along
木下瞳子
▲初手 over
鍵を失くして一ヶ月。お気に入りだった国民的アニメキャラクターのキーホルダーも、鍵とともに失くしてしまった。
「いい加減、交換しないとな」
何もついていない裸の鍵は、バッグの中でしょっちゅう行方不明になる。泣き腫らした目では尚更見つからなくて、なんとか手探りで掴みドアを開けた。
日が暮れても下がらない気温は、まぶたの熱を冷ましてはくれない。ふと鍵を充ててみると、金属の冷たさが気持ちいい。これはあの夜、十一時半過ぎという遅い時間にも関わらず、武が駆けつけて持って来てくれたものだ。彼氏に合鍵を渡しておくって、なんて便利なんだろう! と酔っぱらった私は、非常事態にも関わらず鼻歌を歌いながら武を待っていた。結果的に合鍵を返してもらったのは、こうなってみると、何かの暗示だったのかもしれない。
ほんの一ヶ月では、私の周りは何も変わっていない。洋服のローテーションも、エントランスの蛍光灯が一本切れていることも。変化といえば、向かいの家の玄関前にあった朝顔の鉢がなくなったくらいのものなのに。それでも「無用心だから、早く鍵交換しろよ」と言ってくれる武は、もういないのだ。
暗いリビングに電気もつけずに上がり込み、もわっとこもった空気だけは我慢できなくて、手探りでエアコンのスイッチを入れた。ソファーにバッグを放り投げると、その勢いで飛び出した携帯のチカチカという点滅が目に入る。レースのカーテン越しに入り込む街灯の明かりを頼りに携帯を手に取って、届いていたメッセージを開いた。
『無事に家には着きましたか?』
液晶の強すぎる光に目を細めつつ、他人行儀な文面を読む。送信時間は三分前。どこかで見ていたのかと疑いたくなるほどにちょうどいいタイミングだ。
送信者の『有坂行直』というのは、ついさっき知り合い、そして新しく“彼氏”となった人である。
『たった今着きました』
事実のままに返信すると、
『ゆっくり休んでください』
間髪入れずにそう返ってきた。特別返信を要求する内容でなかったことにホッとして、私は再びソファーに携帯を放り投げた。
長崎武とは大学で知り合い、一年ほどの友人関係を経て十九歳のとき付き合い出した。それから九年。お互いに初めての恋人であり、たまに喧嘩はしても決定的な亀裂が入ることはなく、自然と結婚の話題も出るようになっていた。
私も武も会社員で、平日は仕事だから会うのは週末。放っておくと二、三日連絡を取らないこともあるけれど、それで全然気になっていなかった。
だから土曜日の今日は、たまに映画でも観ようかと外で待ち合わせ、適当に選んだ邦画を一本観てから、駅構内にあるチェーンのコーヒーショップにふたりで入った。その時まで、確かに武が私の彼氏だったのだ。
コーヒーショップから出るときには、自分の置かれた状況が信じられずに、私はボーッとしていた。私が信じてきた人は、積み上げてきた時間は、幻だったんじゃないか。それとも映画を観ている途中で眠ってしまって、まだ夢の中なのか。そうだったらどんなにいいだろう。
自宅に帰るには改札に向かわなければならない。それなのに、このまま帰ってしまうとすべてを現実だと認める気がして、迷惑にもコーヒーショップの入り口前に佇んでいた。
そんな私にさえ届く大きな声が駅構内に響き渡る。
「ちょっと! お兄さん! ……待って……!」
重そうな紙袋を三つも持ったおばさまが、息も絶え絶えに構内を走っている。多分、本人の気持ちは走っている。けれど、紙袋三つのせいで(お年のせいもあるかな?)スピードは歩く私と同程度。
「はあはあ、お兄さん! ……待って……!」
おばさまの視線の先には、若い男性の姿がある。スーツのジャケットを脱ぎネクタイも緩めている彼は、どことなく焦点の定まらない目をしてスタスタと歩いていた。自分のことだと思っていないのか、スピードを緩める気配はない。
痴情のもつれか、はたまた何かの犯罪か、と想像を巡らせたけれど、目の前を通過したおばさまが紙袋とともにICカードを握りしめていたので、疑問はすぐに解消された。
「すみませーん!」
肩で息をするおばさまを追い越し、少し先を行く背中に呼び掛けると、それまで無反応だった彼が急に立ち止まった。少し長めの前髪の向こうで、黒い瞳が私を見つめる。そのまま言葉を失ったように立ち尽くしているから、すれ違う女性のバッグが彼の腕にぶつかった。ところが彼は、それにも気づいていないようだった。
「呼んでますよ」
金縛りを解くみたいにその視線を振り切って、手のひらをおばさまに向けると、彼もようやく彼女を視界に入れた。彼が立ち止まったことで安心したのか、おばさまはノロノロとスピードを緩め、駅伝ランナーの襷のごとくICカードを彼に差し出した。それを見て素早く状況を理解した彼は、慌ててペコペコ謝罪する。
「あ! 落としてましたか? すみません! ちょっと考えごとしていて。本当にすみません!」
恐縮し切った様子で、彼は自分のものであるはずのカードを恭しく受け取った。息を切らしているおばさまはまだ声が出せずに、いいのいいのという意味を込めて、手をひらひらさせる。そして紙袋をドサッと置いて、取り出したハンカチで汗を拭いていた。
よかった、よかった。
私は完全な部外者なのだけど、立ち去るタイミングを伺いつつ一部始終を見守っていた。おばさまの回復を待って、じゃあ私はこれでと口を開きかけたとき、同じようにタイミングを待っていたらしい彼が、
「お礼にお茶くらいご馳走させてください」
とおばさまを誘った。
「いいのよ~! そんな大したことしてないんだから」
ブンブン手を振って遠慮するおばさまに、笑顔ながら存外強く迫る。
「この暑い中だいぶ走らせてしまったようですし、遠慮なさらないでください」
「でもさすがに申し訳ないから」
「お時間ありませんか?」
「時間は大丈夫だけど……」
またしてもタイミングを逃して佇んでいた私に、おばさまは助けを求めるような視線を送ってくる。
「せっかくだしご馳走になったらいいんじゃないですか? 彼もそれで気が済むでしょうし」
自分だったら拒否するところだけど、他人事なので適当に答えた。でも親切をして汗だくになったのだから、その汗を拭う時間くらいお世話になってもいいと思う。
「そう、かしら? じゃあ、少しだけ」
「あまり遠くにお連れするのも悪いので、そこのコーヒーショップで構いませんか?」
「私はどこでも」
「では、行きましょうか」
そういうやり取りの末、私が出てきたばかりのコーヒーショップへと足を向ける。と、クルリと彼が振り返った。
「あなたも」
帰るつもりで大きく一歩踏み出していたから、非常口のマークみたいな格好で止まる羽目になった。
「いや、私は本当に関係ないから」
「呼び止めてくれたでしょう?」
「呼び止めただけでしょう?」
「行きましょう」
「さすがにそこまで図々しくなれないです」
今度は私と彼の間で似たような押し問答が始まってしまった。土曜日の夕方、それなりに混み合う駅構内では、少し邪魔な状況だ。
「せっかくだからご一緒しませんか?」
おばさまが心細げに私を誘ってきた。知らない男性といきなりふたりというのは不安なのだろう。私が勧めてしまった手前、多少の責任を感じる。
「……わかりました。お邪魔します」
彼の方はニッコリと笑って、誘導するように道を空けた。
そうして私は出てきたばかりのドアを、今度は見知らぬ人たちとくぐることになったのだ。
窓際の四名席に私とおばさまが隣り合って座り、私の正面に男性が座った。大きな窓からは駅構内の様子が見え、暑そうに何かのパンフレットであおぎながら歩いて行く人の姿もあるけれど、ガラス一枚へだてたこちらは冷蔵庫並みに冷えている。
「私もあの子を妊娠してた時は切迫流産になってね。二人目だからって油断して雪掻きしたのがいけなかったみたいなの。結局入院。だからあの子が切迫になったって聞いて、『私がそんな風に産んだせいなんじゃないか』って申し訳なくてね」
おばさまは切迫早産になった娘さんのお世話をするために、田舎から出てきたそうだ。それで容態が安定したので一ヶ月ぶりに自宅へ戻るところだという。紙袋は全部、親戚やご近所に配るお土産なのだとか。同棲していた部屋に置いていた荷物なのか、それとも定価の数十倍の値段で売りつけられた謎の教材だろうか、なんて想像していたのに、バームクーヘンや羊羮がぎっしり詰まっていた。
「でも遺伝とも限らないし、要因はいろいろあると思うので、責任感じることないんじゃないでしょうか?」
「頭ではわかってるの。だけど親って責任感じるものなのよ。まあ、高齢出産だから何かとリスクはあるのよね。悪阻もひどかったし、検査でもあれこれ引っかかって。この分だと出産も簡単ではなさそう。あら? これイチゴじゃない。“クランベリー”……? へえ、おいしい」
おばさまはレアチーズケーキのソースをフォークですくい、寄り目で凝視した。
「大丈夫ですよ! ちょこちょこ悪い運を使ってるんだから、ツルンと珠のような子が元気に産まれてきます! あ、こっちも普通においしい」
他人の特権で言い切って、私も黄色いモンブランを口に運んだ。栗らしいザラついた食感を久しぶりに楽しむ。
「そうかしらねえ?」
「そうです、そうです。絶対そうです。今たくさん苦労させた分、親孝行&おばあちゃん孝行な子に育ちますよ」
どーんと景気よく励まして、中央の栗を頬張った。通りすがりの人に余計な負荷を与えても意味がない。
彼はと言えば、アイスコーヒーを飲んだら寒くなったようで、皺のついたジャケットを着こんでいた。ニコニコ笑ってはいるものの、曖昧にうなずくばかりで会話に入ろうとはしない。若い男性(恐らく独身)が出産の話題に巻き込まれたら、この程度の反応しかできないのだろう。
「お姉さん、あなたおいくつ?」
通常であれば躊躇われる質問も、同性であり先輩であればおやつのついでに聞けるらしい。
「二十八です」
出し惜しんだとて意味のないことなので、ここも景気よく答えた。
「ご結婚は?」
「してません」
「お付き合いしてる方はいるの?」
他のふたりにはわからない程度にそっと、私はモンブランの上にため息を落とした。さっきここに入った時には彼氏がいたのだが、まさにこの店で別れたばかりなのだ。
「……いません」
今最も答えにくい質問に、私は投げやりな気持ちで答えた。年収を聞かれたほうが言いやすかったくらい。
セルフサービスの店なので店員さんはずっとカウンターの中にいて、お会計をしたりコーヒーを提供したりしている。武と来たときと変わらない光景が、変わってしまった私の環境を一層際立たせるようだった。
武のすべてを知っていたかと聞かれればそうではないけど、彼という人間をよく知っているつもりではいた。同い年にしては幼く感じることもあったし、少し常識が足りないところもあったけど、それは若い時であれば許容される範囲内だと深く気にしていなかった。
実際、この九年の間に私も武も成長したと思うし、社会人として落ち着いた関係を築けていると信じていた。しかし、それは錯覚だったのだ。
「よく考えたら俺たちってお互いしか知らないじゃない? だから結婚する前にもっと他を知った方がいいと思うんだ」
これまで会話の中に自然と出てきた”結婚”。式は親族だけでやりたい。部屋はもう一部屋多いところに引っ越そう。顔合わせの日取りはどのタイミングがいいか。それらの相談事と同じような調子で、武はそんなことを口にした。
「“他”って?」
「何人かマオ以外と付き合ってみて、マオの良さを再確認した上で結婚した方がありがたみが増すと思うんだ」
「“ありがたみ”?」
「マオも俺以外と付き合ってみたらいいよ」
「“俺以外”?」
常識人の私としては合いの手じみた復唱をすることしかできない。こんな冗談を突然言う人だっただろうかといぶかしく思ったものの、渾身のネタを真っ向から否定するのもかわいそうなので、無理矢理笑って話を合わせた。
「あははは、そうだね。何でも試着や試乗するもんね」
「そうでしょ? だからちょっと忙しくなると思う。マオと会う時間は作れないかもしれない。でも連絡はしてくれていいから」
「━━━━━は?」
ストローでアイスコーヒーをかき混ぜる武に、冗談を言っている気配はなかった。冗談でないということは、本気だということだ。本気だということは……どういうことなんだ?
「つまり……他の人と付き合いたいから私とは別れるってこと?」
自分の理解できる内容に変換してみたのだけれど、武ははっきりと首を横に振った。
「マオとは別れないよ。だけど他の人とも付き合ってみたいんだ」
「その“他の人”を私より好きになったら?」
「大丈夫、大丈夫。ほんのお試しだから」
「私はどうしたらいいの?」
「時間があれば会ってもいいけど、難しいかも。だからその間、マオも他の人と付き合ってみればいいと思うんだ。だって俺がいないと暇でしょう?」
なんだか震えを感じて二の腕を抱えると、汗でベタついた肌が冷房で冷えきっていた。
「そんなの嫌なんだけど」
「どうして?」
「『どうして』って、当たり前じゃない! どこに彼氏が浮気するのを暢気に見送る女がいるのよ!」
「浮気じゃないよ、お試しだって。ちゃんとマオと結婚するんだからいいじゃない。結婚後だといろいろ問題あるから、今のうちだけ」
武は私の反応よりもアイスコーヒーの味の方が気になるようで、少し首をかしげるともうひとつミルクを足した。
「最終的に戻ってくればいいってものじゃないの! 一時的なものだとしても嫌なの!」
大声は出せないので、テーブルに身を乗り上げて、口調だけは強く言った。
「そう? 俺は最終的に戻って来てくれれば構わないけど?」
芸能人の離婚なんかでたまに聞く“価値観の不一致”。判で押したような答えはモヤモヤと掴みどころがなく、どうせどっちかが浮気したのを体よく言い換えたんでしょ? と思っていた。彼らの真実はともかく、直面してみると価値観の不一致とはこんなにも深い断絶だったのだ。
「武がどうしてもそうしたいって言うなら…………別れる」
今までどんなに激しい喧嘩をしても、別れは一度も口にしたことがなかった。私はどちらかというと怒りが持続しないタイプで、十五分もすれば気持ちが落ち着いてしまうからだ。駆け引きにも使ったことがない。だけど初めて口にした。そしてそれは半ば駆け引きのつもりだった。私の気持ちが少しでも伝われば、考えを改めてくれると思った。九年間、いや友人時代を含めて十年間、武はそういう人だと思っていたから。
「そっか。それじゃあ仕方ないね。とりあえず別れよっか」
冷房で冷えていたはずの背中がじっとりと汗ばみ、動悸も激しくなってきた。恋のときめきみたいなかわいらしい意味ではなくて、自分の置かれた状況に対応できていないという意味で。
その後武は、サッカー選手の移籍金の話や、ダウンロードしたアプリの不具合の話なんかをしながらアイスコーヒーを最後まで飲み切って席を立った。
「じゃあね、マオ」
いつもの別れ際と何の違いもなくそう言って、手を振り店を出て行く。人混みに消えるその背中を窓越しに追い続けたけれど、振り返ることもなかった。
残された私は気持ちの持って行き場もわからず、とりあえずアイスカフェラテをひと口飲んだ。さっきまではおいしかったのに、少し薄まったアイスカフェラテはおいしくない。それとも武が一緒だったら、おいしく感じられただろうか。この店には何度も来たことがあるのに、いつも会話に夢中だったから、コーヒーをじっくり味わったことなんてなかったと気づいた。
終わったんだと思う。私と武の九年は。信じて疑わなかった結婚生活もなくなったんだと思う。だけどそれは、つい三十分前まで疑う余地もなく手の中にあったから、全然実感がわかなかった。
武が言うように彼の浮気(武がどんな言い方をしようがあれは“浮気”だ)を認めれば、いずれは戻ってきて私と結婚してくれるのかもしれない。けれど「やっぱりマオが一番だったよ」って聞いても、喜んで幸せな結婚をできるわけがなかった。
武としか付き合ったことがない私は、当然恋人と別れるのも初めて。別れ際ってもっと修羅場になるのだと思っていたのに、そんな漠然とした予想と違って、私はひとり溶けた氷とカフェラテの二層に分離したグラスを黙って眺めている。
終わったんだと思う。武の理屈が理解できようができまいが、実感がわこうがわくまいが。怒鳴って罵って価値観が変わるわけがないし、泣いてすがって戻ったとしても、それはもう私の望む形にはならない。だから、終わったんだと思う。
何らかの義務感で薄まったアイスカフェラテを最後まで飲んで、私はふらふらと店を出たのだった。
店内の冷房がキツいと知っていた私は、今度はホットのブレンドコーヒーを頼んでいた。
「今はみんな結婚遅くても普通だけどね、やっぱり早い方がいいわよ! 出産年齢が上がるとうちの娘みたいにいろいろと大変なんだから。兄弟だっていた方がいいし、そう考えたらもう決して早くはないと思う」
つい一時間前までなら素直に聞けた言葉が、今は猛烈に痛い。私だって結婚したいと思ってた。いや、したいと思う以前にするものだった。子どもが欲しいかどうかはわからないけど、そこに至る道は確かに見えていたのだ。反論したくても、今はまだ事の経緯を他人に話せるほど整理がついていない。余計なお世話です! と怒鳴る元気もない。従って、はあという吐息程度に曖昧な返事をする以外になかった。
「だったら俺と付き合ってください」
それまで、もしかしたら私にしか見えていないのかな? と疑いたくなるほど気配を消していた彼が、突然自己主張を始めた。
「は?」
「付き合ってる人が誰もいないなら、俺と付き合ってください」
この店は、一緒に来店した男性から理解不能なことを言われるっていうサービスでも提供しているのだろうか。一目惚れされたのだと思い込めるほど、立派な容姿じゃないことは自覚しているので、持てる知識を総動員して、現状を説明できる理屈を探した。
「もしかして、お見合いを断るために偽の恋人が必要になった?」
「お見合いの話なんてないし、偽物じゃない恋人になって欲しいんです」
「実は外国人労働者で日本に滞在するビザが必要とか?」
「生粋の日本人で日本の国籍を持っています」
「今朝の占いで『今日運命の出会いがあるかも』なんて言われた?」
「今朝の占い……見てないな。だけど運命だとは思います」
「正直に言って。何が目的? 言っておくけど、お金ならないよ」
「お金にも困ってません。単純にあなたと恋人になりたいだけです」
「はあ? 本気?」
「本気です」
本気だそうです。どういうわけか、彼は私と付き合いたいらしい。
『マオも他の人と付き合ってみればいいと思うんだ。だって俺がいないと暇でしょう?』
「ちゃんと仕事はしてる?」
「はい」
「あ、スーツだもんね。土曜日だけど、もしかして仕事中だった?」
「いえ、今日は終わりました。……予定より早かったけど」
「それって正社員なの?」
「正社員、ではないです」
「非正規雇用でも構わないけど、ちゃんと真面目に働いて生活できるだけの収入はある?」
「それは、はい大丈夫です」
「借金は?」
「ありません」
「ギャンブルは?」
「誘われればたまに。でもほとんどしません」
「お酒は? 酒乱じゃない?」
「飲みますけど、酒乱ではないです」
「他に付き合ってる人いない?」
「いません」
「わかった。付き合う」
私はこれまで浮気なんてしたことないし、したいと思ったこともない。簡単に気持ちを切り替えたり、同時に誰かを好きになったりできるタイプじゃないのだ。だからいつもの私だったら即座に切り捨てていた。もしこれが昨日だったら、私には武という彼氏がいた。もしこれが明日だったら、それなりに冷静さを取り戻して断っていたと思う。今日この日このタイミングでしかありえない偶然が重なって、私は承諾していた。
「俺が言うのも何だけど、本当にいいんですか?」
「何? 冗談だったの?」
「いや、本気です! 付き合ってください! お願いします!」
すっかり蚊帳の外に置かれていたおばさまが、お土産のパッケージをひとつ破った。
「よくわからないけど、とにかくおめでとう! こんなものしかないけどよかったら」
と、私たちに言祝ぎの気持ちのこもったバームクーヘンを配り、自分でも頬張った。私と彼もお礼を言ってから口に運ぶ。バームクーヘンが口の中の水分をすべて吸ってしまったので、私たちは少しの間無言になった。そのタイミングで、珍しくカウンターを離れた店員さんがツツツとやってきた。
「お客さま、申し訳ございませんが、店内に飲食物のお持ち込みはご遠慮いただけますか?」
「あ」
「あら、ごめんなさい」
「すみません!」
大人が三人も集まって、そんな常識に誰も気づかなかった。そのくらい状況は異常だったのだ。慌ててコーヒーでバームクーヘンを押し流したものの、どうにも居心地が悪くなってしまい、モンブランは半分残したまま店を出た。
「じゃあ、私は新幹線の時間もあるから。ごちそうさまでした。お幸せにね!」
紙袋を三つ抱えた手を懸命に振って、おばさまは去って行った。短時間に芽生えたとは思えないほどの親しみを込めて、私も笑顔で手を振る。
「お気をつけて! お嬢様もお大事に!」
その背中と紙袋が雑踏に消えるのを見届けて、私は彼に向き直った。
「じゃあ、私もこれで。ごちそうさまでした」
軽く頭を下げてきびすを返す私の腕を、彼はグイッと掴んで引き戻した。
「連絡先教えてください」
「ああ、そっか」
私たちは付き合うことになったんだっけ。異常なことが次から次へと起こるものだから、脳がついていけていなかった。彼の方は冷静にポケットから携帯を取り出す。
「そういえば名前も聞いてなかったね」
現状、自分の彼氏の名前すら知らなかった。どこまでもどこまでも見渡す限りの異常事態。交換した連絡先の名前は『有坂行直』とある。
「ありさか?」
「『ありさかゆきなお』です」
「そう。あ、何歳?」
「二十六です」
「ふたつ年下か。うーん『ゆきなお』って呼びにくいね。『ユキ』『ナオ』よし、『直』って呼ぶね」
「わかりました。『鈴本真織』さん……『真織さん』でいいですか?」
「いいよ」
「じゃあ、よろしく。真織さん」
そう言って差し出された手の意味がわからずじっと見る。大きくてちゃんと男の人の手なのに、すんなりとしたなんとも言えず美しい手だった。
あ、握手ね! 「契約完了!」みたいな。
一呼吸遅れて握った直の手は、すっきりとした見た目に反して少しだけ汗ばんでいた。それは決して心地いいものではないはずなのに、そのぬるい体温にどこかホッとした。そしていつでも乾燥していて、スーパーのビニール袋さえ開けられなかった武の手とは全然違う。そう思った途端にポロリと涙がこぼれた。涙だと自覚するともう止まらなくて、だけど右手は直の手を握り、左手でバッグを持っていたからボタボタと流したままになる。人目もあるところで急に泣いたりして、申し訳ないと謝りたかったのに、息が詰まって言葉にならない。声もなくひたすら泣き続ける私を、直は握手したままの手を引いてコインロッカーの陰に誘導してくれた。
いつの間にか離れていた直の手が私に向かって伸びてくる。涙の向こうにそれが見えて、私は身を硬くした。
ひと言の慰めでも口にしたら締め上げる! 触ろうものなら殴ってやる!
迷惑をかけておきながら失礼な心の声が届いたように、直の手が私に触れることはなかった。何を問うこともなく、労りも哀れみもなく、ただ見守っている。さっき伸ばされた手はコインロッカーに軽く置かれて、囲うように私を視線からかばってくれていた。その壁の中はとても居心地がよくて。私はここが駅であることも忘れて、存分に泣かせてもらった。忘れていたところで事実が変わるはずはないので、見事に腫れ上がった目を晒しながら帰る羽目になるのだけれど。
送りますという直の申し出を断ると、彼はあっさりと引き下がった。いろいろあり過ぎて消化しきれていない状態で、今知り合ったばかりの人と一緒にいることは負担だった。多分、そこもわかっていたのだと思う。
薄暗い部屋で着替え、洗面台の電気だけつけて顔を洗った。鏡に映る顔はむくんでひどい状態だけど、失恋直後にしてはスッキリしているように見える。
私、何やってるんだろう?
武と別れたことは仕方ない。武とは、きっと遅かれ早かれ(いや、もう十分に遅い)別れることになっただろう。好きだったけど、今はまだ悲しいけれど、それでもつとめて冷静な判断を下すなら、結婚する前でよかった。
問題はその後だ。あれは、本当にあったことなのだろうか。出会ってまもなく付き合ってください、なんて。
顔を拭いてリビングに戻り、さっき放り投げた携帯を再び開く。そこにはやはり、
『無事に家には着きましたか?』
『たった今着きました』
『ゆっくり休んでください』
というやりとりが残っていた。もう随分昔のこと過ぎて忘れたけど、付き合い始めってこんな会話するんだっけ。手探りの距離感がむずがゆくも面倒臭くもある。
思い立って武の連絡先を消去した。長年登録されていても携帯に焼き付いて離れない、なんてことなく、数回タップしただけで跡形なく消えた。
こうして私は直と付き合うことになった。一片の恋心もないまま、流されて。もし彼のことが好きだったら、いろんなことが知りたいと思ったはずだ。知りたいという気持ちこそ、恋だから。
私は直に恋をしていなかった。だから直のことをほとんど知らないことさえ気になっていなかった。
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