第3話

第2話

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 花冷えの一日だった。朝から冷たい雨が降ったり止んだりしている。東京は数日前に開花宣言が発表されたが、芽吹き始めた桜も、気の早い花見客も、洋々とした気持ちの行き場を失ったように寒さに身を縮めていた。


 昼食を取り終え、オフィスに戻っている途中に電話が鳴った。

「どうした?」

 少し前を歩いていた田上が振り返った。

「悪い、母親から電話だ」

 田上は気を使ったのか、少し歩く速度を速めた。俺は遠ざかる背中をぼんやりと見つめながら、電話に出た。


「いま話せる?」と母親は前置きをしたが、こちらの返答を聞く前に要件を話し出した。「おばあちゃんがね、いよいよ危ないかもしれない」

 母方の祖母は、数年前に足を滑らせて階段から落ちたのをきっかけに、もう随分長いこと寝たきりになっていた。

「そうなんだ」

 何と答えていいかわからず、そう相槌を打った。

「昨日、血圧が急に下がって、いまは個室に移ってる。一旦落ち着いたけど、脈拍が常に百五十くらいあるから、心臓がいつまで持つかわからないって……。今日から私と陽子で病院に泊まり込むことにした」

 母親の声は、震えているように聞こえた。

「わかった。すぐにってわけにはいかないけど、週末はそっち帰るよ」

「ありがとう」


 エレベーターホールで田上が待っていてくれた。

「大丈夫か?」

「あぁ、ばあちゃんの容態がよくないらしい。週末は山梨に帰るよ」

「そうか。持ち直すといいな」

 田上はそう言うと、エレベーターのボタンを押した。ノリがよく、一見軽いキャラに見られがちだが、根の優しい男だった。


 久々に陽子叔母さんの名前を聞き、母親によく似た顔が脳裏に浮かんだ。記憶の中の叔母さんはまだ四十歳手前だったが、もう還暦に手が届く年齢のはずだった。ばあちゃんは九十歳くらいか。

 時間はこうしている間にも残酷に過ぎていき、当たり前のように自分の周りにいた人たちはいつまでもそこにいるわけではない。高速で上昇するエレベータの中で、俺はそんな当たり前のことを考えていた。


 家に帰ると、いつもようにパソコンの電源を入れた。ほとんど癖に近かった。スーツを脱いで部屋着に着替え、手洗いうがいをすると、パソコンのスイッチを押し、冷蔵庫から缶ビールを出す。それらの行動を、試合前にストレッチをする野球選手みたいに、俺はほとんど毎日繰り返していた。


 BGM代わりにテレビを付けると、イチロー引退のニュースをやっていた。それほど彼の熱心なファンではない俺でも、ついにこの日が来たんだな、と感じざるを得なかった。

 中学校の文集に、同じクラスの女の子がイチローのことを書いていたのをふと思い出した。突然の母親からの電話で、故郷に思いを馳せ、時間のことを考えたせいだろう。

 野球選手としてだけでなく、考え方や人生との向き合い方を尊敬している。そんな内容だったと思う。その時はさしたる感慨もなかったが、いま思えば、彼女は十代前半で彼の偉大さに気づいていて、イチローはそれから二十年近くもずっと偉大であり続けたのだ。それは途方もないことな気がした。


 小説サイトに新しい通知はなかった。かれこれ、もう一カ月近く更新していなかったから、当然と言えば当然だった。書きかけの長編小説は、その先の展開が浮かばないままネットの海を当てもなく漂っていた。


 彼女の新しい恋愛小説も、あれからそう間を置かずに三話目までが投稿されてから、ぴたりと更新が止まっていた。彼女も悩んでいるのだろうか。

 彼女の最近の活動の痕跡を求めて近況ノートを見ると、その小説の連載開始を告げるものが一番上に表示されていた。俺は少し迷ってから、そのノートにコメントを寄せることにした。


『いつも拝読しています。最近更新がないようですが、ひょっとして僕と同じく悩み中でだったりして(笑) 第四話も楽しみにしています』


 プレッシャーを掛けたり、相手の気分を害したりしたくないし、かと言って重たい感じにもしたくないと悩み、十分以上考えてから送信ボタンを押した。


 それからしばらくパソコンの画面とにらめっこしていたが、やはり今日も筆は進みそうになかったので、諦めて電源を落とした。風呂に入り、しばらく時間をつぶしてからベッドに横になる。

 寝る前にもう一度サイトを確認したが、やはり通知はなかった。彼女からの返信もない。俺は携帯を枕元に放り出したが、すぐにあることを思い出し、再び手に取った。


『今週末、帰ることになった』


 先日「今年は帰ってくるのか?」と連絡を寄越した高校の友人に短い文面だけを送ると、俺は部屋の電気を消した。寝静まった街のどこか遠くで、サイレンの音がしていた。




第4話へ

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