KAC5: 温室、あの夏の

鍋島小骨

温室、あの夏の

 卒業以来、小学校に近寄ったことがない。

 嫌いではなかった。ちゃんと友達がいて、勉強も普通にできる方だし運動も得意だった。卒業式ではクラスメイトと一緒に担任の先生のところに行って泣いた。

 平凡な子供だったと思う。それでも、主流グループに属して活発に喋り、リーダー側としてやっていける勝ち組のつもりでいた。

 けれどもそれはただ、二年間だけ続く四十人にも満たない学級の中の小さな波に、たまたま三度溺れず乗れたというだけだ。私に力があったわけではない。私という個体が強かったのではなく、たまたま寄り集まったが偶然、一時的に、ある種の勢力を持てたというだけのことだった。

 私はグループから振り落とされたくなかった。グループ内のビリの位置に落ちるまいとしていた。安全圏にいたかった。オリジナルメンバーではなかったからだ。

 私は、そのグループ成立に数ヵ月乗り遅れている。後から入った。それは、誰かがから可能だったのだ。

 そして私は、卒業以来、小学校に近寄ったことがない。





  * * *





 二十年以上経って初めて小学校に足を踏み入れたのは、選挙がきっかけだった。

 遠方の大学に進学し就職したのだが、事情があって実家に戻ってきた。その夏、選挙のお知らせが届いた。

 投票所は私の卒業した小学校だった。

 行ってみて驚いた。私が通っていた当時に比べると生徒数が激減したことは親から聞いていたが、二つあった玄関は一つに統一され、使われなくなった教室を固めて地域交流センターができており、そして何よりも、校舎の何もかもが昔より小さく見えた。

 廊下が短い。天井が低い。投票所になった体育館もこんなに狭かったかと驚いた。

 私の身体が大きくなったせいだ。そして、学校よりもずっと大きな建物を見慣れたせいだ。それは分かっていた。それでも、ああこんなちっぽけな世界だったか、と魔法が解けたような気持ちになる。

 昔通った教室を見たいという気持ちは全くなかった。

 私は年に何度か校舎の夢を見る。夢の中の私はいつも校舎の内部構造がよく分からず道に迷ったり、授業の忘れ物を思い出したりしながらずっと焦っている。誰も助けてはくれない。私はずっと不安でずっと焦っている。

 校舎はもう、好きではない。



 手順通り投票を済ませ、蒸し蒸しと暑い体育館から渡り廊下を通って玄関に戻る。投票者が土足で上がっていけるように順路にはブルーシートが敷かれている。玄関が開けっぱなしで、日陰の校内でもひどく暑い。熱した真綿に全身を圧迫されるように暑い。この夏の暑さは本当にどうかしている。

 玄関を出ると私は、目の前の門を出るのではなく、校舎脇の通り道を進んで裏庭の温室の方に進んだ。小学生の頃もよく通ったルートだ。温室側の裏門から出た方が私の家に近いし、木陰を通れる。

 温室はなくなっていた。

 あれ、と立ち止まったが、よく考えたら私はそれを知っていた。裏庭のその温室は私たちが中学一年の頃に撤去され、今は校庭の片隅に新しく作られたものが使われている。

 知っていた。

 もちろん知っていたのだ。

 ブルーシートが雨に濡れていたことも知っている。


 ただ、忘れていただけだ。


 忘れるなどということが可能だったのだな、と認識して、ぞっとなった。



 言葉を掛けられたのはその時だ。


「おキク? ね、おキクじゃない」


 涼やかな声に振り返ると、かつてキュウリやトマトの苗が育てられていた所にえむが立っていた。

 えむ、と呼ぶと、彼女はあははと笑って、やっぱりお菊だあ、と言った。


 グループでは幾つかの内部ルールがあり、あだ名で呼び合う慣例もその一つだった。私は苗字の菊川からとってお菊。えむは、名前がえみりなのを本人がよく噛んで「えむり」みたいな発音をするので、そこから決まった。

 グループから外されると、そのあだ名で呼ばれることはなくなる。

 私も、お菊と呼ばれたのは小学校卒業以来だ。


「お菊、久し振りだね。投票?」


「うん。済ませてきたとこ。えむも?」


「私は温室見にきたの」


「ああ。移動したよね」


「トマトなってる。もう割れたやつもあるわ」


 えむが動かないので私が近付いた。立ち話をするには離れ過ぎていたから。

 木陰に入るとすうっと気温が下がるのが分かった。えむは私と違い、全く汗をかいていないようだ。昔と同じ色白で、前髪が少し長く、その下の目がこちらを見ている。


「懐かしいね。お菊、マチとかワラビがどうしてるか知ってる?」


「えむ知らないの」


 本当に驚いて私は言った。


「ワラビは中学の修学旅行先で行方不明になったまんま見つかってないの。マチは大学の新歓でお酒飲み過ぎて、急性アルコール中毒で死んじゃった。ニュースにも出たよ」


 えむはすごくびっくりしたような顔をして、私はそれで、ああこんなにパカパカとつらい情報を連打するもんじゃなかった、と後悔した。

 えむは小学校までしかここにいなかったから、知らないのだ。


「ごめんね、びっくりした? でもそうなの」


 ところがえむは、ふにゃっと笑ってこう言った。


「知ってるよ。

 それでマチとワラビが今どうしてるか知ってる?」


「え?」


 

 あの二人は死んだのに?


「知らないの? 友達でしょ」


 木陰はもう凍りつくように寒い。インフルエンザの時のように悪寒がする。えむ何を言っているの?


 えむは笑っている。昔のように。

 えむは笑っていない。あの時のように。

 えむは言う。かつて言わなかったことを。



「お菊、ルール破りしたよね」





 グループでは幾つかの内部ルールがあった。

 独自のあだ名で呼び合うこと。

 メンバーの秘密は外には絶対漏らさないこと。

 いつも一緒に行動し、メンバーの味方をすること。

 私は、グループ内のビリの位置に落ちるまいとしていた。その位置の誰かが落とされ、他の誰かが入れられる。上位メンバーは固定のままで。

 安全圏にいたかった。オリジナルメンバーではなかったから。

 だからルールを守った。

 そして、だからルールを破った。





  * * *





 真夏、大粒のぬるい雨がだらしなく降り続ける夕方、温室は大勢の人に取り囲まれていた。それ以来私たちの誰も温室に入ることはなく、翌年には取り壊されて無くなった。

 遺書も何もなかったため動機は推定の域を出なかったが、両親が離婚予定で、どちらが子供を引き取るかで揉めていたのが理由の一つだろうと噂された。子供を取り合っていたのではなく、押し付け合っていたからだ、と。

 その両親は事件のすぐ後に予定通り離婚し引っ越していった。こんな形であれ子供がいなくなってお互い身軽になったのだろうと陰で言う者も多かった。

 だからえむは小学校までしかここに住んでいない。

 ワラビがいなくなったことも、私が進学でこの土地を離れたことも、マチが酒で死んだことも、えむが知るはずはない。



 あの雨の日の帰り際、三日振りにえむと会話した。


――あのこと言ったの、お菊じゃないよね。


 私は一人だった。だから答えた。グループの他の子がいたなら無視するか笑って通り過ぎるところ。


――ワラビやマチじゃなく、最初に私、疑うんだ。って相手選ぶんだね。



 それから三時間ほど後。大きな音がしたと気付いた教員が確認に行くと、温室の屋根が破れていた。

 中には、里見えみりの死体があった。


 里見えみりは、屋上から温室に向かって身投げしたと断定された。




 私は。


――里見さん、父の日のプレゼント捨てられたんだって。

――なんかそれ、万引きしたものだったんだって。すごくない?


 その根も葉もないクラスの噂に、ああ聞いたぁ、と曖昧な支持を与えて、そして。


――ち、親離婚するんだけどどっちにも引き取ってもらえないらしいよ。


 クラスのネットワークに情報を流し入れた。

 本当はワラビやマチはえむをグループから外すかどうかまだ決め切ってはいなくて、最近ノリが悪くて白けるからちょっとハブろっか、と言っているだけだった。でももしえむが大丈夫になったら今度は私がその立場に追い込まれるかもしれない。

 先手を打たないと私が弾き出される。

 だからルールを破った。


 えむが死んだのはそれから三日後のことだった。





  * * *





 温室に墜ちて死んだえむ。

 雨に打たれるブルーシート。

 空々しいお葬式。

 閉ざされたままの棺。

 手を繋ぎ合って泣いていたワラビとマチももう死んだ。


「私がグループに入る時、ルールは絶対守らないと許さないってお菊言ったよね。でもお菊は私が内緒で教えたことバラしてルール破りした。ワラビもマチも味方してくれなかった。

 


 そうだろう、と思う。でも私にも立場があった、と思う。まさか死ぬなんて思わなかった。二十年も経ったのに。寒い。怖い。えむがまだ私に怒っている。もう許してよ。

 えむは昔と同じ色白で、前髪が少し長く、その下の昆虫のような目がこちらを見ている。


「お菊」


 ひ、と小さく喉の奥が鳴った。


「……マチとワラビが今どうしてるか、知ってる? 知らないの? 友達でしょ?」


 どうして。


 無くなったはずの温室の中に私はいる。

 屋根の穴から屋上の柵が見える。

 青い夕方の空を透かして、大粒の雨がだらしなく打ち付ける。

 地面には、へこんで黒々とした痕があって。

 大きなトマトが割れている。いくつも。


 それはえむ。

 それはマチ。

 それはワラビ。

 えた臭いのする赤茶けたものを垂れ流して、泣いている。わらっている。呪っている。


――お菊も、こうなるんだよ。

――わたしたちのようになるんだよ。


 足元がぐずぐず沈んでいくのは地面のせいではなく私の足が融け崩れているのだった。

 身体の内と外の境が分からなくなり私は叫ぼうと口を開く、開いた口からぐちゃりと顔が割れて何か気持ちの悪いものが流れ出す、目玉にトマトの種が沁みて痛い、痛いのももう分からない、そうだ私がみんなに言った。

 私がえむの秘密を喋った。

 だから。


――だから許さないよ。


 えむの声が反響する。

 虫のような真っ黒な目が見ている。



――ルール破りは、許さないからね。





〈了〉

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