「そろそろ会いに行ってもいいですか」

いとり

君とした約束


 ワシは御年八十一歳となる老人である。日がな一日、病院のベッドの上で空を見上げて過ごすだけの老いぼれジジイだ。今や色々な経験をし過ぎて、ミニスカートの若い看護師を見ても、性欲すら沸かなくなってしまった。情けない。


 そんな生い先も短いワシの前に、一人の女性が訪ねてきた。


「やあ、善治ぜんじくん、久しぶり!」


「—―春子?」


 ワシは自分の目を疑った。年甲斐もなく”ドクッン”と胸の高鳴りを聞く。それは、いつもの動悸症状とはまた別の物だった。


「だいぶ老けちゃったね」


「まあ、もう俺も八十一だからな」


「あはは、そりゃそうか」


 彼女は、ワシに笑って見せた。

 あどけないその表情は、あの時のままだった

 


「急にどうしたんだ」


「ん? いやね、ど―してるかなあって見に来ただけだよ」

 

「—―もう、会わないって約束したんじゃなかったか?」


「あ! すごい! よく覚えてたねそんな昔の事」


「……いや。忘れた」


「あはは、なにそれ。相変わらずの頑固っぽさと、照れ屋さんだね」


「う、五月蠅いわい」


 はあ、照れて顔を赤らめるなど何時以来だろうか。やはりこいつの前では、この歳になって心を乱される。


「最近、体の調子はどう? 辛くはない?」


「見ての通りだよ。もうろくに一人で立って歩けないし、日がな一日、空の変化を見て思いにふける事しか楽しみは無いさ」


「へー。退屈だね」


「……お前、嬉しそうだな」


「あはは、そんなことないよ」


「ふん。どうだか」


「あれあれ? 怒ったかなあ?」


「怒ってなど……無い」


「あはは、ごめんね」


 彼女は変化するワシの表情を見て終始、楽し気であった。


「あ、そういえばこの間、金治きんじくんに会ったよ」


「……—―そうか」


 金治は、春子とワシの小学時代からの旧友で、良く三人で河原でザリガニを捕まえに行ったりもした。ワシが最後に金治に会ったのは、還暦の祝いの席だったか。些細な言い争いでが原因で、それ以来会っていない。


「—―あいつは、元気だったか」


「うん! 元気も元気。また、昔みたいに3人で・・・ザリガニ釣りに行こうよだって!」


「……」


「でも、私は反対だな」


「—―どうしてだ」


「んー、まだもうちょっと先がいいかなって」


「おいおい。まだ先って――俺はもう今年で八十一だぞ」


「あはは、そうだね。でも、まだ駄目」


「駄目なのか」


「うん。だって、お孫さん可愛いのでしょ?」


「だ、誰からそれを」


「金治くん!言ってたよー『俺の孫の方が可愛いんだ!』って喧嘩したんだってえ?」


「金治、余計な事を」


「あ、あと金治くんからキミに言伝があるんだった」


「ふん。どうせまた嫌味だろ」


「『あん時はすまんかった』—―だって」


「……」


「ねえ、何かあったの?」


「……――なあ。頼みがあるんだが」


「ん? なになに⁉ 何でも聞いちゃうよ!」


「しばらくの間だけでいい。その。抱きしめさせてくれないか」


「んー。ごめんね。それはルール違反かな。私たち・・・には、おさわりは禁止されてまーす」


「—―もう。疲れたんだ」


 ワシは柄にもなく、つい春子に軟弱な自分を曝け出してしまった。それだけに多くの辛さを乗り越え、途方もない時間を重ね来た。ワシの身体は既に疲弊しきっていた。

 しかし、彼女はそれを知ってか知らずか、相も変らぬ口調でワシに言葉を返してくれる。


「あれれ?珍しく弱気ですな」


「……頼む。今だけでいい」


「だーめ。それしちゃうと――また、会えなくなっちゃうから」


「……」


 ワシにとってそれは二度と経験したくない事であり、感情だった。

 春子の顔を見ている事が出来なくなり、目線を外す。


「ねえ、善治くん。私と最後に約束したこと覚えてる?」

 

「—―忘れた」


「あー、嘘ついた。その顔の時はいっつも何か隠してる時の顔だもんね」


 春子は得意げな顔をする。


「ちゃんと、私との約束守んないと駄目だからね! じゃないと、自慢のかわいーお孫さんに示しがつかないじゃないか」


 そう言って笑う彼女の顔は、やはり可愛かった。

どれだけ歳を重ねても、その想いだけは忘れる事が出来なかった。


 何かに気が付いたかのように、彼女は告げる。


「私、そろそろ行かなくちゃ」


「—―ああ」


「もう! そんな情けない顔をしてたらお孫さんに嫌われちゃうぞ~」


「—―ああ」


「まったくもう。ちゃんと元気出しなよ。まだ、来たら駄目だかんね」


「……」


「じゃあ。行くね」


「—―またね。春ちゃん」


「うん。—―ちゃんと待ってる」



 気が付くと、目の前にはいつもの天井がそこにはあった。

 ワシの頬には一本の乾いた跡が残っていた。

 どうやら、あいつと最後に交わした約束・・だけは守れなかったようだ。


 ワシは今日も病院のベッドの上で空を見上げる。

 しかし今日の空は、少しだけ蒼く清んで見えた。

 


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「そろそろ会いに行ってもいいですか」 いとり @tobenaitori

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