アンチ・ルール
成井露丸
アンチ・ルール
空は晴れ渡り、東からの太陽が僕らを照らす。
あなたが、広げて眩しげに陽光を遮った左手。その薬指に、銀の指輪が光っていた。
そこにはルールがあって、僕はアンチ・ルールを模索する。
ホテルから少し離れた場所にある林檎の木の下で、僕はあなたの凛とした後ろ姿をただ見つめていた。
真っ直ぐに伸びるあなたのシルエット。振り返る瞳が僕を覗き込む。
少女の笑みを口許に浮かべた、栗色の髪を肩まで伸ばした大人の女性。
背の高いあなたが、褐色のチェスターコートに両手を突っ込んで、立つ。
広がる野原の上で、その姿はとても
そして、両手をポケットに収めたまま、こちらへと近づいてくる。
林檎の木から赤い果実が一つ、地面へと落下した。
ルールの支配をことさら印象づけるように。
――ポトリ。
世界の
「――僕はあなたのことを、好きではいられない」
「――私は君のことを、好きではいられない」
「それがルールってことですよね?」
「そう。それが、神様の決めたルール」
野原の上を涼やかな風が吹いて、草花の頭を撫でた。
「神様が、こんな一人ひとりの心情に口を挟むの……暇なんですかね?」
「あら、逆じゃない? 忙しくて堪らなくなるわよ。一人ひとりの心情なんかに口を出していたらね。まるで、一人ひとりの日記やレポートをちゃんと読んで、それに沿ったコメントを返す律儀な先生みたいじゃない?」
「――あれ? あれって読まないんですか? 生徒の日記とかレポートとか?」
「読まないわよ。そんな毎日、ちゃんと読んでいたら自分のプライベートの時間だって無くなっちゃうし。自分自身の日記に書く内容が無くなっちゃうわ」
「あれ? 日記、……つけてるんですか?」
「つけてないけどね」
そう言うと、彼女はつまらなそうに、海を眺めた。
「ルールっていうのはね。一人ひとりに設定するものじゃなくて、みんなに分け隔てなく適用されるからこそルールなのよ。校則だって、法律だって、法則だってそうでしょ?」
「そうですね。権力者が個人毎にルールを設定してたんじゃ、それはルールというより、ただの命令でしょうしね。『お前はこうしろ!』、『お前はこれをするな!』――みたいな?」
「えぇ、そうよ。だから、私たちを縛っているのは、神様が作ったルールなの。それは私たちが生まれるずっと前から存在していたルール。万人に適用されて、万人が従うルール」
「まるで、世界の
「そうね。――世界の
そう言って彼女は地面の上に落ちた赤い果実へと視線を落とした。僕も同じようにそれを見る。
「『ニュートンの運動方程式』」
「林檎? 『万有引力の法則』の方がこの場合は適切じゃないかしら?」
口紅が塗られた唇が艶やかに
「ニュートンが木から落ちた林檎を見て物理法則の着想を得たっていう逸話に沿わせたかったので。『ニュートンの運動方程式』って言ってみました」
「……知ってたわよ。でも、『ニュートンの運動方程式』なんて、ただの微分方程式だしね」
「僕は、その微分方程式自体を生み出したのがニュートンっていうのが凄いところだし、面白いとおもうんですけどね」
「あら。微分方程式を生み出したのはライプニッツよ。ニュートンに名声を攫われただけ」
そう言って、彼女は不機嫌そうに眉を寄せた。僕はため息を一つ。
「ライプニッツ推しは聞き飽きましたよ。まぁ、いいじゃないですか。僕らの今の関心事は世界を支配するルールであって、誰がそれを見出したかじゃあない」
「それもそうね。――私たちを支配するのは神様が与えたルールで、それはやっぱり変えられないってこと」
「でも、ルールって物理法則だけじゃないですよね? ルールって世の中の秩序を守るために人が作ったものもあるじゃないですか。神様のルールもそういうものかもしれない」
「例えば?」
「……例えば、勝手に人の物を奪っちゃいけないとか?」
僕が自嘲的にそう答えて瞳を覗き込むと、彼女は何かを考えるように目を逸した。左手薬指付け根の指輪に触れながら。
「道徳的ね。君」
「いえ、法律的でしょ」
「う〜ん、むしろ経済学的よ」
「そうなんですか?」
そう尋ねると、彼女は「ええ、そうよ」と首を傾げて見せた。
肩まで伸びた栗色の髪が横に流れて、白いうなじが艶かしく覗く。
「所有権の設定と保護は、私たちが取り引きを通して、皆で幸せになるための大切なルールだから」
「『神の見えざる手』ですか?」
「そう。アダム・スミス。政治・経済の教科書にも載っていたかしら?」
「どうだったかな? ――最大多数の最大幸福?」
「そうね。ベンサム効用で定義すれば、そこに導いてくれるのかもね。それだけで完璧なわけじゃないけれど。それでも、人々の自由な経済活動に信託して、自由な社会を作っていくことは悪いことじゃないわ。私は『隷属への道』なんか、歩みたくなんてないから」
そう言う彼女の瞳には僕の知らない正義の輝きが宿っていた。
そんな彼女の言葉は世界の姿を紡ぐように流麗に踊る。
「君は人のものを勝手に奪っちゃだめ。それがルール」
そう言って、彼女は左手の人差し指を立てて見せた。
薬指付け根の指輪が、太陽光を反射した。
「でも、誰かの物だって、いつかは、誰のものでも無くなる気もするんですけど? 全てはエントロピーが増大していく方向に、進んでいくんだから」
「こんなところに『熱力学第二法則』を持ち出すのね。拡大解釈も甚だしいわ」
「そうでしょうか?」
「そうよ。それは平衡系の話だし、非平衡なこの世界では、パターンは生成され続けるのよ。だから私たちはここにいるの」
「……生きているってことですか?」
「そうね。プリゴジンの『散逸構造』、マトゥラーナの『オートポイエーシス』、私たちが生きているっていう事実」
「――自己組織化現象?」
「ルールを生み出すルール」
「それが生きているってこと?」
「そうね」
「それが愛し合っているってこと?」
「――それは知らない」
つれない彼女は、僕の質問を、涼やかな瞳で受け流す。
「生きるっていうことはルールを生み出すこと?」
「生命活動だけじゃなくって、社会生活を送るって、そういうことなのかもしれないわね。社会自体が幾重にも幾重にも重ねられたルールの束だから」
「法律も? 校則も? 二人の間の約束も?」
「そうね。私たちはルールを生み出して、ルールに縛られて、ルールと戯れて生きている。ルールは私たちの全てなのかも」
「学校の先生と生徒が恋しちゃいけないっていうのも、そんなルールの一つ?」
「そうね」
「既婚の女性と未婚の男性が一夜を共にしてはいけないっていうのも、そんなルールの一つ?」
「そうね」
「じゃあ、僕たちを縛る、神様のルールもその一つなのかな?」
そう尋ねると、彼女は肩を竦めて見せた。
「それはわからないけれど。奇跡でも起きなきゃ、変えられないものって、あると思うの。君と私を縛る神様のルールって――そういう類のものだと思うのだけれど」
「そうでしょうか?」
「君はそう思わないの?」
「どうかな?」
「分かってないのね」
「残念ながら」
海の向こう側から、一陣の風が吹く。それが彼女の髪をなびかせる。その寒さに、彼女は両腕を抱えた。褐色のチェスターコートが秋風にはためく。
足元に落ちていた赤い林檎が、風に煽られて、光りながら少しだけ転がった。
「でも、分からなくても、……分かっていなくても、神様のルールに抗いたくなることくらい、僕にもあります」
「君は若いからね。そうやって、年上の女性に――好きになっちゃいけない女性に、愛の言葉でも
「そうやって茶化すんですね。知らないところで、勝手に神様がルールで僕を縛る……そういうのに抗いたいだけですよ」
「ルールに生かされているだけの少年に、ルールを打ち破ることなんて、出来るのかしら? あなたの語る、そんな勇ましい言葉もまた、ルールなのに」
そんなことを言いながら、挑戦的に微笑む彼女。
その微笑みは、僕にとってとても扇情的の見えたのだ。
「言葉なんてルールそのもの。ルールで縛られた『言語ゲーム』」
「ウィトゲンシュタインでしたっけ?」
「あら、良く知っているじゃない?」
「たまたまですよ」
「――語り得ないものについては沈黙しなければならない」
「じゃあ沈黙すれば、僕らはルールに縛られずに済むのかな?」
あなたが見つめる虚空を、僕も見ることが出来ているのだろうか。
「言葉を超えて、ルールを超えて、存在出来れば良いのかもね」
「誰かと恋に落ちるって、そういうものだと思っているんですけどね」
「――ロマンチストなのね」
「言葉を交わす前に、好きになっている」
「言葉のルールからも自由な存在?」
「だから、僕は、神様の決めたルールからも自由でありたいんです。あなたと一緒に」
そう言う僕の顔を覗き込み、人差し指を立てると、彼女は僕の唇にその指先を押し当てた。
「じゃあ、沈黙してみる?」
僕はコクリと頷いた。
あなたの栗色の髪を撫でるように、僕は左手をその頭の後ろに添える。
そして差し出された手を握りしめ、少し頬を赤くした女性のことを、僕はゆっくりと引き寄せた。握りしめた手へと、エネルギーが集まって、それは熱を帯びる。
そして、僕は自分勝手に、あなたの大切な唇を奪った。
初めは硬直していたその体も、穏やかに弛緩していき、あなたの手がゆっくりと僕の背中へと回されていった。
どんなルールも、僕らが繋がれない理由にはならない。
二人を隔てているそれが、神様の決めたルールだったとしても。
僕らはルールを生み出して、打ち消して、書き換えて生きていく。
アンチ・ルール。
僕らの足元では、地面に落ちた林檎が、重力に逆らって、ゆっくりと浮遊し始めていた。
アンチ・ルール 成井露丸 @tsuyumaru_n
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