真夏の夜の……

戸松秋茄子

本編

 康介の誘いはいつも突然だった。それはたとえば、近所のプールに行く誘いだったり、家出の誘いだったりした。こっちにだって準備というものがあるのに彼は「早く早く」と急かしてくる。


 その夜もそうだった。夏休みも半ばを過ぎたその日、いつも通り昼夜逆転した生活を送っていたわたしは、その寝起きを康介に襲われた。


「まったく、いつまで寝てるのさ」康介は呆れたように言った。「出かけるよ。早く早く」


 わたしは渋った。この三ヶ月、まともに外を出歩いていない。危うくトラックに轢かれそうになって以来、それがトラウマになっていた。


「だからだよ。たまには外に出ないと」


「何よ。ずっとご無沙汰だったくせにどういう風の吹き回し?」


 康介とは高校に入学してからほとんど話していない。それが急に家に現れたのだから、わたしは驚いていた。


「こっちにも事情があるんだよ」


 けっきょく、康介に説得されるままわたしは外に出ることにした。これもいつも通りのことだ。プールだって家出だって、わたしたちはいつも一緒だった。


「あと何分だろう。とにかく急がないと」


 康介はわたしの手を引きながら言った。何を焦っているのだろう。その理由がわからないまま、走った。久しぶりの運動だ。すぐに息が上がり、走るペースが落ちた。外はまだ蒸し暑く、すぐに汗が噴き出してくる。汗をかくなんていったいいつぶりだろう。今年の夏はずっとエアコンが効いた部屋に閉じこもっていた。


「ねえ、どこ行くの」


「それは着いてからのお楽しみ」


 やがて、高台にある神社の鳥居が見えてきた。康介は律儀に鳥居の前で立ち止まり、礼をした後、ふたたび走り出した。わたしの手を引いたまま、参道の石段を上りはじめる。お参りでもするのかと思いきや、康介は拝殿には向かわず、そのまま境内の裏手に回った。街を見渡す展望台のようになっている場所だ。人気がなく、ひっそりとしている。


「よかった。間に合った」


「ねえ、だから何なの」わたしは息を整えながら言った。「こんな人気のないところに連れてきて」


「それはすぐにわかるよ」


 康介が微笑んだ瞬間だった。彼の背後で、光の筋が上ってきたかと思うと、夜空でぱっと弾けた。


 花火だ。


「花火大会」わたしは思わず漏らした。「今日だったっけ」


「ほら、そんなことも知らない」康介は茶化すように言った。「これだから引きこもりは」


「しょうがないでしょ」わたしは拗ねたように言った。「があったんだから」


 康介は沈黙した。その背後で、花火が次々と打ち上がる。大きいもの。小さいもの。光の軌跡を残しては、消えていく。


「それで、これを見せるためにわざわざ連れ出したの?」


 康介は無言で首を振った。


「じゃあ……」


「君に伝えたいことがあるんだ」康介は真剣な眼差しで言った。「聞いてくれるかい」


「何よ」


「好きです」


 瞬間、ひときわ大きな花火が夜空に弾けた。


「馬鹿」わたしは言った。「そんなことを言うためにきたの」


「しょうがないだろ」康介ははにかみながら言った。「これが僕の未練みたいなんだ」


 。わたしをかばうようにして突き飛ばし、自分だけはねられたのだ。


「付き合ってくれとは言わない」康介は言った。「僕はもうじき消えるからね。だから、その代わりに約束してほしい。これからはちゃんと外に出るんだ」


「無理」


「どうしてさ」


「だって……」わたしは言った。「これでもわたし、がんばったんだよ。学校にも何度も行こうとした。でもだめだった。どうしても外に出られなかった。康介がトラックにはねられる瞬間がフラッシュバックして、立っていられなくなった。この三か月はその繰り返し。今日、康介が迎えに来るまでずっと」


「今日できたなら、明日だって外に出られるさ」


「無理よ。だって康介は消えちゃうんでしょう」


「ああ。残念だけどね」康介は言った。「でも約束する。ずっと見守っているから」


「そうじゃない。わたしが望んでいるのは、康介が隣にいること」


「それはもう無理だってわかってるだろう」


「だって……」


「ほら、涙を拭いて」


 康介がわたしの目元を拭おうとした。


「泣いてなんか――」


 その瞬間だった。康介の指はわたしの涙を拭うことなく、そのまま素通りした。そう、まるで幽霊が人間に触れようとしたみたいに。


「――時間が近いみたいだ」


「いやよ。行かないで」わたしは叫んだ。「花火だってまだ三分も見てないじゃない」


「無理を言うものじゃないよ」


 康介は困ったように笑った。もうほとんど身体が透けはじめている。その間も花火は上がり続けていた。半透明になった身体の中を通過するようにして、次から次へと。


「これでもう本当にお別れなのね」


「ああ」


「康介……」


「なんだい」


「わたしも好き。大好き」


「ありがとう」康介はふっと微笑んだ。「こんなことならもっと早く言っておくんだった」


「わたしだって……」


 わたしは康介に向かって一歩、二歩と踏み出した。試みに触れようとするが、わたしの指は康介の体をすっと通過した。


「康介……」


「ああ、わかってる」そう言うと、康介は目を閉じた。彼の顔が近づいてくる。わたしは慌てて目を閉じ、康介の唇を受け入れた。むかし、友達とファーストキスの味は何味かなんて話したことがあったけど、わたしのそれは何の味もしなかった。


「さよなら。康介」体を離しながら言う。


「さよなら。元気でね」


 そして、康介は夜の闇に溶けていった。一瞬の静寂の後、夜空に何発もの花火が打ち上がり、そして消えていった。


   ※※※ ※※※


 その数日後、わたしは康介のお墓の前に立っていた。


「ありがとう。康介」手を合わせながらつぶやく。「わたしはもう大丈夫だから心配しないで」


 そして、わたしは歩き出す。夏の厳しい日差しと蝉時雨のシャワーを全身に浴びながら。

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