ファイナル・アクセル

myz

final accelerate

 おれが最後の《仕事》を終えて《事務所》から出たちょうどそのときのことだった。

 つまりそれは排ガスまみれでいがらっぽい国道99号沿いの交差点の空気がなぜか甘美なものにすら思えておれがゆっくりとひとつ深呼吸したそのときのことで、歩行者用信号の色が青に変わり、向かいから小さな子供が横断歩道を渡り始め、一歩遅れて親だろう女が続くわりとほのぼのした風景の、しかしその画面外からスピードを緩めることなく5tトラックが突っ込んでくるのを視界の端に捉えて、おれの眼ん球が思わずひん剥かれる。

 惨事の予感に体を置き去りにしたまま思考だけが際限なく加速していき、しかしその泥のような時間の中でトラックはゆるゆると破滅に向けて前進を続け、子供はすぐそばに迫った危機にまだ気づかない。

 ふざけんじゃねえええ!! 居眠りだか余所見だか知らないが、信号無視で突っ込んだトラックがいまからあの子を轢き潰す。ありふれた悲劇。クソッタレ。おれは反射的にひとつ舌打ちをする。

 もはや固まる寸前のコールタール並みに粘りつく時間感覚の中、この状況を打開できるものはないのか視界を探る。

 だれかが横からさっと子供をかっさらう? そんなやつはいない。

 親はどうしてる? いる。

 だが、その顔にはおれより一瞬遅れて事態を察知したのだろう驚愕の表情が浮かぶ途中で、半端にひん剥かれた眼、半端に開かれた口、半端な位置に上げられた両手の指を鉤爪のように曲げて、体は棒のように硬直している。

 ふざけんじゃねえええ!! テメーのガキだろうがあああ!? 固まってんじゃねえええ!! おれは二度目の舌打ちをする。

 世界が凍りつく。

 駆け出したポーズで子供が固まる。そこに突き進む気配をはらんだままトラックが停止する。中途半端なビックリ顔で硬直する女。そして、そんな状態に気づかずに行き交う雑踏のすべてが、瞬間に固着する。音すらも呑みこんで。

 だが、それと同時におれの体を包んでいた大気が気体としての粘性を取り戻す。

 思わず二三歩足を踏み出して、おれは凍結された視界に視線を彷徨わせる。肩を落とし、盛大に嘆息する。

 やっちまった……馬鹿げている、こんなことは。

 ――だが、仕方がない。やることをやるだけだ。

 おれは交差点に向き直る。

 走り始める。


 おれの体の中には加速装置が埋まっている。

 起動サインは「すばやく二回の舌打ち」。

 使えるのは、これが最後。

 三分後、おれは死ぬ。



* * *



 頭の隅で思い出すのは、ついさっき出てきた《事務所》の雑居ビルの一室の中で《マネージャー》に言われたことで、黒縁メガネの常に怯えた齧歯類のような顔をしているヤツが言うことには、おれの《契約期間》は晴れて満了したということだった。

「お、おめでとうございます……」

 いつもどおりオドオドおれの顔色を窺いながら、全然めでたくなさそうに言う。

「ただ、大変申し上げにくいんですが……」

 落ち着かなそうにメガネの位置を直しながら、またちらちらとおれの様子を見る。おれはそういうヤツの物腰にはいいかげん慣れっこになっていて、辛抱強く話の続きを待つ。そして、ヤツが言う。

「あ、あなたの体の加速装置は、除去できません」

 その後、ごにょごにょとまわりくどく説明された内容をまとめると、《事務所》がおれの体に埋め込んだ加速装置はおれの内臓や全身の筋肉や神経と分かちがたく結びついていて、それだけを取り外すことは不可能だということだった。

「ラーメン抜きのラーメンを作ろうとするようなものです……」

 ラーメン抜きのラーメン、ヤツにしては気の利いた表現だ、としかしおれは内心拍手を贈りたいような心持ちだった。

 おれが《事務所》に入ったのが八年前。その前の記憶は夢のようにあやふやで、加速装置がないおれ、というのが想像できないぐらいだから、外せないんなら、まあ、それはそれで、という感じだった。

 《事務所》は《事務所》というがなんの《事務所》なのか多分所属しているやつらも全員よく分かっていない。

 いろいろなやつらがいる。

 おれの場合は加速装置だったが、3000℃の炎を吹けるやつとか、10万Vの電撃を撃てるやつもいる。

 訳アリの子供を集めてきて、なにか研究所的なところで体を再構成させられるのだという話だった。

 それで、いろいろな《仕事》をする。なにかを守ったり、壊したり。だれかを守ったり、消したり。そうする限り、《事務所》が住む場所や食事をくれる。

 《仕事》は《マネージャー》を通して伝えられる。上にどんなやつがいるのか、おれは知らないし、興味もない。

 ただ、感心なのは《事務所》が《契約期間》を定めていて、それを守るということ。しかも、剥奪された戸籍も、どういう手段でかは知らないが、新しいものを用意してくれるという。

 それが分かっているから、みんな《仕事》に励む。

 暮らしている部屋もそのまま使っていいという。ただ、《事務所》とのつながりだけがぷっつりと切れる。

「そ、そうなると、問題になるのが……」

 やはり歯切れ悪くヤツが続ける。

「ち、中和剤です」

 据わりの悪いメガネをまたくいと持ち上げる。

「中和剤が支給されなくなりますので……」

 エフッ、と真に迫った咳払い。

「あなたは次加速したら死にます」

 直球だった。

 なんでもおれの加速装置の仕組みのことであるが、おれの体の中に怪獣図鑑にあるナントカぶくろみたいに追加された器官から全身に速やかにナントカピン酸的な化学物質が分泌されて、身体機能を賦活させ、超高速化された知覚と運動能力をもたらすのだということだった。

 これにより、おれは三分間、通常の1000倍の速度で活動することができる。

 だが、このナントカピン酸がクセモノで、残留するとナントカリンとかいう神経伝達物質の作用を阻害して体組織を非可逆的に破壊し、ようするにおれは全身がボロボロになって死ぬ。

 そうならないように、加速が終了するや瞬時にまた別のナントカぶくろから解毒物質が全身に分泌され、おれは一命をとりとめる、という仕組みなのだが、こいつもクセモノで、体内では生産できないのだという。

 全身をズタボロにするナントカピン酸が作れて解毒薬が作れないのが理不尽な気もするが、それが事実であるようなので仕方がない。

 そのためおれは一日3食ごとに支給される中和剤の錠剤を飲んでいた。これまでは。

 それがなくなる。

 《契約期間》が終われば、《事務所》からおさらばできる。良くも悪くも。アフターケアは業務範囲外というわけだ。

 そのことについていまさら《マネージャー》に不平を垂れてもなんにもならないことは分かっていた。いつもおれの機嫌を窺うような態度でいて、ヤツが伝えることは常に最終的な決定事項で、おれの反論でそれが覆ったことはこれまで一度だってなかった。

 だからおれは、まあ、そういうもんか、と思い、べつに加速しなけりゃいいだけなんでしょ? と思っていた。

 そのときは、ほんとに。



* * *



 というようなつい今しがたの出来事が1ミクロン秒にも満たない瞬間に脳裏をフラッシュバックして過ぎ去る。おれはそれを振り切り加速してゆく。

 三分間。短いようで、やることをやるにはありあまるぐらいに充分だ。

 知覚が1000倍に加速しているのに三分間というのはおかしな気もするが、ともかくおれの主観で三分間が経過すると効果が終わる。

 群衆も、トラックも、これからはねられる子供も、依然凍りついている。

 そこにおれはまっすぐに――は向かわない。

 一度交差点の真ん中ぐらいにまで走り出る。固まった子供と、固まった親の横をぐるっと回り、走り出す寸前のまま固まった車列の前をかすめ、歩道に上がる。

 コンマ数ミリ秒前とはちょうど反対側のトラックの側面を捉え、最後の踏み込みに入る。

 左足で踏み切り、右足の裏を助手席のドアに思いっきり叩きつける。音はしない。しかし、ガコッ、というたしかな手応え。拳ひとつ分ぐらいこっち側のタイヤが浮いたのを確認する。

 ウインドウ越しに、ハンドルを握ったままがっくりと項垂れた運転手の姿が見える。居眠りか、それとも急病か。どちらにせよ気の毒だが、まあ信号無視の代償ってことで勘弁してくれ、とおれは祈る。

 子供をかかえて歩道に戻してやるのが冴えたやりかただったかもしれないが、加速中は細かい加減が利かない。うかつに人に触れると、わりと致命的なこと――それもわりとエグいやつ――になりかねなかった。

 踵を返す。

 依然硬直したままの親子。

 歩道を行き交う凍りついた雑踏。その中を慎重に縫い、おれは路地に駆け込む。二度三度角を曲がり、人気のない裏通りに入り込むと、足を止める。

 おれが死ぬときは、多分人が見てあんまり気持ちの良くない感じになる。

 それを晒すのはいろいろと迷惑がかかるかもしれないので、というヘンに常識的な考えが働いていた――迷惑? だれに?――《事務所》に?――わからない。

 そうしておれの頭の中のストップウォッチが尽きる。

 世界に音が戻る。路地裏にまで届いてくる喧騒の微かな残響をたしかに感じ取り、おれは溜め息を吐く。

 変化は急速だった。

 痛みはない。ただ、体の末端――足指と手指の先から一斉に蟻よりも小さな無数の虫が群がって這い上ってくるかのような感覚が襲い、実際におれの体がどうしようもなく破壊されているのだ、ということをおれは脚が踝からボロボロの灰のようになって崩れてアスファルトの地面に倒れ伏しながら実感し、起き上がろうと手をつこうとしてその手がすでに崩れ落ちて無くなっていることに気づく。

 やっぱり、馬鹿げている――しかし、もう一度あそこに立ち会わせて、おれは加速装置を使うのだろうか、使わないのだろうか――あのとき舌打ちを二度したのは、おれの意志だったのか、そうじゃなかったのか?

 だが、その疑問に結論を出す時間はやはりおれにはすでに無く、最後に感じたのは味覚。舌の細胞が崩壊していく感触がおれの喉の奥から広がり、ああ、これが死の味

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