井口綾目の教室

violet

井口綾目の秘密

 井口綾目に逆らってはいけない。


 田舎の高校に転校した私。その高校で担任となる先生から、そんなことを言われたのだった。


「飯塚先生、それはどういうことです?」


 飯塚先生は二十代後半の、まだ若い教師だった。ポニーテールと黒縁メガネがとても似合う人だ。


「うーん、私もよくわからないのよ。どうもクラスの生徒たちがそう意識しているらしくて。だから岸本さん、あなたも皆に合わせて、井口さんにはできる限り逆らわない方が良いわ。いじめは何が原因で起こるかわからないし」


 その後、私と先生は教室に向かった。廊下を歩いていると、みし、みしと木製の床が軋む。田舎の学校は造りが古い。廊下の窓はスライドして開けるのではなく、外開きの窓だ。電灯は天井から吊り下げられていて、教室と廊下は窓で仕切られていた。学校は一階建てだが教室は足りていた。そもそもこの学校は田舎であるが故に生徒数が少ない。一学年に一クラス、しかも十数人しかいない。


 先生が二年の教室の前で立ち止まった。がらがらと木製のドアを開いて教室内に入っていく。私もそれに続く。すると生徒たちが私を見てざわついた。


「わあい。転校生だぁ!」


 一際目立って反応していた生徒がいた。凄く可愛い子だった。ショートカットでピンク色のリボンが印象的だった。


「あの子が井口さんね」


 飯塚先生が私にそう耳打ちした。驚いた。てっきり不良なのかと思っていた。


「お早うございます。早速ですが転校生を紹介しますね」


 飯塚先生が私に目配せする。


「東京から来ました。岸本ゆかりです」

「東京! すっごーい!」


 まだ挨拶は終わっていないのに、井口さんが歓声をあげた。


「東京ってパスポートいるんでしょ!?」

「いらないよ、井口さん」


 まったくもう、と笑う飯塚先生。それにつられて笑う他の生徒たち。思ったよりも仲が良さそうなクラスで、私は安心したのだった。





「橘楓です。クラス委員ですので、何か困ったことがありましたら、私を頼ってください」


 私は隣に座る橘さんを見た。何故こんな田舎の学校に通っているのかと思うほど、高貴な女性という印象だった。肌は白くて染み一つなく、黒くて艶のある髪の毛は腰辺りまで伸びていた。


「橘さーん。宿題写させてー」


 橘さんにそう言ったのは、やたら眠そうにウトウトしている女生徒だった。橘さんと違って髪の毛は短く、そして寝癖が目立っていた。


「木村さん、またですか」


 橘さんはため息をついて、机からノートを取り出すと木村さんに差し出した。


「木村佐奈です。よろしくね。あ、宿題忘れたらこうして橘さんに頼むと良いよ」

「こら!」


 橘さんが一喝するが、木村さんはのらりくらりとノートを持って立ち去っていった。


「こんな頼り方、しては駄目ですよ?」


 きりりとした顔で情けなく笑う橘さんは、なんだか可愛かった。


「きっしもっとさーん!」


 素っ頓狂に私の名を呼んだのは、井口綾目さんだった。


「ねえねえ。東京ってどんなところ? ビルがいっぱい建っているって本当? 毎日満員電車って本当?」


 田舎っ子特有の東京への憧れを、質問という形でこれでもかとぶつけて来た。


「私知ってるよ。エスカレーターって基本左側に寄って、右側は急いでいる人が通るんだよね」


 ここはエスカレーターすらないど田舎なのだ。


「井口さん、東京に行きたいんだ」


 私はそう言って笑う。


「うん。なんかさあ、憧れるんだよねえ」


 井口さんは目をきらきらさせて言う。なんてことはない。話した感じでは普通の女の子だ。私は警戒心を完全に解いて、彼女との会話を楽しんだ。





 その後の授業では、井口さんの可愛らしい一面をたっぷりと味わった。現代文では簡単な漢字も読めず、体育では思いっきりすっ転んでいた。


「はは。井口さん面白いなあ」


 帰り道は木村さんと一緒だった。夕焼けが眩しい時刻に、私は井口さんに対する印象を語ったのだった。


「もうすっかり学校には慣れたんだね」

「まあね」


 ふふーん、と私は木村さんにドヤ顔する。


「あ、そうだ。井口さんに逆らっちゃいけないって先生に聞いたんだけど、どういうこと?」


 私は少し踏み込みすぎた質問をしてしまったのか、木村さんは少しだけ沈黙した。


「そのままの意味だよ」


 木村さんは短く曖昧に答えた。無気力な彼女は誤魔化しているのかそうでないのかが分かり難い。


「どうして逆らっちゃいけないの?」

「内緒」

「私も、井口さんに逆らっちゃ駄目?」

「岸本さんなら、まだ良いんじゃない?」


 私ならまだ良いとは、どういうことだろう。


「木村さんも、井口さんに逆らえないの?」

「……まあね」


 木村さんは答え難そうに言った。


「岸本さん以外、全員そう。多分」

「多分?」

「井口さんの気分次第だから」


 謎は深まるばかりである。





「おはようございます。岸本さん」


 翌朝。私が教室に入ると橘さんが既にいて、私に挨拶をしてきた。


「おはよう。早いね、橘さん」

「そう? いつもこの時間よ」


 そう言って微笑むと、橘さんは読書を再開した。


 橘さんはしっかりしている。それに面倒見が良い。とても頼れるクラス委員だ。そんな人が井口さんの言いなりだなんて、にわかには信じられない。


 そんなことを思っていると、がらがらと教室のドアが開いた。本日三人目に教室に入って来たのは、井口さんだった。


「おはぁ!」


 実に彼女らしい挨拶が飛んで来た。私と橘さんは笑顔で挨拶を返す。


「橘さん」


 井口さんが橘さんの前に立って言う。


「私、もっと岸本さんと仲良くなりたいの。だから席、交換しよう?」


 井口さんの頼みは、当然拒否されるだろう。


「私的な理由でってこと? それは無理ね」


 ほら、と思いつつ、そういえば井口さんに逆らったなと私は思っていた。


「ねえ、橘さん」


 井口さんはなんと、橘さんの顎をそっと掴んで、お互いの顔を近づけた。


「っ……」


 不思議な光景だった。気の強い橘さんが、恥ずかしくて目を背けていた。一方で井口さんは、普段の可愛らしい表情はどこへやら。まるで狐のように目を細めて、にたあと口を歪ませていた。そしてその細めた目で、真っ直ぐ橘さんを見つめていた。


「席、交換してくれるよね」


 いつもの井口さんとは思えない程に艶めかしい。橘さんはその言葉に涙を浮かべ、頰を紅く染め、唇をわなわなと震わせた。


「はい」


 橘さんはただ短くそう答える。その表情は二人の顔が近くて照れているのか、それとも逆らえない悔しさからなのか。私には判断できなかった。


「わあい、ありがとう橘さん!」


 人格が一瞬で入れ替わったのかと思ってしまうくらいの豹変ぶりだった。


 そして立ち上がって机を持つ橘さん。


「橘さん……」


 私が言葉を選んでいると、橘さんはこちらに振り返って、情けなく微笑んだ。


「席は離れちゃうけど、何か困ることがあったら私に頼ってね」


 そう言い残して橘さんは井口さんの席の方へ行ってしまった。


 やがて井口さんと橘さんはお互いの席を交換して、私の隣に井口さんがちょこんと座った。その時にはもうほとんどの生徒が教室内にいた。


「井口さん。さっきのは一体……」


 私が尋ねると、井口さんはとても井口さんらしく可愛げににこりと笑った。


「えへへ。お願いしてみるものだね」

「お願い……?」

「うん。お願い。橘さん、優しいよね」


 誤魔化していることは明らかだった。私は少し不気味に思えて、ただ彼女との会話に合わせてやり過ごした。





 放課後。私は井口さんが木村さんに呼ばれているを見て、こっそり跡をつけていた。二人は廊下を進んで、理科準備室のドアの前に立った。すると井口さんが何故か制服のポケットから鍵を取り出して、それをドアの鍵穴に差し込む。


 ガチャっと音がして理科準備室のドアの鍵が開いた。そのまま二人は理科準備室に入っていき、そっとドアを閉めると、またガチャと音が響いた。鍵を閉めたのだろうか。


 いよいよもって怪しく思えてきた。私はそっと足を忍ばせて、理科準備室のドアの隙間に耳を当てたのだった。


「それで。話って何」


 とても、とても冷たい声だった。しかしその声は、恐らく井口さんの声だった。普段の彼女らしからぬ、そう、今朝見た彼女らしい声だった。


「そ、その……あの……」


 一方で木村さんも、なにやら普段の様子ではない。どんな相手でも臆面なく自分の思ったことを言う彼女かと思っていた。しかし今の彼女はそれが難しいようだった。


「いつも言っているでしょう。はっきり言ってくれないと、わからないわ」


 これは井口さんの声だ。恐らくあの、狐のように目を細めて言っているのだろう。


「あの、その……して欲しい……です」


 して欲しい? 何をだろう。


「あはは。そうだと思った。こんなとこに呼び出しちゃって」

「だって、その……我慢しきれなくって」


 すると、かたん、ことん、と妙な物音が準備室から響いた。


「ぁっ」


 そして、恐らく木村さんと思わしき声が響いた。


「ぁっ、ぁあっ」


 木村さんの声が激しくなっていく。妙に蠱惑的で、私は耳が離せない。


「へえ。木村さん、少し大きくなったんだね」

「いや、そこは……」


 これは、してる。間違いない。


 しかし私は、どうやら夢中になり過ぎていたようだった。思っていたよりも理科準備室のドアに寄りかかっていたようで、キュイっと上履きが滑って盛大に尻もちをついてしまった。


 するとドアが開いた。そこに立っていたのは、井口さんだった。


「聞いてたんだ。岸本さん」


 橘さんに向けられたあの表情で、あの目で、私を真っ直ぐ見つめてくる。私は金縛りにあったかのように身動きが取れず、尻もちをついたまま、ただ井口さんを見つめた。


「あなたも、私に逆らえないようにしてあげる。ねえ、ゆ・か・り」


 そのまま井口さんは私の唇を奪った。そのまま舌を入れられて、彼女の手が私の身体中を巡っていく。


「井口、さん……」

「違うでしょ」


 井口さんは、いやらしく笑う。


「綾目さまって呼びなさい」


 ガラスに映る私の顔が見えた。その顔はとてもだらしなく、ふやけた笑顔で口を開くのだ。


 はい。綾目さま。

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