永劫の三分間
「…と思ってる」
助手席で、彼女はポツリとつぶやいた。
「え?」
モーター音とロードノイズに紛れ、彼女の声はひどく聞き取りにくかった。
「だから、本当に申し訳ないと思ってる」
「ああ」
俺は頷きながらさらにアクセルを踏み込んだ。
こればかりはどうにもならない。人が生まれ、営み、そしていつか死ぬ。
その摂理に何も不自然なところはないし、特定の誰かが責任を負うべき性質のものでもない。
「気にしないで下さい。そもそも香さんのせいじゃないし、だいぶ前から覚悟はしていたことですから」
「でも……」
彼女はそのまま顔を伏せた。
彼女…
どちらも、ちょっと人には説明できない
それなのに、目の前でかけがえのない人が死んでいくのを止めることは出来ない。
不可能なのではない。みずから、そう堅く戒めている。
「でも、このことはあらかじめ判っていたことなの。こんなギリギリになるまで君に黙っておくべきではなかった」
「だから、何度も言ったじゃないですか。今回任された
諏訪から途中休憩を挟むこともなくライトバンを飛ばしておよそ2時間。
幸いなことに、横浜町田インターの出口には平日のこの時間にもかかわらずほとんど渋滞はなかった。そのまま大きくターンして保土ケ谷バイパス方面に抜ける。ナビの画面では、相変わらずギリギリの到着時間が表示されている。
「これが因果律に関わる問題なら良かったのにね。だったらこんな面倒な移動をしなくても、簡単に駆けつけることができたのにね」
「だから、そんなに自分を責めないで下さいってば」
俺は彼女には聞こえないように小さくため息をつく。香さんがこれほど憔悴しているのは、つい最近自分も同じような経験をしたばかりだからだろう。彼女が祖父を亡くしてから、まだほんの半年しか経っていない。
香さんの持つ、世界線の乱れを知覚し、時を越えてその場所に転移する特殊な能力。
それは彼女の両親を飛び越えて隔世遺伝したもので、彼女にとって、祖父はいわばこの世でたった一人の理解者だった。
俺が香さんと知り合ったのはまさに彼の葬儀の席で、二人がどれほど親密な関係だったのかまでは知りようがない。
ただ、祖父の死後、この若さで都会を捨てて諏訪の山奥にある人里離れた洋館に籠もり、誰にも相談できない秘密を抱えて生きていこうと決心したくらいだから、二人の間には肉親の情をも超えた、世界や人類に対する共通の使命感があったのだろうとは想像がつく。
「それよりも、良かったら教えて下さいよ。うちのじいちゃんと、香さんのお爺さんに一体どんなつながりがあったんです?」
話題を変えようと聞いてみる。俺自身、祖父に言われるまで時杜家のことはまったく知らなかった。
「詳しくは私も…。でも、第二次大戦の後すぐ、あなたのお爺さんが時杜家に大きな資金援助をされたと」
「…じいちゃんがそんな殊勝なことを」
「おかげで、戦後の混乱期を乗り越えることが出来たとも…大恩人だそうです」
「へえぇ」
思わず苦笑する。
「何?」
「いや、最初からそれを知ってれば、俺は就職でこんなに苦労することもなかったのにって、ちょっとだけ思って」
「あら、君はコネなんかに頼るような人なの?」
「でも、あれだけ立て続けに理不尽な災難にあえば、何かに頼りたくなっても仕方ないと思いません?」
俺は、新卒採用された会社が外資企業に乗っ取られ、わずか数日で解雇されたのを皮切りに、倒産、リストラ、あげくに火災と、立て続けに職を失う非現実的な体験をした。何か、見えざるものの指に操られているかのようだった。
「むしろ、これで宗教に走らなかったのをほめて欲しいくらいですよ」
「まあ…それは」
曖昧に答えながら、彼女は複雑な表情で頷く。
「でもその場合、君は本社の採用になっただろうから、私と知り合うことも、諏訪の洋館に来ることもなかったと思う。君の持つ能力は誰にも知られることはなく、それがまた別の因果を生み、世界線の在りように異なる影響を与えたかも」
「そうか。そんな些細なことすら…」
俺は改めて世界線というものの複雑さを思い知る。
今の俺は、時計メーカーから飛躍した世界的電子機器メーカー、イプシロン社の社員名簿に載ってはいる。ただし会社の業務とは完全に切り離され、創業の地にひっそり残された時計資料保存室の職人見習いに過ぎない。
だが、一方、時杜家の家業には別の形で密かに関わっている。時を越えてこの世界を司る因果律を調整し、あるべき姿に保ち続けるという、にわかには信じてもらえない業務だ。
そう、俺もまた、この世界線の因果律のわずかな歪みを知覚する不思議な能力を持っている。
「世界線は本当に繊細。私たちのこの世界は、よく似た歴史を持つ別の世界線と、まるで一本のワイヤーロープを構成する細い繊維のように複雑にからまり合い、言わば“世界線群”とでも表現すべき
香さんは最初、なぜ因果律の調整が必要なのかという俺の質問にそう答えた。
正直うまく理解できている自信はない。ただ、俺たちの暮らすこの世界すら孤独な存在では永続できないのだと聞いて、因果律の乱れにことさら神経質な香さんの気持ちには共感できた。
「っと、ここで下りなきゃ!」
うっかり目的の出口を通り越しそうになり、あわててウインカーを出すと同時に急ハンドルを切った。
後続車がクラクションを鳴らしながらイライラとパッシングを浴びせてくるのに
時間的にはほとんど余裕がない。香さんが予告したタイムリミットまで、もう一分を切った。
「駐車場には入れておくから、先に行って!」
病院の敷地に乗り入れ、激しいブレーキ音で周りを慌てさせたところで、シートベルトを外しながら香さんが叫ぶ。
俺はサイドブレーキを引くと同時に運転席を飛び出した。入れ替わりに香さんが運転席に駆け寄るのを背中で感じながら、のろのろと開く自動ドアを蹴り飛ばす勢いですり抜け、エスカレーターを駆け上がる。
「じいちゃん!」
病室に飛び込むと、心電モニターには弱々しいながらもまだ規則的なパルスが表示されていた。
「来たぞ!じいちゃん、」
ベッドの主は俺の声に反応してまぶたをピクピクと小さく震わすと、その口元がわずかに動いた。
「なに?」
慌てて口元に耳を寄せる。ヒューヒューと苦しそうな荒い呼吸を繰り返し、隙間風のようなかすれた声で、祖父は、
「……が…ばれ……かおる…さ…と、…かよ………せかいせ…もれ」
“頑張れ、香さんと仲良く。世界線を護れ”
確かにそう言って、かすかに笑った、ような気がした。
次の瞬間、枕元の装置がピーっと鋭いアラームを響かせ、モニターの波形はそれきりまっすぐになった。
俺はモニターの時刻表示を目に焼き付け、医者の宣告を耳に刻みつけた。
廊下に出ると、壁沿いのベンチでじっとこちらを見つめていた香さんと真正面から目が合った。
俺はいつの間にか涙に濡れた頬を手の甲で乱暴に拭うと、無理矢理口角を持ち上げる。
「良かったら、じいちゃんに、会ってやってくれますか?」
彼女は無言で頷くとすっと立ち上がり、すれ違いざまにハンカチを差し出すと、ふるえる俺の肩をふわりと抱いた。
刷毛で掃いたようなかすれた雲が、そのまま宇宙まで見通せそうなほど澄んだ群青の空にぽつりと浮かんでいた。
「篠くん」
屋上の手すりにもたれ、そんな非現実感漂う風景をぼんやり見上げていた俺は、名前を呼ばれてふと、振り返る。
「ごめんね」
香さんはそう言って頭を下げた。
「香さん、因果律を…」
「ええ、これが、限界…」
そのままポロポロと涙をこぼす。
「ありがとうございました。お陰で祖父を見送ることができました」
祖父は、あらかじめ予告された刻限より3分間だけ息を永らえた。
どんなに無名で孤独な人間であろうと、人の生き死には世界線に大きな影響を与えうる。故に、たとえ自分ならば助けられると分かっていても、本来なら手心を加えるのは重大なタブーだ。
それが、世界線を守る絶対のルール。
世界中の誰よりも因果律の乱れに敏感で、また厳格な“調律士”時杜香。
そんな彼女が、俺のために、因果律の調律にほんのわずかな隙を作った。
わずか3分。
でも、それは俺にとって、永久にも等しい尊い3分間だった。
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