の会社の最寄り駅で、行き先も職場と自宅の間にある店。仕事帰りだからデートのためのオシャレも必要なくて、とてもエネルギー効率がいい。
今日は途中のドラッグストアで少しお買い物をしてから行ったので、約束の時間ギリギリになってしまった。
「ごめんなさい。お待たせしました」
「ううん。五分も待ってない」
直は大抵そうであるように、今日もデニムにシャツというカジュアルな服で、何か印刷されている紙を無造作にデニムのポケットに突っ込んだ。折り畳む瞬間、チラッと格子模様と漢字が見えたけど、それより他のことが気になった。
「今日も仕事は休み?」
「うん。昨日は仕事関係の人と飲んだから、今日は午後少し仕事しただけ」
「そうなんだ。飲み会多いね」
世の中には毎日飲む人もいるけど、職場の飲み会ってそんなに頻繁じゃないと思う。うちの場合も、年に数回節目のときと、大きな仕事が入ったお祝いや社員に何かしらめでたいことがあった時くらいのものだ。直の場合、仕事関係の打ち上げが多い。
「そうだね。年中何かしらのお祝い事やイベントがあるんだ」
「そういえば、直って何の━━━━━痛っ!」
帰宅時間帯にボヤボヤしていたから、小走りに駆けていく人の紙袋の角がぶつかってしまった。出血はなく、腕に白い線が入っただけながら、ヒリヒリと痛い。
「大丈夫? 怪我はない?」
「怪我ってほどでもないけど痛い! もうっ!」
「人の流れがあって危ないから早めに移動しようか」
直に促されて少し端の方に寄る。傷の程度を見た直も心配ないとわかったようで、ホッとした顔で聞いてきた。
「真織さん、何か食べたいものはある?」
「ハンバーグ」
昨日頼子ちゃんのお弁当に入っていたのを見てから、ずーっと食べたかったのだ。
「行きたい店がないなら俺が決めてもいい?」
「うん。おいしいところにしてね」
「はいはい」
行き先を決める時に人柄って出るように思う。自分の行きたいところばかり押しつけられても嫌だけど、何から何までこちらに丸投げされるのも辛い。直はいつも私の意向を聞いた上で選択肢を提示してくれるからストレスがない。こちらに頼るくせに文句ばかり言う人だって世の中にはいるのだから、直がこういう人で、とても運が良かったと思う。
電車を一本乗り換えて駅から十分ほど歩いたところにある洋食屋さんは、半分ほど席が埋まっていた。長い年月使い込まれたテーブルは飴色で味がある反面、取りきれない油でベタベタしている。メニューには『ハヤシライス』『ナポリタン』とシンプルな名前が並んでいたので、私は当然『ハンバーグ』を選んだ。
「ハンバーグとライスを二つずつ」
店主の奥さんと思われる女性が復唱して下がると、直は一口水を飲んだ。
「機嫌悪そうだね」
駅で大泣きしたときもそうだったけど、直はこちらの負の感情に対して動揺しない。心配するでもなく、腫れ物扱いするでもなく、ごく自然に接してくる。
「うん。自分でもうまく説明できないけど、今日はずーっとムシャクシャしてる」
直は視線だけで続きを促す。
「しょうもないことなんだよ。自分でもわかってるの。よく行くドラッグストアでね1000円で一つスタンプを押してくれるの。50個貯まったら500円割引っていう」
「ああ、たまにあるね。そういうの」
「カゴに入れる時いちいち計算しないで買うと、かなりの確率で2800円前後なの。今日なんて2970円。『歯ブラシ一本足せばよかったー』って」
直との待ち合わせがあるから戻って買い足す時間はないし、そうでなくても単純にその手間をかけるほどのことでもない。
「そういう時って、大抵迷ってやめた物があったりするんだよね」
「そうなの! でもスタンプを押す人はシビアでね、絶対オマケしてくれないの」
「向こうは向こうで売上に影響するからね」
子どもじゃないんだからそれだって想像できる。私も深く同意した。
「別に恨んでるわけじゃないの。スタンプ一個を惜しむほどケチってわけでもないんだよ。だけどね、なんかなあ……」
本当に恨んでいないかと言うと、一個くらい押してくれてもいいじゃないのよケチ! と思ってはいる。それでもその一個が惜しくて仕方ないというほどのものでもないのだ。自分がそのスタンプ問題で何に腹立たしさを感じているのか、そこがこのモヤモヤの一番不可解であり、肝でもあるところ。
少ししてやってきたハンバーグは、おままごとのオモチャにありそうなほど典型的で美しい見た目だった。きれいな楕円形のハンバーグに赤くてつやつやしたケチャップがトロリとかかっている。つけあわせはブロッコリーと皮ごと揚げたジャガイモ。じゅうじゅう音を立てる鉄板は食欲をそそるはずなのに、箸を持つ手は動こうとしない。
「どうにもならない不運って悔しいよね」
俯いて見つめるばかりの私に、天恵は目の前から降ってきた。結構長い間モヤモヤ漂っていた薄灰色の雲を一瞬で霧散させるという大業を、直はハンバーグを切り分けることと同時にやってのけた。
「諦めるしかないって理屈でわかっててもできないし」
強く共感するあまり抱きつきたい衝動に駆られたけど、間に横たわるテーブルと培ってきた良識の両方に阻まれたので、代わりに自分の両手を強く握り合わせた。
「そうなの! 何にぶつけることもできないモヤモヤが少しずつ少しずつ溜まって、だけどあまりに些細なこと過ぎて誰にも言えなかったの。そもそも今朝から赤信号に連続で捕まったり、トイレットペーパーやコピー用紙が次々切れたり、なんだかうまく行かないことが多くて。些細なことなんだから忘れて切り替えたらいいのに、うまくできないの」
「気持ちの切り替えはかんたんじゃないよ」
「直でも?」
「不運とは少し違うけど、後悔ばかりでウジウジしてるよ。切り替え早い人には『その後悔、何かの役に立つの?』って言われたことある」
はああああああ、と毒素を含む深いため息が出た。スタンプ一個を惜しんでいるなら買い足せば済む話なのに、なんでそこまで私はこだわっているんだろうって、自分でもわからなかった。些細な不運を切り替えられないまま次の不運に見舞われて、一日中落ち込んでいただけなのだ。
さっきまでわからなかった芳ばしい匂いを急に感じて、ハンバーグに箸を入れると、柔らかいのに崩れずスッと切れた。口に含むとびっくりするくらい肉汁があふれてくる。
「すごい肉汁! ハンバーグなのにものすごく肉だね」
「しっかり肉汁が閉じこめてあるから、ナイフで切ったときじゃなくて噛んだ時に出てくるんだって」
「おいしい。食べれば食べるほどお腹すいちゃう」
「あはは!」
ジューシーなハンバーグには少し固めのライスがとてもよく合う。単純においしくて止まらないことと、陶器のお皿にくっついたご飯つぶを取ることに集中し過ぎて、つい会話も忘れていた。そんな沈黙も気にならなかった。
「最近、会社の方はどう?」
うちの会社に興味を持った直は、会うたびこの質問をしてくる。
「この前、社長が扇風機とブラジル人を━━━━━」
グフッ! ゲホゲホゲホゲホ!
まだ冒頭すら言い終わっていないのに、直はハンバーグなのかブロッコリーなのか、とにかく喉に詰めてしまったようだ。私は人殺しになりたくない一心で、直の背中をバンバン叩いた。ようやく息を整えた直はお水を少し飲んで、改めて爆笑する。
「ブラジル━━━━━ひー! 扇風機とブラジル人って! あはははは! 拾ったの?」
「うん。頼子ちゃんに怒られるから頑なに詳細は伏せてるんだけど、とにかく今日からアルバイトに来てるの。今私と頼子ちゃんふたりがかりで英語の雇用契約書を作ってる」
新しくやってきたブラジル人は日系何世だったかで、本名はカルロス……あれ? アントニオ? カルロスは名字だったっけ? とにかくそれっぽい名前なのだけど、おじちゃんが覚えられず「ブラジル」と呼ぶのでそれがあだ名になって定着しようとしている。出荷全般を担当するおじちゃんと組んで、主に倉庫の管理をしてもらうことになった。
ブラジルは来日して二週間ほどで日本語はほぼ話せない。新婚さんで奥様は日本人だけど、英語でやりとりしているようだ。従って、英語の話せない社長以外のメンバーはカタコトのローマ字英語と強引なジェスチャーで意志疎通を図っている。もちろん、金曜日の歓迎会はブラジルのためのもの。
「『ブラジル』って! しかもブラジル人にインスタントコーヒー飲ませてるの?」
「うん。おいしそうに飲んでたよ? 粉のミルクも入れてるし」
「あはははは!」
私も気になって産地を確認したのだけど、表示には「グアテマラ、エチオピア」と書いてあった。まあ、私たちだって中国産の爪楊枝を使ってるわけだし、それしかないのだから問答無用でインスタントコーヒーを飲ませている。
「アリガトウ」
数少ない日本語をニッコリ笑顔で言われると悪い気はしない。しかも日系とは言ってもすっかり日本人離れしたなかなかいい顔の青年だ。
「どういたしまして」
と、こちらも笑顔で返す国際色豊かな職場となった。
「真織さんの会社って、面白いところだね」
「社長が変人なだけであとはみんな普通だよ」
「それで扇風機の方も捨てられずに済んだんだ?」
「置くところないからとりあえず応接セットに座ってる」
「あはははは! お客様!」
「雄弁は銀、沈黙は金」という言葉があるけれど、どちらかだけではダメなんだ。相手の話に反応することも、「聞いています」と伝えることも、すべて愛情表現なのだと、直に教えられた気がする。
武とあんな別れ方をした直後、当たり前だけど私はずーっと不機嫌だった。付き合うって言ったくせに最初は直と会うのも面倒で、何度か気づかないフリで連絡を無視したこともあった。どうせ身体目的なんでしょって投げやりな気持ちで会った私に対して、直は気にした素振りもなく、おいしく食べ、楽しく話し、私をマンションまで送っても指一本触れることなくエントランスで帰って行った。
拍子抜けしてしまった。こう言ったらアレなんだけど、当然男女の関係になるものだと思っていた。自分で付き合うと承諾した手前甘んじて受け入れるつもりで、一応きれいで清潔な下着を選び、心の準備も可能な範囲でしておいたのに、手も握らない。“彼氏”とは言え、好きでもない人と積極的に関係を持つ気はさらさらないので、ありがたくその省エネ関係を維持している。
「じゃあ、また」
アパートのエントランスで、直はいつもあっさりと別れの言葉を告げる。切れていた蛍光灯はようやく取り替えられ、一本だけ妙に白く明るい光を放っていた。その下で、何か言いたげな深い色の瞳を揺らすのも常のこと。視線の残滓は霧雨のように肌にまとわりついて、的確じゃないけど一番近い言葉を選ぶなら「居心地が悪い」。
「はい。おやすみなさい」
それがわかったところで何もできないから、気づかないフリでエレベーターに向かう。そんな私を見えなくなるまで見送って、直はひとりで帰っていく。
「あ、仕事のことまた聞き忘れちゃった」
仕事どころか、直の話題はほとんどしていない。今日は何をしていたのか、どのあたりに住んでいるのか、誕生日はいつなのか、何も知らない。何も知らないことに、今気づいた。聞けば何でも答えてくれるのだから、単純に私が話し過ぎていただけなのだろう。
「ま、いっか。また今度で」
直と一緒にいるのは楽だし好きだ。だけど恋人かと言われると、途端に曖昧になる。三十分ほどの帰り道、一緒にいるのに手を繋いだことさえない。一番最初に握手をした以外は一切と言っていいほど接触がなかった。それなりに有坂行直という人を知ったからわかる。あれはただの偶然ではなく、恐らく意図的に距離を持っているのだ。仕事より何より、そのことが気になる。そして、ほんの少しだけ寂しい。
『次の土曜日、どこかに出掛けない?』と誘って、『え……なんで?』と答える恋人などいるのだろうか? 恋人と週末にデートするって何の不思議もないはずなのに。緊張しながら電話を握りしめた手に、今度は苛立ちが加わる。
『嫌なら別にいい』
『待って! 嫌じゃない! 行く! 行きます! 行きたいです!』
ペースができて定着したものを変えるって、エネルギーがいる。例えばバッグの中で鍵や携帯をしまう位置ひとつとっても、「ちゃんと整理しよう」と変えたはずなのに、数日後には元の位置に戻っていたり。直との付き合いもそんな風に「誘われたら仕事終わりに食事する」というペースで私の生活に組み込まれていた。何もしなければ、永遠にこのままの関係なんじゃないか、と思うほど発展する気配がない。それでつい、誘ってしまったのだ。じゃあ、私自身がどうしたいのかと考えると……考えると……考え……それは、また今度でいいや。
『どこか行きたいところはあるの?』
と聞かれても、何しろ思いつきなので特にない。たいていのところはひとりで行けるし、ふたりじゃないと行けないところなんて……。
「そういう観点で決めただけで、深い意味はないのよ」
「うん」
「ひとりで焼き肉だろうが、カラオケだろうが行けるんだけど、ここはちょっと厳しいというか」
「そうだね」
「友達と来ればいいんだけど、なかなかタイミングもなくて」
「そうなんだ」
「……似合わないと思ってるでしょ?」
「思ってないよ。ちょっと意外ではあったけど」
「ほら! やっぱり思ってる!」
「違う違う。俺を誘うとは思ってなかっただけ」
テーマパークに来てしまいました。理由は前述の通りです。だけど、言わなかったこともある。本当は来たかったのに武は並ぶのが嫌いで付き合ってくれなかったこととか、直ならいいよって言ってくれる気がしたこととか、直となら長い待ち時間も退屈しないんじゃないかなって思ったこととか。
土曜日はやさしい青空が広がり、テーマパークは“省エネ”どころか予想以上に混んでいた。クリスマス仕様の街並みはキラキラとまばゆく、冷たい風に赤や緑のペナントがはためいている。
「直は絶叫系とか平気?」
行く先を決めないまま進みながら、パーク内の地図を広げる。入場ゲートから続く人の流れは、大きなクリスマスツリーや、カフェワゴンや、いくつかある絶叫マシーンに続いているようだった。
「うーん、わからない。真織さんは?」
「スピードが速いやつなら平気。落下するのは苦手だけど」
「どう違うの?」
「直って、ここに来たことないんだっけ?」
「小さいとき一度来たくらいで、あとはここも他の遊園地も行ったことない」
「修学旅行は?」
「修学旅行は行けなかったんだ」
家庭環境にもよるから、そういうこともあるだろう。カラッと話す直に悲壮感はないけれど、ここで深く掘り下げることは躊躇われた。大人になれば彼女と行ったと言われてもおかしくないのに、それもないらしい。
「そっか。じゃあ、とりあえずひとつ乗ってみようか」
大人になった直は「彼女とテーマパークに行く」という経験を積み、「絶叫系は苦手」と自覚した。
「ええー……みんなこんなの好きなの? 俺ダメ。絶対無理。今ので昨日の研究吹っ飛んだ……」
本物のモミの木に、金色の星や雪の結晶、赤いリボンがふんだんに飾られたツリーは、生木特有のあたたかみとみずみずしさが感じられる。多くの人が足を止め写真を撮っているのに、青い顔の直はそれを見もせず、頭を抱えて何やらぶつぶつ言い続けていた。
「しょうがないな。じゃあ、もっと穏やかなのにするか」
絶叫系は避けてやさしいアトラクションをいくつか回ったあと、人だかりの向こうにパレードが見えた。こちらもクリスマス仕様になっているらしく、キャラクターたちもサンタクロースの帽子をかぶったり、赤や白の衣装で踊っている。
「あれ、何だっけ?」
カボチャの馬車にもリースが取り付けられ、あたたかそうなファー付きマントを羽織ったシンデレラが笑顔で手を振っている。その光景を、直は怪訝な表情で見送る。
「シンデレラでしょ?」
「シンデレラって馬車に乗ってたっけ?」
私が桃太郎を知っているように、男の子だってシンデレラは知っていて当然だと思っていた。
「カボチャの馬車とガラスの靴はシンデレラの二大アイテムじゃない」
大雑把なあらすじでさえ「馬車に乗って」「靴を落とした」なんて省略されることはないはずだ。それでも直は首をかしげて考えている。
「シンデレラってウサギを追いかけて靴を落とす話だよね? あれ? 追いかけてたのはドラ猫?」
アニメまで混ざる曖昧さで、おとぎ話を捉えているらしい。
「白雪姫は知ってる?」
「リンゴ食べる話でしょ?」
「……まあ、そうだけど」
靴を落とす、リンゴを食べる、それが物語のすべてではないのに、直にとってプリンセスストーリーはそういうものらしい。
「どんな人生送ってきたらそうなるの?」
「必要な知識じゃなかったし、興味が他のことに向かってて」
「男女問わず“常識”の範疇だと思うよ。女の子なんて七割くらいは憧れるものなんじゃないかな? 王子様とかキラキラしたものとか」
「真織さんも?」
「うーん、肩書や外見だけの王子様には憧れなかったな。頭でも剣術でも何でもいいから、技能持ってる人の方がよかった。魔術師が格好よくて好きだったんだよね」
「あははは! なんか真織さんらしいなー!」
混み合う前に食事をしようとレストランに向かったけれど、同じことを考える人ですでに賑わっていた。さんざん並んで、空腹のピークも過ぎ去った頃、ようやくテーブルに案内される。
「へえ~、すごい。ここまでクリスマスカラー」
ほうれん草が練り込まれた緑色のスパゲッティに、トマトクリームソースのかかった私のお皿に、直は感激していた。
「味は普通だよ。食べてみる?」
「じゃあ、俺のと交換」
星型の人参がトッピングされた直のビーフシチューも味は普通だった。この値段ならもっとおいしいものが食べられるのに。浮き立つ気持ちの奥底で、そんなつまらない自分の声がする。
「あ、これもクリスマスだ」
直のコースについていたフランボワーズとホワイトチョコレートのムースには、ミントの葉が飾られている。
「すごいこだわりだなあ。得した気分」
ムースの三分の一をひと口で食べ、直はにっこりと笑いながらお皿をこちらへ滑らせた。
「おいしいよ」
どんなに待ち時間が長くても、買ったクレープの味がいまいちでも、少女趣味な買い物に付き合わされても、直は不機嫌になったりしない。退屈そうにため息をついたりもしない。
「あ、本当においしい!」
ムースの味はやはり普通だったけれど、どういうわけか心踊るようなときめきがあった。
「ここのレストランって高いと思ったけど、食材や味だけを提供するわけじゃないんだもんね」
「それはそうだよ」
キャラクターの模様がさりげなく入ったコーヒーカップ越しに、直はゆったりと微笑んだ。
「むしろ形に残らないものほど貴重なんだから」
どんなに焼き付けても、この瞬間も気持ちも、いつか忘れてしまうのだろう。だから私もイチゴムースとともに噛み締めて、笑顔を返した。
せっかくだから閉園ギリギリまでいたいところだったのに、足の裏全体が痛くて、花壇の縁に座ったまま動けなくなっていた。
「直は平気なの?」
靴を脱いでふくらはぎをさする私の隣で、直もぐったり背中をまるめる。
「……実は限界。普段の運動不足が祟って」
久し振りに来た夢の国から離れがたいし、せっかくだから夕食も楽しみたかったし、もう少しだけ直と一緒にいたかった。引きずるような足取りでも帰らずにいるのは、そんな未練があるからだ。
「また来ようよ。何回でも」
これが最後じゃない。気持ちを汲んでくれたその言葉で、私は素直に立ち上がることができた。
「だったらもっと体力つけなきゃ」
街灯のひとつひとつにもリースが飾られていて、ゴールドのリボンがオレンジ色の光で輝きを増している。日が落ちてもムード優先で抑えられた明かりの中、たくさんの人を避けながら歩くのは大変だった。直との間に一人入られた途端、人の流れが変わったように飲み込まれてしまい、平均的な身長の直は瞬時に見えなくなった。ここは電話で連絡を取り合って、改めてどこかで待ち合わせた方がいいだろうとバッグをごそごそ探っていると、その手首が掴まれた。
「ごめん」
小さくそう言って、直は私の手首を引いて歩く。なるべく力を込めないように、やさしく、やさしく。厚手のカーディガン越しでは直の体温はおろか手の感触さえ不確かで、わずかに指の気配がするばかり。
どんなに屈託ない時間の後でも、直はいつも細心の注意を払って私と距離を取る。だから、直の考えていることが、有坂行直という人が、私にはよくわからない。
人混みを抜けるとすぐに手は離された。風が一層冷たく抜ける。
寂しいと伝える勇気が私にはなかった。だからカーディガン越しの指の感触を、蜃気楼の中に真実を探すような気持ちで思い出していた。
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