目覚めの時

 娘の優那ゆうなが不治の病だと診断されたのは、彼女が15歳の春だった。

 先天的な肺動脈の疾患で、有効な治療法のない難病だった。

 余命は、もって10年。

 宣告を受けた時、私は目の前すべてが暗黒に塗りつぶされた心持ちになった。

 だが、それでも私に笑顔を見せようとする娘の姿を目の当たりにして、私は残りの人生のすべてをかけて彼女を救おうと決心した。

 私も妻も、もうほとんど諦めていたところでようやく授かった一人娘だった。

 私たち夫婦には不釣り合いなほどよくできた明るい娘で、仕事にかまけてなかなか食事も一緒に取れない私にもよくなついてくれた。

 本当に、自慢の娘だった。

 絶望的な余命宣告から3年。

 海外では動物実験のレベルで治験が繰り返されており、いずれ人間にという情報は掴んでいた。

 だが、娘の余命はどんなに長くてもあと7年。とても人体への臨床応用を待っていられるだけの時間は残されていなかった。

 私は悩んだ末、娘の命を未来に託すことにした。



「パパ、私はどのくらい眠るの?」

 清潔な手術着に身を包んだ娘は、不安そうな表情で私にたずねた。

「ああ、15年だ」

「そう。その時パパは…」

「ああ、もう70近い。けっこうなおじいさんになっているはずだよ。もしハゲてても笑わないでくれよな」

 私は無理に笑顔を見せながら彼女の髪をかき上げた。この流れるような美しい髪もまもなく失われてしまう。

「ごめんなさい、パパ。私がこんな…」

 寂しげな表情を見せる彼女の唇に人差し指を押し当てて黙らせる。

「もうお休み。きっと素晴らしい、最高の目覚めが待っているはずだから」

 彼女は無言で頷くと、ゆっくりと目を閉じた。輸液ポンプのインジケーターが灯り、彼女の静脈にゆっくりと睡眠誘導剤を注入し始めた。

 私はそばに控えていた医師たちに頭を下げる。

 ここは日本で唯一、冷凍睡眠コールドスリープを実用化したラボだった。財界の有力者が秘密裏に研究資金を提供し、現在は少人数の希望者による長期睡眠実験が密かに始められたばかり。

 私はこの施設に最後の望みを託した。

 娘の病に有効な治療法が確立されるまで、娘を眠らせ、病気の進行を少しでも遅らせるためだ。

 私は恥も外聞も捨ててあちこちに惜しげもなく金をばらまき、あらゆるコネを使い、治験者の列に娘を滑り込ませた。

 人生でもっとも輝いているはずのこの子の青春を、このまま死の恐怖におびえながら過ごして欲しくなかったのだ。

「お休みになられました」

 バイタルモニターを注視していたナースがそう報告し、バリカンで彼女の髪を剃り始めた。私はリボンでくくられた髪の一房をナースに手渡され、再び深々と頭を下げるとその場を後にした。



「おい、あとどのくらいで到着する?」

「そうですね、まだしばらくかかると思います」

 パイロットは明かりの見えない地上を見下ろしながら、インカム越しにそう答える。

 この日深夜、南海トラフを震源とし、南西日本一帯を未曾有の巨大地震が襲った。

 日本で一番地震の被害が少ないと言われていた岡山もその影響からは逃れられなかった。

 地震による発電所の緊急停止と送電塔の倒壊により大規模な停電が発生し、娘の収容されているラボも完全に電力を喪失した。

 同時に、ラボに向かう道路で大規模な土砂崩れが発生し、ラボのスタッフや救助隊も現時点では駆けつける目処が立っていないらしい。

「くそっ!」

 私は墨一色に塗り込められた地上を眺めやりながら神を呪った。

 あと数年乗り切れば、娘は再び眠りから覚めたはずなのだ。いずれは病を克服し、再びあの弾けるような笑顔を見せてくれるはずだったのに。

「頼む! できるだけ急いでくれ!」

 絶望にとらわれながらも、私は万に一つの奇跡を祈る。

 パイロットは無言で頷き、タービン音は一層甲高く耳をろうした。



 闇に閉ざされたヘリポートにサーチライトが突き刺さる。

 白い光に照らされた巨大な“H”の文字は、中央に上空からもはっきり判る大きな亀裂を生じていた。

「大丈夫か? いけそうか?」

「ええ、地割れはありますが、そこまで崩れている訳じゃなさそうです」

「君は麓に向かってくれ、医療スタッフが待機しているはずなんだ」

 私はヘリのスキッドが地上に触れるのを待たず飛び降りた。再び上昇しようとするメインローターの猛烈な風圧にふらつきながら頭を低く下げ、ラボに向かって走る。

 正面口はシャッターが下りたままだった。私は建物の裏手に回り込み、非常灯がぼんやりと照らす通用口に走り寄る。

「なんだこれは!」

 私は眉をしかめた。

 指紋認証のセンサープレートは叩き割られ、引き出された配線にはLEDが不規則に点滅を繰り返すむき出しの電子基板と、スマホに使うようなモバイルバッテリーがぶら下がっている。

「まさか!」

 災害の混乱に乗じて略奪をはたらく集団の存在はどこかで聞いたことがあった。

 だが、いまだ電力はおろか道すらも復旧していないこのタイミングで、一体どうやってこんな山奥まで入り込んだのか。

 私はドアノブを握って慎重に回してみる。

 鍵は、かかっていなかった。

優那ゆうな!)

 頭からサーッと音を立てて血の気が引いた。

「優那!」

 叫びながらドアを引き開け、不安定に明滅する常夜灯に照らされた薄暗い廊下を全力で走る。

 確か、冷凍室は地下にあったはずだ。

 手探りで非常扉を探し当て、足音で侵入者に気づかれないようその場で革靴を脱ぎ捨てた。

 階段室の非常灯はほとんどが既に消えていた。長引く停電で、もはや非常用のバッテリーを使い果たしてしまったのだろう。

 縞鋼板チェッカープレートの冷たい階段を、つま先で足音を殺して一段、また一段、指先の感覚だけを頼りに下りていく。

 何百段かを数え、あまりの冷たさに足先の感覚をほとんど感じなくなったところで、ようやく足の裏にざらりとしたコンクリートが触れた。

(このフロアだ)

 私は唾を飲み込むと、非常扉に手をかけた。わずかな隙間から、冷気がまとわりつくように立ち上ってくる。

「ああ!」

(私が間違っていた!)

 その瞬間、私は自分の考え違いを激しく後悔した。

 こんな冷たい暗闇に娘をたった一人で送り込んだのは間違いだった。

 逃げるのではなく、娘と共に、手を取り合って病に立ち向かうべきだった。

 眠りにつく直前、寂しそうにうつむいた娘の表情が頭の中にフラッシュバックする。

 私は動悸を押し殺し、冷え切った鉄の扉をゆっくりと押し開く。フロアにたゆたう冷気のもやの向こうで、誰かがかすかに動く気配がした。

 インジケーターの明かりがいくつもチカチカと瞬き、侵入者の姿をおぼろげに浮かび上がらせている。

 私は、もやに身を隠すように四つん這いになり、慎重に近づいていく。

 どうやら侵入者は2人組らしい。

 私はその場に這いつくばり、耳をこらした。

「どう? いけそう?」

「ギリギリでしたけど」

「再凍結は」

「無理でしょう。中途半端に解凍された状態で凍らせたりしたら…」

(何の話をしているんだ)

 私は話を聞き逃すまいとさらににじり寄る。

「5号カプセル以外のボディは?」

 私は耳を疑った。娘の管理番号が確か“005”だったはずだ。

 気がつくと、私は思わず立ち上がっていた。

「お前たち! 娘に何をするつもりだ!」

 侵入者は一瞬はっと身構え、次いでフラッシュライトのまばゆい明かりがさっと私に浴びせかけられた。



「先ほどは失礼しました。私たちはここと契約しているエマージェンシーサポートのスタッフです」

 体にフィットした、機能的なデザインのつなぎの上に白衣を羽織った若い女性は、紙コップに入ったホットコーヒーを差し出しながらそう言った。

「お察しの通り、地震の影響で超低温冷凍機が停止しています。もはやコールドスリープ状態は維持できません」

「じゃあ、優那は…!」

 喉がカラカラに渇き、かすれた声しか出ない。

「ユウナさん…。5号カプセルの方ですか?」

 無言でこくこくと頷き、この医者らしい女性に促されるまま、コーヒーで喉を湿らせた。

「…優那は、無事なんでしょうか?」

 彼女は、背中合わせに作業をしていた同じような作業服姿の若い男性スタッフと顔を見合わせ、無言で小さく頷き合う。

「現在、彼女を救うため全力を尽くしています。ただし、まだ楽観はできません」

「では!?」

「そうですね…、多分朝までにはもう少しはっきりした事をお話できると思います」

「あの!」

「はい?」

「私もここに、優那のそばにいてよろしいでしょうか?」

「…寒いですよ」

 彼女は柔らかい声でそう答え、ふっと表情を緩めた。

「大丈夫です。きっと娘さんはお目覚めになります」

 私はその言葉にすがった。

 だが、もし無事に目覚めても、娘の病が癒えたわけではない。破局はほんの数年先送りされただけで、いまだ厳然と目の前にあるのだ。

(でも…)

 今度こそ、きちんと立ち向かおう。娘と共に、同じ時を過ごそう。

 私はそう決意した。

 女性医師はそんな私の様子にわずかに目を細め、小さく頷いた、ように見えた。



「良かったんですか? 最後まで確認しなくても」

「いいの。彼女はちゃんと目覚めるわ。今回は、ね」

 香さんは、いつものように感情のこもらない淡々とした口ぶりでつぶやくように言う。

 でも、彼女がこういうポーカーフェイスを見せるとき、本当はどう思っているのか、最近になって少しだけ判るようになってきた。

「数年後の娘の死を乗り越えて、あの社長さんは新薬の開発に関わるようになる。結果として、娘さんと同じように命を落とすはずだった何千人もの命を救うの。だから、あの子はちゃんと目覚めて、お父さんに見守られながら逝く必要がある。でも……」

 俺は香さんの両肩に手を添える。思った通り、その痩せた肩は、必死で嗚咽を堪えるように小さく震えていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

因果律を正せ 凍龍(とうりゅう) @freezing-dragon

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ