I love you. = 「月夜を越えましょう」

いち亀

「じゃあ、決めたルールを確認しよっか」

 ①できるだけ「ふつうの私たち」でいること。


 〉ごめん今日遅くなる。先に食べてて

 定時間際に打ったメッセージに、妻からすぐ返信が来る。

 〉連絡遅いよ! もう作り始めちゃったし

 そして怒りのスタンプ。


 〉帰ってから食べるからさ

 〉一人にしてほしくないって言ったじゃん

 

 寂しさを訴える顔は可愛くて、けどすぐに修復困難なレベルまでむくれる。


 〉お土産持参するから、それで勘弁して

 〉わかった、はやくね


 ②けど、ちょっぴり贅沢になること。自分たちを甘やかすこと。


 22時過ぎに帰宅し、「お土産」を差し出すと。

「これは……昔は眺めるばかりだった、帰り道の名スイーツ店のアレではありませぬか」

「そう、閉店前でちょっと値引かれてたし。残業頑張った俺と、留守番してたのぞみへのご褒美です」

 箱を開けた妻は、途端に上機嫌な顔になる。

「これ可愛いって私が言ったの、相当に前だよ? しんくんよく覚えてたね~」

「まあ、俺も美味そうだって思ったし。さ、ほら、食べましょ」


 ③お互いの好きなところを、しっかり伝えること。


「……時間経ってからでも美味しいよって感想はアウトですか」

「そうねえ……不安そうに訊いてくる新くんが可愛いのでセーフにします」

「ありがたき」

「だから私が美味しく作れなくなっても、好きでいてね」

 妻の切なげな声に、箸が止まる。

「……大丈夫だって。それにほら、俺の舌は望によって調教済な訳で」

「調教ってなに! 言い方あるよもっと!」


 ④楽しみを先送りにしないこと。


「あ、そだそだ」

 ベッドに伸びていた妻が、ごろごろと体勢変換して俺の方を向く。

「シネマジカルで面白そうなショーがありまして」

 差し出されたスマホを見ると、隣の県にあるテーマパークの期間限定イベントだった。なるほど、妻が好きそうな。

「次の日曜、特に用ないけど。行っちゃう?」

「ちょっと遠出だけどいいですか」

「望となら遠くないからいいですよ」

「いぇい! ありがと!」

 はしゃぐ妻の顔に心が晴れながらも。休日のテーマパークの人混みを思い出して、既に疲れたような感覚が胸の隅で疼く。


 ⑤体調の違和感は素直に言うこと。


 しかしお出かけ当日。車内で微かに具合が悪そうな妻の様子を感じ取った俺は、一旦車を止めた。

「どうした、なんか変か?」

「……うん、どこの所為か分からないけど、なんか」

 妻の答えに、少し躊躇してから。

「俺は引き返した方がいいって思うけど。構わない?」

「……ここまで運転してもらったのに、だけど」

「そんなの全然いい。家の外で変身するよりは、全然」

「……うん、そうだね、ごめん」

「謝るなっての、俺のエゴでもあるんだから」


 結局、恐れていた事態ではなく。単なる微熱のようで、胸をなで下ろす。

「なんの目的もなく家でだらっとするのも、立派な休日の満喫法だと思うぜ?」

 ソファで横になる妻へと言うが、返答はなく。

 振り返ると、早々とお昼寝に入ってしまったようだ。


「……はいよ、おやすみ」


 俺が想像している以上に、妻の体力の消耗は早いのだ。

 何のしがらみもなくゆっくりと休んでいる妻の姿が、ただ愛しい。


 こんな風に。お互いが過ごしやすいように……他に割くべきリソースをすり減らしてでも、お互いの楽しさと安全を最大限に尊重する生活を送っているのには、人には言えない事情があった。


 ⑥その日の準備に関する事項は、全てふたりで共有すること。


 満月が近づいたある日。

「次の薬、これ試してみようと思うんだけど」

 俺はパソコンの画面を妻に見せる。

「ふむ、ちょっとお高い……ポイントは?」

「一応だけど。これまでに試してきたどれとも、作用機序は違うっぽい。その分、副作用も今までのと違うんだけど……」

 妻は画面をスクロールしながら、少し考え込み。

「何が当たるか分かんない以上、私から断る理由はないです」

「分かった、じゃあ入手ルート探す」


 ⑦その時が近づいたら、精一杯、私を笑わせること。


 やがて、満月の日。

 防音設備を張り巡らせ、日常生活とは縁のなさそうな種々の器具が並ぶ一室で。

「じゃあ……今夜も、宜しくお願いします」

「任せろ」


 安物のオーバーサイズのTシャツのみを身に着けた妻が、ベッドの上に横たわり、四肢を伸ばす。

 俺は妻の四肢、胴、頭部を、手錠や首輪、鎖を使って完全に固定。


「後どれくらい?」

「二十分ってとこだな……じゃ、何聞きたい?」

「そうだねえ、中学生の辺りが豊作そう」

「……近所の子を家で預かってるときに、ヒーローごっこしてたら俺が家具を壊した話はしたっけ」

「なんすかそれ!」


 正確には中学生の俺ではなく。友達が小学校高学年だった頃の話なのだが。

 なんだっていい、妻の気が紛れるのなら。本当も嘘も、たいして意味はない。


 俺の話を聞いてからからと笑っていた妻の呼吸が、段々と荒くなる……来たか。


 健康的に焼けた肌から、黒い毛がぼうぼうと生える。

 その下の柔らかい肌色が、硬い灰色になる。


「やだ……やだ、痛い、やだ、怖い」

「大丈夫だ望、俺がついてる。大丈夫」

「新くん、ねえ、新く……ねエ、いヨ、ソコ」

 

 少し低めの明るい声に、濁った音が混ざる。

 俺を必死に見つめる顔が、骨格から肥大し、毛に包まれ、尖る。大きな耳。血走った眼。

 白い歯が、黄ばんだ牙へと延びる。


 人間からかけ離れた、その獣の姿に、名前をつけるならば。

 満月の夜に異形へと変身する、その現象に、名前をつけるならば。


 妻は、狼人間だ。


 *


 今から思い返せば。近くの居酒屋から夜道を歩いていたとき、突然に現れ、俺を突き飛ばして妻に襲い掛かった大きな獣が、同属だったのかもしれない。

 そいつはすぐに逃げ去り、負傷し救急搬送された妻も大事には至らないと判断され。

 こんな都会でも動物って出るんだねと、そんな話で終わるはずだったのだが。


 それから身体の不調を訴えることが多くなった妻が、一ヶ月後――満月の夜に、見たこともない姿に形を変えていくのを見たときに。

 混乱と動揺と恐怖の極みにありながらも、「このことが露見したら、妻は二度と戻ってこない」という確信を俺は抱いていた。

 

 変身する途中の妻をクローゼットに押し込み、家じゅうの家具で扉を塞いで一夜を明かし。日の出と共に叫び声が消えると、元の姿に戻った妻が、傷だらけで気を失っていた。意識が戻っても、変身している間のことは何も覚えていないという。


「獣みたいになってたんでしょ、新くんも危なかったんでしょ。ちゃんと調べてもらおうよ」

「嫌だ。知られたら、望は絶対に帰ってこれない」

「新くんを傷つける方がもっと怖いって!」

「それでも! 俺はずっと、望と生きていたい。たとえ、どんな望でも」

 

 そこから先は、月に一回の変身にどう対処するか、試行錯誤の連続だった。

 

 人間を喰おうとする。他種の生肉があると、多少は興味を示す。

 時々、自分の身体を喰いちぎろうとする。だから、常に身体を拘束する必要がある。

 人間用でも動物用でも、睡眠薬や鎮静薬の類が効いたためしはない。

 スタンガンを当てると、しばらく動きが止まる。


 そうやって、有効打は見つからず、しかし奇跡的にお互いは無事なまま。傷だらけの現状維持が続いていた。

 

 満月を乗り切るために。

 同時に、こんな異常事態でも自分を保つために。あるいは、いつ死んでしまってもいいように。とにかく、今を幸せにしよう、と。


 ふたりで決めたルール。

「願い」では、掛けた側が揺らぎそうだったから。ふたりで守る、「ルール」だ。



 ⑧私が「殺して」と言っても、殺さないこと。


 時折、変身した妻が何かを訴える。

 言葉にならないその声から「殺してくれ」という意思を感じ取った俺が、翌朝訊ねると。

「よく覚えてないけど。すっごく痛くて、苦しいんだ……けどさ。私のせいで、君に私を殺させるくらいなら、私は苦しいのを我慢するよ」


 今夜だって。

 繋がれた鎖が盛んに音を立て、喉を潰すような唸り声が部屋を満たす。長いトングを使って与えていた生の豚肉には、もう興味を示さない。

 人肉を喰う本能は満たされず、身体の至る所は拘束され。その苦痛は、相当なものだろう――あるいは。


 その叫びは、苦悶は、「人間」を侵食されている妻のもの、なのだろうか。


 答えのない問を頭から振り払い、俺は防具を付け直してから、新しい睡眠薬を溶かした水をシリンダーに入れ、拘束した腕の血管から注射する。入れ切った所で距離を取り、様子を注視。


 ⑨私が君を殺しそうになったら、迷わずに私を殺すこと。


 数分待てど、暴れる勢いは収まらず――いや、さらに激しいか。

 不穏な音を立てる鎖。加工し強化したベッドが軋みを上げる。

 ――いよいよか。猟銃にスラッグ弾が装填されているのを確かめる。

 拘束が解けたら、まずは室外へ。バリケードが破られそうになったら。


「そのときは、ちゃんと殺して」

 妻はすぐに言い切った。

「君を殺しちゃったなら、私、自殺するよ――そもそも、君の隣以外に、私の行き場なんてない。

 だから、自分を犠牲にして私を助けようなんて思わないで。それで私が助かるだなんて、思わないで」


 妻の声を反芻しながら、どれだけ経ったか。暴れる勢いが弱まり、やがて通常よりも大人しくなった――今夜のピークは越えたか。


 それから数時間、夜が明けるまで、そばで妻を監視し。


 日が昇り、時計が巻き戻るように、妻が人間の姿に戻っていく。

 その胸に手を当てて。心臓がちゃんと動いていることを確かめる。


 ――今月も、無事に終わった。その安堵の中で、麻痺していた疲労が目を覚まし、俺の意識は眠りに落ちる。



 目が覚める。いつの間にか掛けられていた毛布と、寄り添っている妻。

 俺が起きたことに気づいた妻が、ほっとしたように微笑んで、目に涙を浮かべて。


「良かった、起きた……」

「当たり前だろ」


 抱きしめる。世界で一番確かな、幸せの温度。

 

 これからずっと、こんな闘いが続くとして。

 いつまで、ふたりを守れるのか。あるいは、妻が人間でいられるのか。

 分からないけど、それでも。俺たちは。



 ⑩私たちの幸せを、諦めないこと。

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