愛する女と最期に

東雲 彼方

三分

 とある病院の一室。朗らかな春の陽が窓際を明るく照らしていた。

「ねぇあなた?」

「なんだ、律子」

 ベッドに横たわる初老の女性が窓際に座る不機嫌そうな男に声を掛ける。

「お医者様はなんて言ってらしたの?」

 優しくそう聞くと、男はそっと目をそらす。

「あー……まぁ」

「それじゃあ分からないですよ。大輔さんの良いところは嘘を吐かないところだと思っていたんですけどねぇ」

 笑顔で言う律子の言葉には何故か少しだけ重みがあった。これは逃げられないな、と悟った大輔ははぁーと深い溜息を吐きながら俯いてボソボソと言う。

「嘘を吐かないっていうよりは歯に衣を着せぬ物言いをするってだけだろうに。褒められたもんでもないぞ」

「そうですかね、私はそういうところも好きですけれども。さて、はぐらかしてないでさっさと言ってくださいな。お医者様も渋って教えてくださらないんですから」

「あまり長くはないだろうってさ。頑丈だけが取り柄のお前に限ってそんなことあるか」

 最後に嫌味を付け足してしまうあたり、不安が拭えていないのだろう。普段はこんな嫌な言い方などせずに真っ直ぐに言葉を紡げるというのに。どんどん思考がマイナスになっていく大輔の顔は暗かった。

「まぁそんな気はしていました。でもあなたの言う通り、頑丈が取り柄なんでさっさと元気になってお家に帰りますよ」

「……そんなに根に持たないで欲しい。軽口を叩いたつもりだったが、俺が悪かった。すまん。結婚して四十年経つが未だにお前に怒られるのは慣れない」

 そのやり取りは長年付き添ってきた夫婦、というよりは親子の会話のようであった。通り過ぎていく看護師たちにもクスクスと笑われている。それを感じ取った律子は微笑ましく夫を見ていたが、夫の方はと言えばさっきよりも眉間に皺を寄せていた。そういうところが子供っぽいということに本人は気づいていないようだが。

「それよりあなた、帰りのバスの時間は大丈夫なんです? そろそろじゃなかったかしら?」

 ふと時計の針を見た律子が問う。彼はそれを聞いて腕時計を一瞥した。

「今日はもう一本後でもいいだろう。今から片付けていたらいつも乗っているバスには間に合わんよ」

「そう……次のバスはいつなんです?」

「そうだな、10分後だったか。だが帰りに担当医のところに寄ってくれって言われてるから長くてもあと3分くらいだな」

「そうですか……」

 律子が視線を窓の外に向けたことで会話は途切れた。どちらも何も発していなかった。けれどそこに不快感は感じない。長年連れ添った夫婦は無言も心地好いのかもしれない。鳥の鳴き声と枕元に置かれた心電図モニターから放たれるピッ、ピッ、という音だけが病室に響く。

「ねぇあなた、窓を開けてくださる?」

 大輔は妻の優しい声音に反応し、直ぐに窓を開ける。しかし眉間には皺が寄ったままであった。聞かれたことには誠意をもって答えるが、普段の言動は全く素直ではない。しかしそれが強がりであることを知っているのもまた律子だけなのである。

「こんな事聞いたらあなたは怒るでしょうけど敢えて聞きますね。あなた、私が居なくなっても生活出来るんですか。ついこの前もお見舞いに来てくれたと思ったら爪切りの場所聞いてくるんですもの」

「馬鹿言うな、ガキじゃあるまいし。その、爪切りはちょっと分かりづらかっただけだ。あとお前が先に居なくなるわけがないだろう。何故俺より先に死ぬんだ」

 ムッとして答えた夫の姿を見て微笑む彼女はどこか儚げであった。力なく笑う姿を直視出来ない大輔は彼女の視線から逃れるように病室の床を睨めつけた。

「ああそうでした。そこに置いてある紙袋持って帰ってちょうだい。お見舞いにって大福を頂いたんですけれどあまりそういう気分じゃなくって。だから家で食べてくださいな」

「……今ここで食って帰る。手が塞がるのはあまり好きじゃないの知ってるだろう」

 よっと、と言って立ち上がり、ベッド横のデスクに置かれた紙袋から豆大福の入ったパックを取り出す。二つ入っていたうちの片方をつまんで一気に半分くらい食べてしまう。

「あら、あんまりがっついちゃダメよ。喉に詰まらして死ぬとかやめてくださいね」

「だから、俺はガキじゃない!」

 口の横を白くして反論する還暦の男を見て笑う律子の顔はどんどん青白くなってゆく。

「あなた、そろそろ時間ですよ」

「分かってる」

 どこまでもお節介だな、なんて言えばまた怒りを買いそうだな、と一言返すに止めた。そんな思考でさえも覗かれていやしないか、と少し不安になって妻の顔を覗き込む。しかし、微妙に焦点が合っていないことに気付いて大輔は冷や汗を流した。

「おい律……」

「ねぇ、家のお仏壇の下の戸棚のところにお手紙が入ってるの。家に帰ったら確認してちょうだい?」

「ああ……」

 そう会話をしている間にも律子の顔は白くなっていき、心電図モニターの音も段々とゆっくりになっていく。それに反するように大輔の心臓はどんどん速くなってゆく。

「退院したらお花見にでも行きましょうね」

「そうだな」

 律子は窓の外の桜を眺めてそっと目を閉じる。

「もうそろそろ時間じゃない? 帰ってもいいわよ。私も眠くなっちゃった」

 大輔は何かを言おうとして、でも言葉が出なくて口を噤む。己の語彙力の乏しさを恨み、不甲斐なさに嫌気が差す。

「ねぇあなた?」

 人形のように青白い肌の彼女。それでもその声の優しさは変わらない。

「大好きよ。いつまでも愛してるわ。今までありがとう、おやすみなさい」

「律子――?」

 明るく暖かな病室。大輔は一人その場に取り残され、動けないでいた。それでも時計の針は非情にも動き続けて。それが酷く遠い場所のように感じられてならない大輔は呼吸をすることすらも忘れてしまう程に固まっていた。愛するひとは少しの温もりだけを残して、その美しさを保ったままベッドの上で静かに眠っている。数時間したら元気に起き上がってきそうなものだが、彼女がもう目を覚ますことは無いのだろう。

 病室には無機質なピーという電子音だけが喧しく鳴り響いていた。

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愛する女と最期に 東雲 彼方 @Kanata-S317

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