短編「涙さえも凍りつき」

朶稲 晴

【創作小話/涙さえも凍りつき】

目が覚めた。何の音かと思えばそれは屋根を雪が滑る低い唸りだった。

寝ぼけ眼で時計を確認すれば午前二時。朝にはほど遠い時間であるのにカーテンを閉めてなかったとはいえ時計を確認できるほどの明るさがあるのに少し驚く。降る雪に街灯の光が反射して明るくなっているのだ。その色はやわらかくほんのりとオレンジ色に染まり、昼の太陽の明るさとも晴れた満月の夜の明るさとも違う、不思議な雪の日特有の明るさが部屋を満たしていた。

三月であるのに雪が降っていたこと自体には驚かなかった。夜の寝ているあいだ知らぬうちとはいえ、北国では三月はまだまだ冬だ。桜の季節である内地とは全然勝手が違う。入学式とか新学期でさえ桜はまだ咲かず下手すれば雪なのだから、本州の桃色のイメージがうらやましい。

へんに目がさえてしまい冷たい窓べりに肘を置き頬杖をつく。はぁ、と吐いた息で窓が白く濁る。そっとその曇ったガラスに指を這わせようとして、子供の頃言われたことを思い出した。

「―――。ねぇ。―――。いけないよ。手の油が着いちまァ。拭いてもなかなかとれないんですよそれ。」

「どうしていけないの?」

「汚れるからさ。お父さんに叱られるよ。」

ひどく若い母の声。ただ、自分の名前を呼ぶその記憶だけが曖昧で、よく、鮮明に思い出すことができなかった。

あぁ。たしかに言われた。だけど、それがどうした。父も母も、この家にはいない。ムギュ、と水滴を押し潰し、とりあえず横に指を滑らせる。上向きに反る弧を描いて、指を止める。

べつに何を描きたかったわけでもない。ただ、そうしたかっただけで。子供の頃の自分だったら、純粋なままの自分であったら、ここに何かを描くことができたであろうか。何かを生み出すことができただろうか。消え行く濁りにもう一度息を吐きかけ甦らせる。何度でもいおう。べつに何を描きたかったわけでもない。予定があったわけでもない。ただ、そうしたかっただけ。

「ははっ。ニコチャンマーク。」

まわりほどは曇らず、でもたしかにほんのりと白くなった弧の上に、点を二つ。スマイル。笑顔。取って付けたような面白くもなんともない、ラクガキ。口にあたる部分を最初に描いてしまったからか、顔のパーツのバランスは大きく崩れ、歪んだ大きな口もとが無理して笑っているように見えた。

もう寝よう。起きていたって、なんになるでもない。そろそろ寒いし、布団に潜ろう。

最期にもう一度外の様子をうかがう。窓の外は相変わらず深々と雪が降っている。やむ気配がないそれを見遣って、ひとつ嘆息。目測でだが五センチは積もっている。

根雪にはならないだろうが、朝になったら雪かきをしないと。

カーテンを引っ張って明かりを遮断し、すっかり冷えた肩をまどろみにとかした。

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短編「涙さえも凍りつき」 朶稲 晴 @Kahamame

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