第5話
第4話
https://kakuyomu.jp/works/1177354054888890745/episodes/1177354054888996547
十時ちょうど発のあずさ九号は、のどかな田園風景のなかを進んでいた。甲府が近づくにつれ、花曇りの空の下に南アルプスが見えてくる。今年は正月に帰らなかったから、この風景を見るのは去年のお盆以来だった。
甲府駅の改札を出ると、小林が笑顔で待っていた。
「少し太ったか?」
「迎えに来てくれたことに礼を言う前に、それかよ」
「迎えに来てくれてありがとう」
「遅ぇよ」
そう言って、笑った。「飯、食ったか?」
「いや、まだ」
駅前のそば屋に入り、ざるそばと鳥もつ煮を食べた。
「結局、同窓会は来ないのか?」
そば湯を注ぎながら、小林が尋ねてきた。
「いま帰ってきたからな。ゴールデンウィークは帰らないかな」
「別に海外に行くわけじゃないんだから。特急で一時間半だ。また帰ってくればいいだろう?」
そのとおりだった。いまここにいることは、一か月後はここにいないことの理由にはならない。
「お前が帰ってくれば、今年は東京組も全員そろうって山田が言ってたよ」
「東京組?」
そんな組があるとは知らなかった。誰が東京にいるのかもろくに把握していない。小林は何人かの名前を列挙する。
「……あと、望月な。あいつは毎年必ず来るけど。暇なのかな?」
「望月……望月香苗か」
その名前を聞いた途端に、遠い記憶が蘇ってくる。いや、俺は最近も彼女のことを考えた気がする。いつだろうか。
「そうそう、雪見だいふくが好きな望月な。いっつも学校帰りに近くのスーパーで買って食ってたから、『
そう言って、小林は笑った。
そこで俺ははっきりと思い出した。香苗は、餅が好きだったのではなくアイスが好きだったのだ。それに、香苗が学校帰りにアイスを買うのは、「いっつも」ではなく毎週水曜日だった。夏休みまでのたった三カ月の水曜日。彼女は、あの後も毎週水曜日にアイスを買い続けたのだろうか。
小林に車で送ってもらい実家に帰ると、母親が少しやつれた表情で「おかえり」と言った。
「これから、おばあちゃんのところ行くけど、皐月も来る?」
俺はうなづいた。そのために帰ってきたのだ。
祖母が入院しているのは、病院ではなく、リハビリテーションセンターと呼ばれる施設だった。何が違うのかは、よくわからない。去年帰ってきた時は広めの部屋に四つのベッドが並んでいたが、いまは少し狭い部屋で祖母は一人きりだった。
ただでさえ小さな体が、さらに縮んだように思えた。それでも、血色はここ数年で一番よく、「もしかしたら危ないかもしれない」ようには全然見えなかった。むしろ回復しているようにさえ見えた。
「おばあちゃん、皐月が来てくれたわよ」
呼びかけに反応はなかった。母親はそれでも呼びかけ続け、もう何度目かもわからなくなった頃に、祖母はやっとゆっくりと微かに目を開けた。
言葉を返さない祖母に話しかけるのが、俺は嫌だった。握り返さない手を握るのが、嫌だった。けれど、いまそれをしなければ一生後悔するような気がした。俺は、しわだらけの小さくて細くて冷たい手を握ると、「ばあちゃん」とだけ声をかけた。やはり、力なく開いた口から言葉が発せられることも、俺の手が握り返されることもなかった。自分の気持ちが少し軽くなっただけだった。
特に注文をしたわけではなかったが、夜ご飯に母親はほうとうを作ってくれた。それを食べ終えてテレビを見ていると、父親が白ワインを持ってきた。
「ワインなんか飲むの?」
父親は下戸だった。
「たまには、な」
何か話でもあるのかと思ったが、結局なんてことはない話題についてぽつりぽつりと言葉を交わしただけで、父親は日付も変わらないうちに寝室へと消えていった。
寝る前に、少しだけ実家のパソコンを開いた。小説を書く気分ではなかったが(気分の問題ではなく、筆は進まないのだけど)、投稿サイトを開くことはもはや日課になっていた。
何も期待していなかったので、通知を知らせるマークが付いていることに驚いた。自分の近況ノートにコメントが寄せられていた。
『近況ノートにコメントありがとうございます! 実は、悩む時間もないくらい、ナゴの世話に忙殺されてました……(ナゴっていう猫です)』
――猫の世話? ナゴって、なんだ?
『まさか待っていてくれる人がいるとは思わなかったので、すごく嬉しいです。今度の水曜日には、第四話あげたいです』
「水曜日、か……」
七つの曜日はどれもきっかり二十四時間ずつ平等なのに、今日はずいぶん水曜日についてばかり考えた一日だった。
画面に表示されている彼女の名前をクリックする。作品の印象から、落ち着いた大人の女性を勝手に想像していたけれど、もしかしたら思っているよりずっと若いのかもしれない。いずれにしても、今朝東京を出てから色々なことがあったが、一日の最後に彼女からのメッセージを読んだおかげで、いつもと同じ平和な一日だったような気がした。
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