Die Sein

駄目田眼鏡

第1話『出生』上

 平原。おそらくはそう呼ぶに適した土地。彩度と背丈の低い草の生い茂る、悠久の大地。天気は晴れともくもりともつかず、これまた彩度の低い空がうす青く広がっている。

 ―――おかしい。

 最初に考えたことはそれだった。ここはどこだ、とか。自分は誰だ、とか。そういった陳腐なことではなく、ただ漠然と『おかしい』。そう思った。

 気が付いてしまえば早いもので、次から次へと疑問が湧いて出た。自分はいつからここに立っていたのだろう。自分はなぜここにいるのだろう。なにも分からない。思考する道具として言葉は持ち得ているようだが、それ以上なにも分からなかった。ザァ……風が駆け抜けていく。肌寒さを感じて、初めて『おそろしい』。そう感じた。

 道理に従えば、このままだと夜が訪れる。ただ立っているだけではあまりにも長い。それだけではない。まったくもって人家が見えない。集落の気配もない。あるのはただ、大地と草原と、空。底知れぬ孤独に肩がふるえた。このまま時間が経てば、死ぬのは明らかだった。餓死か? 衰弱死か? 他は特に思いつかないが、いずれもくるしそうで嫌だった。

 茫然と立ち尽くしていて、気が付いた。先程のように風が吹かなければ、快も不快も感じない。ちょうどいい気温。ちょうどいい湿度。気味が悪い。

 ……とりあえず動こうと思った。動かなければ立ち枯れの木のごとく死ぬだけだ。まだ歩き疲れて倒れ死んだ方がいい気がした。草を踏みしめると自分が裸足だとわかる。なんだか分からないがやわらかい草だ。このままでも大丈夫だろう。風をきって歩いた。肌ざわりのいい空気が頬を撫ぜる。歩き出せば意外と気が紛れるもので、ずんずんとどこまでも行けるような感覚があった。だんだんと温まってきて風も心地よくなる。

 どこまでも歩いて行ける。自分の足だけが頼りだ。それが快かった。


 ―――空腹で、目が覚めた。

 いや、正確に言うと痛みで目が覚めて、空腹で目が冴えた。

 ひりつくように痛む膝下には包帯でも巻いてあるのか、もそもそして動かしずらい。なによりも腰が痛んだ。自分が寝ている寝台はやたら硬い。そのせいだろうか。むやみやたらと動く気にはなれなくて、不快感でいっぱいの身体を横たえたままで茫然としていた。

 足元のほうでなにやら音がする。戸の開く音だろうか、暗かった部屋にすっと光がとおる。大した明るさではなかったがすこし目が眩んだ。痛む肩や腰をきづかいつつ起き上がる。

 「……あ、起きた? いやはや、このままくたばったらどうしようかと思ってた。」

軽薄な印象の声がそのドアのほうから降ってくる。おそらくスリッパでも履いているのだろう、柔らかい足音を伴って声の主は歩み寄った。ベッドの横にあったとおぼしき椅子を引いて座る。

「寝起きはどう、少年。リンゴ食べる?」

目は暗さに慣れてきていたが、表情がよく見えなかった。声色からしておそらく笑っているのだろう。差し出された小皿を受け取る。

「あ、りがとうございます」

一切れとって口に運んだ。蜜があるわけでもないし、新鮮なリンゴ特有のシャキッとした歯ごたえもとぼしかったが、空腹にはなによりもしみた。小皿の上の四切れはあっという間になくなった。

「……ぼくの分……まあいいや。食欲はありそうでなにより」

「あっえっ? し、失礼しました……」

おそらくは、命の恩人なのだろう。そんな相手にいきなり無礼をはたらいてしまった。

「いや、いいんだ。リンゴなんてまだあるし。それよりも、いくつか聞きたいことあるんだ。いいかな?」

声のトーンは軽い。きっと、本当に気にしてはいないのだろう。胸をなでおろす。

 ……問いかけに応じようとして、気がついた。

「あの、おれ、なにも分かんなくて。えっと、自分が誰なのかとか、そういうレベルで」

「へぇ? じゃあここに来る前はどうしてたの」

声色が変わった。責めるトーンではないが、今まで感じられた余裕がなくなった感じだ。

「気づいたら平原に突っ立ってて……そのまま死ぬよりはマシかと思って歩き始めたとこまでは覚えてます」

返答はぎこちなく力んでしまった。自分の置かれている状況を改めて認識して、握り締めた手に汗がにじむ。

「そこから先の記憶は無く、目が覚めたらここにいた、と。そんな感じ?」

「はい」

ふむ、とくぐもった相槌で会話が途切れた。

「少年、今は早朝でね。だいたい朝の三時半、かな。君は今日どうしても行かなきゃいけないとこがある。もう少し寝ていて」

そう言って立ち上がった。

「はぁ、」

自分でもよくわかる情けない返事をしてしまう。

「ぼくは準備とかあるから」

手を振ってその青年は部屋を出る。

 ……仕方が、ない。節々の痛むこの硬いベッドにまた寝なければならない。痛みと空腹とで眠れない。文句など言えるはずもないから、大人しく布団に身体をつっこんだ。見えもしない天井を見つめる。

 おそらく、相当稀有な状態だろう。記憶という名の『これまで送ってきた人生』が存在しない者。自分はいままで、なにをしていたのだろう。自覚を持ってまた、漠然とした不安に覆われる。空腹が心細さを際立たせる。痛む身体を無理に横たえて、毛布にくるまった。ぎゅっと目をつぶる。

 疲れからだろうか、思うところはあったが、想像よりはすんなりと眠りに落ちた。


 「おはよう少年。いい朝だね」

頭上から声が降ってくる感覚。ぼんやりとだが目が覚めたようで、目を開ける前から日差しがすこしまぶしかった。むろん身体は痛んだが、ゆっくりと起き上がる。

「今はだいたい朝の九時、かな。ちゃんと眠ったね? うんうん、顔色も悪くはない」

寝ぼけまなこをこすっているうちに目の前の青年はとんとんと話を進める。

「足がね、少々草負けというかなんというか、ちょっと赤くなってたから薬塗っといた。経過を見たいんで毛布から出てくれないかな」

寝起きの頭は本当にとろくて、言葉を理解するのにワンテンポ遅れた。のっそりと毛布から這い出る。

「楽にしてて。そうだ、昨日だけど君が寝てる間に点滴うったんだ。左腕痛くない?」

そう言いながら青年はするすると脚の包帯をとっていく。

「左腕……言われてみれば、すこし重たい気がしますが、痛みはあまり」

「そっか。なら大丈夫かな」

足に目を落とすその青年の姿が印象的だった。釣り目ぎみのきりっとした目が伏せがちになる。真ん中で分けてあった前髪がさらりと顔に落ちた。すっきりとした顔立ちのわりに、と言ってはおかしいが手はなんだかガサついている。左足を見終えたらしく、右足の包帯を外しはじめた。

「あの」

思わず口をついて出た。

「なんだい?」

「あ、えっと。あなたは医師なんですか?」

「うん、そうだね。言ってなかったっけ、ここ、ぼくの診療所」

「はあ、すごいですね、」

言われてみて部屋の中を見渡すと、すべてが白っぽい室内や3,4個並んだベッドがたしかに病院らしい。すこし、驚いた。彼は見たところ二十代前半ぐらいに見える。『ぼくの』と言うからには彼が所長を務める診療所なのだろう。このような若さで所長が務まるのか、と驚いた。

 ……? おかしい。なぜおれは、なにも覚えていないのに一般論らしいことを思うのだろう。

「うん、経過は良好。包帯はもういいや、軟膏あげるから自分で塗って。一日に二回ね」

そう言って立ち上がった。ベッド脇の机にあった軟膏のケースを手渡される。

「ありがとうございます、あの、お代はどうすれば」

「あぁ、君まじめだね。どうせ一文無しでしょ? いつか仕事ができたときに返してくれればいいよ」

ありがたいと同時に申し訳なかった。改めて自分の情けなさに嫌気がさす。

「気にしなくていいって。そうだ、君、さっきぼくが言ったこと覚えてるよね?」

「さっき?」

「早朝に言ったでしょ、今日は行かなきゃいけないとこがある。準備しよっか。軟膏塗り終わったらそこのスリッパ履いてこっち来て」

ベッドの足元を指さしながらドアの向こうに消えた。あっけにとられつつも、スリッパを確認して軟膏のフタを開ける。それらしい独特の匂いに眉根を寄せつつ、手にとって塗りつけた。改めて足をよく見れば、草負けというより草で細かく傷がついている感じだった。裸足のまま無理に進んだ報いだろう。幸い大事はなかったようなので、すこししみるのをがまんして大人しく塗った。

 スリッパを履いて、立ち上がる。やはり節々が痛んだ。ぐぐっと伸びをして、腰を回す。ぺたぺたとスリッパを鳴らしてドアを開けた。

「こっちこっち」

廊下に出て左右を見渡していると、そう遠くない左側の突き当りから手招きされる。どうやら奥へ階段が続いているようで、板張りの床をまたぺたぺた言わせながら声のほうへ向かった。後へ続いて二階へと上がる。ぎしつく階段を踏みしめた。どうやら居住スペースのようだ。青年の真似をして、階段から続いて廊下より一段低くなっているスペースでスリッパを脱ぐ。

「タダユキー? くだんの少年、起こしてきた。出るぞー」

誰かを呼んでいる様子だ。大人しく部屋の入口で立っていると、奥から誰かやってくるのが分かった。頭に頭巾をかぶった大男だ。

「ああ、起きたのか。大事なさそうか?」

「おう、大丈夫そうだ」

「自分は準備できてるが……あ、おまえのぶんも準備しておいたぞ。あとはそこな少年の身丈に合う服があるかだな」

「まあ、いざとなればどうとでもなるんじゃないか?」

気心の知れた仲、なのだろうか。会話が弾んでいる。

「おまえな、やっぱりなにも考えてなかったのか……服は2,3着買っておいたよ」

「気が利くなぁ。ぼくとの同居歴が長いだけはある」

「じゃあ気が利くついでに聞いておこう。そこな少年に俺の紹介はしたか?」

「おっと……よく考えたら、ぼく自身の紹介もたぶんしてない。少年! 」

二人の会話にあっけにとられていたら、急に青年が振り返った。

「ぼくの名は―――うん。リン、とでも呼んで。

 この男は忠義の忠に行くでタダユキ。

 二人でこの診療所をきりもりしている。改めてよろしく、少年」

右手を差し出される。握手、だろうか。自分もおずおずと手を差し出した。青年の―――リンさんの手は、やはり見た目のとおりに乾燥しきっていたけれど、温かかった。奥に立っていた男―――忠行さんとリンさんが場所を代わる。

 「あの、おれ、名乗る名は無いんです。忘れてしまって。すみません」

「構わない、自分も似たようなものだ。よろしく」

頭巾のせいで目元が陰っていたのと高身長があいまって怖かったが、笑うと彼も優しそうだった。よく見るとたれ目がちで温和そうな顔立ちである。節くれだった太い手指と握手を交わした。『似たようなもの』の真意は分からなかったが、言及するのも失礼かと黙っておくことにする。

「さて少年、朝食を食べてないだろう。ごちそうする、と言うほどでもないが食べるといい。おいで」

廊下を曲がって、リビングらしいところに入った。物は多い気がするが、雑然とはしていない。キッチンが右手側に見えた。二階全てに言えたことだが白を基調にされた一階の診療所とは違い、少々年季の入った木目の雰囲気に生活感があった。振り返ればリンさんはいない。おそらく、準備とやらをしているのだろう。

「あいつは神経質なところがあるからな。少年、君から見て右手側のイスに座るといい。いま朝食を温め直す」

いつのまにかキッチンへ行っていた忠行さんがそう言った。食卓の、キッチン側のイスを指しているのだろう。言われた通りに腰を下ろす。キッチンと忠行さんには背を向ける形となった。

 かちっ。コンロの音だろうか。予想通りにゴッと炎の着く音がする。じゅわじゅわっという音がだんだん大きくなった。音にあわせていい匂いがしてくる。これはきっと―――

「はい、目玉焼きと白ご飯。塩とか醤油とかは適当に使うといい」

「ありがとうございますっ、いただきます! 」

下手に気を回すのも失礼か、と思って大人しく座っていた。目の前の温かい食事を前にして、そのガマンも弾け飛ぶ。勢いよく手を合わせて箸を手にとった。既にうすく塩のかけてある目玉焼きをちゃかちゃかと切って口に運ぶ。無礼にならないよう注意を払いながら、しかし食欲の衝動のままにご飯をいただく。よく身にしみた。

「好い食べっぷりだなぁ。味噌汁あるけど、食べるかい? 」

「よろしいのであれば、ぜひ」

「ヨシ分かった」

また背後でコンロの音がする。少し下品ではあるがご飯をかきこむ。目玉焼きの黄身を千切りのキャベツにからめて食べる。口の端のしおっけをなめとる。空腹は最高の調味料、という言葉がよく理解できた。

「はい味噌汁。残り少ないけど味噌汁と白飯はおかわりがある。コンロの上に鍋ごと置いてるから、好きにおかわりするといい」

飲み下しながら目を合わせ頷く。その同意を確認すると忠行さんもどこかへ行ってしまった。目玉焼きを食べきって、湯気の出る味噌汁にそっと口をつける。しみわたるような幸福に目を細めながら、最高の朝食をいただいた。


 リンさんが言っていた『行かなきゃいけないとこ』へは、徒歩で行くらしい。三人で診療所を出て、戸に『臨時休暇』の札をかけた。

「いいんですか、急に休みにしちゃって」

自分は身長が低いので、リンさんの顔を覗き込む形になった。

「いいのさ、ここには本当に医者が必要な人間なんていないんだよ。ところで、服、似合うね」

朝食までは入院服だかバスローブだか分からない布を巻き付けていたが、いまは忠行さんが用意してくれたシャツとジーンズを着ている。すこしだけ大きかったためジーンズは裾を折っている。似合う似合わないは自分自身ではよく分からなかった。

「あ、ありがとうございます」

ひっかかる言葉があったが、飲み下す。

「忠行が選んだ服なだけはある。さ、行こうか」

リンさんの発言はいちいち真に受けていたら大変だ、と気が付いた。さきほどの発言も近所に他の病院かなにかあっての言葉だろう。歩き始めた二人について行った。周囲の人通りは少ない。石畳の上をぱたぱたと歩く。

「君は本当になんにも知らないんだろう? 」

リンさんの少し後ろを歩いていて必然的に自分と並んでいた忠行さんがそう声をかけてきた。やはり大柄で、改めて見るとやはりこわい。

「はい……なにも」

「そうか、うん。珍しいことじゃあない。自分もそうだった。正確に言うなら、今も同じだ」

「どういうことですか? 」

「……いつか、分かるさ」

不自然に口角が上がった。聞いたのは失敗だったか、と目を伏せる。

「気にしなくていい、自分の言葉が足りなかったな。自分からではまともな説明ができる自信が無かったんだ」

忠行さんはよく気を回せるタイプの人だ。それが逆にぐさぐさときた。自分自身も彼のようになれたらいいなと思う。

 しばらく歩いていると、閑散としていた人通りが増えてきた。建物も高いものが増えていく。遠くに見える山の稜線に沿って街は広がっていた。リンさんがするすると道を歩く。おれたちは後に続く。中心街についてからも、歩いて、歩いて、歩いて……

「少年。忠行。そろそろだ」

細めの道を抜けて、疲れた太腿をおさえた。目の前にいたリンさんがはけて、その先に見えたのは―――

「ようこそ、少年。紹介しよう。ぼくたちの根源の眠る場所。幾度となく世紀を超えたこの世界の叡智が集う場所。どこやりも、なによりも欲望にあふれた神聖な場所。この世界の人間という人間を統べる、『図書館』だ」

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