禁忌の洞窟
時谷碧
禁忌の洞窟
行ってはならぬ、見てはならぬ、呼んではならぬ。
ならぬづくしの、この立て札が怖かった。
村の子供はみな一様に、この立て札の先の洞窟に住むという何かを恐れていた。大人達が、それに関する怖い昔話を毎晩のように語り聞かせるせいだ。
それには名がない。名はないが、もしもそれを意味のある言葉で呼ぶのならば、言葉通りの何かに成ってしまう。恐ろしい姿を見て、つい化け物と呼んだ子供が喰われてしまうという話だった。
私もまた、おばあちゃんからその昔話を聞かされてきた子供のうちの一人。
怖くて怖くて堪らないのに、洞窟に入ろうとしている。
子守を任されていたのに、妹が、あろうことかこの洞窟に入ってしまった。きゃっきゃっと笑いながら、一抹の恐れもなく。
それもそのはず、妹はまだ、お伽話もうまく理解できない。一応、立て札の前で、この先に行っちゃだめだと教えた時には、うん! と元気よく頷いていたのだが、元気よく頷いていただけだったらしい。
子供の足と侮ってはいけない。こういう時だけは、意外なほどの素早さを発揮する。もう足音すら聞こえなかった。
肩の高さに張られた立ち入り禁止の注連縄を潜る。背の低い妹にはなんの障害にもならない縄は、古びていて、ちくちくと手のひらを刺した。潜った途端に、とてつもなく悪いことをしている気分になった。
早く終わらせて帰りたい一心で、足を速めて洞窟に入れば、昼だというのに、中はひんやりとして妙に薄暗かった。どこからか、岩の隙間に風が鳴く音と、水が滴る音が反響して聞こえてきて、余計に寒く感じた。
真っ暗ではない。目が慣れれば何とか見える程度の暗さで、少しだけ安心した。
進めば進むほど、暗くなっていくのではないかと思っていたが、まるで誰かがわざとそうしたかのように、ぼうっと光る茸やシダのような植物があったから、何とか見える程度の明るさが確保されていた。
岩壁に手をつきながらしばらく行くと、行く先に、僅かに明りの漏れる隙間を見つけた。どう動かすのかわからないが、石の戸が大人一人滑り込める程度に開いているようにも見える。
そっと隙間から覗いてみた。
人がいた。妹も一緒だ。妹は、その人の艶々とした白銀の長い髪を握りしめ、膝に縋りついたまま眠ってしまったような恰好をしていた。奇妙な容姿をした人だが、その人は寝ている子供をどうしたらいいのか、途方にくれているようにも見えた。
その人が、私に気づいた。
暗がりでもわかる異形だった。猫のように闇に光る真っ赤な瞳、蛇のような縦長の虹彩、つい化け物と叫んでしまいそうになった。
その人がそっと口元に、爪の長い人差し指を添えていた。
かろうじて、叫ぶのを我慢できた。
蛇の目は感情を読み取るのが難しい。何を考えているのかはわからない。それでもその仕草は、寝ている妹を思いやってのことだとわかった。
「悪い子ね」
冷たい、落ち着いた声音でその人は、私を咎める。
行ってはならぬ、見てはならぬ、呼んではならぬ。
二つ目までは破り、危うく三つ目まで破りそうになったのだから、申し分なく悪い子だろう。
「妹を迎えに来たんです」
勇気を振り絞って、眠ったままの妹を起こさないように抑えた声音で言った。
「それは助かる。この手では、抱き上げることもできない」
その人が掲げて見せた両手には白い鱗がまばらに生え、指には鋭く長い爪がついていた。それは紛れもなく、異形の証。
「どうした? 悪い子が来なければ、妹は帰れぬぞ」
妹を取り戻さなければ。そう思うのに、怖い。蛇の目に足がすくんで動けない。煌々と輝くあの目さえなければ、近寄れるかもしれないのに。
「感情は、言わなければ伝わらぬというわけでもない」
ふと、その人が独り言のように呟くと、その人の輪郭にさざ波が立った。肌がざわめいて、鱗が増えた。
恐れてはならない。化け物と呼んではならない。
昔話の子供も、こんな風に怖かったんだろうか。怖いと思いながら、喰われたんだろうか。
いや、違うはずだ。この人は少なくとも人の形をしている、昔話に出てきたものは、もっと異形だったはずだ。なぜだろう。
その人の膝ですやすやと、安心したように寝こけている妹に違和感があった。
妹は、恐れていない。
「妹はどうして眠っているのですか?」
「ああ、ただ遊び疲れて寝ているだけだ。わたくしが眠らせたわけではない」
そう会話する間にも、ざわりと鱗が増えていっている。その人を怖いと思うほどに増えていく気がした。
「一緒に遊んでくださったのですか?」
「そうだ。とは言ってもこの子がわたくしの髪を触っていただけだが。姉ともあれば、当然のことだ」
姉。確かにそう言った。
知らない女の人を、妹は多分、お姉さんと呼ぶ。
この人は今、姉のふるまいをしている。だから、妹に優しい。ならば。
「姉さま、少しの間だけ目を閉じてはいただけませんか?」
三つ目の禁忌を破ることに、躊躇はあった。しかし、これ以外の方法は思いつかなかった。刻一刻と鱗は増えていて、それがその人の肌を覆いつくしたらどうなるかの方が、よっぽど恐ろしかった。
「よかろう」
妹の姉であるならば、私の姉にも成りうるだろう。その目論見は成功したようだった。
ざわりとまた輪郭が揺らいで、鱗が消えた。爪もいつの間にか、丸みを帯びた人間のものになっていた。
最早、目を閉じた綺麗な女性にしか見えなくなったその人に近づく。
「懐かしい、匂いがする」
目を閉じたまま、その人が言った。何か持っていただろうかと懐を探ると、おやつにと持たされていた草餅があった。自家製で、独特の匂いがする野草を使う。
妹を抱き上げて、代わりに葉に包んである草餅をその人の膝の上に置いた。
「姉さまに、差し上げます」
食べるのかどうかはわからないが、なんとなく置いていくのがよい気がした。
「ああ、ありがとう。妹を怖がらせるのは良くないから、目はしばらく閉じたままでいよう。早くお帰り。そして、二度と来てはいけないよ」
妹を抱え、振り返らずに、家へ帰った。
何食わぬ顔で帰ってはみたものの、洞窟に入ったせいでついた衣服の汚れを見咎められ、結局洗いざらい話すことになった。
妹は洞窟に入ってしばらくすると、怖くなって「お姉ちゃん」と私を呼んでいたらしい。そして、綺麗な髪の不思議な人に会ったと。
二人で、今までにないくらい叱られた。
その夜、おばあちゃんは、少し変わった昔話をしようと言った。
「昔々、神々の末にあたる蛇の姫様が嫁に来た。姫様は村に恵みをもたらし、作物は良く実り、家畜は良く肥えた。だが、それも長くは続かなかった。姫様の夫であった若者が死んでしまったんだ。悲しんだ姫様は大蛇となり土地を荒らした後、人の姿には戻ったものの自分を見失ってしまった。村人は、そんな姫様を洞窟に閉じ込めた。姫様自身がそう望んだとも言われているね」
「姫様が可哀想」
「だがね、姫様はもとより人ではない。人を喰うというあの話も嘘ではないよ。お前が悪い子と呼ばれたままだったなら、その人と思い続けていられなければ、喰われていたかもしれないね。幸運なことだよ」
他人の巣を覗く悪い子が置いていった草餅。それは遠い昔に、あの人の妹――わたくしを姉さまと慕ってくれた子が作ったものと同じ匂いがした。だから、思わずねだるようなことを言ってしまった。
そういえば、あの子もわたくしの瞳を怖がっていたような気がする。
「思い出してはいけない」
懐かしい誰かの声が聞こえて、記憶にそっと蓋をした。
私が死んだら、私のことは忘れてください。
それはあまりに命の時間が違いすぎる、人と人ならざるものが結ばれたときの
顔も名も、かつてはあった感情も、自分がなんであったかさえも忘れたはずなのに、わたくしはいつまでもここにいる。
禁忌の洞窟 時谷碧 @metarou
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